2010年09月18日

長期間放送のツケ

 色々思うところあってリニュ版ドラのことを書こうかと思っていたら、こんなありがたくない記事が飛び込んできた。


<ドラえもん>スネ夫の家に3Dテレビ のび太の家の地デジ化も課題に 17日放送


 別に記事の内容がおかしいと言うわけではない。この記事についているコメント欄の内容が異常すぎるのだ。
 2005年のリニュ版ドラ放送開始時によく見られた批判・文句が、ほとんど同じ内容のままでコメントされており、さらにひどい内容まで散見される。
 5年経ってもこのザマなのだから、呆れ返ると言う外ない。

 一番多いのは「今のドラは昔のと違って性格が変わった」とかいう類のコメントだけど、この種の批判についてはもはや相手にする必要もなかろう。
 今のリニュ版ドラは大山ドラ時代のコピーを目的として作っているわけではない。あくまで「藤子・F・不二雄が描いた漫画『ドラえもん』」をアニメにしているだけであって、「漫画のアニメ化」における回答の1つとして今のアニメを作っているに過ぎない。別に大山時代のドラを踏襲するために今のアニメを作っているわけではないのだ。
 だから昔と今とが違っているのは当たり前で、逆に同じだったらそっちの方が問題になる。結果としての作品の出来不出来はともかく、安易に大山ドラの劣化コピーを目指してしまいがちなところを、一から原作ドラえもんのアニメ化を行おうとするその制作姿勢は、きちんと評価されるべきだろう。
 「今の声優がひどい」云々なんてのも同じ口だ。結局自分の気に入る声ではないから文句を言っているだけのコメントがほとんどである。
 別に気に入らないならそれでいいが、それで作品そのものを批判したつもりになってもらっては困る。それは単なる好き嫌いの範疇だ。
 挙句に「声優を変えるべきではなかった」などという、もはや定型文的な様相を呈してきている文句。
 こういうことを書く人たちはメインを努めた声優陣5人のうち2人が、勇退後にガンを患って手術を受けていたと言う事実を知っているのだろうか。

 ひどいのは「『ドラえもん』に、流行に合わせたような現実の道具(ここでは3Dテレビ)を出して欲しくない。昔はそんなの出さなかった」みたいな文句である。
 こういう人は一体ドラの何を見てこういう文句を言ってるんだろうね。
 スーパーカーブームが来ればスーパーカーを出し、チョロQが流行れば「チョコQ」として登場させる、ミニ四駆が話題になればミニ四駆を出す、ロッキード事件が起きれば「記憶にない」と言わせる、日航逆噴射事故が起きれば「機長、なにをするんだ!」と言わせる。
 そもそも秘密道具にしたところで「友だちの輪」、「百万ボルトひとみ」、「ドッキリビデオ」、「ざんげぼう」などなど、その時代ごとに話題になったことのあるネタを道具として昇華させている。
 それが「ドラえもん」という作品である。ドラはむしろその時代時代の流行を敏感に感じ取り、積極的に話に盛り込んできたのだ。
 そもそもドラに決まった時代設定はない。84年の掲載作品であれば、その時の時代設定は1984年になるのだ。
 「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」を引き合いに出して文句を言ってる人もいるが、そもそも「ドラえもん」という作品は読者のノスタルジーを掻き立てるための作品ではないし、作者であるF先生もそれを望んでいたわけではない。F先生はどこまでも現役の読者である、その時々の子供たちに向けて作品を作っていたのだ。
 有名な「空き地のある土管」にしたところで、別にノスタルジックな思いからそんな舞台を設定したわけではない。
 つまりドラ本来の作劇に照らし合わせてみれば、スネ夫の自慢の種として「3Dテレビ」が出てくることはさほどおかしいことではない。「秘密道具をすぐ使えるのび太がそんなものをありがたがるのか」などというトンチンカンな突っ込みをする人もいるようだが、そういう人は「虹のビオレッタ」を百回くらい読めばいいんじゃないかな。

 まあほとんどがそんな感じの文句なのだけど、そういう文句の類とはまったく別次元で問題のあるコメントがあったので、それについても触れておこう。
 そのコメントはこういう内容だった。

 「それは藤子Aが担当したネームだと思う」

 バカすぎる。A先生がドラえもんには一切タッチしていないことぐらい、それこそちょっと検索をかければすぐわかることだろうに。
 それともどっかの三流ゴシップ誌が書いてた「実はA先生も描いてた」説を信じてしまってたりするんかね?


 たかがyahooニュースのコメント程度にムキになって批判することもあるまい考える方もいるだろう。
 しかしそれこそ今と昔とでは、情報伝播のスピードがまるで異なる。スピードだけが異常に早くなり、その情報の真偽についてはあまり重要視されていないのが現状だ。
 そんな現代において、私的感情による文句やあからさまな間違いが公の場所に記述されてしまっている。そしてそれを見ただけで「リニュ版ドラはダメな作品だ」と、人の意見を鵜呑みにしただけなのに、さも自分自身が判断したかのように勘違いしたままの認識を抱く人が必ず出てくる。
 かつてドラえもん最終回同人誌が、一介の同人誌とは思えぬ早さで一般層にまで浸透してしまった現実を考えれば、あながち的外れな見方とは言えないだろう。
 だからこそ個人個人が書き込む内容をよく吟味しなければならない。個人のメモ帳ではない、公に公開されている場所だからこそ、「自分の書きたいことを書き込んだ」だけでは済まない事態に発展することもありうると言うことを、きちんと認識しておくべきだろう。
 もちろんリニュ版ドラが百点満点の出来とは思っていない。しかしだからと言って、個人の単なる文句や間違いを根拠に作品全体を批判していい理由にはならないのだ。

 これも長い間休むことなく放送してきたことの弊害なんだろうな。一回休んでおけば、出来はどうあれ大山ドラとはきちんと区別されて扱われたことだろう。連続して放送を続けるから、「リニュ版ドラは大山ドラと同じ作品観である」と考える人が出てくるわけで。
 無論好き嫌いはあっていい。リニュ版ドラが嫌いならそれでいい。だがそれをネット上に文章として残すなら、それが個人の単なる好みであって作品の出来不出来とは無関係であることを、一緒に示した方がいいだろう。
 尤も「自分の好みに合わないからこの作品はダメな作品」と、短絡的に決め付ける人間が多いのもまた事実なのだけども。
posted by 銀河満月 at 01:27| Comment(0) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月05日

放送スタート、「仮面ライダーOOO」

 で、本日からWの後番組である「仮面ライダーOOO」がスタートした。
 まだ1話の段階で出来がどうこう言えるわけはないのだけど、ライドベンダーの大量登場と、大量に且つ不規則に乱れ動くメダルにそこから生まれるグリードたち。右手だけがそこかしこを飛び回るナンセンスな描写、そしてかの有名な?タトバコンボの「歌」など、視聴者の関心をつかむには十分すぎるほどの内容だったのではないだろうか。
 肝心のアクションは平均的過ぎた気がしなくもないけどね。前作「W」の1話ではルナジョーカーの戦いとかジョーカーエクストリームとか、インパクトの強いアクションシーンがポンポン出てきただけに、タカキリバフォームを披露したとは言え、まだ小ぢんまりとした印象なのは否めない。
 ただオーズは現時点ではメダルを4つしか持っていないわけだから、1話の時点でフォームを色々見せるのがもったいないというのも確かだろう。
 主人公である火野映司も、設定だけ聞くと世の中に余り接点を持とうとしない、かつてあのアホ脚本家がメインライターを務めた平成ライダー作品の主人公みたいな感じがしたけども、実際はのん気そうな態度の中にも、人の命をとても大切に思っていると見られる描写が散見され、なかなかの好印象。
 それ以外の人間キャラは、鴻上光生とその秘書以外はほとんど出てこなかったので、まだよくわからない。鴻上はグリードだけでなくオーズの存在も知っているようだけど、その辺が今後の鍵になるのだろうか。

 あと主題歌は文句なく楽しかった。クライマックスの戦闘シーンにでもかかったらよさそうな曲だね。
 わかりづらいけど、「アギト」以来久々に歌の中で「仮面ライダー」という単語が使われているのも、何気にポイント高い。

 しかし「W」の47話ではコアメダルやセルメダルがどうこうってのが、財団Xの移動体端末に表示されてたけども、メダルは今のところガイアメモリと違って普通人に応用することは出来なさそうなんだが(オーズドライバーを使う場合除く)、なぜ財団Xはコアメダルに出資しようと考えていたのか。
 先述の鴻上の件も含め、メダルにまだ謎があると考えれば、これからの展開にもかなり期待できる。
 尤も単なるクロスオーバーというだけで終わる可能性もなくはないけど。

 1話としては十分及第点だった「仮面ライダーOOO」。さて次回以降はどうなっていくのだろうか。
posted by 銀河満月 at 22:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 特撮ヒーロー・特撮映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ありがとう、仮面ライダーW

 これまた今更になってしまったが、先週「仮面ライダーW」が最終回を迎えた。
 
 最終回は予告編を見る限りではエピローグ的な内容で終わるのかと思っていたのだけど、実際に見てみるとエピローグではなく、きちんと「W」という物語の完結編になっていたところに驚かされた。
 若菜がフィリップを復活させるための行動を取ったのは一年前、ユートピアドーパントを倒してフィリップが消えた時期からそう時間の経っていない頃であり、フィリップが一年後に復活するというのは、物語世界的には確定事項になっていたわけだから、Wの物語は前話でいったん終わったわけではなく、ずっと続いていたと言うことになる。
 さらに白眉なのは、現在の翔太郎たちと過去の若菜との描写をごちゃまぜにする、つまり時系列をわざと乱して描写することで、フィリップが復活する寸前まで、視聴者にも若菜のやろうとしていることを理解させない演出を取っていたことだ。
 前述の予告編といい、何ともブラフの使い方が上手い。特に時系列を故意にずらしているところは素直に唸らされた。それをはっきり視聴者に認識させるための小道具として、風都のシンボルたる風都タワーを使うところも、物語の世界観に沿っている。

 あと個人的に好きなのは、今話の翔太郎の描写だ。
 今話の翔太郎はフィリップがいなくなってしまった寂しさを隠すことなく、むしろフィリップという相棒のいない今の自分がダメな存在であることをはっきりと認めている。
 その自分自身の弱さを十分理解した上で、仮面ライダーとして一年間、孤軍奮闘してきたわけだ。
 以前の翔太郎であれば、ハードボイルドを貫くために意地でも自分の弱さを見せるような真似はしなかっただろう。しかし今回はそうではなく、むしろ今回の依頼人である少年・晶に対し、積極的に自分の弱い部分を見せている。
 前話と前々話において、「相棒との別れ」という辛い現実に直面しながらも、その相棒の願いを叶えるため、そして相棒を笑顔で送り出すためにたった1人で敵と戦い、そして約束を果たし、消えゆく相棒を見送った翔太郎。
 その中で彼はどれほど辛く苦しいことがあっても、最後まで自分のやるべきことをやり遂げることが何より大切であることを悟っていた。
 彼の中にあるハードボイルド像が今現在、どんなものになっているのかはわからないが、自分の弱さを知りつつも、自分がやらなければならないことのために、そして何より相棒との最後の約束を果たすために、ただ1人戦い続ける姿は、他の何よりもハードボイルドなのではないだろうか。
 翔太郎やその師匠である鳴海荘吉が理想としていたハードボイルド探偵「フィリップ・マーロゥ」は、内心の情を鉄の信念で覆い隠して行動する人物であった。
 それを踏まえると、今話における翔太郎の姿は、本人も知らないうちに本人が最も理想としていたハードボイルド探偵になっていたのではないだろうか。
 だからこそ、相棒であるフィリップが本当に復活した時は、誰に遠慮することもなく、全身でその喜びを表現したのだろう。
 これまた演じている桐山漣氏の熱演が、その描写を一層際立たせていた。復活したフィリップに初めて話しかけた時の時点で目を潤ませていたのは、どこまでが演技なのかわからないほど印象深いシーンである。

 フィリップ、と言うか園崎家の方は、若菜の心情変化がわかりづらかったかもしれないが、かつて自分自身がデータ化させて取り込もうとし、それを拒んだフィリップが、風都と仲間と自分自身のために自らデータに戻り、地球の中へ消えたことを知ったからこその変化だったのだろう。
 「地球」に縛られ自分本位のことだけを優先してきた園崎の人間の心を動かしたのは、翔太郎とフィリップが何度も体現してきた「他人のために体を張れる」信念だったわけだ。
 しかしそれでもフィリップ以外の園崎家の人間が家族として仲良くしている姿が、全員の死後になってようやく見られたというのは、皮肉と言う他ないのだが。

 そして復活したフィリップと翔太郎はWに変身、ドーパントを撃退する。
 ミュージアムがなくなってもまだ戦いが終わらないというのも、どことなく昭和ライダー的な感じがしないではないが、それでも彼らは街を愛し、街のためにずっと戦っていくのだろう。
 余韻の残る良いクロージングだった。

 本当にこの作品は良い作品だった。全体の完成度も高いし、コメディタッチとシリアスな雰囲気とが程よく両立されていた。そして何より、「正義の戦士・仮面ライダー」の姿が、最終話に至るまできちんと描かれていたことが何より素晴らしい。
 もうテレビで彼らの活躍を見る機会はないのだろうが、年末に公開される映画では再登場することが決定しているようだし、そこでの彼らがどのような活躍を見せるのか思いを馳せつつ、新ヒーローである「仮面ライダーOOO」を楽しもうではないか。

 一年間ありがとう、「仮面ライダーW」。
posted by 銀河満月 at 22:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 特撮ヒーロー・特撮映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月26日

仮面ライダーW、最終回まであと1回

 今更な話だけども、今週のWは面白かったですねえ。
 いや、今週に限らず最近のWは最終回に向けてどんどん面白くなってきてはいたのですが、今回は本当に掛け値なしに面白かった。

 48話の何がいいって、翔太郎が今回戦った理由が、「風都の平和を守るため」を第一にしていないってところだね。
 今話での翔太郎の戦いは、何よりもフィリップのための戦いだった。消えゆく運命を変えることの出来ない相棒のために、相棒との「1人になっても町の平和を守っていって欲しい」という約束を守るため、その約束を自分1人できちんと守れることを証明するために、翔太郎はたった1人で戦いに赴いたわけだ。
 その行動理由に至る変遷が殊更にセリフで強調されたわけではなく、仲間たちをユートピアドーパントに襲われ、怒りと悲しみの感情で顔を歪ませるフィリップの姿に、シュラウドの言った「フィリップが安心して、笑顔で消えられるようにしてあげて欲しい」という言葉をオーバーラップさせることで見せるという、映像演出のみで描出している点が何より素晴らしい。
 そして「フィリップのために戦う」ことが翔太郎にとって何よりも重い、大切な決意であることを示すように、翔太郎は亡き師匠である鳴海荘吉が遺した帽子を、今まで決して使わなかったその防止を被って敵地に赴く。この演出もまた心憎いではないか。

 そして加頭との最終決戦では前半の映像メインの演出とは打って変わって、高らかに「仮面ライダー」の名を持つ戦士の使命と決意を翔太郎に宣言させた上で変身させるという、何とも熱い展開になっていた。
 「体1つになっても食らいついて倒す。その心そのものが仮面ライダーなんだ。」
 本当に良い言葉だ。最後に勝負を決するのは力ではなく、人の持つ心。平和を願い、自由と正義を愛する心。それはかつての「石ノ森章太郎の仮面ライダー」が皆持っていたテーゼだった。
 長らく忘れられていた感さえあるこの根本の定義を、作中で明言してくれたこともまた嬉しい。

 そして決戦を終えて別れの刻。ここからラストシーンに至るまでの部分は、僕があれこれ言う必要はない気がする。映像、音楽、そして俳優陣の熱演。まさに「感動」という言葉がふさわしいシーンになっていた。
 1話から本作を見てきた人は、このシーンを見て心から「見続けてきて良かった」と思えたのではないだろうか。それほどの名シーンだったと思う。


 しかし藤子オタの僕としては、どうしても今回の展開が「さようなら、ドラえもん」とかぶっちゃうんだよな(笑)。
 避けられない別れを前に、ただ自分の大切な友のためだけに、たった1人で戦い抜き、その姿を見た友は安心して去っていく。物語の構成が非常に似通ってるだけに、個人的にも色々感じ入るところが出てきてしまったよ。
 前のエントリでも書いたけど、こういう話を見ると、やはり王道話は素晴らしいと思うし、だからこそ「王道」は「王道」たりえているのだなあとも思う。

 さて、「さようなら、ドラえもん」で親友と涙の別離を果たした少年は、「帰ってきたドラえもん」で友と再会できたわけだけど、「仮面ライダーW」ではどうなるのか。最終回が本当に楽しみである。

 …なんか白々しい書き方(笑)。
posted by 銀河満月 at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 特撮ヒーロー・特撮映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月20日

「仮面ライダーW AtoZ」を見てきた

 はい、それでは本日見てきたW劇場版の感想を書いていってみようかと。
 ネタバレ全開で書きますので、ネタバレが嫌な人はご遠慮くださいませ。






























 まず一言でこの映画の感想を書くならば、「すげー面白かった!」に尽きる。テレビ本編のWもほぼ毎回面白いし、楽しんで見ているわけだが、正直今回の映画がここまで面白いものになっているとは思わなかった。

 まず第一に挙げられるのは、やはり序盤から積極的に盛り込まれたアクションシーンの数々だろう。
 復活したアイスエイジ・バイオレンスの両ドーパントを相手にW、ウェザーとナスカの方ではアクセルと、二者二様のバトルを展開。2人ともそれぞれテレビ本編ではまだ使用していなかったマキシマムドライブを初披露、この時点で鑑賞者のアクションシーンへの興味はぐっとそそられること間違いない。
 そして現れたNEVERの面々との戦いでは、Wとヒートドーパントとのバイクチェイスが物凄い。ルナドーパントの作り出したマスカレイドの幻影もあわせて、これまでのライダーシリーズではまずお目にかかることのなかった(ハリウッドのアクション映画的な匂いを感じる)、バイクを使ってのかなり激しいアクションが展開。
 実際の走行シーンと合成とを巧みに使い分けて、迫力のチェイスシーンが画面狭しと繰り広げられた。
 と、そのあたりまではWも優勢だったのだが、ルナ・ヒート・メタルと3体のドーパントを相手に大苦戦を強いられ、さらに初めて相対したエターナルに完膚なきまでに痛めつけられてしまう。
 このエターナルとの初戦では、廃工場を舞台にしてかなり立体的なアクションが展開されており、同じ場所で繰り広げられたアクセルVSトリガードーパントとの対決も含めて、どちらかと言えば戦隊チックなアクションの構図になっていた。

 と、中盤に至るまででかなり密度の濃いアクションシーンが描写されてきたわけだけど、今回の映画ではアクションとストーリーの部分とがきちんと融和されているので、クライマックスに至るあたりからのアクションシーンは、アクション単体だけで語るのは難しいだろう。
 そのストーリーの方は、劇場版における前作「MOVIE大戦2010」の時と違い、主役側のメインはフィリップで、翔太郎はどちらかと言えば脇に回る部分が多かった。
 今作のフィリップは、記憶が存在しないために自分の「母」であるシュラウドの面影をマリアに見出し、彼女が自分達を裏切ったことを知った後でさえも、彼女を信じる気持ちを捨て去れずに、激昂して翔太郎を殴りつけるという、普段の彼らしからぬ「人間くさい」行動を数多く見せている。
 映画自体がどちらかと言えばアクションシーンに比重を置いていたため、フィリップとマリアの交流を描いたシーンの時間そのものは短いのだけども、それでもマリアへの想いを募らせるフィリップと、それに少しずつ影響を受けるマリアの姿はきちんと描写されていた。
 これは脚本や演出以上に、役者本人の演技によるところが大きいと思う。

 比して今回の翔太郎は文字通り、それこそテレビ本編でシュラウドに言われたとおり、最後の「切札」として活躍する。
 タイトルに「運命のガイアメモリ」とあるとおり(そしてテレビ本編で井坂が発言したとおり)、この作品では「ガイアメモリとその使用者は運命的なもので引き寄せあう」とされており(ヒートドーパント=羽原が言ってるだけではあるけど)、その言葉どおり、エターナルレクイエムによって変身できなくなった翔太郎は、運命によって引かれあった最後のT2ガイアメモリ「ジョーカー」を手に入れる。
 (余談だけど、このT2ジョーカーメモリを入手する流れの伏線の張り方も実に見事で唸らされた。物語導入部に挿入されただけと思われたコメディシーンにまで、きちんと伏線を張るという物語構成の巧みさは、脚本担当・三条陸氏の面目躍如というところだろう。)
 そしておやっさんこと鳴海荘吉=仮面ライダースカルの幻から託されたロストドライバーを使って、翔太郎は仮面ライダージョーカーに変身。ヒートドーパントを圧倒し、照井と共に風都タワーに乗り込んだ際にはメタルドーパントを撃破する。
 このジョーカーのアクションは、オールドファンならニヤリとさせられる、昭和ライダーへのオマージュが満載だった。
 マキシマムドライブの発動直前に取るポーズは1号・2号のそれだし、各ドーパントへの止めを刺す場面(特にメタル)なんかは、ジョーカーの見た目がBLACKに似ているからか、BLACK本編でのブラック対シャドームーン最終決戦時のパンチ・キック使用時に見せ方が似ていたりもした。
 そもそも携行武器やフォームチェンジなどの特殊能力を一切持たず、ひたすら徒手空拳のみで戦う仮面ライダー自体が、平成ライダーでは非常に珍しく、そのアクションスタイルからして、昭和ライダーへのオマージュと取れなくもない。

 必死に戦うジョーカー=翔太郎の姿を見て、フィリップもエクスビッカーを無力化せんと必死に抵抗する。
 2人の力も及ばずあわやと言う時に最後の行動を起こしたのは、大道克己の実の母親でもあるマリアだった。エクスビッカーの発射こそ阻止できたものの、怒った大道は躊躇なくマリアを射殺してしまう。
 風都の人々を救うために最後まで戦おうとしたフィリップの姿に、マリアは息子の優しかったかつての姿を重ねたのかもしれない。
 すべてを、自分の命さえ投げ打っても息子を救いたいと願う「母」の想いを知ったフィリップは、使用可能になったT1ガイアメモリを携え、翔太郎と最後の決戦に赴く。
 このフィリップとマリアの別離のシーンは、これまた迫真の演技によってかなり盛り上がるものになっている。
 冒頭の母子とのシーンからもわかるように、フィリップは「母」という存在そのものを今ひとつ理解できていなかったわけだが、ここに至って「母」という存在が「息子」をどのように思うのか、どんな風に愛情を注ぐものなのかを理解したシーンでもある。
 だからこそ実の息子でありながら、そんな母の思いを踏みにじった大道への怒りも増すわけで、このへんの感情の変遷の描写もまったく見事だった。
 復活した大道を相手にすぐ変身するのではなく、まず生身で戦いを挑むあたりも、フィリップのより直情的な怒りを表現できていたと思う。
 そしてそんなフィリップの怒りを翔太郎も理解できていたからこそ、同じく生身で挑んだのだろう。
 2人の気持ちが完全に1つになったとわかる場面は変身シーンだ。変身の際、精神だけがW=翔太郎の体に移動したフィリップの体はその場に倒れ付すと言うのがお約束だが、この時の変身は倒れる直前、フィリップが翔太郎の肩に手を乗せるのである。まるで後を託すかのように。
 元来Wは「2人で1人の仮面ライダー」なわけだから、最終的に戦うのは2人一緒になるわけで、わざわざそんなことをしなくても良いのだが、敢えてフィリップは肩を叩いたのだ。「相棒」を信頼していると言うことを、心ではなく体で直接伝えるために。
 この演技は翔太郎を演じている桐山漣氏の発案とのこと。キャラクターもストーリーも理解し、尚且つ愛着があればこその名案であった。

 途中でルナドーパントに邪魔されるWの前に現れたのは、テレビ本編での次作「仮面ライダーOOO」に登場する仮面ライダーオーズこと火野映司。
 変身したオーズはタトバコンボとタカキリバコンボを見せて鮮やかにルナドーパントを撃退。
 まあこの辺は番宣の意味合いが強いわけだけど、それでも去年の「オールライダー対大ショッカー」におけるW初登場の時よりは、物語の進行的に無理のない仕上がりになっていた。
 「ライダー同士、助け合わないとね」というオーズの言葉にもなぜか感動。オーズもぜひ劇中で「仮面ライダー」を名乗って欲しいものである。

 風都タワー上でのエターナルとの決戦では、6つのメモリを駆使した矢継ぎ早の攻撃を展開。
 それぞれのフォームの特性を生かしたアクションシーンは一番の見所と言ってもいいかもしれない。本編中で高威力扱いされていたヒートトリガーの攻撃でエターナルを吹っ飛ばしていたりと、個々の設定もきちんと生かしているあたりが憎い。
 だが「最強の敵」だけあって、この程度ではエターナルは敗れない。エターナルは残り25個のT2ガイアメモリをすべて搭載、マキシマムドライブを発動させて風都タワーを破壊し、タワーごとWを地面に叩きつけようとする。
 サイクロンジョーカーエクストリームの力も及ばない、まさに絶体絶命となったその時、事態を見守っていた風都の人々が一斉に叫ぶ。「仮面ライダー!」と。
 刃野刑事や真倉刑事、ウォッチャマンにサンタちゃん、クイーンにエリザベス、ライダーに助けられたことのある大勢の人々、そして亜樹子。仮面ライダーの勝利を信じる人たちの思いが1つになる時、風都に一陣の風が巻き起こる(と同時に、バックに「W-B-X 〜W-Boiled Extreme〜」がかかる)。
 風都の各所に置かれている風車群を激しく回転させながら、やがて風は旋風となってWの周囲に集まり、腰のエクスタイフーンがその風をエネルギーとして取り込み、Wはゴールドエクストリームへの進化を果たす。
 ゴールドエクストリームもまた、全ライダーの始祖たるライダー1号へのオマージュと取れる面がある。マフラーのように見える6枚の羽は、まさに「虫の羽」にも見えるし、何より進化の直接の理由が「風」であることも、仮面ライダーが本来は風をその力とする「風の戦士」であったことに対してのリスペクトなのだろう。
 風都とそこに生きる人々を愛した仮面ライダーW、そしてそんなWを信じた風都の人々の思いが重なったからこその奇跡であったわけだ。
 だからこそ、そこに至るまでの流れが重要なのであって、ゴールドエクストリームの戦闘そのものはかなりあっさりと終わっている。
 ゴールドエクストリームの物語上における存在意義を鑑みると、この見せ方は実に妥当であったと言える。
 ラストは冒頭から触れられていた、風都の花火大会で幕を閉じる。まさに大激戦と言っていい戦いを乗り切っただけに、4人の晴れやかな笑顔は、見ている側までも清々しい気分にさせてくれるような素晴らしいものになっていた。

 とりとめなく感想を書いてしまったが、上で書いてきたこと以外にも見所はたくさんある。
 大げさな言い方かもしれないが、まさに全編が見所と言う感じなので、いちいち書いていったらキリがないのだ。
 大道とフィリップ初邂逅時のやり取りも、本編で明らかにされたフィリップの真実を知った後で見るとなるほどと思わされるし、赤いナスカドーパントしか知らないアクセル=照井が、青いナスカを見た時にわざわざそのことに触れたり、ルナドーパントこと泉京水を演じた須藤元気の演技が予想以上に面白かったなど、本当に盛りだくさん過ぎるのである。
 
 そして今回の映画で一番強く感じたことは、「王道を王道として描いた作品は、やはり素晴らしい」と言うことだ。
 平和を願って戦うヒーローがいる。そんなヒーローを慕い、勝利を信じる多くの人々がいる。そしてそんな人たちのためにヒーローはさらに戦い続け、最後には勝利する。
 この映画の基本的な骨子はこの「王道路線」に尽きる。そしてだからこそこの映画はここまで面白くなったのだ。
 暗く先の見えない現実だからこそ、空想の世界でくらいは「正義は必ず悪に勝つ」話を見たいではないか。そういう話を子供たちに見せたいではないか。
 「正義は必ず悪に勝つ」。そう言えばこのテーゼは昭和の仮面ライダーシリーズで散々繰り返されてきたものだった。
 実は今回の映画の話そのものが、昭和ライダーへのオマージュだったのではないか。ふと、そんなことも考えてしまったりするのである。

 さて、あと一回くらいは見に行ってみようかな。
posted by 銀河満月 at 01:12| Comment(5) | TrackBack(0) | 特撮ヒーロー・特撮映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月19日

超久々に更新

 なんだかんだで約四ヶ月ぶりの更新となってしまいました、銀河満月です。
 まあこのブログの更新を待っていた方と言うのも、そうはいないと思うのですが(笑)。
 別に病気とか事故にあってたとかそういうことではまったくなくて、ごく私的なことで忙しかったため、こっちの更新をしていなかったわけですが、それも大体片付きましたので、ブログ更新も再開しようかと思ってます。

 4月に最後の更新をして以来、いろいろなことがありましたが、それらにいちいち触れるのも面倒ですので、そのへんは端折らせていただきます。
 まずは本日見に行った「仮面ライダーW」劇場版の感想ですかね。
posted by 銀河満月 at 19:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年04月03日

遠い星から来た男が 愛と勇気を教えてくれる

 だいぶとりあげるのが遅れてしまいましたが、やはり触れておかねばなりますまい。



ウルトラマン80、DVD発売決定!!!!


 本当に待っていました。一昨年に「ザ☆ウルトラマン」のDVD−BOXが出て以来、まったく音沙汰がなかったのでかなり不安だったのですが、生誕30周年の今年に合わせていたわけですねえ。してやられました。
 80は本放送の時は子供、と言うか赤ん坊の頃だったのでほとんど覚えていませんが、唯一ガルタン大王の話を見た記憶は残ってまして、そういう意味では僕が人生の中で一番最初に出会ったウルトラマンであります。
 なので80に対する思い入れもかなり深いですし、それだけに今回のDVD−BOX発売は本当に嬉しいです。

 ファミリー劇場でも来月から放送が始まるので、先にファミ劇の方で視聴してしまいますが、もちろんDVD−BOXは買いますよ!
 これを買わずして何を買おうと言うのか。これで9月まで生きる目的ができたと言うものです(笑)。

 あとはグレートのDVDを…。パワードは…まあいいや。
posted by 銀河満月 at 16:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 特撮ヒーロー・特撮映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ついに我が家もデジタル化

 本日、家で加入しているケーブルテレビの会社にデジタルテレビのチューナーを取り付けてもらった。
 これで自宅のテレビも地上デジタル対応になったわけだ。
 ただ自宅のテレビは単なる液晶テレビでハイビジョンには対応していないから、デジタル放送の映像面における恩恵を受けることは出来ていないのだけども、それでもアナログよりは格段に綺麗だから、まあいいだろう。アナログだとゴースト発生してたからな。
 コピーワンスとかまだまだ不満な点は多いものの、逆を言えば録画したものを誰かにコピーしてあげるとか、そういう事態はそんなに起きないだろうから、そこまでいちいち気にしなくても、今のところはいいのだろう。友達少ないし(笑)。

 …まあ、いざとなったらやりようはあるからな。

 とは言え今までアナログで録画していた分は、DVD−R一枚に収まる範囲でコピーする関係上、まだある程度はアナログ放送版も録画していかなければなるまい。
 今月から始まるアニメとかから順次デジタルに移行していけばいいや。
 そういう意味ではちょうど今週から始まった「ゲゲゲの女房」は、ちょっとタイミングがずれてしまったな。

 あとは有料チャンネルである「東映チャンネル」と「アニメシアターX」の申し込みをするだけだな。
 アニメシアターXの方は、新番アニメよりは旧作アニメの方をやはり見たいものだ。「未来ロボ ダルタニアス」は最初から見たかったなあ。
 東映チャンネルももう少し早く移行出来ていれば「地球戦隊ファイブマン」を見られたのに、残念である。ファイブマンは僕の人生の中で唯一、まったく触れたことのない戦隊だからな。
 まあナショナルキッドを楽しみにしてみるか。今月から鳥人戦隊ジェットマン、来月からは激走戦隊カーレンジャーが始まるけど、正直どっちも好きじゃないからねえ(笑)。
 両方ともDVDは持ってないので一応録画してDVDに保存はするけど。
posted by 銀河満月 at 16:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記・戯言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月20日

「スーパーマン…、ノビタとか言ったな。うでききのガンマンと聞いた。」

 昨日放送された「ドラえもん 新のび太の宇宙開拓史」を見た。
 正直な話、最初は見る気はなかった。おおはたさんがブログに書かれた感想を見て、大体は把握できたからである。
 僕は基本的には他人の感想とか評価と言うやつはあまり当てにしないで、自分で見た上での感想を大事にするが、おおはたさんの作品を見る視点やその内容については、個人的にも我が意を得たりという部分が多く、数年来の付き合いで、ブログに書かれている感想には嘘は一切なく、正直に作品に向かい合って書かれた感想だと自分では理解しているので、おおはたさんの作品感想・論評はずっと以前から信頼している。
 なので今回も見る必要はないだろうと思っていたのだが、やはり一度は自分の目で見るべきだという考えも同時にずっと持ち続けていたこともあり、今回は一緒に大山ドラの第1話も放送されると言うので、そのついでという意味合いも含めて、見てみることにしたわけだ。

 …まあぶっちゃけた話、みんなが言うほどひどい話にはなってないだろうという思い込みはあった。いくらなんでもあのしっかりした原作を普通にアニメ化すれば、素人でもそこそこ面白いものが出来るだろう。
 ましてプロの作るアニメである。そんな出来の悪い内容にはなってないだろう、オールドファンはやはり原作漫画を第一に考えてしまうから、評価が辛口になってしまうんじゃないだろうか…。
 みたいなことをチラッと考えたりもしてたんですよ、見る前までは。


 うん、はっきり言っておおはたさんがブログに書いたとおりの出来だった。あの原作をあそこまでダメな内容に変えられるとは思っていなかった。それほどにひどい。
 オリジナルならばまだ許容できる部分もあるかもしれないが、これはF先生の描いた原作をベースにしているのだ。にもかかわらずの体たらくである。
 おおはたさんの感想と同じになってしまうから、書くのはちょっと気が引けるのだが、まず演出が全体的に平板すぎる。
 緩急というやつがほとんど取れておらず、一本筋のストーリーをただそのまま考えなしに流しているような感じなので、本来盛り上がるべきシーンがまったく盛り上がっていない。
 のびドラが初めてガルタイトの連中を退けるシーン、超空間が切れるかもしれない危険を顧みず、再びコーヤコーヤに向かうシーン、コア破壊装置を止めるシーン、ラストの別れのシーン、そしてのび太とギラーミンの対決シーン、盛り上がって当然のシーンがてんこ盛りであるにもかかわらず、その一切が流れ作業的に淡々と描写され、終始盛り上がることなく終わってしまっている。
 ただ声をギャーギャー張り上げれば盛り上がると言うものではない。声はかなり威勢が良かったりもしたが、それだけのことなのだ。場面自体を盛り上げるには至っていない。

 最大の問題は上にも書いた、ギラーミンとのび太の対決シーンをあまりにもあっさりと描きすぎたことにある。
 こういった冒険活劇のクライマックスを締めるために不可欠な要素として、「ボスキャラと決着をつける」と言うものがある。ボスキャラ的と言うか、明確に倒すべき存在(抽象的なものではなく、物理的なもの)を倒してこそ、「目的を達成した」というカタルシスを、見ている人間が容易に抱くことが出来るし、そこに至るまでの流れを盛り上げることで、クライマックスのシーン全体を盛り上げることも出来る。
 この作品については、ギラーミンがボスの立場になっている。原作では本社から来た用心棒と言う立場ではあるが、最終的にのび太に決闘を挑むことで、「のび太たちが倒すべき敵」というポジションを得ているのだ。
 そしてそんなギラーミンをのび太が、あの弱虫で意気地なしののび太が、数少ない特技である射撃の腕を生かし、生来の気弱さが災いして勝負の瞬間に意識が遠くなってしまいながらも、どうにか強敵を倒すという流れこそが、本作最大のクライマックスであったのだ。
 原作をよく読めばわかるが、コア破壊装置を止めること自体は物語上の決着として描かれているが、ギラーミンをのび太が自分自身の手で倒した時点で、実質的にはガルタイト鉱業との決着はついているのである。

 そんな大事なシーンをああもあっさりと済ませてしまった。
 だがこのこと自体は方法論としてはさほど悪くない。スタッフにとって、このシーンをクライマックスとして盛り上げることは、今回のアニメの企図と照らし合わせてそぐわないと判断したのであれば、原作漫画ファンとしては不満ではあるものの、まあ理解できる見せ方ではある。
 最大の問題とは、この対決シーンに取って代わったはずのクライマックスシーンが、まったく盛り上がっていないことなのだ。
 今回のこの映画のダメな部分は、すべてこの「平板な演出」に尽きる。
 恐らくスタッフの意図としては、コア破壊装置を止め、モリーナと父親との再会をクライマックスに持ってきたかったのだろう。そのためにのび太とギラーミンの対決シーンを削ったのだろうと言うことは、見れば容易に想像がつく。
 しかし原作で一番盛り上がったシーンを犠牲にして出来たシーンが、まったくクライマックスにふさわしくないシーンになってしまったのだから、これでは見ている方が肩透かしを食らった感じになってしまうのも仕方がない。
 モリーナというキャラクターをもっと魅力的に描くことが出来ていればよかったのだが、それが出来ていたとはお世辞にも言えない。

 この「新宇宙開拓史」は、「クライマックスが盛り上がらなかった」作品ではなく、「クライマックスを盛り上げられなかった」作品なのだろう。
 盛り上がるクライマックスと言うやつは、クライマックス部分の設定とか描写だけをポンと放り込んだだけで盛り上がれるものではない。
 そこに至るまでの様々な過程を丁寧に、かつ丹念に描くことで、そこに至るまでの話の流れ、各キャラの心の変遷等を一気に集束させることで、初めてクライマックスは盛り上がるのだ。
 それをおざなりにしてしまった時点で、クライマックスが盛り上がろうはずもない。
 あまり言いたくはないが、この映画に関する限り、見所と呼ぶべきシーンはない。起伏のまったくない、平坦なストーリーを最後まで見続けるだけの映画。そんな感じだ。

 ただあえて言うなら、モリーナの設定とか行動、セリフ自体は、言われているほど悪いものではなかった(そんなに良くもないけど)。
 ただ肝心要の「声」がすべてを台無しにしてしまっている。
 只でさえハスキーボイスなのに、心情の表現にまったく緩急がついていないから、単にいつもイライラしているだけの女に見えてしまうのだ。
 逆を言えば、モリーナの声をしっかりした声優さんが演じていれば、脚本や演出上の意図を超えて、少しは深みのあるキャラクターになれたかもしれない。そうすればラストの再会シーンも、完成作品よりは盛り上がったに違いないのだ。
 それを思うとゲスト芸能人枠というものは、百害あって一利なしだと改めて思う。クレムに至っては本当に聴けたものではなかったし。


 他にも言いたいことはあるけれど、1年前の作品に今更どうのこうのと言ってもあまりいいことはあるまい。
 ただ、かなりしっかりした出来栄えの原作「宇宙開拓史」を以ってしても、この出来栄えである。
 来年に控えている「あの作品」、一体どうなってしまうのだろう。この映画を見た時点では不安しか抱けない。
 それでも来年の映画は劇場まで見に行こうと思う。「宇宙開拓史」でこういうことをしでかしてしまったからこそ、来年の映画はリアルタイムで、劇場で鑑賞すべきだろう。
posted by 銀河満月 at 00:52| Comment(0) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月14日

「のび太の耳にタコができる話」を見た

 一昨日のドラえもんは久しぶりに、個人的に色々楽しめる話だったので、久々に感想でも書いてみようかと思う。

 今回放送されたのは「ペタンコスタンプ」と「のび太の耳にタコができる話」の2つ。
 このうちBパートの方は、てんとう虫コミックス39巻に収録されている「具象化鏡」が原作になっている。
 この話は原作ドラえもんのあらゆる話の中で僕が一番好きな話であり、道具そのものも一番好きな道具である。
 それだけにかなり思いいれもあるので、リニュ版ドラでどのようなアニメ化が成されるのか、興味があったのだ。

 全体としては原作の流れに沿ったオーソドックスな作りだった。
 原作では登場することわざや慣用句の一部をナレーション的な説明で終わらせる部分がかなりあったが、元来ナレーターと言うものが存在しないアニメ版ではそれを忠実に再現させることは難しかったようで、今回のアニメ版ではドラをのび太についていかせることで、慣用句などの解説を行わせていた。
 これは妥当な改変だろう。ちょっとそのせいでテンポが悪くなってしまっている部分もあったが、この程度は十分許容できる範囲だ。
 ただ「言葉の上での表現が現実になる」というナンセンス極まる描写は、このアニメ版でも遺憾なく描写され、さらにそこに「色」と「動き」が加わることで、道具の効果が発揮されている部分に関しては、原作漫画以上のインパクトを発揮していたと言える。
 ラストの「春の足音」に関しては、もう少し時間をかけてゆっくりと叙情的な演出をして欲しかったところだが、それでも原作と同様に穏やかな感じのクロージングになっていた。
 大山時代のアニメ版では放送時期の関係もあって、「春の足音」に関する部分は丸ごとカットされてしまっていたからね。

 いくつか不満を上げるとすれば、原作で味わい深かったエキストラキャラ(「絶望のどん底」に落ちたのび太を助け上げる通りがかりの人)がいなかったところか。
 あとは、これは欠点と言っていいのかどうかわからないのだが、「耳にタコが出来る」で耳に生物のタコが出来てしまうのは、あれは正直いかがなものかと思う。気にしすぎだとは思うのだけど、完全に間違っていることを正しいことのように演出してしまっていいものだろうか。
 この道具は言葉上の表現がストレートに現実のものになるわけだから、間違った解釈が現実化したりはしないのだけど。
 むしろここで、この場合の「タコ」と言うものがどういうものなのかを、さらっとでいいから説明させておくべきだった。ドラえもんという解説役も同行していたのに、非常にもったいない。
 あと、個人的にサブタイは変えるべきではなかったな。あの「具象化鏡」という、短くて漢字だけのタイトルだからこそ印象深くなるのに。

 まあそれでもBパートの方は十分楽しめた。
 問題はAパートの方だろう。ジャイアンのいとこが怒り出すシーンで、「目を釣りあがらせて巨大になったイメージで威嚇し、それを見て手足をバタバタさせて恐怖するジャイスネ」なんて、一体何十年前の作品から引っ張ってきたのかと苦笑してしまったよ。
 あの古臭い演出だけでAパートはダメになったと言っていいくらいだ。
 そもそも原作におけるあの場面は、ガランとなった部屋で満足そうにしているジャイスネのコマから、次のコマ(ラストのコマでもある)でいとこに追いかけられているジャイスネを、事情をまったく知らないのびドラが不思議がりつつ見つめる、という絶妙な間の取り方こそが面白いのであって、あそこでジャイアンのいとこが具体的に起こる描写を入れると言うのは、原作漫画の持っていた良い部分をわざわざ消してしまっていることになる。
 今のリニュ版ドラは場面場面では良いところも多いのだけど、こういう肝心要の部分で大きなポカをやらかすからイカンのだよな。


 そう言えばもう映画も始まっているんだったな。
 来年の映画作品は「アレ」になるらしい、という情報も聞いたのだけど、果たしてどんな出来栄えになるのだろうか。
 今回の映画は時間の都合もあって見に行けるかどうかは難しいけども、来年の映画はどうしても見に行かねばならんだろう。
posted by 銀河満月 at 02:30| Comment(0) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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