2018年07月22日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)16話「潮の怪!海座頭」感想

 今週と来週とは古めかしい言い回しをするなら「境港編」とでも言おうか、まなの父親の故郷と設定されている鳥取県境港市へ、まなが夏休みを利用して旅行に行くところからはじまり、全編にわたって境港そのものを推し出した内容となっていた。まなのおじさんである庄司や漁師のキノピーといった登場人物が、それぞれ水木しげる記念館の庄司館長と木下氏をモデルにしているという徹底ぶりである。
 鬼太郎を見ている人なら周知の事実だろうが、境港は原作者である水木しげる先生の生まれ育った地であり、現在は1993年から始まった「水木しげるロード」を始め水木先生や水木先生の描いた様々な妖怪たちを使った町おこしも継続して行っており、まさに妖怪と共存している町と言っていいほどである。
 1993年と書いたとおり境港の町おこしは4期鬼太郎の開始前から行われていたのだが、このような所謂アニメとのタイアップについてはかつての4期も5期も行っておらず、水木しげるロードの開始から25年の今年、初めてアニメ鬼太郎とのタイアップが行われる運びとなった。それだけに冒頭からまなが境港の風土や名産などをべた褒めし、風景もロケハンによって現実のものがほぼ忠実に背景として描かれている(背景の1つとして水木しげる記念館が映ったが、6期鬼太郎の世界にも水木先生が存在しているのだろうか)。
 ただ褒めそやすだけでなく名物の祭りを巡って伝統を守ろうとする側と革新を求める側とで対立が起き、結果祭りが実施できなくなっていると言う展開はいかにも今期の鬼太郎らしい今日的な要素であるが、最終的に町民も団結するとは言えこのようなマイナスと取られかねない要素までタイアップ話の中に盛り込んでくると言うのは、それだけ境港の懐が深いと言うことなのだろうか。
 個人的な余談としては、庄司おじさんたちに甘えてテンションが高くなっている時のまなの声が、ミリオンライブの所恵美の声っぽく聞こえたりもしたのがおかしかった。

 その庄司おじさんや漁師のキノピーたちを船幽霊に変えてしまう妖怪・海座頭が出てきたことから鬼太郎の出番となるが、船幽霊は海座頭に操られて鬼太郎たちを襲ってくるため、鬼太郎はまともに海座頭と戦うことができない。船幽霊たちの魂を閉じ込めた海底の祠は扉がとても重く簡単には開けられないと知ったまなは、町の全員でやれば開けられると考える。
 自分の大好きな境港の町を守りたいと必死に訴えるまなの呼びかけに祭りの件で反目していた人たちも団結、駆けつけたねこ娘たちとも協力して祠の扉を開け、船幽霊の魂を解放する。
 その後もなお苦戦する鬼太郎をかつて高校球児だった庄司おじさんの投球による一撃で救ったり、事件解決後無事に開かれた祭りをまなたち人間と鬼太郎たち妖怪が共に楽しむ様子を描いたりと、前述のとおり25年の間「妖怪との共存」を実現してきた境港を舞台とした話にふさわしい展開でクロージングとなった。
 妖怪と人間とは必要以上に交わってはいけないと言うスタンスを持つ鬼太郎だが、そんな鬼太郎にとってもこの町は居心地が良かったのだろう。そもそもアニメと現実とは違う世界なのだから我々の知っている境港と劇中の境港とが同じとも言えないのだが、「境港」とは妖怪と人間が共存できる場所という一種のシンボルなのだとして考えれば、妖怪と人間とが一つの町で仲良く過ごせるひと時を大切に想うまなの「こんな時間がずっと続くといいな」という言葉に、笑みを浮かべながら頷くように顔を下げる鬼太郎の姿にも納得がいくというものであろう。

 次回もまた境港が舞台のお話で登場妖怪は蟹坊主。世代人なら3期EDの最初に出てくる妖怪として記憶しているであろう妖怪だが、人々を銅像に変えていく理由は何なのだろうか。
posted by 銀河満月 at 15:43| Comment(0) | ゲゲゲの鬼太郎(第6期)感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月08日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)15話「ずんべら霊形手術」感想

 アイドルのプロデューサーはアイドルになってもいい奴だった。

 …と、わかる人にしかわからんネタはさておき、今話は2期でも一度アニメ化された、鬼太郎の登場しない短編漫画を原作とした「霊形手術」。2期はどこまでも自分の美しさを追い求めた故に残酷な、そして自業自得な結末を迎えた女・月子の末路を描いていたが、6期版と言うべき今話は2期版のメインであった月子よりも、その月子に惚れていた男の三吉に近い立場の少女がメインとなった。
 一応月子のキャラシフトに対応しているイケメンアイドルのユウスケも登場しているが、今話の三吉≒きららはそこまでユウスケ個人に固執しているわけではなく(理由の一つではあるが)、恵まれていない自分の容姿そのものに劣等感を抱き、それ故に周囲から蔑まれる現状に苦しんでいる。容姿の問題は化粧や服の着こなしである程度は改善が見込めるものの、特に顔となればそう簡単に解決できるものではないだろうし、何だかんだ言っても女性の容姿となればどうしても男性より重視されがちである以上、きららにとっては大きな問題であったのは当然と言える。他人の美醜に何かしらの感想を抱いてしまうのは仕方ない面があるとしても、それを本人にわかるレベルではっきり態度に示した時点で周囲の人間にも明確な悪意があったと言え、苦しむきららの描写にシンパシーを覚える人もいたのではないだろうか。
 そんなきららは妖怪ずんべらの力で美しい死体の顔を元の顔の代わりに貼り付けることで幸せなひと時を味わうが、時間が経つとその効力も消えて顔のないのっぺらぼうになってしまう。この辺は原作とほぼ同様だが、最終的にきららの出した答えは「美しい顔でい続ける」と言うものだった。
 以前から彼女の書いたファンレターに励まされていたというユウスケに説得され一時は元の顔に戻したものの、最後に見せた顔は霊形手術をした時と同様の顔だった。その最後のシーンはエピローグ的描写で元に戻ってから再び美しい顔になるまでの経緯は描かれていないので、最終的にこの顔をどうしたのかについては視聴者の判断にゆだねるというところなのだろう。つまり再びずんべらに霊形手術をしてもらったのか、それとも一般的な整形手術で顔を変えたのか。
 どちらにせよ1人の男に許容されるだけの幸せでは満足できなかった、と言うより結局それ自体も彼女にとっては幸せ足りえなかったという事実がそこにあり、ラストのきららの小悪魔的な笑顔と相まって彼女の先を想像しないではいられない。
 思えば2期版の三吉はただ月子に想いが通じればそれで良いという一念で霊形手術を行った一方、月子はそんな三吉に目もくれずずんべらと結婚し、自分自身が霊形手術をする側になって儲けようとまで企んだ。
 ただ今の自分を変えたい、美しくなりたいと望んだきららは、霊形手術を受けることで変わった世界を忘れられずさらなる「自分の望んだ世界」を求めるために顔を変えた。美しくなりたいという望みは男女問わず一度は願う普遍的で、見ようによっては小さな望みとも言えるだろうが、きららはその望みをかなえた先の望みをも叶えることに貪欲になってしまった。言ってみればきららは2期版の三吉と月子、両方の登場人物の望みを体現したキャラクターとして完成してしまったのである。
 美しくなって小さな望みを叶えたいという「三吉」ではいられなくなったきららは「月子」然とした存在になって世界へと邁進していく。しかし2期版の月子が最終的に迎えた結末は……。それを知るときららの行く末に幸福な結末が待っているとはどうしても思えない。
 かような苦い終局を迎えた挿話かと思いきや、一方では「1人の男に愛される女というありきたりの幸福論を越えて自分が幸せになる道に進んだハッピーエンド」と考える向きもあるようで、感想とはやはり千差万別と改めて思い知ると同時に、正味25分程度の一エピソードでここまで色々考えさせてくれるアニメを見られることはこの上ない幸福だなあと感じ入る次第である。

 と、そんなお話のために割りを食った、という言い方も不適当だろうが、鬼太郎たちの出番はほとんどなかったのは残念と言えば残念だが、元々鬼太郎の登場しない短編が原作であるために鬼太郎たちが直接介入する余地がほとんどないのは仕方のないところでもあるので、むしろ原作短編の味を比較的忠実にアニメ化出来たという点を素直に褒めるべきだろう。
 声優に目を向けると、きらら役のゆかなさんやずんべら役の久川綾さんと言ったベテランが4期から継続してゲスト参加している(と簡単に言うけど4期は20年近く前だからやっぱりすごいことですねえ)一方で、アニマスのプロデューサー役で一躍名を馳せたバネPこと赤羽根健治さんがユウスケ役で出演されていた。前話のちゃんゆりことのぐちゆりさんもだが青二の若手がポンポン参加してくれるのも東映アニメの良いところなので、その内そらそらあたりも出演してくれることを願うとしよう。

 次回は海座頭。水木先生の故郷である境港が舞台になるということなので、まさか原作のように鬼太郎やねずみ男が厭世感に囚われる話にはならないだろうが、どんな話にするのであろうか。境港を舞台にするのだから名所巡りくらいはしそうなものだけど(笑)。
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2018年07月01日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)14話「まくら返しと幻の夢」感想

 まあなんと言いますか、今話の鬼太郎はこれに尽きるだろうなあ。

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 今の姿になる前の親父の姿としては「鬼太郎の誕生」などで描かれるミイラ男状態のものがよく知られているが、あれは体が溶けるという病気にかかって死ぬ寸前の状態であって、病気にかかる前の健康な状態の姿は原作でも描かれたことはなかった。なのでその病気になる前の姿の親父をアニメオリジナルで創作することは別段悪いことでも何でもないのだが、まさかこんな形でそれが描かれるとは、と言うかそもそも「病気になる前の親父」を作ろうという考え自体がパッと頭に浮かんでこず、浮かんだとしてもまさかアニメでそこまでやるとはまったく思いもしなかっただけに、この衝撃は自分としてはかなり大きい。コロンブスの卵と言うかコペルニクス的転回と言うべきか、いわゆる「腐」の方々にも衝撃が大きかったようだが、僕としてはそれとは別の次元で衝撃を受けているのである。
 言っておくが別に病気になる前の父親の姿を描くことは別にタブーとなっていたわけではない。原作についてはそこを描く気が端からなかっただけなのだろうし。歴代のアニメ作品も鬼太郎の幼少時代を描くのが精々であったし、そもそも鬼太郎の幼少時代とはいわゆる「墓場鬼太郎」時代になるから「ゲゲゲの鬼太郎」で忠実に描くのは難しいものがある。だから鬼太郎の誕生や幼少期が断片的にとは言え描かれるようになってきたのは4期以降のことだし、まして目玉親父の「鬼太郎が生まれる前の姿」に思いを至らせるなどまったくありえないことだったのだ。
 だからこそそれをやってのけた今回のアニメスタッフはすごいと言わざるを得ない。単に出しただけでなく、死んだ母親の胎内から自力で這い出しその際に左目を潰してしまったという壮絶な誕生となった鬼太郎に「生まれおちた時から苦労をかけた」父親としての負い目と、それでも我が子を案じるが故に今の姿となるまでに至った父としての強い想いが、夢の中という特殊空間でのみ具象化したという展開に落とし込んだその手腕。原作や歴代アニメを研究した上での独自性を打ち出しているのが今期の特徴だが、それが今までで最も強く発揮された回だったのではないだろうか。
 アニメ版では原作以上に鬼太郎と目玉親父の親子の絆を強調しているのだが、それをこんな形で提示してくるとは全く本当に脱帽である。すごいし素晴らしい。

 やっぱりこの親父のインパクトが強すぎて、大した才も技量もない中年リーマンの悲哀という決して他人事ではない(笑)描写とか、ねこ娘とまなの夢の話とか、夢の世界から抜け出しても根本的な解決にはなっておらず、今後もいずれ夢の世界にひきこもる人間が出てくるであろうことを示唆する少女の最後の邪悪な笑みと言った種々のネタもどこかに吹っ飛んでしまった感があるな。
 そう言えばまくら返しの話はこれも1期から5期に渡って必ずアニメ化されており、3期世代にはEDで唯一動いていた背景妖怪としても記憶されていることだろうが、今回のようにまくら返しが敵妖怪ではなく鬼太郎の味方の側に立って行動するという筋はなかなか珍しかった(一応3期でも味方描写のある話はあったけど)。

 さて次回は「霊形手術」。元々は水木先生のオリジナル短編で非鬼太郎ものだが2期では原作として登用され、多くの視聴者を恐怖に陥れた名作・良作として今なお多くのファンに愛されている話だが、さて6期ではこの話をどのように料理するのだろうか。
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ゲゲゲの鬼太郎(第6期)13話「欲望の金剛石!輪入道の罠」感想

 鬼太郎らしからぬスペクタクルとなった八百八狸編も一段落し、比較的オーソドックスな妖怪退治ものに回帰した今話。だが今話は毎回のゲストである敵妖怪より鬼太郎一番の悪友であるねずみ男と鬼太郎の関係性にフィーチャーした内容となっていた。
 今期の鬼太郎は人間のまなとの交流に序盤の話を割いたため、ねずみ男と鬼太郎がどういう関係なのかについてはニュアンスで察せられる程度に留めており明確に描写してはこなかったわけで、既に鬼太郎とねずみ男という有名キャラクターは今更説明しなくても視聴者は知っているだろうという打算が働いていたのかと意地悪な見方も一時はしてしまったものだが、ここで改めて両者の関係を打ち出してくるというのは、第1クールの最後となる今話にはふさわしい構成だと言えるだろう。

 今回の話は原作の「ダイヤモンド妖怪」を下敷きにしているので、敵妖怪の輪入道の特徴や能力、それに対する鬼太郎の攻撃方法と言った重要な部分の要素は概ね原作に沿ったものとなっていた。
 だからこそそれ以外のアニメオリジナルと言っていい部分でねずみ男の様々な描写が光っていた。自分を半妖怪の鼻つまみとして自嘲するのは4期版でもあった少々らしくない描写だったが、ダイヤモンドの材料として躊躇なく人間たちを犠牲にするところ、他者と結託して自分の手に余る状態になりつつあるのを理解しながらも目先の金を優先し、いよいよとなると虫の良さを自覚しつつも鬼太郎に助けを求め、事件が解決した後も反省はまったくしないという、どこまでも自分の欲望や欲求に忠実(特に金銭欲)に生きるねずみ男らしさが存分に発揮されている。特に材料となる人間が世界規模にまで広がりながらもそのこと自体にはさほど後ろめたさを感じておらず、ダイヤの販売や輪入道の制御が自分の手を離れてしまうことの方を懸念しているあたりのドライな描写が、実に原作のねずみ男と近しい個性になっていて、原作ファンとしては非常に嬉しいところだった。
 これだけ悪どいことをしておいて罰を受けないのは…という意見もネット上ではチラホラ見るが、原作からして受ける時は受けるし受けない時は受けないという扱いだったし、水木世界自体が欲望に忠実に生きることを否定しない世界でもあるから、罰を受けないこと自体に目くじらを立てる必要はないのだろう。
 その分鬼太郎の出番がAパートで少々、Bパートも半分ほど過ぎてからと少々少なくなってしまっているが、原作でも事件に直接絡むねずみ男の描写ばかりで、主人公たる鬼太郎が最後の方に登場して事件を解決して終わる、というパターンもいくつもあるので、ある意味ではねずみ男が一番お気に入りだったという水木先生の作風に沿った内容と言えるかもしれない(今期でも既に5話でやっているストーリー構成ではあるが)。
 むしろねずみ男に輪入道、人間たちの三すくみで欲望が入り乱れた醜い描写が続いただけに、鬼太郎が登場して敵妖怪をやっつけるという単純な構成がむしろストーリー上の救いとして一層の効果を発揮する結果にもなっており、これもまた水木ワールドならではのマジックであろう。

 次回はまくら返しが登場するようだが、粗筋を読む限りだとまくら返しが敵という展開にはならないようで、今話が原作の味をほぼそのまま生かした話だっただけに、次回でどの程度捻ってくるのか楽しみである。
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2018年06月23日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)12話「首都壊滅!恐怖の妖怪獣」感想

 狸たちの攻勢に日本政府は事実上の降伏、鬼太郎は刑部狸の妖術で石にされてしまうという窮地で次回に続いた八百八狸編、今話はその後編である。
 さすがに男はソーセージ、女はすべてメイドにという原作での侵略構想は再現されなかったものの、日本が狸に支配されてしまったという構図自体や狸の悪口を言ったら逮捕されてしまうといった原作のシチュエーションは冒頭の描写にも生かされている。間違って「たぬきそば」を注文しても逮捕されるというちょっと笑えるシーンと、狸の尻尾をつけている者とそうでない者とで格差が生じており、侵略された側の人間も一枚岩ではなく内部に支配階級と被支配階級が出来上がっているというかなりきつめのアニメオリジナルシーンとを織り交ぜて描写しているのは、原作描写にさらに一捻り加えることを得手とする6期らしい描写と言える。
 鬼太郎を復活させるべく要石の元へ向かう仲間たちの戦闘描写もまた原作だけでなく歴代アニメ作品の良点を引き継ぎつつ、さらに熱いアクションシーンとなっており、それは復活した鬼太郎と妖怪獣の激闘も同様だった。ストーリー上のヴォルテージに呼応してか作画も1話あたりの原画枚数が指定されているという東映アニメらしからぬ力の入れようで、鬼太郎&一反木綿の空中戦など何回か見返さないとどういう動きをしているのか判別できないほどの挙動になっており、この八百八狸以前の数話がアクション控えめだったこともあり、この前後編にアクション面での全精力を投入したと言わんばかりの戦闘は非常に見応えあるものになっていた(鬼太郎らしくないと言ってしまえばそれまででもあるのだけど…)。
 一部ではあまり目立っていないと言われていたぬりかべは今回得意技である壁塗り込みを初披露し、子泣き爺は5期でも見せた腕だけ石化させての格闘、砂かけ婆も5期で見せた特殊な砂(しびれ砂)を使っての砂かけ、ネコ娘はシルクハット狸の団一郎とガチの格闘戦、そして一反木綿は団三郎のふんどしにされながらも原作どおりに隙をついて刑部狸の首を絞め、まなにかけられた呪いを一時無効化させるという殊勲を上げており、それぞれに活躍の場が与えられていた。特に砂かけ婆はかつての月曜ドラマランド版や80年代マガジン版でのみ使用していたアイテム「砂太鼓」を奥の手として使用しており、ここでいきなりこのマイナーな道具を使ってきたことに原作・テレビ双方を長く見てきたファンは驚きの声を上げたのではないだろうか。戦いに入る前の子泣きと砂かけのやり取りも、今回の戦いがまさに血戦であることを物語っていて、大いに盛り上げてくれた。
 その分ねずみ男はほとんど最後まで狸側に与し、刑部狸がやられた時の洞窟崩壊に巻き込まれるのみと、原作でも見せた「敵についたり味方についたりする」ねずみ男らしさがほとんど発揮されていなかったのが残念だった。恐らくこれは今話オリジナルであるまなの描写に力を入れる分、ねずみ男の描写をどうしても省略せざるを得なかったのではと愚考する。

 そのまなの活躍が文字通り今話のキーとなっているのだが、今回のまなの行動はありきたりな「いつも鬼太郎に助けられているのだから今度は自分が助けたい」という恩返し的な理由からのみ来ているものではないという点に注目すべきだろう。
 要石にかけられた術が人間に効かないはずだからという(いささかご都合主義的な)理由はあったもののそこに到達するまでは簡単ではなく、前話で刑部狸にかけられた呪いが発動してまなは狸化してしまう。体が変わるだけでなく心まで八百八狸のものとなってしまう妖術だったようでまなもかなり苦しめられるが、そんな彼女の脳裏に浮かぶのは鬼太郎と初めて出会ってからの鬼太郎や妖怪たちと過ごした記憶。妖怪など信じていなかったまなが鬼太郎たち「見えないもの」の存在を信じて触れ合えるようになり、短い時間ではあるが共に生きてきた「友達」との思い出だ。
 単純な恩返しではない、むしろそれよりもさらに単純な、それでも初登場の頃から友達を大事にする姿勢を見せてきたまなだからこそ抱く単純で素直な「友達を助けたい」という行動理念。まなの脳裏によぎったその記憶は彼女のその理念を思い出させるには十分だったのだろう、失いかけた人間としての感情をギリギリのところで押し留める。
 大げさに言えばこの瞬間、まなは他の仲間妖怪と同様に「戦って」いたし、その意味ではいわゆる鬼太郎ファミリーと同格の立ち位置についたとも言える。鬼太郎たち妖怪にただ守られるだけではない、いつも助けてくれる相手への恩を返す形で奮起したのでもない、ただ友達を助けるために自分なりの戦いを続けたまなが、だからこそ到達できた一つの帰結と言うべき形が人間と妖怪の垣根を超えたこの立ち位置なのである。それは2話の時と違い石から復活した鬼太郎がごく自然に、素直にまなへお礼の言葉を伝えるという演出、そして要石の力を一時的に得たまなが鬼太郎と協力して妖怪獣を倒すというクライマックスに結実している。
 余談だけどもまなの協力を得たスーパー指鉄砲(仮名)で妖怪獣を打ち抜くだけでなく、そのまま13金パート9の某シーンのように体を割いてしまうところまでやってしまうのはなかなかにえげつなかったが、同時にあれだけ苦戦した妖怪獣に完全勝利できたということがわかりやすく描かれており、親切な見せ方とも思った(笑)。

 だがまなが得た立ち位置とはあの瞬間だけの極めて特異なものでもあった。その特異性故にまなは名無しに目をつけられてしまう。彼女の掌から注ぎ込まれた得体の知れない力、そして「木」の刻印は何を意味するのか。名無しの回想と思しき断片映像も含めて今期独自の縦糸となる物語がようやく本格的に動き出したようである。

 さて次回はダイヤモンド妖怪こと輪入道。5期では妖怪横丁に住む味方妖怪だったため、悪役として鬼太郎との戦いが描かれるのは4期以来になるが、どんな話になるのだろうか。
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2018年06月11日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)11話「日本征服!八百八狸軍団」感想

 6期の鬼太郎は原作漫画や歴代アニメ作品の良い部分を抜き出しながらもかなり挑戦的な作りをしているわけだが、まさかこの話を1クール終盤という早い時期に持ってくるとは思っていなかった。
 言わずと知れた今話の敵、組織だった行動で一時は完全に日本を掌握し、妖怪獣(蛟龍)に大なまずに要石と三つの巨大妖怪を使役しての破壊活動を繰り広げた原作中でも屈指の強敵「八百八狸」である。対する鬼太郎も右目は潰され髪の毛針は使いはたして丸坊主になり、挙句に蛟竜に踏みつぶされ胃から漏れた自分の胃液で蛟竜と一緒に自分も溶けてしまい、ドロドロの状態で大なまずを北極に誘導したはいいものの今度は氷漬けになるという、文字通り満身創痍になりながらもどうにか勝利を収めたというほどの強豪妖怪軍団である。
 原作でもマガジン連載時は最長の中編となり(単独の敵を含めると吸血鬼エリートの方が話数は長い)、歴代アニメでも1期、3期、4期と必ず前後編で敵の脅威と決戦が描かれてきた(5期はそこを描く前に放送終了してしまった)。時の政権や軍事兵器に対する風刺なども込められた一方で上述のシーソーゲーム的決戦の幾末も見どころとなる屈指の人気エピソード、さて6期鬼太郎はどのように料理するのであろうか。

 今話でまず特筆すべきなのは妖怪獣の圧倒的な存在感だろう。元々頭と胴体が一体化したようなものに小さい手足がついているだけという異様な風体の存在だったが、今話では頭部の毛の部分が攻撃をする際にまるで超サイヤ人のように逆立つようになり、攻撃シーン自体の溜めの演出効果もあって、異様であり同時に脅威であるという印象を短い時間で見ている側に強烈に印象付けることに成功している。
 既にネット上では散々言われているが、その妖怪獣の攻撃や逆に攻撃してくる人間側の兵器軍、攻撃によって吹っ飛ぶ町並みや妖怪獣のデザインなどを含め、明らかに「シン・ゴジラ」の影響を受けていると思われる部分が続出していたが、元々この妖怪獣という存在や町を破壊して暴れ回るというシチュエーション自体、ゴジラを始めとする東宝怪獣映画の影響を受けている(原作「妖怪獣」が描かれた時期は所謂第一次怪獣ブームに近い時期)ので、今話がシンゴジの影響を受けるのは原作に準じた正当な話作りの一環と言えなくもない。
 防衛軍もすぐに出動して攻撃するのではなく政府、総理大臣の許可を得るまでは攻撃しないといったリアリスティックな描写も盛り込まれ、現代的な設定や解釈を盛り込んだ6期鬼太郎らしい描写になったと言えるだろう。「責任」を連呼する総理大臣の描写は少しクドイ感じもしたけど。
 対する鬼太郎側はまだ妖怪獣との直接対決はしていないものの、狸側の計略にはまり後手に回ってしまうというのは原作等と同じ流れだった。原作では第2の月が出てきた時点で鬼太郎が自分から動き出していたが、今作の鬼太郎は積極的に動く方ではないからか、まなからの手紙を受け取って初めて八百八狸の存在を知るというのは、まなを今回の事件に介入させるという物語上の意図を考えても良い構成だった。鬼太郎と友人関係になってはいても、それこそ3期のユメコのように直接鬼太郎の元へ行くことができないという今話独自の設定も巧く生きている。
 ねずみ男は例によって狸側について手紙を出そうとしたまなを捕まえてしまうが、これはやはり良くも悪くもドライで真の自由人であるねずみ男の真骨頂と言うべき行動と言うべきだろう。ねずみ男は己の欲望だとか好奇心だとかにどこまでも忠実に従って行動するのみであり、法律はもちろん社会通念とか常識と言ったようなことは彼の行動の制限にはならないのである。前話でガチ惚れしていたまなを今話で狸たちに引き渡せるような、善も悪もなくただ「自由」な男、それがビビビのねずみ男なのだ。前話と続けて見るとそのキャラクター性が非常によく出た好シーンだと思う。
 原作では鬼太郎が受けていた刑部狸の呪いをまなが受けるという改変は、今話の段階ではその改変の意図が表出していないようなので、これは次回に期待と言うところか。

 声優さんに目を向けるとやはり今回初めて声がついた「名無し」役の銀河万丈氏が気になるところか。銀河氏は過去作では3期にのみゲスト声優として人間・妖怪を問わず色々な役を演じてこられたが、今回久々の鬼太郎参加となる。今話では妙な呪文を唱えるだけで終わったし、そもそも名無しがどんな存在なのかまったくわかっていないわけだが、ボス的存在として鬼太郎の前に今後も立ちはだかってほしいものである。
 刑部狸の堀内賢雄氏が今回鬼太郎初参加と言うのはちょっと意外だった一方、団二郎は5期でオカマの狼男ワイルドを演じた高戸靖広氏が、そのワイルドと同じような女装男(狸)の役を演じているのは面白い。

 妖怪獣は暴れ続け、まなは呪いを受けたまま。そして要石を破壊しようとした鬼太郎もまた刑部狸の術にかかり石になってしまう。ねこ娘たち仲間妖怪は未だ八百八狸の住み家に入ることもできない。
 まさに絶体絶命のこの状態、次回でどう解決させどう決着をつけるのか、今から非常に楽しみである。
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2018年06月10日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)10話「消滅!学校の七不思議」感想

 いわゆる学校の怪談というやつが鬼太郎作品で扱われたことはなく、90年代に起きた学校の妖怪ブームが間接的に4期制作に影響を与えた程度なのだが(OPの運動会の背景に学校があったり1話の見上げ入道と戦う場所が小学校だったりと)、今回初めてがっつり「学校の怪談」を鬼太郎作品で扱うこととなった。
 代表的な例であるトイレの花子さんにしたところで有名になったのが80年代、即ち約40年前なのだから、現代日本において生まれた妖怪的怪異と看做すには十分な時間が経ったと考えるべきなのだろう。
 しかし出来上がったストーリーは一見すればわかるとおり学校の怪談をモチーフにした怪奇調の話ではまったくなく、前話のようなコメディ調とも異なる純然なギャグタッチの話として仕上がっていた。この辺は怖さだけでなく人間のような俗っぽさを内包している水木作品の世界観を忠実に踏襲していると言え、前述のとおり原作の存在しない完全オリジナルの話ではあるものの、これまでの話や世界観から大きく逸脱しているわけでないところに、今回の制作陣の作品世界に対する正確な理解と表現度の高さが感じられて良い。
 花子さん始めやたらとアナクロな七不思議ネタが登場するのも現代妖怪の代表格として有名どころ?を用意したというところなのだろうが、その中で今回の敵妖怪であるヨースケくんの存在はまったく知らなかったので却って異質な存在に見えるのが面白かった(実際はその内面が異質、というより鏡じじいとは別ベクトルの変態だったわけだが)。
 ヨースケくんの知名度は僕にはわからないが恐らくメインターゲットである子供さんにはそれなりに有名なのだろうし、そこを考えると親子揃って見る(はずの)作品である鬼太郎の登場キャラクターとしては「親世代」「子世代」それぞれに通じるネタとして隙のないキャラ編成を組んだ、と言えるのかもしれない。

 とかまあ小難しいことを書いてはいるが、今話は結局のところまなやねこ娘、それにゲストキャラの花子さんの可愛らしさにやられていればそれでいいのではなかろうか。
 特にこれまではほとんど美少女ぶりがフィーチャーされてこなかったまなは、その分のフラストレーションをスタッフが爆発させたかのように可愛らしさを発揮、ねずみ男やぬりかべを無自覚にたらし込むという小悪魔ぶりを発揮していた。そう言えば人間レギュラーキャラの筆頭格である3期のユメコもねずみ男だけでなく鏡じじいや枕がえし、朱の盤までたらしこんでいたっけな。ちなみにまなに惚れてしまったねずみ男をロリコン呼ばわりする向きも一部にあるようだが、奴は300年間生きているので奴からすれば80過ぎのババアも年齢的には「幼女」になってしまうから、今更10代の少女に惚れても何の問題もないのである。
 今回鬼太郎の代わりに妖怪退治を担ったねこ娘はまなの言うとおりのカッコよさを見せたが、そんなねこ娘が「娘」としての面を見せるのが鬼太郎の前でだけ、しかもあからさまでなく内に秘める形でというのもなかなかレベルが高い。いきなりタオル一枚の姿で登場した花子さんも含め、鬼太郎という作品でこうも多様な魅力を持つ女の子をいっぺんに見ることができるとは、ある意味これが今話における最も原作を超えたオリジナリティあふれる部分だったのかもしれない。
 …なんか鬼太郎の感想で書く内容じゃないなあ、これ(笑)。
 個人的にはカビまみれになったりどくだみ草やらタンポポをプレゼントしようとしてあっさり破局を迎えたねずみ男も面白かったけど。

 さて次回はこんなのんびりした空気を吹き飛ばすような強敵が登場。原作でも歴代作品でも鬼太郎がギリギリの戦いを繰り広げてようやく勝利した刑部狸率いる八百八狸軍団。6期鬼太郎はこの話をどのように料理するのだろうか。
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2018年05月27日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)9話「河童の働き方改革」感想

 前話の感想ですっかり書くのを忘れてしまっていたが、鏡じじいの担当声優が塩屋浩三氏だったのでラストで子泣きと酒を飲んでいる姿が「4期と6期の子泣きの共演」とも取れて楽しかったし懐かしかったなあ。と、それだけ。

 で今話の鬼太郎は登場する妖怪としては河童といそがしになるのだが、妖怪退治が主眼ではなく妖怪と人間とが織りなす悲喜劇の方に重点が置かれていた。前話で鏡じじいが敵役かと思いきやがしゃどくろが出てきたように、わざわざサブタイトルにも「河童」と入れているにもかかわらず公式の前情報ではいそがしが唐突に紹介されたので、今回もいそがしが敵役の立場になるのではと思ってしまうところをそうさせないあたり、これまでの例に漏れず視聴者の思い込みを逆手に取った構成を組んでいるのだと感心させられる。
 個人的にはいそがしがかつて活動していたのが「10年ほど前」というところに、5期でいそがしが登場した89話の放送年を思わせてくれたり、鬼太郎の情報をネットに流して大量に依頼を募集するねずみ男の様子は、鬼太郎家に大量の電話(!)を引いて依頼を取ろうとした3期49話を想起させたりと過去作を意識したのかと思わせてくれるような描写が気に入ってしまったのだが、それを抜きにしても十分楽しい内容だった。
 ブラック企業という明確なテーマが存在している点で今話は7話と同様と言えるが、恐怖で彩った7話と違い今話は終始コメディタッチを貫いており、同じテーマを扱うにしても風刺の仕方にはこれだけ幅を持たせられるのだということがよくわかる好例と言えるだろう。
 ただどちらかと言えば今回はブラック企業と言うよりは、その企業に翻弄される労働者・サラリーマンの方に主眼を置いた構成になっており、水木漫画の「サラリーマン死神」シリーズを例に挙げるまでもなく、サラリーマンの悲哀というやつは鬼太郎世界に元々マッチしているものなのかもしれない(言うまでもないが2期の死神関連作や5期35話の元ネタでもある)。
 PCの前で働く河童たちも人間臭いなどと生易しいものではなく、モロに(追い込まれていく)サラリーマンそのもののように描かれているのがいかにも水木世界らしい。遠野の池で暮らしていた頃の朴訥さが消えていき、知識を経て賃上げ交渉にまで出張って行くその様は、まさしく目玉親父の言った「心を亡くした」姿でもあり、我が身を顧みて痛々しさを覚えた大人もいたのではないだろうか。

 最終的にその河童たちも社長に対し反乱、というか反抗し出すのは、前半で人間の部下が社長に反抗していたところを思い返すと、文字通りまったく同じ事の繰り返しになっていて、人間と妖怪が全く異なる存在ではないと訴えてくるこの構成は5話のかみなりの描写に近いものがあるが、こんな形で人間と妖怪の同質な面を見せつけられるのは鬼太郎でなくともたまったものではないだろう。妖怪と人間が近づくということはこんな情けないザマを互いに見せつけ合う結果になってしまうのかもしれない。
 ただ人間だったらそこで泣き寝入りしてしまうようなところを、河童たちは尻子玉を引っこ抜くという手段で応戦する。駆けつけた鬼太郎はおろか器物が基のぬりかべや一旦木綿までやられてしまうのは少々コメディ要素が過ぎるのではとも思えるが、あまり人間相手の尻子玉抜きを繰り返すと生々しすぎるのでこのくらいで線を引いておいた方が良いのかもしれない。
 いそがしの力を使った鬼太郎に河童たちは抑え込まれ、彼らの先頭に立っていた太郎丸も弟の説得で故郷に戻ることを決める。そのやり取りを聞いていた社長が今度はいきなりスローライフに目覚めて家族に呆れられ、結局ほどほどが一番というこれまた水木漫画らしいオチで今話は締めくくられるのだった。

 他に今話の特筆点と言えば4期5期に参加していた信実節子氏が作画監督として6期に初参加したという点か。丸っこくて大きい目が特徴で且つ戦闘シーンでもさほど崩れずよく動くという魅力的な作画をしていた人だが、今話の場合は…。尻子玉を戻された時の鬼太郎の表情とか面白かったでしょ?(笑)

 次回はねこ娘とまながメイン?になっての「学校七不思議」回とのこと。鬼太郎で七不思議と言ったら3期最終回で生かされた本所七不思議の諸要素が思い出されるが、今回は勿論まったく別のものになるだろうし、何より6期を代表する要素である「まな」と「ねこ娘」のコンビがメインになるようなので、今から楽しみである。
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2018年05月26日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)8話「驚異!鏡じじいの計略」感想

 今回登場する妖怪は鏡じじい。と言っても今話のトピックスとして注目されているのは久しぶりに登場するまなや今回初登場のまなの母親のようで、何と言ってよいやら(笑)。まあ公式からしてそちらを推している風なのはまるわかりなので、これも今期の特色と捉えるべきなのだろう。
 そんな感じで始まる前から存在感が乏しくなってしまった鏡じじい、原作からして美少女の姿を盗み鏡の世界に閉じ込めて、怖がり悲しむ少女の姿を見ていひひと笑うエッチなやつとして描かれているが、アニメの方では美少女こそ毎回絡むものの、原作に比較的忠実に作られた1期版を除いてあまり変態的に描かれることはない。直近の登場作である5期劇場版「日本爆裂!」では歴代随一とも言える鏡の妖術使いとして鬼太郎を苦戦させ、紆余曲折ありながらも最後にはヤトノカミとの決戦で鬼太郎に協力するというおいしい役どころだった(個人的にはパチスロ版「ブラック鬼太郎の野望」も覚えておきたいところだけど)。

 そんな歴代作での活躍から一転して、今回登場の鏡じじいは「初恋の人に似た少女を鏡の中から見つめ続けるコミュ障っぽいじじい」という、ある意味では原作以上に変態度合いの増した妖怪となってしまった。原作のキャラ設定を現代的に翻案したと考えればさほど違和感がないあたりがなんともはやというところなのだけども。
 勿論ただの変態と言うだけではなく、気に入ってしまったまなを見つめ続けるうち、まなが別の凶悪妖怪であるがしゃどくろに狙われていることに気づき、まなを助けるために奔走するという好漢の一面も持っているのだが、前述の性格や行為によるキモさが彼の良い面を完全に打ち消してしまっているのは、笑っていいのかどうなのか。
 今話は前半は謎の妖怪にまなの友人が襲われたりまな自身がつけ狙われたりと言った恐怖描写、後半が鬼太郎たちの妖怪退治描写とかなり明確に分かれており、オーソドックスな妖怪退治ものに終始した作りとなっている。捻ったストーリー構成や社会風刺の利いていた6、7話あたりと比べると物足りなさを感じてしまう向きもあるかもしれないが、今話はあくまでまなを含むレギュラー陣によるキャラクター主体の物語であって、どちらが優れているかと言った甲乙つけられる類の話ではないので、鬼太郎たちの活躍に素直に見入るべきだろう。5期版を想起させるねこ娘と黒猫との会話シーンや、6話と同一個体かは不明なもののチラッとすねこすりが再登場したりといったファンサービス的描写もその一環と言える。
 …まあ人によってはそれこそ怯えるまなや初登場(の割に出番は少なかったが)のまなママさんに見入るのだろうが、それもまた一つの視聴の仕方ではある。その意味では公式の推し方もやはり正しいのだ。
 ただ今回も6期ならではの捻った演出が施されており、物語上の単調さを回避しているのはさすがというところだろう。前半のまなが不可思議な何かに追い詰められていく時、視聴者としてはサブタイにもなっているのだから当然鏡じじいが何かをしているのだろうと思うのだが、一度視聴した上で改めて見返してみるとこの場面の視点は所謂「神の視点」としてすべてを俯瞰しているのではなく、まなに対する外的焦点化として演出されていることがわかる。
 だからこっちもそのブラフに簡単に引っかかってしまうわけだが、6話もだがそのブラフのかけ方が今作は実に巧妙で、特に今期は2018年現在の作品である以上、鏡じじいと言う妖怪が原作ではどんなキャラでアニメ版でもどんな扱いだったかと言ったことは視聴者もすぐに調べられるわけで、その上で美少女であるまなと絡むとなればまあ鏡じじいが何かをやらかすのだろうと思い込んで見始める視聴者も少なくないと思われ、そんな視聴者の思考をも逆手に取ったかなりグレードの高い演出が本作でほぼ毎回成されていることにはもっと注目すべきだろう。

 前述の通りまなを襲おうとしていた妖怪は鏡じじいではなくがしゃどくろであり、鏡じじいはがしゃどくろからまなを守ろうとして鏡の世界に連れ込んだのだった。がしゃどくろと言えばアニメでは3期以降毎回ゲストの敵妖怪として何らかの形で登場してきているが、今回は第3期劇場版4作目や第4期のように人語も話さず、自分の封印を解いた人間をひたすら襲い来る意思疎通ができなさそうな怪物然としたスタイルで攻めてくる。
 実は前半でまなを襲いまなが怯えていたのもがしゃどくろに対してだったのであるが、見せ方としては前述のとおり外的焦点化視点の演出となっていたため視聴者としては気づくことなく、終盤になって初めてわかる構成になっている。
 目からレーザー状の光線を放つという今期のがしゃどくろはアクション重視の3期っぽい改変であるが、今回のバトルフィールドは鏡の世界という異世界だけに、少々派手なアクションを繰り広げても人間の世界には影響が出ないということで演出する側も羽目を外してみたのかもしれない。
 まなを光線で狙ってきたその瞬間を逆手にとって鏡で光線をはね返す鏡じじいもまなを救うカッコよさと、あくまで眼中にあるのはまなだけでピンチに陥っている鬼太郎たちには目もくれないというキモさが両立していて楽しいし、まなも助けに現れた鬼太郎にではなくねこ娘に抱きついたりと、これまでの話で培ってきたキャラクター性がきちんと生かされている丁寧な作りになっている。
 そして事件は解決しつつも結局女好きのキモい奴ということで終わった鏡じじいを前に、「ああはなってくれるなよ」と鬼太郎に伝える目玉親父、とオチもこれまでにないコメディタッチでつけられ、図らずも原作の持つとぼけた味わいを再現した形で幕となった。
 これもまた、と言うよりこういうとぼけた味わいこそがゲゲゲの鬼太郎という作品の真骨頂であり、前話のように強烈な印象を見る者に残す挿話ではないかもしれないが、本作を見る上で忘れてはならない「鬼太郎らしさ」の一つであることは疑いない。

 次回は河童の三平…ではなく普通の河童の話。河童がメインの話は原作にもアニメ版にもさほどなく、ほぼアニメオリジナルの話になると思われるが、ストレートに現代的なサブタイトルは何を意味しているのであろうか。
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2018年05月22日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)7話「幽霊電車」感想

 さて幽霊電車である。原作は「ゆうれい電車」としてマガジン版初期に掲載、歴代アニメ作品でも1期の直接の続編である2期を例外として、それ以外の4作ですべてアニメ化されており(1期「ゆうれい電車」、3期「地獄行!幽霊電車!」、4期「霊園行・幽霊電車!」、5期「ゆうれい電車 あの世行き」)、原作ファンにもアニメファンにも高い認知度を誇る人気作と考えていいだろう。
 身勝手な人間が鬼太郎の霊力によって様々な怪現象に出会い、最終的に因果応報な目に合うというのが原作漫画の骨子であるが、今日的な視点で見るとさすがに恐怖描写が弱いと言わざるを得ない部分もいくつか見られるためか、3期以降は何かしらの味付けを施した上でアニメ化するというのが定番となっており、本作第6期鬼太郎もそれに倣う形でのアニメ化が試みられている。
 本作におけるアニメ化時の味付けは一見すればすぐわかるとおり「恐怖」である。何をいまさら元からそうじゃんというツッコミもあるかもしれないが、前述のとおり原作の「ゆうれい電車」は確かに人間たちを脅かす話ではあるものの、今の目で見るとホラーテイストと言うよりはお化け屋敷的な虚仮威かしとも取れ、脅かす鬼太郎も「この鬼太郎さまが霊力でおどかしてやったのさ」、脅かされた人間も「ひゃあ、た、助けてえ」と叫んで逃げていくというノリで、あまり現代的な怖さは感じられない内容になってしまっている。それが時代のせいなのかそれとも掲載誌の関係で露骨な恐怖描写を抑えたのかは今となっては定かでないが。
 (どちらかと言えばその虚仮威かしの後に来る「因果応報」が主であったり、そもそも「不思議な電車に乗っているうちに異界へと到達してしまう」というシチュエーションを恐怖の中心に据えている面も窺えたりするのだけども。)

 その今となっては物足りないと思われる「恐怖」の部分に現代的な解釈や設定を付加してブラッシュアップしてみせたのが今作における幽霊電車なのだが、方法論自体は今回で初めてというわけではなく、5期版にて初めて導入されたものである。もっと言えば「怖い代物が出てきてワッと脅かす」直接的な恐怖ではなく、ストーリーや設定、伏線を積み上げそれらの関係性を終盤明らかにすることで恐怖を感じさせる、怪談噺のような文学的趣向が用いられているのも5期版からになっている。
 原作のストレートなアニメ化だけでは容易に怖がらせにくくなっている現実を踏まえた上でも、原作の味を残しつつ怖い作品に仕上げようとしている制作陣の苦心が察せられるが、それだけに今話も一筋縄ではいかない捻りの利いた物語展開で見る者の恐怖感を実にうまく煽っていく。
 原作には全くない人死に描写があったり、死人が自分の死に気づいていないというのも実は5期と同様なのだが、今話ではさらに捻って幽霊電車に乗ってしまう会社社長と部下の2人組のうち、部下だけでなく格上の社長の方も実は既に死んでおり(つまり2人とも既に死んでいる)、幽霊電車に直接かかわったキャラクターが全員「人間でない」存在だったということが、物語が進むにつれて明らかになる。
 冒頭で登場した女子高生が目撃した電車への飛び込み事故の当事者が社長だったわけだが、その事故もアバンの段階では当事者が社長であることが判明しておらず女子高生が何を目撃したのかも視聴者にはわからない、と言うよりわからせていない。その上で今話のストーリー上の重要な要素を段階的に見せていきつつ数々の恐怖描写で2人組(実際は1人だけなのだが)を驚かせていき、最終的に電車事故を伏線としてきちんと回収するという今期ならではの特徴的なストーリーテリングは相変わらず秀逸だ。電車を飛び下りる原作準拠の描写を混ぜながらもそこで終わらせない捻り具合も面白い。
 脅かされる側の社長も最初は原作準拠の居丈高な男という人物像かと思いきや、所謂「ブラック企業」の社長でこれまでに幾人もの社員を苦しめ破滅させてきたという、たくさんの恨みを買ってきた人間だった。冒頭のアバンで電車に轢かれ死んでしまったのも単なる事故ではなく、その積もり積もった恨みの念によって突き落とされ命を失ったのである。しかし当人は自分が死んだという事実を受け入れずこの世に留まり続けたため、部下を始めとするたくさんの死人が幽霊電車という形を使って改めて行動を起こしたのだった。鬼太郎はその手助けをしたに過ぎなかったのである。つまり原作と違い今話の2人組は鬼太郎と直接は関係なく、その意味では今話の鬼太郎は前話と同様に傍観者的立場に徹していたとも言える。
 すべてを思い出し地獄へ引きずり込まれるだけとなった社長はそれでも抵抗し助けてくれと懇願するが、鬼太郎は「(社長自身に)そう言ってきた人たちを今までに助けたことがあるか」と突き放す。ここで序盤に鬼太郎も触れた「因果応報」が繋がってくるわけだが、この感想の最初でも触れたとおり、原作もそもそもは因果応報の話である。尤も原作は鬼太郎が2人組に付けられたものと同じ大きさのたんこぶをつけ返すという程度であったが、単に恐怖体験をしたという話ではなくその果てに自分のしたことがそのまま自分に返ってきてしまうという点こそが「ゆうれい電車」という話の肝なのだ(余談だが、だからかつて水木先生はその因果応報のインパクトが薄れる結果となった3期版の構成に不満を持ったのだろう)。
 原作を巧くブラッシュアップした演出であるが、ここからさらに今話は独自の味付けを施す。社長はなおも食い下がり鬼太郎に向けて「それでも人間か!」と叫ぶが、鬼太郎は事もなげに言い返す。「僕は人間じゃありません」と。勿論鬼太郎は人間ではないのだから当然と言えば当然の返事なのだが、この応答に込められているものはそれだけではないようにも感じられる。
 鬼太郎は「妖怪」ではなく「人間ではない」と言った。では社長は?確かに今は死人だが死ぬ前は果たして人間だったのか。助けを求める社長の声を無視した鬼太郎の行為を非人間的行為と言うなら、それは社長自身にもあてはまることではないか。多くの人を自死に追いやるような非人道的な人間は本当に「人間」と言えるのか。彼は高圧的で独善的でそれでいて自分大事という、ある意味では人間らしい人間だった。だが同時に自分を殺してしまうほどの恨みの想念を向けられていた時点で彼は「人間ではない」ものに成り下がっていたのではないか。そこには皮肉と言う言葉で言い切れないほどの深い闇が横たわっているのではないだろうか。
 そしてそれは最後、社長が死ぬ瞬間を目撃してしまった冒頭の女子高生にものしかかる。鬼太郎は最後に人間が人間を殺し、その恨みが人間を殺す、堂々巡りのような救いのない負の循環と言うべきものを繰り返す人間を「妖怪より恐ろしい」と言い切る。
 社長も女子高生もまぎれもなく人間でありそれ以外のものではない。だから鬼太郎も今回の事件を人間が人間の社会・集団の中で起こした事件と断言した。しかし同時にその負の循環を続ける存在を鬼太郎はどんな風に見やっていたのか。少なくともこれまでの話の中で出会ったまなや裕太のような人間と同類とは思っていなかったろう。
 今話は妖怪がほぼ関与しない、どこまでも人間が生み出した救いのない話だという感想が大勢だろうし、スタッフもそういう意図を多分に込めて作ったのだろうが、今話に登場した「人間」たちはそんな制作陣の意図を超えた異質な存在になったのではないかと思えるし、そういう力を第6期ゲゲゲの鬼太郎という作品が原作どおりに内包しているという事実が嬉しい。それをはっきり認知することができるという意味でも今回の話は今作の中で特殊な存在となり得るのかもしれない。

 あとすごい個人的には「骨壺」が原作どおり「ほねつぼ」読みになっていたのが嬉しかった。5期版では「こつつぼ」になっており恐らくこっちの方が読みとしては正しいのだろうが、やっぱりあそこはほねつぼじゃないとねえ。ねこ娘の声出しはちょっと無理してる感ありつつ可愛らしくもあったけど。

 で、次回は鏡じじい。原作設定からして根っからのエッチな爺さんである鏡じじいが久々登場のまなとどんな風に絡むのか。
posted by 銀河満月 at 16:05| Comment(0) | ゲゲゲの鬼太郎(第6期)感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする