本日はプロ野球のオールスター中継のため、アニメドラの放送がない。だからってわけではないが、リニュ版ドラに関連した自分の意見やらを少しまとめてみようと思う。
さてリニュ版ドラが放送開始して、早三ヶ月ほど経ったわけだけど、視聴者はどんな感じを抱いているのだろうか?と言ってもこんな自問、すべての視聴者に聞いて回ることが出来ない以上、するだけ無意味ではあるのだが。
なので、とりあえずはネット上で散見できる意見に少し耳を傾けてみることにしていた。無論ネット上の意見と視聴者全体の意見がトートロジーとして結ばれるわけではないが、ある程度の参考や指標にはなるだろう。そんな気持ちでこの三ヶ月、色々なサイトやブログでリニュ版ドラについての意見を見て回ったわけだ。
で、三ヶ月見て回った感想は、この一言に尽きる。
「全然参考にならない」 もちろん一部の人たちは極めて理性的に、作品そのものを客観的に評価している。それ故の意見であるならば、肯定であろうと否定であろうと是認できるものなのだが、大多数の人間、特に「否定派」を自称している人間たちの意見は、まったく聞く価値のないものばかりなのである。
例を挙げればこんな感じだ。
「絵が
『前と』違う」
「声が
『前と』違う」
「音楽が
『前と』違う」
「雰囲気が
『前と』違う」
etc・・・
なんかすごいよね。よくもまあここまで「前作」との単純比較だけで作品の相対的な評価を決めたつもりになれるもんだ。特撮マニアの中で「ウルトラマンに比べるとウルトラマンネクサスはつまらん!」なんて言ってみたら、文句の袋叩きにあうこと間違いなし。それほどの暴論である。
そもそも作品に対する基本理念や周囲の環境、時代背景だってまったく異なる2つの作品を、強引に同列に並べて比較すること自体、普通は出来ないことだし、議論の場でやってはいけないことだ。もし実生活でそんなことしたら単なる恥さらしになるので注意するようにした方がいい。しかし彼らの頭ではそれが正しい論法としてまかり通っているのだ。
こんな意見がネット上で大勢を占めているのだから、もし知らない人が見たら「ドラファンってこんなにバカなのか」と思っても仕方がないだろう。それほどの状況なのである。
無論作品に色んな感想を抱くこと自体は、個人の自由である。たまたまぱっと見たリニュ版ドラに違和感を感じ、その気持ちをそのまま掲示板やらブログやらに書くことは決しておかしなことではない。
しかし仮にも議論を吹っかけてくるような輩が、持論を寸分の変更もすることなく、三ヶ月も色んな掲示板にまったく同じ主張を書きまくる行為は、僕には異常な行為にしか見えない。そういう人間に限って上記のように論拠が極めて無茶苦茶なんで、読んでいるだけで辛くなる。
さらにその種の人間は、自分の意見に否定的な意見に対して、聞く耳を持っていないかのような行動を取ることが多い。賛同意見だけ相手にし、否定的意見は一切聞こうとしない。いいか悪いか、思考が単純な二元論で凝り固まっているのである。相手の言い分をいくらかは認める柔軟さが微塵も感じられない。恐らくは僕よりも若いであろう人間が、そんなガチガチの反応をするのだから、もう驚くしかない。
なぜこのような考え方をする人間が多いのか、それは僕には分からない。原作を知っていようといまいと、そういう反応をする人間がいるわけなので、単にアニメしか見ていないからと言う理由ではないらしい。
ただその種の人間に限って、やたらと自分のマニア振りを喧伝する癖があるようなので、ドラファンになっているのももしかしたら、作品が純粋に好きなのではなく、自己顕示欲発露のための手段の一つなのかもしれない。あくまで推測だけど。
ただこのような兆候は以前からあった。具体的に言えばF先生がなくなった96年以降、ドラグッズが乱立するようになってから、グッズだけを買って作品を知った気になっている「にわかファン」が増えてきた。そうでなければあれほどにドラグッズが浸透はしまい。
そのような状態に、僕は以前から漠然とした不安を抱いていたのだが、ここに来てその不安が明確に形となった感じだ。
断言すれば、ドラえもんと言う作品は藤子・F・不二雄の描いた漫画作品がすべてである。それ以外の物は単なる派生物、原作の引き立て役に過ぎない。アニメとて無論例外ではないのだ。この理屈は別にドラに限ったことではなく、すべての漫画に共通した真理である。アニメ化企画が先行でもしていない限りは、すべての原作付きアニメ作品は原作漫画の宣伝材料に過ぎないのである。
しかしアニメドラはそう言った基本的な素養を超えた存在として、世間に認知されている。これはもちろん、往時のアニメドラが極めて優れた「原作付きアニメ」であったからに他ならないのだが、そういったことを知らない世代が、単に現代のアニメドラ(と言うか大山時代のドラ)を見て、大山ドラを必要以上に持ち上げて神格化し、そんな大山ドラを愛好している自分を「マニア」と自称して自惚れる。原作すらろくに知らず、大山ドラを無批判に持ち上げることしかしない人間が、マニアの振りして現在のリニュ版ドラを批判する。これを愚かな行為と言わずして何と言おうか。
元来、ドラえもんと言う作品は作者の死と共に終わった作品である。とっくにその寿命は尽きている。今はそれを無理して延命させているに過ぎない。
延命行為そのものは別に否定されるものではない。しかしアニメドラの場合はその延命措置にあまりにも不手際が多すぎた。だからこそこんな問題が今になって噴出しているのだろう。
考えても見て欲しい。リニュ版ドラを見て「面白かった」と思う人がいたとする。そんな人が単純な感想を掲示板に書き込む。すると間髪いれずに「大山ドラと比べると云々」という否定的レスが返ってくる。こんなことを毎週毎週続けられたら、誰だって嫌になるだろう。
はっきり言って「ファン」「マニア」を名乗る人間のレベルが低いと言わざるを得ない。
僕個人の考えを言えば、アニメドラはもう終わるべきだと以前から思っていた。そして残念ながら、この考えは今も基本的に変わらない。
新たな原作が登場しない以上、アニメをやることである程度認知度を保つことが出来るという意見ももちろん理解できるし、賛同するのだが、同時にあのようなにわかファンばかりを増産することになるのなら、いっそすべてをリセットしてしまえばいいと考えている。
ドラえもんは既に終わった作品である。アニメも終了すれば世間的にも完全に「終わった作品」として認知されるだろう。そうなれば、ファンと名乗ることを自らの売名行為程度にしか考えていない(しかもそれを自分で気づいていない)連中は離れていくだろう。既に終わった作品を愛好することは、予想する以上に大変なことだからだ。
そうすれば、ドラの「ファン」人口が減る中で、原作漫画を読んで純粋にドラえもんと言う作品を愛してくれる一握りの人間が、いつか必ずどこからか生まれてくることだろう。そういう人間をこそ「ファン」と呼ぶべきなのではないか。
ドラえもんと言う作品はもはや、安易に時流に乗ってファンになれるような作品ではなくなっているのだ。
「ハロー宇宙人」でドラえもんは、進化し始めた火星のカビをさらに劇的に進化させるため、地表を乾燥させて大多数のカビを枯れさせている。しかしその中から水を求めて動き回ることの出来る新種が誕生した。
我々も今、同じようなことをしなければならないのではないか。あまりにも「ファン」が増えすぎたが故の現在の惨状、早急に改善する必要があるだろう。