まずは「のび太の恐竜2006」の話。公開当初は一応ネタバレに配慮して、具体的な感想を述べなかったので、今回はその後に判明したことも考慮したうえで、感想を並べていくことにしよう。
まず始めに断言しておくと、僕はこの「恐竜2006」、好意的な評価はしていない。
劇中で恐らく観客に笑ってもらおうとして挿入されていたシーンがいくつかあったものの、すべてにおいて僕が笑うことが出来なかったのは、まあジェネレーションギャップだろうと考えるとして、それを差し引いてもあまりにも今回の映画はマイナスポイントが大きすぎた。
多くはない。しかし1つ1つの失点がでかすぎるのである。
今回の映画、確かにアニメ映画としてはかなり面白かった。キャラの動き1つ取ってみても、まるで本当に生きているかのように絶えず体のどこかを動かしているようで、「二次元の世界で三次元的世界を描出する」というのがアニメーションの原初とするなら、所謂目パチ・口パクだけではない、キャラの細やかな動きは、「アニメ映画」の原点に立ち返ったと言えなくもない。
原作では特に重視されていなかった「あたたかい目」を繰り返し使用していた点も、子供たちの笑いを取ることにはまず成功していたし、何より「あたたかい目」の連続使用が、ラストシーンでの真なる意味での「あたたかい目」に繋がる、という伏線演出には、素直に感心させられた。
アングルもかなり拘っており、特に黒い男がのび太の部屋に姿を現すシーンの、畏怖感を与える演出は絶品と言っていいだろう。
クライマックスで恐竜ハンター基地から脱出する際、残り4人をドラのポケットの中に入れて脱出すると言う、歴代作ではあえて避けられていた演出を盛り込んでいるのも、まあそのすぐ後の「道具も全てなくなった」というドラの言葉とつなぎ合わせれば、それほどまでの状況だったと言う解釈が成り立つだろうから、あまり目くじらを立てるものではない。
映画オリジナルであったのび太とパパの会話シーンも、原作ではパパがほとんど目立っていないだけに印象的だった。
ちなみにパパがいじっていた「卵の中から恐竜が飛び出すおもちゃ」のモデルは、88年に出ていた「エッ?グッ!」という玩具。僕もゴジラとモスラの分だけ持っていたな。
とまあ、良い点を色々書いてみたものの、これはあくまで単体の「アニメ映画」として見た場合の話である。
しかし「ドラえもん」と言うブランド名を冠するアニメとしてはどうだったか。25年続いたアニメのブランドではない。70年に始まった「藤子・F・不二雄のドラえもん」として、一体どんな出来栄えだったのかということが、一番重要なことである。
それは当然であろう。この映画は他でもない、「ドラえもん」なのだから。
そう思って見てみると、かなり思い切った原作の改変が成されている。
まず気になるのは白亜紀についたばかりの最初の夜、ドラが4人に「昔という時間」について語るシーンが、ごっそり省かれていたことだ。
ドラえもんと言う作品は、別に時間をテーマにした作品ではない。しかし同時に「時間」は作品内での重要なファクターであり、常に意識されるべき存在であることは、今更言うまでもないだろう。
言葉の上で「一億年前にやってきた」と言ったところで、現実問題として実感できるものではない。それは劇中の登場人物だけでなく、読んでいる読者とて同じことである。だからこそF先生は、自分たちが今生きている時間を起点として、そこから順にさかのぼり、やがて一億年前と言う時間軸に到達するまでを丁寧に解説し、読者を作品世界に容易に誘うための一助としたのだ。
そのあたりの細やかな配慮を無視するのは、様々な冒険の見せ場を重視したと言う点では、間違った方法論ではない。しかし原作重視の作品を謳っている割には、少し原作者にとって失礼な話ではないだろうか。
あとは、これはいつもの渡辺歩演出に見られることだが、意図不明なギャグシーンが多すぎる。
きびだんごを食べた時の恐竜の目がギャグ顔になるのは、まあ「食べる前→食べた後」を明確に見せるための視覚効果として納得できなくもないのだが、「ドルマンスタインのかつら」シーンは、はっきり言って何でこんな設定にしたのかまったくわからない。
渡辺氏曰く、「ただ怖いだけだと子供がついてこれないと思い、このような描写を盛り込んだ」とのことであるが、それははっきり言って余計な気遣いである。
悪を悪としてきちんと描写できていない作品のどこに、「善と悪が戦い、善が勝つ」というカタルシスが生まれようか。
黒服の男に関してはかなりきちんとした悪人描写をしていただけに、件のかつらシーン以降、悪連中の急速な矮小化が始まってしまい、正直情けなかった。
この「悪を悪としてきちんと最後まで描写できない」あたりに、渡辺演出の照れと言うか、限界が垣間見えるように思う。
一番問題なのはラストのシークエンスだろう。
ドラが道具を全部なくしてしまったなどという、ご都合主義的展開のことではない。5人が結局自分達の力で目的地まで到達してしまうことが、最大の問題なのである。
歴代の大長編ドラを振り返ると、驚くほどに「終盤で5人がピンチに陥り、そこへ第三者の救援が入る」という展開が多いことに気づく。
F先生はかつて「鉄人兵団」の中で、タイムマシンで過去を改変すると言う終盤の展開を「安易な展開にしてしまった。僕は頭が悪いね」などと、半分冗談、半分自嘲気味に解説したことがあったが、僕はこのような措置を、日常と非日常を乖離させすぎないためのものとして、作者が意図的に盛り込んだものと考える。
そもそも例え大長編の中で何が起ころうとも、ドラたち5人の立ち位置は基本的に変わらない。ただ本編の時よりもほんの少しだけ、なけなしの勇気を振り絞って、様々な冒険に挑戦していくのだ。
しかし勇気を持つだけでは人はスーパーヒーローにはなれない。いくらやる気があったからといって、急に今まで出来なかったことが出来るようにはならないのだ。
だからこそ5人は結局コア破壊装置を自力で止めることは叶わなかったし、水中バギーと言う犠牲を払わなければポセイドンを破壊することは出来なかった。ドラミと言う予想外の助っ人のおかげで魔法世界を救うことが出来たのだし、巨大隕石と言う乱入者が現れなければ、地底人との諍いを収めることは出来なかったのである。
いわばのび太達5人が、自分たちで出来る限り頑張りぬき、その頑張りぬいた5人に対する「ご褒美」のようなものとして、奇跡的な展開が終盤に起こってきたのである。
大長編と言えど、基本的に本編世界の日常で暮らしている5人は、決してオールマイティにはなりえないし、なってはならない。決して5人までも非日常的存在になってはならないのだ。
それは原作者が最後まで頑なに守り通した、本編と大長編の越えてはならない一線であった。
それをこの映画ではあっさり突き崩してしまった。大山ドラ映画の末期あたりによく見られた「のび太のスーパーヒーロー化」が、主役の5人全員にまで波及してしまったわけである。
これで原作重視などとよく言ったものだ。そう言わざるを得ない。
挙句には、エンディングタイトルロールに原作のコマを持ってくるという暴挙まで行われてしまった。
こちらでのインタビューによると、最晩年のF先生がおっしゃっていた「(このマンガのジャンルを)ペンペン草が生えないほどに書き尽くしてみたい」という言葉を受けて、「まだペンペン草は生えていた」という意味を込めた、と言うことのようだが、自分の作ったアニメの中で最後を描くことを放棄しておいて、「まだペンペン草が生えていた」などと、一体どの口で言っているのだろうか。
そういうセリフは、最後の最後まできちんと作り上げたアニメ製作者が言えるセリフである。原作回帰という言葉で、アニメ映画のエンドタイトルバックに原作を持ってきて、「自分自身でエンディングを演出する」という行為を放棄した人間の言うセリフではないだろう。
あのシーンで原作のラスト2ページを出せば、感動しない人間はほぼいないだろう。そういう姑息な計算が多分に働いていたとしか思えない。
この「恐竜2006」、興行的には成功しているとのことだが、ま、それは必然の結果だろう。十分な準備期間と優秀なスタッフ(これは皮肉でもなんでもなく、本当に間違いない)が揃って完成した映画、失敗しろと言う方が無理な話である。
しかしこの映画は残念ながら、「ドラえもんの映画」とは言い難い物になってしまった。
これは良くも悪くも「渡辺歩の映画」であり、それ以上でもそれ以下でもない。
渡辺歩氏1人に依存しきってしまったかのような今回のドラ映画。来年以降はどのような道を歩くことになるのだろうか。