去年の4月、華々しく?放送が開始されたリニューアル版のアニメドラえもんも、今月でちょうど1周年を向かえ、現在2年目の放送期間を邁進中である。
しかしもちろん、この1年はリニュ版ドラにとって、とても順風満帆と言えるものではなかった。
アニメ化作品のセレクトは、基本的に原作初期の70年代後半から、中期の80年代前半の作品に終始しており、80年代後半から90年代前半の作品は、ほとんど選ばれていない。
まあこれは、原作者自身が乗りに乗っていた時期に書かれた作品群であるから、アニメ化する際にそれほどの労力を費やさずとも、面白い作品が出来上がると言う算段も働いているのだろう。
視聴率の推移については、
こちらに詳しく記されているが、視聴率を見る限りだと、それほどリニューアルの効果が出ているとは言いがたいようだ。
殊に今年に入ってからは11%を越えた日が一度(しかも映画公開前日)しかない。
これは遺憾ではあるが、やはり例の「恐竜ちょっとだけスペシャル」が、大多数の視聴者を食傷気味に追い込んでしまったと考えざるを得ないだろう。
「紙工作が大あばれ」までも、「恐竜」の範疇に加えてしまったのだから、正直呆れる他はない。
最近では映画「恐竜2006」がヒットしたと言う良いニュースがあるものの、それ以外には上述した今年以降の「恐竜ちょっとだけシリーズ」の連発や、先週・先々週の中途半端な大山時代作品の露出など、総じてあまり良い状況に恵まれているとは言いがたい。
そもそも映画にしてみたところで、ヒットして当たり前と言う状況の中で、当たり前のようにヒットしただけなのだから、これをもって手放しに「リニュ版ドラ大成功」などと絶賛することは出来ない。
しかし今年以降も放送を続けるとして、果たしてリニュ版ドラは成功するのであろうか?
僕は少なくとも、今のままの状態が続くのであれば、非常に難しいと考えている。
1年間の放送を見続けて、ずっと感じていたことなのだが、制作側が「ドラえもん」というキャラクターを、どういった存在にしたいのかが見えてこないのだ。
F先生の原作マンガでは、ドラえもんは「友達」というスタンスを基本として、ある時は「父親」、ある時は「母親」、またある時は「教師」的な立場となることもある、ある意味柔軟な存在だった。
大山時代のドラは、演じる大山のぶ代の影響もあってか、友達≒母親的なスタンスに位置していることが多く、原作とは異なるものの、アニメ独自のスタンスとして明確にされていた分、見ている側としては特に混乱することはなかった。
しかし現在のリニュ版ドラはわからない。「原作重視」の方向性を考えると、恐らくは「友達」のスタンスとして描きたいのだろうけども、どうにもそれが伝わってこないのだ。
それと見せる描写を行われているはずなのにも関わらずである。
なぜなのかと理由を考えてみると、答えは水田わさびの「演技」に行き着く。
別に水田の声が合わないとか、そんな次元の話をしているわけではない。
水田はこの1年で答えた数々のインタビューなどで、事あるごとにドラを「可愛く演じたい」と言ってきた。
この言葉自身は、水田わさび本人の本音として、恐らく嘘偽りの混ざっているものではないだろうと解釈しておく。
しかし「可愛く演じる」と言うことは、そのキャラクターは必然的に「可愛い」存在になると言うことである。そしてそれは、「友達」という立ち居地のキャラクターとは、微妙に異なる位置づけのものとなってしまうのだ。
本来友達と言うものは、時には互いにぶつかり合って本音を言い合いながら、所謂「友情」と言うものを深めていくものだ。
それはすなわち、自分と相手とが対等の立場であることを意味する。
しかしドラえもんと言う非日常的なキャラクターを、水田が意識しているように「可愛く」演じてしまうと、友達と言うキャラクターではなく、単なるマスコットキャラクターに堕してしまう危険性を孕んでいる。
主役とマスコットキャラクターが同時に存在する時、基本的に両者の間に存在する関係は「主従」であり、そこに額面どおりの「友情」は、基本的には成立しない。
スタッフ陣がドラをあくまでのび太の「友達」として描いているのにもかかわらず、それが視聴者に伝わりにくいのは、水田の演技が「友達」と言うキャラクターを描出し切れていないためではないだろうか。
ここで難しいのは、主役の2人が「主役」と「マスコット」というキャラクター性を持っていたとしても、決して「友情」が成立し得ないわけではないと言うことである。
上述した「主従」の関係は、あくまで基本の考えであり、見せ方・やり方次第によっては、同様の演じ方であっても、2つのキャラクター間に「友情」を成立させることは、成功確率としては低いながらも可能なことなのである。
この事実が、さらに事態をややこしくさせているのではないだろうか。
スタッフはドラをのび太の友達として演出する。しかし水田はひたすらにドラを可愛く演じる。だからと言って、可愛く演じられたドラとのび太との間はスタッフの演出のために、作品世界では「主従」ではなく「友情」として描かれている。
このスタッフとキャスト(水田)との微妙な認識の違いが咀嚼されて、巧妙なアンバランス具合を引き出してしまっている。
水田の演じ方では、残念ながら主従関係程度しか引き出せない。しかしスタッフの演出のために主従と言う関係は、作品世界から打ち消されている。だがその相殺具合のために、友情と言うより高位の関係まできちんと描ききれていないのだ。
「主従ではない、しかし友情とも呼べない」という、何とも微妙な関係に、今ののびドラは陥ってしまっている。そのためにドラえもんと言うキャラクター自体が宙ぶらりんの印象を与えてしまうのだ。
日常の中の非日常を描くと言う特異な世界において、キャラが地に足の着いた印象を与えてくれないのは、はっきり言って致命傷である。
どうにも全てのスタッフ、全てのキャストの中で、ドラえもんと言うキャラクターをどうするべきか、見解が統一されていないのではないか。
もしそうなら、そんな状況は一刻も早く改善すべきだろう。作品を長く続けたいと言う意思があるのならば。