2007年06月10日

ドラ最終回同人の話

 いや、前にも書いたしその頃から特に考え方も変わってないので、そんなに変なことは書かないのだけど。

 結局今回の一件で一番問題だったのは、同人を発行した人間でもなく、それを取り締まった小学館でもなく、たかが一同人誌を過剰に持て囃した連中だったんじゃないかねえ。
 普通に「面白い同人だったね」だけで終わらせておけば良かったものを、過剰にちやほやしてブログで宣伝したり、全ページが読めるようなFLASHを作っちゃったりして、異様に騒ぎ立ててしまった。
 だからこそそんな同人の存在を知らない人たちまで興味を持ち、こぞって購入することになってしまったんだろう。
 ここらへんの動きは、「国会図書館所蔵のコロコロコミックVol.2におけるページ割れの発生」と同じなんだよな。そういう意味では方々で「分かいドライバー」を喧伝してしまった僕にも、責任の一端がないとも言えないわけで。

 ただ、良いと思ったものを「良い」とネット上で発言する権利自体は誰もが持ってるわけだから、それを止めることは出来ないんだけどね。
 なんと言うか、喧伝した人たちももう少し、これが「同人誌」だってことに注意を払うべきだったんじゃないかなあ。
 しかもストーリーまで人様から拝借している、「同人」と呼んでいいのかどうかさえも微妙な過程を踏んでますからねえ。

 しかしこの最終回ネタが浸透したのはちょうど10年位前の話だったし、その後すぐに収束していったんだけど、まさか今になってまた話題になるとは思わなかったな。
 ちょうど20年位前(正確にはもっと前だけど)には植物人間最終回ネタが流行り、10年前はこのネタ、そして今は同じネタが形を変えて流布している。
 20年もこういうインチキネタに振り回されるってことは、人間自体があんまり良い方向に進歩してないってことなのかもしれないな。
posted by 銀河満月 at 19:40| Comment(2) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月15日

リニュ版ドラが色々変わるらしい

 明日から発売される神羅万象チョコ第三章のテレビCM、「神の怒りか」ってナレーションが入るとすかさず「仏の慈悲か」と呟いてしまう、そんな私は必殺ファン。
 恨みが呼んだか摩訶不思議。

 そんなことはどうでもよく、エントリタイトルの話題である。
 まあ色々って言ったって、OP主題歌とキャラの私服が変わるってなだけなんだけど、ネット上では早くも騒ぎになっているらしい。
 なんだかんだ言ってドラってまだ注目されてる存在なんだね。ま、祭りに乗じてただ騒いでいるだけのアホもいくらか混ざってるんだろうが。

 僕の意見なんだけども、OP変更は素直に評価したい。と言うか変わってくれて良かったとさえ個人的には思っている。
 歌としての出来はともかく、現在の「ハグしちゃお」はどう聴いても「ドラえもんの主題歌」として後世まで残る名曲には成りえない。映画主題歌ならともかく、テレビ本編の主題歌までイメージソング的な内容の歌になってしまっては、「主題歌」としてのインパクトは与えられない。
 OP主題歌は基本的に、その番組を見る人が一番最初に触れる「作品の一部」であり、そういう意味では文字通り作品の顔と言っていい。そんな重要な要素が、作品の中身を遠まわしに伝える程度の内容でいいはずがない。
 だから僕は今回の主題歌変更は、新主題歌が「夢をかなえてドラえもん」というタイトルになっていることも含めて、かなり期待しているのだ。
 アニメーションは「ナルケマ・レバンガ・カピカッピ」みたいだけどな(笑)。

 で、服装変更の方。
 この報を聞いてかなり拒否反応を示している人達がいるようだけども、そういう人達は相変わらず見るべきところがずれていると言うか、敢えて見ようとしていないのか、なんか論点がずれている気がするんだよな。
 本来ならわりこみビデオで作成した映像じゃあるまいし、ドラえもんのあの画にリアル志向の服を着せることがミスマッチに過ぎるとか、キャラと服のイメージが一致しているとは言いがたい(特にジャイアン)とか、色々考えなければならんことはあると思うんだけど、熱心に批判をしている人は大抵「のび太達が服装を変えること自体けしからん」で終わってしまっている。
 これを思考停止と言わずして何と言おうか。これが今の「ドラえもんファン」の現状なのだと決め付けられても仕方があるまい。

 ドラえもんと言う作品は子供向けの作品であるから、掲載当時の子供間における流行や時事ネタをかなり敏感に取り入れたりしている。最初期のドラえもんに怪獣ネタが多かったのも、当時のウルトラマンの雑誌掲載権を小学館が持っており、学習雑誌にウルトラマンの特集やらマンガやらが掲載されていたという事情があるからなのだ。
 服装も確かに70年代は一般的なドラファンが思い浮かべるような、単純な服装だったが、80年代、具体的には「エスパー魔美」以降は、のび太達の服装もマイナーチェンジ的ではあるが、変わってきていたのだ(当時のアシスタント達がかなり奔放に描いていたということもあるんだろうけど)。
 まして以前に書いたとおり、ドラえもんと言う作品自体は古いのだから、現代に合わせてある程度変更できる箇所は変更した方がいい。
 「昔のままで十分」などという意見は、オールドファンの我侭に過ぎない。今川版鉄人28号ならともかく、ドラえもんの世界は基本的には明確な時代・時期が設定されていないのだから、特定の時代の空気・雰囲気のみを強制するのはナンセンスである。
 今回の服装変更で本当に問題にすべきなのは、服装を返ること自体ではなく、その服装が本当に主役4人に合っているのかどうかということだろう。
 しかし変更後の服装を見るに、これは夏用の服だろうから、冬になったらまた新バージョンの冬服が登場するのだろうか。

 ただこういう手法で作品を変えていく、そのやり方自体が作品にとってプラスになるかどうかは、残念ながら僕にもわからない。
 ただ1つ言えることは、「今のうちにやれることはやっておいたほうがいい」ということである。
 前にも書いたが、25年以上続いたアニメを大々的にリニューアルして継続放送すると言うこと自体、前代未聞のことであるから、今後の展開をどうすべきか、どういうアイデアを盛り込めばいいのか、指針や叩き台とするべき前例というものは一切ない。スタッフはまったくの手探り状態で進めていくしかないのである。
 だからある程度スタッフ・キャストが手応えを感じたのなら、どんなことでもやってみたほうがいい。何が最良の方法かなんてことは、恐らく世界中の誰にもわからないし、考え付くことでもないのだから。


 本当はもう1つ、リニュ版ドラ関連の話をしたかったんだけど、そっちに関しては力が抜けちゃったんでもういいや。
posted by 銀河満月 at 02:33| Comment(0) | TrackBack(4) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月08日

ドラの寿命はとっくに尽きてるんです

 ちょうど1年半くらい前に、こんな記事を書いたことがある。
 僕はこの時から「アニメドラはあと5年続けばいいほう」と言って来た。今は2007年の1月だから、今の時間軸で考えればあと3年ほど、と言うところだろうか。
 この考え方は今でも基本的に変わっていないし、現状のアニメドラを見れば、それもあながち的外れなことではないと言うことがわかるだろう。

 リニュ版ドラへの批判の1つとして、「スタッフは作品を長く続けるつもりがあるのか」みたいなものがあるのだが、僕はそれにはリニュ版スタート当初から疑問を抱いていた。
 「ドラえもんと言う作品が今後も長く続けられると本気で思っているのか」と感じていたのである。

 ドラえもんと言う作品は、基本的には1970、80年代に書かれた漫画原作がすべてである。
 学年誌に掲載されていた作品という制約を抜きにしても、作品と言う物はその作品が描かれた時代背景を無視しては、決して成立する物ではない。
 簡単に言えばドラえもんと言う作品は70、80年代を舞台にしている作品であり、その当時の読者に対して作られた作品なのだ。
 作品の根底に流れている物の中には、どの世代にも通じる普遍的なものがあるだろうが、表層的なストーリー骨子は、その当時に現役の読者であった子供達を楽しませるためのものになっている。
 有体に言えばドラえもんという作品は「古い」のだ。どんな世代にも通じる作品、なんて言葉は体のいいお為ごかしに過ぎないのであって、作品が元々内包してしまっている古さは、どうにも払拭することができない。
 そんな古さを持った作品を、さしたるアレンジも施さずにアニメ化してしまったところで、2000年代の現役視聴者である子供達に受けようはずもない。極端な話、白黒時代の鉄腕アトムをそのまま放送しているようなものだ。

 だからこそアニメ化する際には、その時代時代に即したアレンジが絶対に必要になる。
 ゲゲゲの鬼太郎は過去4度アニメ化されたが、それぞれの時代の空気に絶妙にマッチしたアレンジを施されたからこそ、それぞれ高い人気を博したのである。
 僕としては一昨年の大改変で、そのようなことも行われると期待していた。これまた過去のブログに書いたことだが、原作準拠だの声優一斉変更だの等のインパクトで視聴率や話題を稼げるのは、せいぜい1クールのみで、あとは純粋に漫画のアニメ化を行う時のスタッフの腕が影響するのである。
 ところが去年末までの作品を見れば、その「成果」は一目瞭然だ。

 現在のアニメドラについて、その元凶を安達元一氏に求めるのは簡単だが、もちろん安達氏1人が原因ではない。
 今のスタッフは「いかにアニメドラを長く続けるか」という考えのみで行動しているように思える。
 鬼太郎に限った話ではないが、古い漫画作品をアニメ化する際、まずスタッフ間で行われる作業は、「いかにこの時代にあった作品とするか」である。
 原作回帰を志した4期鬼太郎でさえ、OPの運動会シーンは墓場ではなく学校が描かれているのだ。
 しかし今のドラにそのような作業が行われているようには見えない。

 だがこれは仕方のないことではある。一昨年の大改変にしたところで、所詮は79年から始まったシンエイ版アニメのリニューアルの一環に過ぎない事実を考えれば、「いかにこの時代にあった作品とするか」なんて、新作アニメを製作する際の作業などする必要はなく、「79年から続くアニメドラをいかに長く続けるか」を念頭に置くのは、製作側としてはやむをえない部分があるのだ。
 リニュ版ドラと大山ドラは基本的には別物ではあるが、「シンエイ版アニメドラえもん」という大きな括りで見れば、同一の作品なのである。
 アニメ放送の火を絶やすまいとして行われた数々の方案。安達氏起用はその一環に過ぎない。

 時代に合わない内容の作品を必死に放送させようとしている現在のアニメドラ。
 しかし「放送継続」という何よりの命題が存在している以上、スタッフがそこに囚われてしまうのは仕方のないことではあるし、現状でこの意識を改革することは無理と言っていいだろう。
 だからこそアニメドラには休息が必要だった。流れを完全に止めた状態で、21世紀と言う今の時代に即したアニメドラとはどういうものか、その段階から考え直さなければならなかったのだ。
 だが今のスタッフはそれを怠ってしまい、大多数のファンはそうすることを許さなかったのである。

 これ以上アニメドラを続けてみたところで、どうやってみても往時の隆盛は帰ってこない。それが「過去の作品」の宿命なのだ。
 にもかかわらず、夢よもう一度とばかりに今のアニメドラを無理に盛り上げようとする。もはやその行為に発展はないと言っていいだろう。
posted by 銀河満月 at 13:23| Comment(6) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月01日

マナーは大切に

 先月はブログの更新をほとんどしていなかったにもかかわらず、アクセス解析を見てみると、一定以上のアクセスがあったようなので、なんでかなあと調べてみたら、こちら様の記事にリンクが張られていたのですね。正直あんなことを自分が書いたことさえも忘れてしまっておりました(笑)。

 でまあ、前にも書いたんだけど、僕はこの一連の安達元一氏のブログ騒動をまったく見ていなかったので、実際にコメント欄がどういう状況になっていたのか、その雰囲気を理解することはできない。
 安達氏本人がブログに記載した内容は、上記ブログを始め数箇所に転載されているので、見ることはできるのだけど。
 ただ、上記のブログ「アマチュア・ジャーナル」で書かれている内容から、大体の内容を推察することはできた。

 まず始めに、最終的にコメント欄閉鎖・記事削除と言う行為を働いた安達氏の行為は間違っているし、これに対しての非難・批判は、至極当然の物であると思う。
 前にも書いたが、コメント欄に返信をしないのは管理者の自由であり、それに対して我々第三者があれこれ言う権利はない。所謂「ローカルルール」と言う奴なのだから。
 しかしコメント欄や元々の記事を削除すると言う行為だけは、決してやってはならないことだ。元からコメント欄を閉鎖していたのであるならともかく、既に掲載した内容、書き込まれた内容をなかったことにしてしまうのは、ブログ管理者としてはあまりにも乱暴な決着のつけ方である。
 ブログに記載した内容についての意見に返信する義務はない。しかし内容や意見そのものを削除すると言うのは、あまり理性的な方法ではないだろう。そんなことがおきるたびに記事を削除するくらいなら、はなっから記事を載せなければ良かったのだ。

 だが、ではコメント欄に記載されていた内容がすべて正しかったのかと言えば、答えは「否」と言わざるを得ない。
 アマ・ジャナさんのアンケートでも批判されている「本当のドラえもん」云々のコメントなどは、これの最たる物だろう。
 原作漫画、アニメ、映画、ゲームなど、ドラの世界は既に大きく広がっている。広がれば広がるほど、個々人の抱く「真なるドラえもん像」は異なる物になっていく。まさに十人十色と言う奴で、百者百様のドラえもん像が存在している。極端な話をすれば、「ドラえもんズこそ真のドラえもん」と考える人だっているわけだ。
 ここまで広がってしまった作品に、「本当のドラえもん」などと特定の個人だけが抱く価値観を押し付けることなどは、実質不可能なのである。もちろんアニメを作っているスタッフにしてみれば、完全解とまでは行かずとも、自分の中で確固たるドラえもん像を持っていることは必要だろう。しかしそれとても「万人が納得する正しい答え」ではないのだ。
 にもかかわらず、自分の抱く価値観を完全正答と読み違え、他人に「本当のドラえもんを理解していない」などと居丈高な態度を取るのは、単なる「増長」「つけあがり」と取られても仕方がないだろう。
 こういうことを言われた場合、何を答えても結局文句を言われるのは必至なので、そういう意味では「本当のドラえもんとは何ですか?」と切り替えした安達氏のやり方こそが、一番無難な方法だったのだろう。
 まして「藤子先生も泣いている」などと、確かめようもない事柄を持ち出して相手を貶めるなど、議論としては最低最悪の手法だ。個人的には「失せろバカ」と、文句の1つも言いたくなってしまう。

 こちらの記事を読む限りでは、番組を改善するための理性的な案や考えなども書き込まれていたようなのだが、結果的に上述の結末を迎えてしまうことになるのである。
 もちろんこれは最初に書いたとおり、安達氏の対応にも問題がある。しかし同時に、コメントを書き込んだ一部の人間にも問題があった。いくら他に良いコメントがあったとしても、それを打ち消してしまうくらいの駄コメントが、コメント全体を台無しにしてしまったのである。正に「悪貨が良貨を駆逐する」。

 つまり今回の騒動は、どっちもどっちだったのである。安達氏はブログと言う物の負の側面を甘く見ていたのだろうし、コメントを書き込んだ面々は、あまりにも見知らぬ第三者に対する礼節を欠いていた。
 こんな状況から生まれ出るものなど、何もないと言っていいだろう。
 にもかかわらず一方的に安達氏だけを批判する行為は、はっきり言って愚かなこととしか言いようがない。
 安達氏は批判されるだけのことを確かにした。しかし批判されるべき対象は安達氏だけではない。そのことをもう一度良く考え、自省するべきではないだろうか。
posted by 銀河満月 at 16:25| Comment(0) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月11日

「人間、何事も程々が一番なんだ」

 去年あたりに発売されて、藤子ファンの間で物議を醸した「ドラえもん 最終回」ってな同人誌があったのだけども、その同人誌及び作者はこんなことになっていたらしい。

 僕はこの話題が掲載されていた雑誌は未読であるため、情報はすべてリンク先の内容を頼りにしているのだけども、そちらの内容を読む限りでは、まあ小学館側の対応も、言わんとしていることも理解できる。
 要するに「同人誌を出すこと自体は良しとしますが、それが正規の作品として扱われるようになってしまうことは見逃せない」ってことですな。
 どれだけ完成度が高かろうが、二次創作の同人誌なんてのは所詮紛い物。そのあたりをきっちり区別するという意味で、手を打ったのだろう。

 そういう意味では一番問題があるのは、同人誌を作った人間でもなく、これを問題にした小学館でもなく、この同人誌を「本物」と信じ込んでしまった一般人にあるのかもしれないね。
 もちろん読んだ人間全員に理性的な対応を求めるのは酷だということ、も十分承知してはいるけども、調子よく「この作品を本当の最終回にするべき」みたいなことを言って、故意に流布させていた人間がいたこともまた事実だからね。
 ま、僕のような重度の藤子マニアにしてみれば、話の内容云々よりも、あの絵をして「本物そっくり」と持ち上げる連中にこそ絶望しているのだけど(笑)。

 で、リンク先記事の後半では、ドラえもんルーム室長の言葉を抜粋して、それについての考察を述べている。
 これもまた室長の言葉を全文読んだわけではないので、どういう話の流れの中で引用部分の言葉が出てきたのかが判断できないという難点はあるのだけども、引用部分の言葉だけを素直に受け取れば、それほど的外れなことは言ってないように思える。
 引用部分を読む限り、室長が危惧しているのはドラえもんという作品の世界観が変容してしまいかねないことであり、別に「作者はきっとこんな作品は喜ばんだろう」的なことは、特に言っていないように見えるのだが。

 上にも書いたけど、一番問題なのはこういう紛い物を必要以上に持ち上げて賛美していた一部の連中なんじゃないのかね。
 作品そのものというよりは、作品に過剰に入れあげる取り巻き連中を注視しているんだろうな。
 ま、偉そうなこと言ったって、所詮何かの作品のファンなんてのは、程度の差こそあれ「取り巻き」には違いないわけだから、どうせなら肯定・否定のどちらかに偏ることなく、公正に見られるような取り巻きになりたいもんだね。
posted by 銀河満月 at 16:35| Comment(0) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月01日

文庫版「みきおとミキオ」購入

 昨日の映画を見た帰りにいつも通り?秋葉原へ行き、書泉でようやく「みきおとミキオ」を買ってきた。
 近所の本屋じゃ全然売ってないんだから、まったく田舎は困ったもんだ。

 僕は「みきおとミキオ」自体は、以前国会図書館で古いコロコロを読んだ時に、ついでに読んだくらいの印象しかなく、無論かつてのてんコミは購入したこともない。
 作品に関する予備知識はあったものの、作品の中身についてはまったくといって良いほど知らなかったのだ。
 だから正直楽しめるのかどうか、不安な部分もあった。

 実際読んでみると、20世紀の人間であるみきおが21世紀に行くことによるカルチャーギャップをギャグにしている、F先生の作品としてはスタンダードなものだった。
 この作品独自の視点としては、単にみきおが未来の世界に紛れ込んだのではなく、未来世界にいる自分とそっくりのミキオと入れ替わっている、という点だろう。
 さらに言えば、この種の作品では大抵主人公の元に異分子がやってくるという話になるのだが、この作品では主人公自身が異分子となっている。現代人と同じ価値観を持つみきおが未来世界で四苦八苦するからこそ、そこが面白くなるのであって、もとより自分らとは異なる価値観を持っているミキオの方をメインにしなかったのは、まったく正しい作劇論だろう。

 しかし今更ながらに驚かされるのは、74年作品の時点で、2006年現代が抱えている問題の一部を予見していたかのような内容が、描かれている点だ。
 この作品の中での未来人は、見た目はまったく現代人と変わらないものの、自動化にすっかり慣れきってしまっているために基本的な運動能力が現代人よりすっかり低下しており、簡単な算数の問題さえ自力で解くことが出来ない。
 もちろん未来の人類に対するこういう見解を示した人物がF先生より以前に多数いたことは確かだろうが、こういう視点を子供向けマンガに違和感なく取り込んでいるという、そのやり方の巧妙さに舌を巻いてしまうのだ。

 もちろんそういったことは抜きにして、普通に面白い作品なのだが、反面今でも語られるF先生の代表作に比べると、見た目のインパクトが非常に弱い。
 「21エモン」のように突飛な宇宙人が出てくるわけでもないし、「モジャ公」のように世界やキャラがいい意味でぶっ飛んでるわけでもないから、どうしても地味に感じられてしまうのだ。
 数あるF作品の中でも、ちょっと玄人好みの作品と言えるかもしれない。

 ちなみに未収録となっている3話分だけども、巻末コラムに掲載されている絵が、初出掲載誌からのコピーと思われる点から察するに、もしかしたら原稿が紛失しているのかもしれない。
 とすると当分は「完全版」の発売は望めないわけで、何とも残念なことではあるね。

 話違うけど、「パジャママン」読みてえなあ…。
posted by 銀河満月 at 15:43| Comment(0) | TrackBack(4) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月25日

F先生のお墓参りへ

 土日はかなり疲れてしまったので書くのが遅れてしまったが、藤子・F・不二雄先生の命日である一昨日の23日、F先生のお墓参りへ行ってきた。
 ドラちゃんのおへやの管理人であるおおはたさんにお誘いを受けたので、今年で亡くなられてからちょうど10年ということもあり、行ってみることにしたのだ。

 当日は午後集合ということだったので、午前中は秋葉原へ行ってレオだのハルヒだのシムーンだののDVDを買ったり、メロンで同人を買いあさったりした。
 そろそろニンテンドーDSも欲しいところだけど、ソフトは何を買ったものか。

 午後になって某霊園の最寄り駅まで向かい、そこでおおはたさんとおちあう。
 待ち合わせの時間より少し遅れながらも残りのメンバーも集まり、F先生のお墓へと向かう。
 ドラえもん始め様々なキャラクターを生み出した偉大な漫画家のお墓なのだから、なんか普通とは違う凄いものがあるのだろうかと、子供じみた考えを抱きながら霊園へ向かったわけだが、着いてみるとF先生のお墓は、名刺入れの形がドラえもんになっている程度で、あとは極々普通のお墓になっていた。
 どのくらい普通かというと、「あそこのお墓が藤子先生のお墓ですよ」と説明を受けなければ、それとわからないくらいに。
 お墓のあった場所自体は、緑に囲まれた落ち着いた雰囲気の場所だった。23日はちょうどお彼岸と言うこともあって、(恐らく)普段よりは人が多かったのだろうけど、ゆっくり眠るにはちょうど良い場所だったと思う。
 既にお墓にはたくさんの花や線香が置いてあった。午前中に親族や親しい方々、僕達以外のファンの方が訪れたのだろう。
 僕も線香をおき、墓前で手を合わせ、ご冥福を祈ると共に感謝の想いを捧げた。これまで僕の人生の一部として存在してきた、そしてこれからも存在し続けるであろう数々の作品を生み出した方に、最初にかける言葉としては感謝しかなかったと思う。

 その後は神保町の古本街へ行き、いろんな古本を物色する。今までに何度も着たところであるけれど、やはり大勢で行くと楽しいもんですね。
 それから浜松町に移動して飲み会。飲み会では藤子作品の話はもちろん、ネオユースタッフ始めいろんな方々の武勇伝?やら、脱線しまくった内容などをたくさん話した。
 僕は例によってあんまり会話に割り込めなかったのだが(笑)。藤子マニアとしてはそうそうたるメンバーが集まっていただけに、少し気後れしてしまったのだ。
 今度は「恐怖奇形人間」の話が出たら、迷わず食らいつきたいものである(笑)。
 そう言えば恐竜2006の話で、とある方が「あたたかい目」について僕と同じような見方をしていたことを知り、少し嬉しくなってしまった。

 お開きは23時過ぎになってしまったので、終電ギリギリではあったものの、何とか帰宅することが出来た。と言っても最終的にはタクシー帰宅になったが。
 関西から上京してこちらに泊まった方たちは、日曜もいろんな場所に出かけたようだけど、本当にこんなバイタリティはどこから出てくるんだろうなあ。
 若さで言えば僕のほうが若いのに(失礼)。やはりこれは情熱の差なのだろうか。

 ともあれ、初めてのお墓参りを含めて非常に充実した1日だった。こういうことをきっかけにして、これからも藤子ファンの方々と親交を深めて行きたいと思う。

 …なんか小学生の作文のような締め方だな(笑)。
posted by 銀河満月 at 23:09| Comment(0) | TrackBack(5) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月22日

明日は…

 なんか最近のリニュ版ドラのいろんな企画に携わってる構成作家のブログが、ドラ関連のエントリで炎上を起こしたみたいですね。
 作家さんのほうは記事自体を削除してしまったようだけど。

 僕はそんなことまったく知らなかった(→レオのDVD楽しみでそんなこと知ろうともしてなかった、笑)のだけど、これはまあなるべくしてなったことだろうね。
 いや、もちろんブログが炎上したからって、書き込まれたコメント内容や元記事そのものを削除していいとか、コメントの内容に答えなくて良い、なんて事を言うつもりはさらさらない。
 どんな状態になったにせよ、記事自体を削除するって事はいいことじゃないからね。

 でもそのエントリのコメント欄も、同じことばっかり書かれてたんじゃないかなあ。
 自分の言いたいことを既に他人が書き込んでいたのなら、自分は書き込むのを控える、くらいの自省能力が欲しいところだよね。
 コメントに大量に書き込んでいく人は、果たしてコメント内容を本当にブログ作成者に読んで欲しいのかどうか、気になるところだ。
 いやだって程度にもよるけど、あまりにも大量のコメントなんて、読む気がまず起きないでしょ。ブログは確かにコメント欄を基本的に開放してはいるけど、レスを返すことは別に義務ではないんだから。

 ブログが出来るずっと前、ネットが普及し始めた頃の掲示板なんかでよく言われてたことだけど、「レスを返して欲しいなら、レスを返してもらえるような書き込みをするべき」って考えを、もう少し大事にした方がいいように思う。


 ところで明日は…。
 明日という日がどういう日なのか、理解している「ドラえもんファン」は、果たしてどれほどいるのだろうか。
posted by 銀河満月 at 23:42| Comment(3) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月31日

最近のドラえもん

 最近はめっきりリニュ版ドラの感想をブログに書かなくなったけども、アニメ自体は一応毎週見続けている。
 書かなくなったのは作品がつまんなくなったとかそういうことではなく、単に「アニメの感想を書く」と言うことに飽きただけ(笑)。
 ぶっちゃけ最近はシムーンの感想を書くのも飽きてきた感じ。なんと言うか、PCの前に座れば書き出せるだけど、そこに座るまでが凄く億劫なんだよね。…えらく年寄りじみてるなあ。
 アニメ感想系ブログなんか見ると、一週間に何作もの作品の感想を書いている人がたくさんいて、こんなモチベーションはどこから沸いてくるのかと、本当に不思議でしょうがない。

 まあシムーンの場合は、下手に深く考えずに感想書こうとすると、粗筋だけを列挙するだけのものになりそうなので、書く前に色々考えなければならず、それが結構大変と言うのもあるのだけど、リニュ版ドラの場合はちょっと違う。
 去年から僕がずっと言ってきたことなのだけど、どこまでいっても原作マンガのトレスにしかなっていないので、改めて感想を書く気になれないのだ。
 原作をそのままアニメ化したところで、それでファンが満足できるのはせいぜい最初の1クールくらいで、2クール目からはスタッフの持ち味や個性を生かした独自視点を加味していかなければならない、と常々考えていたのだけども、残念ながら今のアニメスタッフはそれをあまりやっていないように見える。
 だからどこまでいっても原作どおり=水準どおりか、水準に達しない作品しか出てこないのだ。
 かつての「ロボット雪だるま」原作版とアニメ版のオチの違いを知った時の驚きのようなものが、まるで感じられないのだ。
 もう少しうまく料理して欲しいと思う。料理ってのは何だかんだ言ったって作る人の技量に拠るわけだからさ。そこかしこから集めてきた調味料をバンバン突っ込んでるだけじゃ、良い料理は完成しないよ。

 ついでに言えば、明日のドラミデビューに関しては、僕は特に何も感じていない。元から期待値は物凄く低いから(笑)。
posted by 銀河満月 at 23:54| Comment(0) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月06日

魔美のDVDで思うこと

「エスパー魔美」DVD-BOXに思う事
『魔美』DVD発売まで2日


 発売前から色々な意味で話題を提供していたエスパー魔美のDVD−BOX上巻が、遂に発売されたらしい。
 これに関連して、上記2つのブログでこのBOXについての意見が書かれているのだが、物の見事に正反対な論調になっているので、興味深く拝読させてもらった。
 ちなみに僕はBOXは買ってません。「買わない」のではなく「買えない」。つーか金ないって(笑)。

 確かに予告映像と言うものは、本放送を見ていた人間にとっては本編と同等に大事にしたいものだろうから、それが収録されなければファンとしては残念だし、正直な話メーカー側に文句の1つも言いたくなるだろう。ファン心理としてそれは十分理解できる。
 しかしまあ、オリジナルが散逸してしまっていたのであれば、これはしょうがないことでもあるし、いつまでも文句を言っていても始まらない。確かに「完全版」と銘打ったマニアアイテムにしてはかなり不完全な内容だけども、そこは「自分の期待値も少し高すぎたのだろう」と自省して、素直に全話DVD化したことを喜ぶべきだろう。

 と、最近まではそう思っていた。

 しかし発売後の評判を聞いて、ユーザー側が妥協するには、あまりにも不完全すぎるのではないかと言う気がするようになってきた。
 上巻の植田佳奈トリビュートCD、下巻の桃井はるこイメージソング、上下巻購入特典でようやく視聴可能になる予告編、設定資料だけのライナーノーツ…。
 いくらなんでもこれはないだろう。そりゃ確かに本編映像が見られればそれでいいとしても、この見当違いの方向への力の入れようは、はっきり言って常軌を逸している。

 「完全版」と銘打ったからには、これ以降は魔美のDVDは発売されない、これさえあれば十分だ、とユーザーに認識されるような商品になっていなければならないだろう。
 もちろん全てのユーザーを満足させることは物理的には無理だとしても、それでも出来うる限り多くのユーザーを満足させるための、最大公約数的な作りにするのが、制作側としては当たり前の義務ではないのか。
 まして過去のアニメのDVD−BOXなどは、マニアアイテム以外の何物でもない。ごく普通の人間がちょいと気軽に買っていくような代物ではないのだ。
 そしてマニアと言う人種は因果なもので、(言いたかないけど)本編映像だけ見られて満足するような人種ではないのである。

 予告編については、現物が見つからなかったと言う物理的な理由があったので許容するとしても、それ以外の諸要素を見ても、「決定版を作る」という制作側の信念はまったく感じられない。
 過去のアニメのソフト化なんて、早々何度もあることではない。だからこそいざソフト化というチャンスを得た時には、相応の充実度が求められる。
 1回こっきりのチャンスなんだから、そのチャンスをきちんと生かしてくれればと思う。

 尤も下巻は充実してるかもしれないけどね。
posted by 銀河満月 at 19:28| Comment(0) | TrackBack(1) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月30日

NHKのF先生特集

 NHKの「あの人に会いたい」F先生特集?をようやく再放送で見た。先週の放送分は完璧に録画するのを忘れてしまっていたので、今日のBSでの再放送でようやく見ることが出来たのだ。
 と言ってもラストの数秒だけ、タイマーの関係で録画ミスってしまっていたが、これは仕方のないところなので、特には気にしていない。

 で、内容なのだけど、映像的には「わが青春のトキワ荘」や、去年のイベントで見た映像からの出典がほぼだったので、新鮮味そのものはなかった。
 なのだけど、F先生単独ではなくコンビで出演していた時の映像をチョイスするあたり、スタッフは「藤子不二雄」という漫画家をよく理解していると思う。
 そういう意味では短い時間ではあったものの、よくまとまっていてファンには納得の番組になっていたと思う。
 特にF先生が話していた、のび太の持つただ1つの「良い所」についての話は、のび太というキャラクターを考える上でも、のび太というキャラクターに投影されている作者像を考える上でも、非常に重要な話ではないだろうか。

 ただ短い時間だからしょうがないけども、やっぱりドラだけではなく、SF短編とかの方にも突っ込んで欲しかったなあ。
 かと言って時間が長かったとしても、亡くなった直後にやってた特集でもSF短編とかにはあまり言及してなかったけどね。
 尤もそっちの特集は福島瑞穂呼んでたりして、激しく勘違いしているような内容ではあったけども。
posted by 銀河満月 at 23:29| Comment(0) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ドラミの声優、正式決定

 しかしこの間の「ゼロの使い魔」はつまらんかったなあ。主人公は結局その場を引っ掻き回すだけで何一つ事態の好転に貢献していないのに、シエスタから感謝されてしまうんだからな。こんな使い古されたハーレムアニメの展開を持ち込まれるとは思いもしなかった。
 こんなだから萌えアニメはクソだ何だと言われるんだよ。制作側はもう少し考えてくれ。

 まあそんなことはどうでもよく、ドラえもんの話題である。

 ドラミの声優が「千秋」に正式決定したらしい。ま、「らしい」なんて白々しいことを書かなくとも、先週のアニメできちんと紹介してはいたのだけど。
 何でもかつてのレギュラー5人オーディションの際に、5人全員分受けており、もちろん失格したものの、そのやる気振りを楠葉総監督が認めていたためとの事。
 何つーかさあ…、普通5人全部のオーディションを受けるような奴ってさ、やる気云々じゃなくて「節操がない」って言わないか?「自分はこの役をやる!」って言う強い意志がないわけだろ、これって。このエピソードを聞く限りでは、僕はむしろ役に対してまるっきり思い入れのない、作品をちっとも大切に思っていない人間としか感じられないのだが。

 まあ百歩譲ってそれなりに上手であれば文句はないんだけど、先週のアニメで流れた千秋のドラミセリフは…(「あ、ゴキブリ!」ってセリフだった)。

 うーん、何と言うか、あくまで「声」だけだよね。それ以上のものは何も感じられない。
 一時期歌手として売っていたわりには、声域がそんなに広くないような印象を受けた。感情の起伏を声の高低で演じることも、声の演技としては重要なことだと思うから、これはかなり厳しいんじゃないだろうか。
 それ以上に気になっているのは、上述の「声」だけの点である。要するに監督が「1」のことを要求すれば、「1」のことだけ演技すると言う、そんな感じにしか見えなかった。
 かつて「セーラームーン」で主人公である月野うさぎ役を決めるオーディションを行った時、テスト用セリフとして「お母さんのバカ〜!」というセリフを用意されていたのだが、他の声優陣が総じてそのままセリフを読んだのに対し、三石琴乃氏が1人だけ「お母さんのぶぁか〜!」と読み、それがシリーズディレクターであった佐藤順一氏の目にとまったのだという。
 もちろんそれだけで決定したわけではないが、このような「1」と言う要求を自分自身で「2」や「3」に変えていこうとする、その気概のようなものがこれからの声優には必要なのでは、と言うようなことを、雑誌のインタビューで佐藤氏が話していた記憶がある。

 そういう気概が千秋にあるのか、というよりそういう気概をスタッフは果たしてキャストに求めているのだろうか?
 僕は千秋の演技云々よりも、スタッフの制作に対する姿勢の方に疑問を持ってしまうのである。これが杞憂で終わってくれれば良いのだけど、正直劇的な演技力向上は望めそうもないしな。諦める他はないのかもしれない。

 しかし今時の制作陣ってのは、新人声優を育てようとかいう気概って本当に持ってるのかねえ。「ゲド戦記」の新人声優の演技なんて、CMの声聞くだけで絶望的になるんですが(笑)。
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2006年07月22日

そんなに期待はしてないよ

 昨日のリニュ版ドラから「ドラミ復活プロジェクト」とか言うものを特集し始めた。
 何でも本格的に登場する9月まで毎週、少しずつドラミ関連のことを紹介していくらしい。
 なんか激しく無駄なことをしている気がするが、まあこの企画自体は大目に見るとしよう。

 しかし昨日の特集を見る限り、ドラミの声優は本職の声優以外の芸能人になりそうだ。「みんな知ってる人」とか言う煽り文句も出ていたことだし、まさか本職の声優をして「みんな知ってる人」などと形容はしないだろうからね。
 でもねえ…。なんと言うか、本当にドラミと言うキャラクターを演じきるだけの技量と声色を持っている人間であれば、基本的に誰でもいいとは思ってるんだけど、どうもこの企画自体も合わせて考えてみると、演技とかドラミのキャラ性云々よりは、やはり話題性重視で選んでいるとしか思えない。
 話題性重視で選ぶということ自体は、別に今に始まった話ではないだろうし、ほとんどのマニアはそう思っているだろうけども、これってぶっちゃけて言えば、スタッフはキャストについて真面目に吟味していないと言うことになる。こんな劣悪な状態を是とするスタッフは、一体ドラと言うアニメをどうしたいのだろうか。
 テレ朝サイドとシンエイサイドとの力関係という奴も微妙に関係してはいるのだろうけども、どこに所属していようとも「良い作品を作り、それを提供する」ことこそが、全てのスタッフが保持していなければならない覚悟であるはずだ。それを履き違えているような気がしてならない。

 僕個人としては前にも書いたけども、芸能人の声優起用は基本的に反対だ。「演技が上手な人もいる」という人もいるが、その演技が上手な人がうまいこと声優をやってくれる確率は、正直かなり低いだろう。
 一部の芸能人が上手に声の演技をやってくれるからと言って、全ての芸能人が上手だと言うわけではないのだ。
 そんな状態で声優経験のない(または経験を自分の能力として変換できていない)芸能人を起用するのは、一時の宣伝効果はあるのだろうが、結果的には作品の寿命を縮めることにもなりかねない。
 オールアフレコだった頃のテレビドラマ時代を経験し尽くした大ベテランの俳優陣ならばともかく、「今が旬」の芸能人を声優に利用してみたところで、それは結局のところ「時事ネタ」レベルでしかなく、時が経てばすぐに話題の効果は薄れてしまう。CMのパロディネタがすぐに廃れるのと同じように。
 そうなれば後に残るのは下手くそな素人声だけである。そんな声しか聞こえてこないようなアニメを、誰が好き好んで自分から見ようとするだろうか。

 リニューアルの際に声優を全て変更したスタッフの英断は素直に評価している。
 だがそれは何のためだったのか。何のために声優を変えたのか。作品の中身を根本からリニューアルするためだったのか、それとも「声優交代」という話題作りのためだったのか。
 今後のリニュ版ドラの展開で、そのあたりの片鱗が見えてくることだろう。
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2006年07月14日

「魔界大冒険」で確定

 正式タイトルは「映画ドラえもん のび太の新魔界大冒険 〜7人の魔法使い〜」 だそうだ。
 まるで去年のライダーもどき映画みたいだね(笑)。

 で、新監督やらライターやらについても色々話題が出ているけども、僕は正直言ってどうでもいい。作品が面白く仕上がってくれるなら、誰が何をやろうと特には気にしない。
 もちろんその人物の力量を的確に把握できているなら、「この人が手がけるなら大丈夫だろう」という印象を持つこともできるけど、寺本幸代って人も真保裕一の作品も、僕はよく知らないからね。
 知らないくせにあれこれ文句を言うのはフェアな行為だと思わないので、現時点では特に何も言わないようにしよう。すべては出来上がった作品を見てからだ。

 しかし魔界大冒険か…。前にも書いたけど、下手な作りにしたら、恐竜の時よりも遥かに手厳しいバッシングが来るだろうから、そういう意味ではスタッフもかなり挑戦的だねえ。
 どうせなら4期鬼太郎の劇場版のように、原作から換骨奪胎して、ほとんど違う話にしてみてもいいのかもしれないな。
 と言ってもそれと同じような方法論で作り上げた南海何とかやら漂流なんちゃらとかがあるんで、一概には勧められないか。
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2006年07月08日

来年は「魔界大冒険」

 来年公開のドラ映画は「魔界大冒険」らしい。

 と言うか、来週大公開と言っておきながら、少しだけ見せてしまうとはどういうことなんだ。相変わらず宣伝戦略がダメすぎる。

 しかし魔界大冒険ですか…。今の時点ではどうなるかさっぱりわからないけども、旧作がほぼ完全に原作をアニメ化していただけに(厳密に言うとコロコロ連載時の大長編とは微妙に異なっているが)、恐竜以上にアニメ化しづらい作品ではないだろうか。
 恐竜はのび太とピー助の関係で売っていたような面があったけども(と言うかほとんどか)、「魔界」にはそういう明確な「売り物にすべき要素」がないからな。まさかのび太と美夜子さんの関係を前面に押し出すわけにも行くまい。
 まああの予告映像を見る限り、大魔王の城に辿り着くまでの道程を、原作以上にスケールアップして見せるのだとは思うんだけど、「魔界」の肝ってむしろ一度デマオンに破れてからの展開だから、そこんところを履き違えないようにして欲しいと思う。

 魔界大冒険という作品のファンも、恐竜以上に多いだろうからねえ。下手なアレンジなど加えて失敗でもしようものなら、バッシングは「恐竜」時の比ではないだろう。
 とりあえずは今後の追加発表を待つとしようか。

 僕としては是非とも「宇宙開拓史」でののび太対ギラーミンを、映画で描いて欲しかったのだけどね。そういう意味では残念だ。
posted by 銀河満月 at 22:54| Comment(3) | TrackBack(2) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月03日

「ぼく、ドラえもんでした。」を読んでみた

 と言うわけで、先週日曜に購入した大山のぶ代・著「ぼく、ドラえもんでした。」の感想を書いてみる。

 読んでみて感じたことは、この本はまごう事なき「エッセイ」であるということ。
 あくまで「ドラえもん」と言う作品と付き合ってきた頃の自分や周囲の状況を振り返るというスタンスで、全編が貫かれているため、はっきり言って資料的価値は低い。
 本文中に出てくる様々なエピソードも、既に様々な箇所で既出済みのものだったり、あるいは(個人的には)あんまり興味を注がれないエピソードだったりするので、そっち方面での読み応えを期待すると肩透かしを食らうことになると思う。

 そういった面を考慮すると、資料的側面を求めるよりは、アニメドラ全盛時代におけるスタッフ・キャスト側の空気を知るための材料の一つとするのが、本書の正しい読み方であろう。
 実際アニメドラに関して触れているのは、放送開始時期のテレビアニメと、初期・黄金期の映画くらいだけであり、テレビ本編にすらそれほど詳しくは触れられていない。メイン5人以外の声優に関してすら、劇場版の声優ばかり扱っていて、準レギュラー格の声優さんにはまったくと言っていいほど触れられていない。

 個人的に最も注視すべきだと思うのは、やはりガンを患って降板を決意したくだりだろうか。
 ドラえもんの声優がある日突然、病気のために命を落とす。それは誰が言うまでもなく最悪の事態であり、その事態が発生することを何よりも恐れていたのは他でもない、大山のぶ代本人だったのだ。
 ドラえもんと言うキャラクターへの深い愛情を感じられるエピソードだと言えるだろう。

 尤もファンとしては一番知りたかったであろう、去年の声優交代劇についてはまったく触れられていないので、これもまた消化不良と言えば消化不良である。
 リニュ版ドラはまだ2年目だから、ここで前声優が何か具体的な発言をすれば、必要以上に勘ぐられてしまうことは間違いないから、それを避けるために詳述を避けたのかもしれない。

 正直本文は、よほどのドラファンでもない限りは、必死になって読むほどのものではないと思う。
 ファン的に嬉しかったのは冒頭のカラーページに掲載されているスチール写真だろうかね。ドラ以外の番組で藤子先生と共演した「週刊漫画ゲラゲラ45」などの写真は嬉しかった。某上映会で見たことあるから余計に(笑)。

 と言うかアニメドラの26年を振り返るのに、本一冊では明らかに足りないね。と言っても大山氏に続きを書いてもらうと言うのもアレなんで、ここはぜひ、他の出演者やスタッフのエッセイを読んでみたいところだ。
posted by 銀河満月 at 18:39| Comment(0) | TrackBack(3) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月07日

諦念

 去年から始まったリニュ版ドラ、以前から色んな内容の批判があったことは、今更言うまでもないほどに既知の事実だろう。
 殊に最近放送された「大山ドラの中途半端な放送」で、鬱屈していた不満が一気に爆発してしまった感がある。
 これは残念ながら仕方あるまい。大山時代の水曜スペシャルじゃあるまいし、見ようと思えばレンタルショップへ行ってDVDを借り、いつでもかこの作品を見ることができると言うご時勢に、今更大山ドラを5分程度流すだけの「特別番組」などに何の価値があろうか。
 無論見る側が過剰に期待しすぎたと言う意味では、視聴者側にまったく責任がないわけではないが、それを差し引いたとしても、製作側が批判を免れることはできないだろう。

 しかし同時にここ数週間では、所謂「ドラえもんファン」を自称している連中の浅ましさと言うか、凄まじさと言うか、見苦しさを嫌と言うほど見知ることもできてしまった。
 番組の編成に文句を言うのはいいだろう。相変わらずの声優批判を行うことだって、まあ個人の好みが多分に影響する事柄ではあるわけだし、殊更目くじらを立てるようなことでもない。
 しかし調子に乗ったか、我に義ありと思い込んだかは知らないが、ほんの少しでも自分と違う意見が出ようものなら、意見に反発する前にその発言者を罵倒し、挙句には排斥しようとまでする始末。しかもそれを肯定する第三者まで現れるのだから、まったく救いようがない。
 それを正しい行為だと本人たちは思い込んでいるわけだから、もはやそういう連中とは対話することすら不可能だろう。

 こんな状況を見ると、改めて強く思う。やはりアニメドラは去年の3月に終わるべきだったのではないかと。
 人としてのマナーとか礼儀と言うものすら守ることのできない連中が、一人前のファン面してまかり通る位ならば、いっそこの世のすべての「ドラえもんファン」は絶滅してしまってもいいのではないか。その方が作品にとってはまだ幸福なのではないか。
 そんな愚にもつかないことさえ考えてしまうのである。
posted by 銀河満月 at 14:18| Comment(2) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月04日

ミス・ドラキュラ1巻購入

 昨日は親友のsnake氏と一緒に、またまた秋葉原へ行ってきた。
 先週既に2回も行っているので、これと言って買いたいものはなかったのだけど、まあ行くだけでも楽しい場所だから、行ってしまうことにした。

 昼過ぎについてからとりあえず飯を食い、そのあとで書泉へ行き、すっかり忘れてしまっていた「ミス・ドラキュラ」の1巻を購入。
 と言うかAランドもまだ全巻揃えていないんだよなあ。さすがに置き場にも苦慮するし、一体どうしたものか。

 しかしこの書泉もそうだけど、秋葉原の主たる店に行くと、そこかしこにアニメ版ハルヒの宣伝ポスターが貼られているね。アキバ的にもずいぶん力を入れているらしい。
 正直そこまでするほどのものかとも思うけど、まあ面白いのは確かだから、別段気にするほどのもんでもないか。「宣伝にやりすぎと限界はない」って言うし(笑)。

 その後は僕の持って行ったエロゲを売って、とらのあなやら各フィギュアショップを回ったりした。
 ソルティのフィギュアもあったりしたので、買おうかとも思ったのだけど、先月・先々月とかなりの額を消費しているので、給料日まで散財は控えることにし、購入は見送った。

 ぶらぶらしてから実家の近くに戻って酒を飲んだりカラオケで歌を歌ったりした。やっぱり「GONG!」を歌うのは難しいなあ。

 帰宅後はミス・ドラキュラを読む。
 ミス・ドラキュラと言えば、子供向けの「オヤジ坊太郎」、青年向けの「無名くん」と並ぶ、ファンの間で言われるところの「変身三部作」の一つであり、女性向けの作品だ。
 どんな作品かはこちらを読んでいただくとして、この作品の見所と言えば、まずは当然だが主人公であるミス・ドラキュラだろう。
 何と言うか、「キュート」とか「チャーミング」とか、現在においては女性を形容する言葉としてはいささか古い言葉がぴったり来る、この主人公の魅力が、本作最大の見所である。
 読者の変身願望を叶えるという、オーソドックスな変身物語が基調ではあるものの、その裏にサラリーマンやOLの悲喜劇をも巧みに盛り込まれてろり、数多くのサラリーマン悲哀漫画を手がけてきたA先生ならではのクールな視点も随所に生かされている。
 各話4ページと言う短い構成もあってか、変に身構えることなく、軽い気持ちで読み流すことができるので、心地よい読後感を与えてくれるのも好印象だ。

 僕は復刊ドットコムさんの活動に一切協力してなかったのだが、今回の復刊に尽力された多くの方々に敬意を表したいと思う。
posted by 銀河満月 at 22:11| Comment(0) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月30日

リニュ版ドラの1年を振り返る

 去年の4月、華々しく?放送が開始されたリニューアル版のアニメドラえもんも、今月でちょうど1周年を向かえ、現在2年目の放送期間を邁進中である。
 しかしもちろん、この1年はリニュ版ドラにとって、とても順風満帆と言えるものではなかった。

 アニメ化作品のセレクトは、基本的に原作初期の70年代後半から、中期の80年代前半の作品に終始しており、80年代後半から90年代前半の作品は、ほとんど選ばれていない。
 まあこれは、原作者自身が乗りに乗っていた時期に書かれた作品群であるから、アニメ化する際にそれほどの労力を費やさずとも、面白い作品が出来上がると言う算段も働いているのだろう。
 視聴率の推移については、こちらに詳しく記されているが、視聴率を見る限りだと、それほどリニューアルの効果が出ているとは言いがたいようだ。
 殊に今年に入ってからは11%を越えた日が一度(しかも映画公開前日)しかない。
 これは遺憾ではあるが、やはり例の「恐竜ちょっとだけスペシャル」が、大多数の視聴者を食傷気味に追い込んでしまったと考えざるを得ないだろう。
 「紙工作が大あばれ」までも、「恐竜」の範疇に加えてしまったのだから、正直呆れる他はない。

 最近では映画「恐竜2006」がヒットしたと言う良いニュースがあるものの、それ以外には上述した今年以降の「恐竜ちょっとだけシリーズ」の連発や、先週・先々週の中途半端な大山時代作品の露出など、総じてあまり良い状況に恵まれているとは言いがたい。
 そもそも映画にしてみたところで、ヒットして当たり前と言う状況の中で、当たり前のようにヒットしただけなのだから、これをもって手放しに「リニュ版ドラ大成功」などと絶賛することは出来ない。

 しかし今年以降も放送を続けるとして、果たしてリニュ版ドラは成功するのであろうか?
 僕は少なくとも、今のままの状態が続くのであれば、非常に難しいと考えている。

 1年間の放送を見続けて、ずっと感じていたことなのだが、制作側が「ドラえもん」というキャラクターを、どういった存在にしたいのかが見えてこないのだ。
 F先生の原作マンガでは、ドラえもんは「友達」というスタンスを基本として、ある時は「父親」、ある時は「母親」、またある時は「教師」的な立場となることもある、ある意味柔軟な存在だった。
 大山時代のドラは、演じる大山のぶ代の影響もあってか、友達≒母親的なスタンスに位置していることが多く、原作とは異なるものの、アニメ独自のスタンスとして明確にされていた分、見ている側としては特に混乱することはなかった。
 しかし現在のリニュ版ドラはわからない。「原作重視」の方向性を考えると、恐らくは「友達」のスタンスとして描きたいのだろうけども、どうにもそれが伝わってこないのだ。
 それと見せる描写を行われているはずなのにも関わらずである。

 なぜなのかと理由を考えてみると、答えは水田わさびの「演技」に行き着く。
 別に水田の声が合わないとか、そんな次元の話をしているわけではない。

 水田はこの1年で答えた数々のインタビューなどで、事あるごとにドラを「可愛く演じたい」と言ってきた。
 この言葉自身は、水田わさび本人の本音として、恐らく嘘偽りの混ざっているものではないだろうと解釈しておく。
 しかし「可愛く演じる」と言うことは、そのキャラクターは必然的に「可愛い」存在になると言うことである。そしてそれは、「友達」という立ち居地のキャラクターとは、微妙に異なる位置づけのものとなってしまうのだ。
 本来友達と言うものは、時には互いにぶつかり合って本音を言い合いながら、所謂「友情」と言うものを深めていくものだ。
 それはすなわち、自分と相手とが対等の立場であることを意味する。
 しかしドラえもんと言う非日常的なキャラクターを、水田が意識しているように「可愛く」演じてしまうと、友達と言うキャラクターではなく、単なるマスコットキャラクターに堕してしまう危険性を孕んでいる。
 主役とマスコットキャラクターが同時に存在する時、基本的に両者の間に存在する関係は「主従」であり、そこに額面どおりの「友情」は、基本的には成立しない。
 スタッフ陣がドラをあくまでのび太の「友達」として描いているのにもかかわらず、それが視聴者に伝わりにくいのは、水田の演技が「友達」と言うキャラクターを描出し切れていないためではないだろうか。

 ここで難しいのは、主役の2人が「主役」と「マスコット」というキャラクター性を持っていたとしても、決して「友情」が成立し得ないわけではないと言うことである。
 上述した「主従」の関係は、あくまで基本の考えであり、見せ方・やり方次第によっては、同様の演じ方であっても、2つのキャラクター間に「友情」を成立させることは、成功確率としては低いながらも可能なことなのである。
 この事実が、さらに事態をややこしくさせているのではないだろうか。
 スタッフはドラをのび太の友達として演出する。しかし水田はひたすらにドラを可愛く演じる。だからと言って、可愛く演じられたドラとのび太との間はスタッフの演出のために、作品世界では「主従」ではなく「友情」として描かれている。
 このスタッフとキャスト(水田)との微妙な認識の違いが咀嚼されて、巧妙なアンバランス具合を引き出してしまっている。
 水田の演じ方では、残念ながら主従関係程度しか引き出せない。しかしスタッフの演出のために主従と言う関係は、作品世界から打ち消されている。だがその相殺具合のために、友情と言うより高位の関係まできちんと描ききれていないのだ。
 「主従ではない、しかし友情とも呼べない」という、何とも微妙な関係に、今ののびドラは陥ってしまっている。そのためにドラえもんと言うキャラクター自体が宙ぶらりんの印象を与えてしまうのだ。
 日常の中の非日常を描くと言う特異な世界において、キャラが地に足の着いた印象を与えてくれないのは、はっきり言って致命傷である。

 どうにも全てのスタッフ、全てのキャストの中で、ドラえもんと言うキャラクターをどうするべきか、見解が統一されていないのではないか。
 もしそうなら、そんな状況は一刻も早く改善すべきだろう。作品を長く続けたいと言う意思があるのならば。
posted by 銀河満月 at 22:27| Comment(0) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

二週連続のリニュ版ドラスペシャル

 次は先週、先々週と行われた、リニュ版ドラのスペシャルについて、少しだけ触れておこう。

 まずネット上で批判されているこの記事について。
 これは言っては何だが、スポーツ新聞のこの種の記事を鵜呑みにした人達の方が悪いように思う。スポーツ新聞の飛ばし記事なんてよくあることだしなあ。
 昔「必殺始末人」製作開始の報がスポーツ新聞に載った時、「テレビシリーズも再開予定」なんて書いてあったもんだから、1年近く期待してた時期もあったりしたよ(実際には話はあったものの、具体的な企画にもならずに消滅したらしい)。

 ただまあ、懐かしの作品紹介については、テレ朝のワイドショーなんかでも宣伝していたようなんで、テレ朝がまるっきり悪くないと言うわけではないんだけど。

 その懐かしの映像だけども、元より30分間でしかも新作アニメがくっついているのだから、ろくに放送されるはずがないということも、なんとなくわかっていた。
 結局そのとおりになったわけだけど。

 つまり僕が言いたいのは、「期待しすぎ」だったってこと。
 もう少し冷めた視点を持った方がいいと思う。

 新作アニメについては可もなく不可もなくといった印象だったので、具体的な感想は控える。
posted by 銀河満月 at 15:40| Comment(0) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする