2010年10月11日

「心をゆらして」、「だからみんなで」、そして「海はぼくらと」

 去る9月26日、藤子ファンサークル「ネオ・ユートピア」主催の藤子アニメ上映会に行ってきた。
 2年に一度開かれるこのイベントには僕も前々回から参加するようになり、その都度このブログでも紹介してきた(2006年2008年)。

 今回ももちろん「日本テレビ版ドラえもん」が上映されたのだけども、それ以上に素晴らしい内容になっていたのは、上映会の一番最後に行われた、岩渕まこと氏のコンサートだ。
 藤子ファンには今更説明の必要もないほどに周知の事実だと思うが、岩渕まこと氏は最初期の映画ドラえもんの主題歌・挿入歌を歌った方だ。
 「宇宙開拓史」の「心をゆらして」、「大魔境」の「だからみんなで」、そして「海底鬼岩城」の「海はぼくらと」。映画ドラえもんの主題歌イメージを決定付けるのに貢献した3つの歌をすべて歌唱されている。
 3曲とも武田鉄矢氏の情感溢れる詞に、菊池俊輔氏の優しいメロディラインが加えられた、まさに最初期映画ドラを象徴する名曲と言っていい歌だ。
 「心を〜」ではのび太たちとロップルたちの別れのシーンに流れ、二度と会うことが出来ないであろうことを悟りながらも相手を送り出し、また見送られて去っていくという感動的なシーンを一層盛り上げていたし、「だから〜」「海は〜」は激化してきた敵勢力との厳しい戦いを終えて平和な日常に戻った5人を癒すかのように、エンディングを優しく彩っていた。
 そんな歌を歌ってきた方がファンの目の前で歌を披露してくれるというのだから、期待しないではいられない。

 で、「海はぼくらと」から「だから〜」、「心を〜」の順番で歌ってくださったのだが、「海はぼくらと」は岩渕氏自らギターを使っての弾き語りで歌ってくださり、オリジナル版とは異なるバージョンを聴くことが出来た。
 何よりも驚かされたのはやはりその歌いっぷりだろう。30年前とまったく変わらないどころか、昔よりも増したのではないかと思われるほどの圧倒的な声量で、情感たっぷりに3曲を歌い上げておられた。
 良い意味で信じられなかった。無論岩渕氏はプロの歌手なのだから、きちんと歌えて当然と言えば当然なのだけど、あれほどまでに30年も昔の歌を、昔よりも魅力的に歌うことが出来るとは、正直思っていなかった。
 プロの歌手の生の歌声を聞く機会自体、僕はあまり持ったことはないのだけど、今回は本当に素晴らしかったと思う。誇張でもなんでもなく、聞いているうちに自然と目頭が熱くなってきてしまったのだが、こんな経験も生まれて初めてのことだった。
 コンサートの前に、劇中で岩渕氏の歌われた3曲が劇中歌として使われたという関係で、アニメ版「エスパー魔美」の「スランプ」という話が上映されたのだが、この話の原作漫画版には、ゲストキャラの任紀高志(昔は大スターだったものの今は落ちぶれている、岩渕氏の歌はこのキャラの往時の持ち歌という設定)が持ち歌を魔美やピストル強盗の前で披露した際に、魔美や強盗が「すごい歌いっぷりだなあ」「なんだか背すじのあたりがゾクゾクするわ」と感想を漏らすシーンがあるのだけど、まさに岩渕氏の生歌を聞いた僕がそのままの感想を抱いたのだ。体が自然に歓喜に震えてくるという感じ。
 (ちなみに岩渕氏はこの「スランプ」の内容を踏まえて、壇上に上がった時に「任紀高志です」と自己紹介して会場の笑いを誘っていた。日本のみならず世界各国でコンサートを開いているということだが、聴衆を取り込むトーク術も一流でした。)
 このコンサートに参加できたというだけでも、今回の上映会に参加できた意義があったというものだ。

 「日本テレビ版ドラえもん」は、今回は「おせじ鏡大騒動」と「くるった腹時計」が上映された。OP映像のあたりには今までとはちょっと違う技巧も凝らされていたが、肝心の話自体は、やっぱりアレだよなあ。
 富田ボイスのドラえもんに慣れてしまう日が来るとは、つい5年前には想像もしなかったけどね(笑)。

 しかし世界各国でコンサートを開いているという岩渕氏もそうだけど、もう結構なお歳なのにあのあたりの世代の方々は本当にエネルギッシュだなあ。
 帰り際に某氏と話をしたのだけど、「自分らがあの年齢に達してもあんなに飛び回ることは出来ないですねえ」「飯買いに近所の店行くのさえ面倒なのに」みたいなことを言い合ったりしたわけで、なんとも情けない話だ(笑)。
posted by 銀河満月 at 14:22| Comment(0) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月18日

長期間放送のツケ

 色々思うところあってリニュ版ドラのことを書こうかと思っていたら、こんなありがたくない記事が飛び込んできた。


<ドラえもん>スネ夫の家に3Dテレビ のび太の家の地デジ化も課題に 17日放送


 別に記事の内容がおかしいと言うわけではない。この記事についているコメント欄の内容が異常すぎるのだ。
 2005年のリニュ版ドラ放送開始時によく見られた批判・文句が、ほとんど同じ内容のままでコメントされており、さらにひどい内容まで散見される。
 5年経ってもこのザマなのだから、呆れ返ると言う外ない。

 一番多いのは「今のドラは昔のと違って性格が変わった」とかいう類のコメントだけど、この種の批判についてはもはや相手にする必要もなかろう。
 今のリニュ版ドラは大山ドラ時代のコピーを目的として作っているわけではない。あくまで「藤子・F・不二雄が描いた漫画『ドラえもん』」をアニメにしているだけであって、「漫画のアニメ化」における回答の1つとして今のアニメを作っているに過ぎない。別に大山時代のドラを踏襲するために今のアニメを作っているわけではないのだ。
 だから昔と今とが違っているのは当たり前で、逆に同じだったらそっちの方が問題になる。結果としての作品の出来不出来はともかく、安易に大山ドラの劣化コピーを目指してしまいがちなところを、一から原作ドラえもんのアニメ化を行おうとするその制作姿勢は、きちんと評価されるべきだろう。
 「今の声優がひどい」云々なんてのも同じ口だ。結局自分の気に入る声ではないから文句を言っているだけのコメントがほとんどである。
 別に気に入らないならそれでいいが、それで作品そのものを批判したつもりになってもらっては困る。それは単なる好き嫌いの範疇だ。
 挙句に「声優を変えるべきではなかった」などという、もはや定型文的な様相を呈してきている文句。
 こういうことを書く人たちはメインを努めた声優陣5人のうち2人が、勇退後にガンを患って手術を受けていたと言う事実を知っているのだろうか。

 ひどいのは「『ドラえもん』に、流行に合わせたような現実の道具(ここでは3Dテレビ)を出して欲しくない。昔はそんなの出さなかった」みたいな文句である。
 こういう人は一体ドラの何を見てこういう文句を言ってるんだろうね。
 スーパーカーブームが来ればスーパーカーを出し、チョロQが流行れば「チョコQ」として登場させる、ミニ四駆が話題になればミニ四駆を出す、ロッキード事件が起きれば「記憶にない」と言わせる、日航逆噴射事故が起きれば「機長、なにをするんだ!」と言わせる。
 そもそも秘密道具にしたところで「友だちの輪」、「百万ボルトひとみ」、「ドッキリビデオ」、「ざんげぼう」などなど、その時代ごとに話題になったことのあるネタを道具として昇華させている。
 それが「ドラえもん」という作品である。ドラはむしろその時代時代の流行を敏感に感じ取り、積極的に話に盛り込んできたのだ。
 そもそもドラに決まった時代設定はない。84年の掲載作品であれば、その時の時代設定は1984年になるのだ。
 「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」を引き合いに出して文句を言ってる人もいるが、そもそも「ドラえもん」という作品は読者のノスタルジーを掻き立てるための作品ではないし、作者であるF先生もそれを望んでいたわけではない。F先生はどこまでも現役の読者である、その時々の子供たちに向けて作品を作っていたのだ。
 有名な「空き地のある土管」にしたところで、別にノスタルジックな思いからそんな舞台を設定したわけではない。
 つまりドラ本来の作劇に照らし合わせてみれば、スネ夫の自慢の種として「3Dテレビ」が出てくることはさほどおかしいことではない。「秘密道具をすぐ使えるのび太がそんなものをありがたがるのか」などというトンチンカンな突っ込みをする人もいるようだが、そういう人は「虹のビオレッタ」を百回くらい読めばいいんじゃないかな。

 まあほとんどがそんな感じの文句なのだけど、そういう文句の類とはまったく別次元で問題のあるコメントがあったので、それについても触れておこう。
 そのコメントはこういう内容だった。

 「それは藤子Aが担当したネームだと思う」

 バカすぎる。A先生がドラえもんには一切タッチしていないことぐらい、それこそちょっと検索をかければすぐわかることだろうに。
 それともどっかの三流ゴシップ誌が書いてた「実はA先生も描いてた」説を信じてしまってたりするんかね?


 たかがyahooニュースのコメント程度にムキになって批判することもあるまい考える方もいるだろう。
 しかしそれこそ今と昔とでは、情報伝播のスピードがまるで異なる。スピードだけが異常に早くなり、その情報の真偽についてはあまり重要視されていないのが現状だ。
 そんな現代において、私的感情による文句やあからさまな間違いが公の場所に記述されてしまっている。そしてそれを見ただけで「リニュ版ドラはダメな作品だ」と、人の意見を鵜呑みにしただけなのに、さも自分自身が判断したかのように勘違いしたままの認識を抱く人が必ず出てくる。
 かつてドラえもん最終回同人誌が、一介の同人誌とは思えぬ早さで一般層にまで浸透してしまった現実を考えれば、あながち的外れな見方とは言えないだろう。
 だからこそ個人個人が書き込む内容をよく吟味しなければならない。個人のメモ帳ではない、公に公開されている場所だからこそ、「自分の書きたいことを書き込んだ」だけでは済まない事態に発展することもありうると言うことを、きちんと認識しておくべきだろう。
 もちろんリニュ版ドラが百点満点の出来とは思っていない。しかしだからと言って、個人の単なる文句や間違いを根拠に作品全体を批判していい理由にはならないのだ。

 これも長い間休むことなく放送してきたことの弊害なんだろうな。一回休んでおけば、出来はどうあれ大山ドラとはきちんと区別されて扱われたことだろう。連続して放送を続けるから、「リニュ版ドラは大山ドラと同じ作品観である」と考える人が出てくるわけで。
 無論好き嫌いはあっていい。リニュ版ドラが嫌いならそれでいい。だがそれをネット上に文章として残すなら、それが個人の単なる好みであって作品の出来不出来とは無関係であることを、一緒に示した方がいいだろう。
 尤も「自分の好みに合わないからこの作品はダメな作品」と、短絡的に決め付ける人間が多いのもまた事実なのだけども。
posted by 銀河満月 at 01:27| Comment(0) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月20日

「スーパーマン…、ノビタとか言ったな。うでききのガンマンと聞いた。」

 昨日放送された「ドラえもん 新のび太の宇宙開拓史」を見た。
 正直な話、最初は見る気はなかった。おおはたさんがブログに書かれた感想を見て、大体は把握できたからである。
 僕は基本的には他人の感想とか評価と言うやつはあまり当てにしないで、自分で見た上での感想を大事にするが、おおはたさんの作品を見る視点やその内容については、個人的にも我が意を得たりという部分が多く、数年来の付き合いで、ブログに書かれている感想には嘘は一切なく、正直に作品に向かい合って書かれた感想だと自分では理解しているので、おおはたさんの作品感想・論評はずっと以前から信頼している。
 なので今回も見る必要はないだろうと思っていたのだが、やはり一度は自分の目で見るべきだという考えも同時にずっと持ち続けていたこともあり、今回は一緒に大山ドラの第1話も放送されると言うので、そのついでという意味合いも含めて、見てみることにしたわけだ。

 …まあぶっちゃけた話、みんなが言うほどひどい話にはなってないだろうという思い込みはあった。いくらなんでもあのしっかりした原作を普通にアニメ化すれば、素人でもそこそこ面白いものが出来るだろう。
 ましてプロの作るアニメである。そんな出来の悪い内容にはなってないだろう、オールドファンはやはり原作漫画を第一に考えてしまうから、評価が辛口になってしまうんじゃないだろうか…。
 みたいなことをチラッと考えたりもしてたんですよ、見る前までは。


 うん、はっきり言っておおはたさんがブログに書いたとおりの出来だった。あの原作をあそこまでダメな内容に変えられるとは思っていなかった。それほどにひどい。
 オリジナルならばまだ許容できる部分もあるかもしれないが、これはF先生の描いた原作をベースにしているのだ。にもかかわらずの体たらくである。
 おおはたさんの感想と同じになってしまうから、書くのはちょっと気が引けるのだが、まず演出が全体的に平板すぎる。
 緩急というやつがほとんど取れておらず、一本筋のストーリーをただそのまま考えなしに流しているような感じなので、本来盛り上がるべきシーンがまったく盛り上がっていない。
 のびドラが初めてガルタイトの連中を退けるシーン、超空間が切れるかもしれない危険を顧みず、再びコーヤコーヤに向かうシーン、コア破壊装置を止めるシーン、ラストの別れのシーン、そしてのび太とギラーミンの対決シーン、盛り上がって当然のシーンがてんこ盛りであるにもかかわらず、その一切が流れ作業的に淡々と描写され、終始盛り上がることなく終わってしまっている。
 ただ声をギャーギャー張り上げれば盛り上がると言うものではない。声はかなり威勢が良かったりもしたが、それだけのことなのだ。場面自体を盛り上げるには至っていない。

 最大の問題は上にも書いた、ギラーミンとのび太の対決シーンをあまりにもあっさりと描きすぎたことにある。
 こういった冒険活劇のクライマックスを締めるために不可欠な要素として、「ボスキャラと決着をつける」と言うものがある。ボスキャラ的と言うか、明確に倒すべき存在(抽象的なものではなく、物理的なもの)を倒してこそ、「目的を達成した」というカタルシスを、見ている人間が容易に抱くことが出来るし、そこに至るまでの流れを盛り上げることで、クライマックスのシーン全体を盛り上げることも出来る。
 この作品については、ギラーミンがボスの立場になっている。原作では本社から来た用心棒と言う立場ではあるが、最終的にのび太に決闘を挑むことで、「のび太たちが倒すべき敵」というポジションを得ているのだ。
 そしてそんなギラーミンをのび太が、あの弱虫で意気地なしののび太が、数少ない特技である射撃の腕を生かし、生来の気弱さが災いして勝負の瞬間に意識が遠くなってしまいながらも、どうにか強敵を倒すという流れこそが、本作最大のクライマックスであったのだ。
 原作をよく読めばわかるが、コア破壊装置を止めること自体は物語上の決着として描かれているが、ギラーミンをのび太が自分自身の手で倒した時点で、実質的にはガルタイト鉱業との決着はついているのである。

 そんな大事なシーンをああもあっさりと済ませてしまった。
 だがこのこと自体は方法論としてはさほど悪くない。スタッフにとって、このシーンをクライマックスとして盛り上げることは、今回のアニメの企図と照らし合わせてそぐわないと判断したのであれば、原作漫画ファンとしては不満ではあるものの、まあ理解できる見せ方ではある。
 最大の問題とは、この対決シーンに取って代わったはずのクライマックスシーンが、まったく盛り上がっていないことなのだ。
 今回のこの映画のダメな部分は、すべてこの「平板な演出」に尽きる。
 恐らくスタッフの意図としては、コア破壊装置を止め、モリーナと父親との再会をクライマックスに持ってきたかったのだろう。そのためにのび太とギラーミンの対決シーンを削ったのだろうと言うことは、見れば容易に想像がつく。
 しかし原作で一番盛り上がったシーンを犠牲にして出来たシーンが、まったくクライマックスにふさわしくないシーンになってしまったのだから、これでは見ている方が肩透かしを食らった感じになってしまうのも仕方がない。
 モリーナというキャラクターをもっと魅力的に描くことが出来ていればよかったのだが、それが出来ていたとはお世辞にも言えない。

 この「新宇宙開拓史」は、「クライマックスが盛り上がらなかった」作品ではなく、「クライマックスを盛り上げられなかった」作品なのだろう。
 盛り上がるクライマックスと言うやつは、クライマックス部分の設定とか描写だけをポンと放り込んだだけで盛り上がれるものではない。
 そこに至るまでの様々な過程を丁寧に、かつ丹念に描くことで、そこに至るまでの話の流れ、各キャラの心の変遷等を一気に集束させることで、初めてクライマックスは盛り上がるのだ。
 それをおざなりにしてしまった時点で、クライマックスが盛り上がろうはずもない。
 あまり言いたくはないが、この映画に関する限り、見所と呼ぶべきシーンはない。起伏のまったくない、平坦なストーリーを最後まで見続けるだけの映画。そんな感じだ。

 ただあえて言うなら、モリーナの設定とか行動、セリフ自体は、言われているほど悪いものではなかった(そんなに良くもないけど)。
 ただ肝心要の「声」がすべてを台無しにしてしまっている。
 只でさえハスキーボイスなのに、心情の表現にまったく緩急がついていないから、単にいつもイライラしているだけの女に見えてしまうのだ。
 逆を言えば、モリーナの声をしっかりした声優さんが演じていれば、脚本や演出上の意図を超えて、少しは深みのあるキャラクターになれたかもしれない。そうすればラストの再会シーンも、完成作品よりは盛り上がったに違いないのだ。
 それを思うとゲスト芸能人枠というものは、百害あって一利なしだと改めて思う。クレムに至っては本当に聴けたものではなかったし。


 他にも言いたいことはあるけれど、1年前の作品に今更どうのこうのと言ってもあまりいいことはあるまい。
 ただ、かなりしっかりした出来栄えの原作「宇宙開拓史」を以ってしても、この出来栄えである。
 来年に控えている「あの作品」、一体どうなってしまうのだろう。この映画を見た時点では不安しか抱けない。
 それでも来年の映画は劇場まで見に行こうと思う。「宇宙開拓史」でこういうことをしでかしてしまったからこそ、来年の映画はリアルタイムで、劇場で鑑賞すべきだろう。
posted by 銀河満月 at 00:52| Comment(0) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月14日

「のび太の耳にタコができる話」を見た

 一昨日のドラえもんは久しぶりに、個人的に色々楽しめる話だったので、久々に感想でも書いてみようかと思う。

 今回放送されたのは「ペタンコスタンプ」と「のび太の耳にタコができる話」の2つ。
 このうちBパートの方は、てんとう虫コミックス39巻に収録されている「具象化鏡」が原作になっている。
 この話は原作ドラえもんのあらゆる話の中で僕が一番好きな話であり、道具そのものも一番好きな道具である。
 それだけにかなり思いいれもあるので、リニュ版ドラでどのようなアニメ化が成されるのか、興味があったのだ。

 全体としては原作の流れに沿ったオーソドックスな作りだった。
 原作では登場することわざや慣用句の一部をナレーション的な説明で終わらせる部分がかなりあったが、元来ナレーターと言うものが存在しないアニメ版ではそれを忠実に再現させることは難しかったようで、今回のアニメ版ではドラをのび太についていかせることで、慣用句などの解説を行わせていた。
 これは妥当な改変だろう。ちょっとそのせいでテンポが悪くなってしまっている部分もあったが、この程度は十分許容できる範囲だ。
 ただ「言葉の上での表現が現実になる」というナンセンス極まる描写は、このアニメ版でも遺憾なく描写され、さらにそこに「色」と「動き」が加わることで、道具の効果が発揮されている部分に関しては、原作漫画以上のインパクトを発揮していたと言える。
 ラストの「春の足音」に関しては、もう少し時間をかけてゆっくりと叙情的な演出をして欲しかったところだが、それでも原作と同様に穏やかな感じのクロージングになっていた。
 大山時代のアニメ版では放送時期の関係もあって、「春の足音」に関する部分は丸ごとカットされてしまっていたからね。

 いくつか不満を上げるとすれば、原作で味わい深かったエキストラキャラ(「絶望のどん底」に落ちたのび太を助け上げる通りがかりの人)がいなかったところか。
 あとは、これは欠点と言っていいのかどうかわからないのだが、「耳にタコが出来る」で耳に生物のタコが出来てしまうのは、あれは正直いかがなものかと思う。気にしすぎだとは思うのだけど、完全に間違っていることを正しいことのように演出してしまっていいものだろうか。
 この道具は言葉上の表現がストレートに現実のものになるわけだから、間違った解釈が現実化したりはしないのだけど。
 むしろここで、この場合の「タコ」と言うものがどういうものなのかを、さらっとでいいから説明させておくべきだった。ドラえもんという解説役も同行していたのに、非常にもったいない。
 あと、個人的にサブタイは変えるべきではなかったな。あの「具象化鏡」という、短くて漢字だけのタイトルだからこそ印象深くなるのに。

 まあそれでもBパートの方は十分楽しめた。
 問題はAパートの方だろう。ジャイアンのいとこが怒り出すシーンで、「目を釣りあがらせて巨大になったイメージで威嚇し、それを見て手足をバタバタさせて恐怖するジャイスネ」なんて、一体何十年前の作品から引っ張ってきたのかと苦笑してしまったよ。
 あの古臭い演出だけでAパートはダメになったと言っていいくらいだ。
 そもそも原作におけるあの場面は、ガランとなった部屋で満足そうにしているジャイスネのコマから、次のコマ(ラストのコマでもある)でいとこに追いかけられているジャイスネを、事情をまったく知らないのびドラが不思議がりつつ見つめる、という絶妙な間の取り方こそが面白いのであって、あそこでジャイアンのいとこが具体的に起こる描写を入れると言うのは、原作漫画の持っていた良い部分をわざわざ消してしまっていることになる。
 今のリニュ版ドラは場面場面では良いところも多いのだけど、こういう肝心要の部分で大きなポカをやらかすからイカンのだよな。


 そう言えばもう映画も始まっているんだったな。
 来年の映画作品は「アレ」になるらしい、という情報も聞いたのだけど、果たしてどんな出来栄えになるのだろうか。
 今回の映画は時間の都合もあって見に行けるかどうかは難しいけども、来年の映画はどうしても見に行かねばならんだろう。
posted by 銀河満月 at 02:30| Comment(0) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年02月13日

「怪物くん」実写化だってぇ!?

 ということらしいですよ、マジで。


 …なんと言えばいいのか、かなり真剣にこの作品の企画書を読んでみたい。
 何をどんな風に考えれば「怪物くんを実写ドラマ化しようぜ!」という発想に辿りつくのか、その思考の筋道をぜひ追ってみたいところだ。

 まあ始まる前から偏見に満ちた意見を言うのは失礼だと思うのだけど、どう見ても一般的なドラマとしては成り立たないだろうから、ここは良い意味でのネタに走るべきではないだろうか。
 例えば新旧アニメ怪物くんを担当した白石冬美・野沢雅子のお二方をゲストで呼ぶとか、ノンビラスの着ぐるみ造形を開米プロかレインボー造形企画に頼んで、本式のミニチュアセットを組んで撮影するとか。
 あ、A先生はたぶんどこかでゲスト出演すると思う。なんとなく(笑)。
 一番いいのは旧アニメ版と同様に淀川長治氏が解説役をしてくれることだったのだが、ご本人はとっくに他界されているからなあ。
 この企画があと15年ほど早く出されていたら良かったのだけど。

 主演はジャニーズの人らしいけど、これについてはもう今さらどうこう言ってもしょうがないだろう。必殺シリーズにおいてさえ、その主演をジャニーズが独占する時代なのだから。
 はっきり言って見る気は起きないのだけど、ソフト化なり再放送なりを将来してくれるかどうかもわからんキワモノ的企画だし、一応録画だけはしておこうかな。
posted by 銀河満月 at 22:54| Comment(0) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月27日

あれから13年が経ちました

 色々あって23日当日にブログを更新することは出来なかったのだが、今年もまた巡ってきた。
 今更言うまでもなく、9月23日つまりは藤子・F・不二雄先生の命日である。
 同じような書き出しで始まるエントリを、今からちょうど2年前に書いたことがあるのだけど(これ)、読み返すとなんとも悲観的な内容だ。もちろん書いた当時からして、藤子作品の未来について希望的観測はまったく抱いていなかったのだから、ああいう文章になってしまうのは仕方がなかったろう。
 それを思うと、たった2年間で随分と状況が変わったものだと思い知らされる。

 これまた言うまでもなく、今年は「藤子・F・不二雄大全集」が発売されている。
 このような形でF先生の作品を「完全」に読むことなど、つい2年前には、いや昨年の段階でも想像すら出来なかったことなのだ。
 ドラえもんやパーマンはともかくとしても、オバQやジャン黒などは、もしかしたらもうずっと読むことは出来ないのではないか、新規の単行本などが発売されることはないのではないか、などと暗澹たる未来図しか浮かばなかったものである。
 それが今やバラ色の未来図をある程度約束されたようなものなのだ。なんと素晴らしいことであろうか。
 間違いなく今年はF先生没後の13年間の中で、最もF先生関連の情報やネタが充実している時だろう。
 何度でも言うが、本当にいい時代になったものだ。

 こんないい気分でF先生の命日を迎えたのは、ドラえもんプラスが発売されていた時期以来だ。
 逆を言えばF先生ほどの業績を残された方の作品であっても、それを全集と言う形態で発売するのには10年以上もの歳月を要しなければならなかったと言うことにもなるのだけど。
 ともあれ、できるなら来年以降も当分は、F先生の命日をこういう晴れやかな気分で過ごしたいものだ。
posted by 銀河満月 at 17:45| Comment(0) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月03日

突然の訃報

 今日はGoogleが面白いネタを提供してくれたと思っていたら、突然の訃報が舞い込んできた。
 おおはたさんのブログを読んで初めて知ったのだが、「藤子アニメだいすき!」の管理人である、あるばたいんさんが亡くなられたという。

 このサイトを僕が初めて拝見したのは学生時代の頃だから、ちょうど今から10年ほど前になるだろうか。
 藤子アニメ関連のデータ量そのものもすごいと思ったが、何よりも驚かされたのは「チンプイ」に関する情報量の多さだった。
 チンプイは初出の形態が他の作品よりも特異だし、当時の時点で単行本は絶版状態で、文庫本なども一切出ていない、藤子F先生の最後期作品にもかかわらず、当時にしてほとんど作品を読むことが出来ない状況だった。
 僕も全話読破したわけではなかったものの、サイトの情報量に魅了され、子供の頃に読んだ「チンプイ」のことを懐かしんだことを今でも覚えている。
 インターネットと言うものが一般に普及し始めた頃から存在していた「藤子アニメだいすき!」は、まぎれもなく藤子サイトの黎明期を支えた代表格の1つであろう。

 あるばたいんさんご本人に初めてお会いしたのは、2006年春、「のび太の恐竜2006」観賞後の集いだったと思う。
 落ち着いた態度で言葉も比較的ゆっくりと話し、自分からグイグイと話を振ってくるような方ではなかったが、その分話しやすい方でもあった。
 特撮ネタにも精通されていたので、僕とはよくお会いした当時のウルトラやライダー最新作などについても話したことがある。最後にお会いした昨年末のオフ会でも、レスキューフォースの劇場版を見に行くかどうするかについて話したものだった。
 丁寧で明るいイメージのサイトやブログの管理人らしい、穏やかな人というのが、初めてお会いした時から抱いている印象である。
 オフ会でのカラオケでは何度か「お願いチンプイ」を歌ったことがあったが、その時とても楽しそうに歌われていたのも印象的だった。

 先月開かれたオフ会では事情で参加できないと言うことは聞かされていたものの、まさかこのようなことになるとは思ってもみなかった。
 僕なぞはすっかり見るのを忘れてしまっていた「ウルトラギャラクシー 大怪獣バトル」もきちんと見られていたようなので、年末公開の「ウルトラ銀河伝説」もきっと楽しみにされていただろう。
 そう思うと何とも残念な気持ちで一杯になる。


 あまり深い付き合いのなかった僕が言うとおこがましく聞こえるかもしれないが、今はただご冥福をお祈りいたします。
posted by 銀河満月 at 23:02| Comment(0) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

9月3日のGoogleが素晴らしすぎる

 なんと素晴らしいのだ、Googleよ!

 と言うことでマイナス103歳の誕生日おめでとう、ドラえもん。今年は久々にドラファンや藤子ファンにとっていい年になりました。できるならこういういい感じがあと数年続いてくれるといいねえ。

 さあ、みんなで藤子・F・不二雄大全集を買おうぜ!(笑)
posted by 銀河満月 at 02:00| Comment(0) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月25日

ついに出たぞ!藤子・F・不二雄大全集!

 さてさて、ついにこの日がやってきた。
 昨日24日、待ちに待った「藤子・F・不二雄大全集」の第1回配本分が発売されたのだ。
 僕は結局小学館オンラインで全巻一括予約をしたので、本屋に行くことなく、毎月家に配達されることになる。

 まず手にとって思ったことは、やはりでかい!通常の単行本とか文庫よりも大きいサイズだし、何よりページ数が多いこともあって、手に持つだけで充実感が味わえてしまう。
 装丁も落ち着いた感じでまとめられており、いかにも「全集」といった雰囲気を見せている。
 表紙に書かれているタイトルくらいは、各作品ごとのタイトルロゴを使用して欲しかったところだけど、実際に表紙部を見てみると、前述の通り落ち着いた雰囲気で統一されているだけに、タイトルロゴを持ってきていたら、かえってちぐはぐな印象を与えることになっていたかもしれない。

 今回の配本は「ドラえもん」「オバケのQ太郎」「パーマン」の1巻。
 特にドラは収録作品の都合上、かなりページ数が多くなっており、恐らく全集の中でもトップクラスの分厚さだろう。
 正直に言えば少々読みづらい気がしないでもないが、肝心要の収録・掲載内容が、それを補って余りある素晴らしいものになっているだけに、その程度の不満は瑣末なものと言えるだろう。

 今回配本の3冊は基本的にカラー原稿も二色印刷されて入るが、巻等にはカラー口絵の特集が組まれており、巻末の初出リストでその口絵がどの話のものかわかるようにもなっているので、特に不満は感じない。
 その巻末には初出掲載リストの他に、「特別資料室」なるコーナーも用意されており、「ドラえもん」では小三版第1回「机から飛び出したドラえもん」と「愛妻ジャイ子!?」に、掲載当時収録されていた人物紹介や家系図が掲載されている。
 本編の話ではすべて「しずか」の名称で統一されているが、連載開始当初は「しず子」という名前であったと言うことも、このあたりの資料から読み取ることが出来る、親切仕様になっている。
 そして本編だが、巻等にある「作者の意図ではない要因で改変が行われていたと考えられる場合は、原則として可能な限り本来の姿にもどすように努めました。」の言葉どおり、以前から懸念されていたセリフ改変が、可能な限り初出版に戻っていた。
 具体的には「パー」「ちょうちょ、ちょうちょ、ヒーラヒラ」「手足七本目が三つ」と言った部分だろう。
 ただその一方で「古道具競争」内のママのセリフ『わたしくるっちゃったらしいの』が『わたしおかしくなっちゃったらしいの』のままだったり、「出さない手紙の返事をもらう方法」のセリフ『ママは怒りくるうぞ』が『怒りまくるぞ』となっている。
 このあたりは先生が存命中にセリフを改変したと言う解釈をすればいいのだろうか。
 「狂う」と言う言葉を意図的に排除したようにも思えるのだが、「ドラえもんだらけ」での『ついにくるった』という言葉はそのまま使われているようだし、ちょっと判断に迷うところだ。
 他にもセリフ関連ではいろいろ話すべき部分があるのだけど、それを逐一ピックアップしていったらそれだけで終わってしまいそうなので、今回はこれまでにしておこう。
 次に収録内容だが、読者の年代順に収録されると言うだけあって、当然だが最初期の話ばかりが収録されている。
 ファンなら周知の事実だが、この時期の「ドラえもん」は、まだ作品の方向性が定まっていない時期だったので、良くも悪くもごった煮感漂う内容になっている。
 前述の「古道具競争」や「オーケーマイク」を始めとする、ただキャラクターが騒ぎまくるだけの話もあれば、連載開始一年目にして、「白ゆりのような女の子」や「おばあちゃんのおもいで」と言った、今に至るまで名作・良作の評価を受けている作品が発表されている。
 このような時期があったからこそ、後の安定期へと繋がっていくのはもちろんなのだが、こういう最初期ならではのカオスっぷりを一気に味わうことができると言うのも、なんだか面白いものだ。
 と同時に、F先生自らが選定していたという「てんとう虫コミックス」収録順のバランスに、改めて驚かされる。
 個人的には以前にここで書いた、小五73年3月号収録の連載再開予告がきちんと収録されていたのが嬉しかったかな。
 このブログでもサイトの方でも既に何度も言っているが、「帰ってきたドラえもん」での、やる気なく呆けているのび太の姿が、ドラえもんが帰ってしまった後ののび太の姿として記憶に残っている読者にとっては、穏やかな笑顔を浮かべつつ、今はいない親友・ドラえもんに思いを馳せるのび太の姿に、新鮮な印象を受けるのではないだろうか。

 ってあれ?ドラの話しただけでこんなに書いてしまったな。ドラ自体にももっと書きたいことがあるし、オバQやパーマンについても書きたいことはたくさんあるのだがなあ。
 とりあえず今回はここまでにしておくとしようか。さて、もう一度読み直そうっと。
posted by 銀河満月 at 22:19| Comment(0) | TrackBack(6) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月06日

こんな幸せな時代が来るとは

 つい先日、藤子F大全集のサイトでドラえもんの2巻と3巻の収録内容が公開された。
 2巻からは「小学一年生」「小学五年生」に掲載された作品も収録が開始され、ますますバラエティに富んだ作品が収録されるようになってきた。

 個人的にはやはり2巻と3巻に収録される、ガチャ子関連の話が一番のトピックスだ。
 まさか商業コミックスでガチャ子登場作品を読むことが出来る日が来るとは、本当に夢にも思わなかった。
 まあぶっちゃけて言えば、ガチャ子登場話はただドタバタしているだけで、さほど面白いとは思えないのだけど、やはり完全に忘れ去られていたキャラクターの登場作品が、ある程度気軽に読めるようになるのは、単純に嬉しい。

 あと他の注目点としては、2巻はドラミの初登場話「ハイキングにでかけよう」、前話の内容を一応引き継いでいる「がんじょう」→「ネンドロン」の収録順、そして「ツチノコ見つけた!」の収録内容だろう。
 「ツチノコ見つけた!」の雑誌掲載版は単行本収録版とオチが少し違っているのだけど、どちらのバージョンが収録されるのか興味がある。
 まあ恐らく単行本版が収録されるんだろうけど、出来るなら両方のバージョンを収録していただきたいところだ。
 3巻は個人的に大好きな「しあわせカイロでにっこにこ」と、久々に読み返してみたい「シャラガム」が楽しみかな。

 ところでふと思ったのだけど、今までの単行本ではトレス原稿で収録されていた話はどうするのだろうか。
 今までどおりにトレス原稿を収録するのだとは思うけど、できるなら初出雑誌から直接取り込んだりして、藤子F先生ご本人の筆になる作品をやはり読んでみたいところだ。

 しかし新たな情報が出てくるたびに、どんどん期待値が高まっていくなあ。こんな感覚は本当に久しぶりだ。
 にもかかわらず僕はまだ予約をしていなかったりする(笑)。もう面倒だから小学館のオンラインで全巻予約してしまおうかなあ。
posted by 銀河満月 at 23:13| Comment(0) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月14日

「藤子・F・不二雄大全集」で小学館が本気出した

 前回のエントリで「ビッグコミック」に掲載された広告の紹介を下ばかりなのだが、もう既に書店において藤子F大全集のチラシが配布されているらしい。
 予約票も一緒についているようなので、またどこかで予約しなければならないな。
 いつまで今のアパートに住むかわからないから、東京近辺の本屋で予約するか。

 で、そのチラシには大全集の内容がかなり詳しく書かれているのだが、読む限りではかなりすごいことになっているようだ。
 まず収録形態だが、発表誌ごとにバラバラになっている作品を、すべて掲載年順に収録するらしい。
 チラシに載っている「パーマン」を例に取れば、学年誌版の第一回と、少年サンデー版の第一回をそれぞれきちんと収録してくれるようだ。
 それは「ドラえもん」も例外ではなく、連載開始時の70年1月号から順にきちんと収録して行ってくれるとのこと。
 ある程度の色がついているカラー原稿についてはそのまま収録するとも書かれている。さすがにフルカラーの原稿をすべてカラーで収録するのは難しいだろうが、四色刷り程度の原稿であれば、きちんとそのまま収録してくれるらしいので、これまた非常に嬉しい。

 そして収録される作品の各話ラインナップがまた素晴らしい。
 前回話した「愛妻ジャイ子!?」を含め、当時の「小学三年生」「小学四年生」に掲載された作品は、すべて収録されることになるようだ。
 無論、今では幻となっている71年版と72年版の最終回もきちんと収録予定に入っている。
 十年ほど前、国会図書館で時間をかけつつ複写したあの頃を思うと、なんと幸せなことか。
 しかも個人的に大好きな、「小学五年生」72年3月号に掲載された再開予告漫画まで収録してくれるというのだ。
 あくまで個人的な感覚だけども、あの最初のコマののび太の独白と笑顔が大好きなので、それを単行本で読むことが出来る日にめぐり合えることが本当に嬉しい。
 「小学一年生」「小学二年生」についてはまだラインナップに入っていないが、こちらに掲載されていた作品はページ数が少なかったり、ページ構成が特殊になっていたりするものも多いので、別にまとめるのだろう。
 できるならその時は「よいこ」「幼稚園」掲載分も一緒にまとめてほしいものだ。

 そして個人的に「小学館GJ!」と言いたくなる一文はこれ


「ねこの手もかりたい 〜手足7本目が三つ〜」


 マジで小学館がやってくれたよ。まさかこういう風に以前のタイトルを引っ張ってくるとは思わなかった。
 この部分だけを見てみても、この藤子F大全集、小学館はかなり気合を入れていると言うことが窺い知れるというものだ。

 こりゃ買わんわけには行かないよ。何年経ったら完結するのかはわからないけど、女房を質に入れてでもすべて購入しなければならんな。
 …女房なぞおらんが(笑)。
posted by 銀河満月 at 02:04| Comment(0) | TrackBack(3) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月12日

「藤子・F・不二雄大全集」第1期刊行内容が決定

 例によってブログで話題にするのが少し遅れてしまったが、今年の夏から発売が開始される「藤子・F・不二雄大全集」第1期の刊行内容が判明した。
 と言っても公式サイトにはまだ書かれておらず、今のところは先週の「ビッグコミック」に載っている広告に書かれているのみなのだけど。

 で、気になる刊行内容を見てみると、以下のようになる。

・ドラえもん    1〜8巻(続刊)
・オバケのQ太郎  1〜5巻(続刊)
・パーマン     全8巻
・キテレツ大百科  全2巻
・エスパー魔美   全5巻
・バケルくん    全1巻
・海の王子     全3巻
・ジャングル黒べえ 全1巻


 …っておい、いきなりジャン黒が来るのかよ!今回ばかりは小学館も本腰を入れてきたようだ。
 ジャングル黒べえは今更言うまでもなく、ミョーな団体に文句を付けられた関係で、今では完全に絶版扱いになってしまっている、不遇の作品である(アニメ版も)。
 ただもちろん作品の内容は全然差別的なものではないから、出そうと思えばすぐに出せたのだろうけど、やはりこのような一大イベントを実施する時まで引っ張っていたと言うことか。
 ジャン黒自体は作品数もそれほど多くないから、全1巻でちょうどいいのかな。
 バケルくんも今まで発売された単行本では収録されていない話が、地味にいくつか存在しているから、それらを全部まとめてくれるのは嬉しい限り。
 セリフの改変などはこの際我慢するしかないな。残念だけど。

 しかしやはり僕としてはドラえもんの収録形態が一番気になるところだ。
 発表時系列順に収録するのが一番妥当なんだろうが、どんな扱いになるのだろうか。
 個人的には「未来の国からはるばると」と「愛妻ジャイ子!?」をどういう風に収録するのかが気になっている。
 知っている人は知っていると思うが、現在てんコミなどに収録されている「未来の国からはるばると」は、初出時の内容とは若干異なった内容になっており、雑誌掲載版には有名な「セワシが『歴史が変わっても自分は最後には生まれてくる』ことを、東京から大阪に行くまでのルートに例えて説明する」シーンは入っていない。
 このシーンは前述の「愛妻ジャイ子!?」に含まれているシーンなのだ。該当のコマ自体は特に手を加えられた様子もなく、そのまま「未来の国からはるばると」に追加されているので、普通に「愛妻ジャイ子!?」を収録すれば、まったく同じシーンが2つ存在することになる。
 その辺をどう扱うのかが個人的に興味を引かれるわけだ。もちろん下手にいじることなく普通に収録してもらうのが一番いいのだけど。
 他にも完全未収録の作品は、雑誌掲載ならではのページなんかも存在したりするから、そのへんをどんなふうに処理してくれるのか、今から興味は尽きない。

 発売は7月からということで、本当に楽しみだ。これをきっかけにして、藤子F先生関連の話題もどんどん盛り上がって行ってくれればいいのだけど。
posted by 銀河満月 at 23:30| Comment(0) | TrackBack(2) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月08日

「藤子・F・不二雄大全集」が出る!!

 今年の夏より、「藤子・F・不二雄大全集」発売開始!!

 まさか小学館がこんな動きを見せてくれるとは、なんか正直な話、都合のいい夢を見ているような気分だ。
 しかも第1期刊行分の中には、絶版状態になって久しい「オバケのQ太郎」や「海の王子」も含まれているとくれば、なんか嬉しさよりも疑わしさが先に立ってしまうのだから、我ながら嫌なファンになってしまったものだ。

 個人的にはやはり「ドラえもん」がどんな形で収録されるのかが非常に気になる。
 「よいこ」「幼稚園」分も含めてすべて収録されるのか、それとも傑作選みたいな扱いになってしまうのか。またセリフや道具名の改変は行われてしまうのか。
 「大全集」と銘打っているのだから、普通に考えれば全作収録すると考えられるのだけども、ドラえもんに限らず小学館の学習雑誌に掲載された作品の中には、ページ構成などの問題で単行本に収録しづらい作品も少なからず存在するのだ。
 ドラえもんで言えば「どうぶつ語ヘッドホン」なんかが当てはまるだろうか。
 それらも巧く編集して収録してくれるのか、それとも見送るのか、ここら辺には今後も注視するべきところだろう。

 まあ公式サイトには「藤子・F・不二雄先生の生み出された漫画作品完全網羅を目指し」と書かれているから、素直にこの言葉を信じてみることにしよう。
 いずれにせよ、最近の藤子関連のニュースの中では久々に明るいニュースであることは間違いないし、それこそ全国の藤子ファンが待ち焦がれていた一報とも言えるだろう。
 値段が気になるところだけども、結局いくらであろうと買うんだからどうでもいいや(笑)。
 早く給付金が配布されないかなあ。
posted by 銀河満月 at 00:33| Comment(1) | TrackBack(5) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月12日

40年前の「藤子アニメに対する感想」

 日本爆裂の感想を書こうかと思ったのだけど、なんか最近このブログでは鬼太郎のことばっかり書いているような気がするので、たまには別ジャンルのことを書いてみることにする。
 と言うか最近は藤子関連のネタなんて全然書いてなかったしねえ。藤子Fミュージアムについてのニュースも去年流れたけども、実際出来てからでないと、大騒ぎできないし(笑)。

 さて、去年の冬コミで僕が買ってきた同人の中に、「キャプテンウルトラ全書 増補編」と言うものがあった。
 内容そのものはタイトルどおり、キャプテンウルトラ放送当時の関連資料紹介と解説(当時のスチールからインタビュー記事やコミカライズ版の紹介などなど)なのだけど、その中にちょっと面白い記事があったのだ。
 本の中では「キネマ旬報」内のコラムでの、キャプテンウルトラに言及している記事が紹介されているのだが、その同じコラムの中で、当時放送されていた藤子アニメ、すなわち「オバケのQ太郎」及び「パーマン」についても少し触れられているのだ。
 まだアニメを専門的に紹介、評論するなどと言うことがほとんど行われていなかった時代だし、別に執筆者も本腰入れて藤子アニメを評価しているわけではないのだけど、当時の生の評価を知る上では貴重な資料なのではないかと思い、該当箇所を以下に書いてみようと思う。
 雑誌名は「キネマ旬報」67年5月下旬号の「旬聞テレビ評」。執筆者は「羽山英作」となっている。


(前文略)
 こういうテレビにうつつを抜かし、怪獣に夢中になる子供をみていると、いささかユーウツだ。かつて評判だった「おばけのQ」というマンガ映画にも相当に敵意をもやしたが、それに続く「パーマン」(TBS・毎週日曜日)も愚劣である。
 子供の抑圧された思いを、超自然的な力をもつパーマンで解放してやろうとでも思っているのだろうが、つまらぬ日常さはんじに題材をとり、お話にはどこにも子供の精神を養う一かけらのいいところもない。
 大量生産に追っかけられた粗雑などたばたで、「まんが」としての画の工夫もありはしない。

(以下略)

(註:「こういうテレビ」とは「キャプテンウルトラ」のこと、
   「おばけのQ」は原文ママ)


 …さて、いかがだろうか?
 パッと読んだ限りでは、藤子ファンなら「何言ってんだコイツ?」と思ってしまうかもしれないが、残念ながら僕はこの羽山英作氏が、普段からどのような観点でテレビ番組やドラマを評価しているのか、また白黒版「パーマン」は完全に未見のため、アニメとしての出来栄えがどうだったのかもまったくわからないため、羽山氏の評価が正しいのか勘違いなのか、その辺をきっちりと判断することは出来ない。
 ただ文中での「子供の精神を養う」という内容を見る限り、羽山氏にとって「子供向けの作品」とは、古き良き児童文学のように、あくまで子供の健全な精神への成長を促す、教訓色を多分に含んだ作品であるべきだと言う考えを持っているのだろうと読み取れる。
 仮にそう考えたとしても、教訓とまでは言わないが、考えさせられる内容が「パーマン」の中に一切ないのかと問われれば、恐らく全国のパーマンファン、藤子ファンが否定するところだろう。ただ前述の通り、これはアニメ版のパーマンについての感想だから、アニメ版が原作と大きく乖離していたとしたら、こういう感想を抱くことも有りうるわけで。

 ただ羽山氏は作品の内容を「つまらぬ日常さはんじに題材をとり」と書いているが、それこそがパーマンのみならず、数多くの藤子Fマンガの醍醐味なわけなので、その描写そのものを「つまらぬ」と感じるのであれば、もはや理屈云々ではなく、感覚的に藤子作品とは馬が合わない人ということになるのだろう。
 こればかりは個人の感性に拠るものだから、どうしようもない。

 でもこの文章を読んで1つ思ったことは、今と言う時代、マンガやアニメの中に「子供の精神を養う」ような作品が、一体どれだけあるのだろうかということだ。
 かつては数あるマンガの中でも、F先生の描くギャグマンガは異端に属する部類だった。
 マンガの主人公と言えば物語の中心になるようなパワーと才能を持つ人物と相場が決まっていた時代に、しつこく「勉強もスポーツもダメなさえないヤツ」を主役格に持ってきていたF先生の諸作品は、お世辞にも「子供の精神を養う」ような作品ではなかった。もちろんだからこそ、説教臭さを嫌う多くの子供たちに受け入れられたわけなのだけど。
 では今はどうなのか。マンガもアニメも「子供の精神を養う」ような作品が、現在どれほど存在しているのだろう?

 40年前、「子供の精神を養う一かけらのいいところもない」と羽山氏に酷評された「パーマン」。しかし今では同じ作者の生み出した「ドラえもん」が、多くの人たちに「健全な作品」として受け入れられている。
 では今現在、羽山氏が言うところの「子供の精神を養う」ような作品はどこかにあるのだろうか?
 本来ギャグマンガに過ぎないドラえもんが「健全な作品」として受け入れられるようになっているこの時代、どこかおかしくなってはいないだろうか?
posted by 銀河満月 at 16:50| Comment(0) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月27日

大山のぶ代さん、緊急入院

 軽い心筋梗塞によるものだそうです。

 ここで「初代『ドラえもん』の声」と言う記述に突っ込むのは無粋と言うものだ。
 「軽い」と書いてあるから大事には至っていないのだろうけど、心筋梗塞は物凄く死に直結しやすいものだから、この際きちんと養生していただきたいなと思う。
 僕の親も大山さんに近い年齢なので、決して人事とは思えない。
 一日も早いご回復をお祈りしております。

 と言うか、久々に書く「ドラえもん・藤子関係」カテゴリのネタがこんな嫌なニュースってどうなんだよ…。
posted by 銀河満月 at 20:04| Comment(0) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月14日

最近のドラ

 L4Uのこととか、書きたいことは結構あるのだけど、休みの日にゆっくり書きたいのでそれはまた後日ってことで。
 そう言えばもうすぐ3月も終わるから、5期鬼太郎が放送されてからの1年間も振り返ってみたいものだ。

 さて、先日からドラえもんの劇場版最新作「のび太と緑の巨人伝」が公開されている。
 そして当然のことながら僕は見に行く気は全くない。
 まあこれは作品云々よりも、だいぶ花粉症がひどくなってきつつあるので、外に出たくないという気持ちが強いからでもあるのだけど。
 だからドラよりも見に行きたい劇場版ケロロも、なかなか見に行くことが出来ないからなあ。

 そんなわけなのでもちろん今回の映画ドラについてあれこれいうようなことはしないし、僕は言える立場でもない。
 そうなんだけど、そうなんだけどさあ…。
 見に行った方々の感想をブログとかで色々検索して読んでみたんだけどさあ、ほとんどのサイトで「つまらない」「意味がわからない」とか言われている現状ってどうなんだ?
 そもそもドラ映画で「意味がわからない」ってなんなんだ?「ドラえもん」と言う作品は、子供にもわかるような簡潔な構成の中に、匠の業とも言うべきコマ割り、カット、台詞回しなどが、決して強烈な個性を発揮することなく配置され、その中に作者の訴えたいこと、伝えたいことがそっと込められている。そんな作品じゃなかったか。
 それなのに、見ている人間が意味不明になるような高尚なシーンでも出てくるんだろうか?
 いや、高尚なシーンって言ったって、意味がわかるからこそ「高尚」と表現することが出来るんだから、本当に意味のわからないシーンだったのだろうけど、なんだかその言葉自体が、「映画ドラ」の感想として出てくるあたりに、非常に違和感を感じる。
 そのくせ初日の興行成績は新作映画の中で1位とかなってるし、もはやわけがわからん。
 と言っても初日の成績が良くたって、後が続かないと意味がないんだけどな。

 ただ、僕自身は今回の映画には全く期待していない。短編作を無理やり引き伸ばした作品がどんな無残な結果を迎えるか、それは南海なんとかやら漂流なんちゃらやらで経験しているからね。
 それより僕にとってはこちらの方が重大だ。



げぇ―――――――――――――!!
来年は宇宙開拓史のリメイクだって!!
posted by 銀河満月 at 01:57| Comment(1) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月24日

二度目の「日本テレビ版ドラえもん」観賞

 先週の17日に、藤子ファンサークル「ネオ・ユートピア」主催の藤子アニメ上映会が行われたので、2年前に続いて今回も行ってきた。
 今回も「新オバケのQ太郎」を始めとした、現在では視聴困難な作品を色々見ることが出来た。
 新オバQでは「ブルトラマンよたのんだぞの巻」が流れたけども、その冒頭、劇中劇のブルトラマン活躍シーンには「レッドマン」の主題歌がかかっていたのが個人的にヒット。
 レッドマンと新オバQの劇伴担当者はそれぞれ違うので、なんでここでいきなりレッドマンの曲を引っ張ってきたのか、不思議なところだ。
 強いて言えば放送局が両方とも同じ日本テレビだったってことくらいか。

 しかし今回のメインはなんと言っても、2年前と同じく「日本テレビ版ドラえもん」の上映である。
 今回も以前と同様に真佐美ジュン氏の提供による上映である。
 今回上映されたのはまず、富田耕生版の「ねがい星ながれ星の巻」。言うまでもなく、てんコミ10巻の「ねがい星」が原作であるが、原作の展開自体は中盤あたりで消化してしまい、終盤の展開からオチに至るまでは、完全にアニメのオリジナルストーリーとなっていた。
 終盤はしずかの「弟が欲しい」発言を真に受けたねがい星が、どこからか捨て子を連れてきてしまい、その捨て子を軸に物語が展開する流れになっていたのである。
 ただ一応しずかのそのお願いは作中でも序盤に一度言われていたので、それほど強引な展開と言うわけではなかったのだが。
 なお今回は源家のお手伝いとして、ぼた子が登場しているエピソードでもあったので、そういう点でも貴重なエピソードではある。
 オチはしずかが子供らしい無邪気さを前回にして、両親に「早く本当の弟を作って」とせがむと言う、「人間製造機」に近い感じの大人チックなものだった。

 と、普通にストーリー感想を書いてみたけども、実際この話の中でのドラの声は富田ボイスだったので、以前に一度聞いたことがあるにしても、それでも聞いている間はずっとニヤニヤ笑い続けてしまった。
 で、今回見ていて改めて気づいたのだけど、よく富田時代のドラは「おっさん臭い」と言われるが、これは単に声だけの問題ではなく、演じる富田氏の演技(と言うかアドリブ)による影響も大きいと感じられた。
 例えば「〜なんだから」というセリフがあった時、富田ドラは「〜なんだから『して』」と、語尾にわざわざ『して』をくっつけて、変に古臭い言い回しにしてしまっている。
 すべてのセリフがそうなっていたわけではないのだけど、こういうアレンジが行われることで、ドラえもんがより一層おっさん臭く感じられたのではないだろうか。

 続いての野沢雅子版は「お天気ボックスの巻」。
 この話は原作とはまるっきり異なる話になっており、この思い切った改変ぶりは、最近のリニュ版ドラに通じるものがあるかもしれない。
 そして何の因果か偶然か、思いきった改変すると面白くなくなるってのも共通してるんだよね(笑)。
 話は「虹を持ってきてくれたら何でも言うことを聞いてあげる」とのしずかの言葉を聞いて、一念発起したのび太がドラの力を借りて何とか虹を作ろうとする、というのがメイン。
 序盤は「ヘリトンボ」を使って空に上がり、虹を取ってこようとするのびドラのやり取りが描かれたが、このあたりの間抜けなやり取りはいかにも原作最初期を意識している感じがする。
 そしてお天気ボックスで様々な天気を起こすことで、どうにか虹を作ることに成功するわけだが、しずかの部屋でいざ虹を作ろうとしたら、虹を作るのに必要なカードの1つを紛失してしまい、挙句に雪のカードを使ったために雪が止まらなくなってしまい、怒ったしずかに2人は追い出されてしまう。
 のび太は例によって「ドラえもんのせいだ」と怒り(実際ドラのせいなんだが)、ドラは頭をぶつけて虹の幻覚を見てしまい、フラフラになりながら「のび太にも見せてあげたい」を呟く。そのシーンでエンドとなった。
 うろ覚えの部分もあるのだが、はっきり言ってかなりつまらなかった。中盤ののび太の部屋で虹を作る際、強風のカードを使った時にのび太が窓ガラスを突き破って吹っ飛びそうになったシーンは面白かったけども、あとはどうにもテンポが悪い感じ。
 良かった点としては、前半の「ねがい星」とは打って変わって、しずかが可愛く描かれていたことくらいか。

 で、これまた今回の野沢版を見ていて思ったのだが、前回の観賞記に「野沢版のドラは怪物くんのように高い声域で、怪物くんとは違ってハキハキとした喋り方をしている、という感じか。」と書いていたのだけど、これはあまり正しい表現じゃなかったね。
 改めて聞いたら、最近で言えば劇場版の「ふたりはプリキュアMaxHeart2 雪空のともだち」で野沢さんが演じた「ムタ」というキャラクターの声に似ている感じだな。あの声色でやたらと語尾に「〜なのよ」と女口調でしゃべるのが野沢ドラ。
 …あまりわかりやすくないな。

 旧ドラの感想はこんなところか。
 個人的には話としては冨田版の頃の方が面白いと思う。この日はアンコールとして前回の上映会で流れた「潜水艦で海に行こうの巻」も流れたのだけど、それも含めて野沢時代はドタバタ色と原作からの乖離度合いが激しすぎて、ドラえもんと言うより「藤子アニメ」という範疇からも外れてしまっているように見える。
 正直な話、もし仮に旧ドラが全話発掘されたとしても、必死こいて見たいとは思えない内容だなあ。
 なんだかんだ言ってもシンエイ版ドラの方が格段に面白い。

 それ以外の上映作品としては、旧怪物くんの「怪物学校の巻」だな。
 怪物学校に入学する生徒達の出席を怪物くんが取る場面で、何の前触れもなく「『淀川くん!』→解説担当の淀川長治氏が写真で登場し解説を始める」という流れが始まったことに爆笑してしまった。
 声だけならともかく淀川氏の写真まで登場させるとは、タイムボカンシリーズのノリだ。
 やはりギャグアニメはこれくらい突き抜けてないといかんね。

 上映会後は二次会に参加して歓談。最近はオフ会とかで集まってもあまり藤子関連の話はしなくなっているのだけども、今回は色々藤子関連の話をすることが出来たので楽しかった。
 旧ドラの内容も含め、ソフト化されていない作品を観賞し、あれこれ語り合うことが出来ると言うのは、やっぱりいいものですね。
posted by 銀河満月 at 19:05| Comment(0) | TrackBack(1) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月20日

「Christmas for you!」とアノ歌

 昨日、アイマスの最新CD「Christmas for you!」が届いた。
 僕も最近はアイマス関連のCDをちょくちょく買うようになってはきているものの、このCDに関しては当初買う予定はなかった。
 しかし収録楽曲を見てピーンと来てしまい(笑)、購入に踏み切ってしまったのだ。

 その収録楽曲とはもちろん、高槻やよいの歌うカバー曲「サンタクロースはどこのひと」のことである。
 ぶっちゃけ新曲「メリー」や曲間トークよりも、こっちの方が目当てだった(笑)。

 このブログを見ているような人なら今更説明するまでもなく、「サンタクロースはどこのひと」とは、大山ドラ時代の挿入歌・ED曲である。
 EDと言っても83年のクリスマス時期に数回、あとは96年と97年のクリスマススペシャルでのEDとして使用されただけで、作品中で使われた回数は10回にも満たない、ED曲としては幻の部類に入る曲である。
 しかしこの曲の完成度はかなり高い。大山のぶ代の声もさることながら、詞の内容が本当に子供の目線に立った内容になっており、聴いていると子供が「サンタクロース」という存在について、子供なりに懸命に考えている微笑ましい光景が目に浮かぶようだ。
 もちろん曲の方もリリカルな感じの菊池メロディでまとめられており、何度聴いても飽きが来ない、まさに名曲の部類に入る局だと個人的には思っている。
 あの頃のアニメドラの楽曲はどれもレベルが高かったなあ…。

 僕自身の記憶に残っているのは、96年と97年のスペシャル時に放送されたものだけども、たったそれだけであっても僕にとっては強く印象に残る曲だった。
 その曲がアイマスのCDでカバーされ、しかも歌うのがやよいと来たら買わないわけには行かないだろう。

 で、早速聴いてみたら、「見てれぅ」とか「のろんりん」で一世を風靡?したやよいらしい歌唱になっていて、思わず笑ってしまった。
 「あかいぼうしをかぶってる」という部分が、「かぶってれぅ」と聴こえてしまっているあたりは、さすがと言うべきか何なのか。
 大山歌唱の時は、サンタクロースのことをあれこれ考えている子供を、どこか別の場所から微笑ましく見守っている第三者(強いて言えば「天の声」かな)が歌っている、という印象が強かったが(作品的に言えば天の声じゃなくて「ドラえもん」になるんだろう)、今回のやよいこと仁後真耶子歌唱の場合は、文字通り子供が主役の歌になっている。
 どちらがいいとか悪いとかではなく、歌唱者の声1つでこれほど印象が変わってしまうものなのかと、単純に驚いてしまった。
 弟たちの面倒をきちんと見ている優しいお姉さんという設定のやよいが歌うにはふさわしい楽曲だったろう。
 何より数あるクリスマスソングからこの歌を選曲したスタッフに感謝したいところだ。
 この歌の歌詞は、今となっては古風な七五調でまとめられており、そういう曲はCD中でもこの歌が唯一である。
 だから収録楽曲の中で見ればかなり異質になってしまうのだが、そういう歌まできちんと取り上げてくれたことが、ドラファンとしては何より嬉しい。

 他のカバー曲は全然知らない(笑)のだけど、新曲の「メリー」は、クリスマスソングとは思えないほど元気で軽快な曲になっており、文字通り「アイドル達がクリスマスの夜、感謝する人たちに送る歌」として仕上がっていると思う。
 詞の中に、下手な恋愛要素が込められていなかったのも良かった。

 しかしこの「C4U」を買った人の中で、新曲や他のカバー曲ではなく「サンタクロースはどこのひと」のみ熱く語るような人間は、僕ぐらいしかいないのかもなあ…。
posted by 銀河満月 at 23:41| Comment(0) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月23日

11年目のこの日に

 今年も藤子・F・不二雄先生の命日を迎えた。
 去年は他の藤子ファンの方々とお墓参りに出かけたけども、さすがに赤の他人が毎年おしかけては、故人もゆっくり寝ていられないだろうから、今年はお墓参りは控え、代わりに久しぶりにSF短編パーフェクト版を全巻通しで読んでみた。

 今更言うまでもないことだけど、SF短編を読むと、その根底にあるテーマは、一部の作品を除いて「価値観の逆転」に落ち着くことがわかる。
 旧来の価値観を意図的に打破することは、ギャグマンガではよく使われる手法ではあるので、殊更珍しいことではないが、藤本先生は「SF短編」という、ギャグではない系統の作品においてまで、このテーマを根幹に置いていたのだから、藤本先生はこのテーマによほど深い思い入れを抱いていたのだろう。
 そういう意味ではギャグマンガにおいて、価値観の変容したナンセンスな世界をずっと描いてきたからこそ、描くことの出来た作品群とも言えるだろう。
 同時にデビュー初期は「海の王子」を始めとする、結構ヒロイックな作品を書いてもいたので、そういった初期の作風と中期以降のギャグ作品で培った作風との、ハイブリッド作品と呼べるかもしれない(ハイブリッドって言葉自体が死語だが)。
 さらには「ドラえもん」で完全に世界観を構築した、「不思議な道具を日常世界に持ち込む」構図まで盛り込んでしまうのだから、その手法には驚かざるを得ない。
 改めて思う。藤子・F・不二雄と言う漫画家は、物凄い人だったのだと。そしてその人が生きている時代に、一緒に生きていることが出来た僕は、とても幸せだったのだと言うことを。

 と、藤本作品の素晴らしさを再確認したのは良かったが、今日と言う日もあって、その藤本作品について今日はあれこれと考えてしまった。
 確かに藤本先生の作品は素晴らしい。しかし今現在、藤本先生の作品をドラ以外で、一体どれほど読むことが出来ると言うのだろう?
 文庫で有名どころは発売されているし、SF短編も上述のパーフェクト版こそ店頭在庫しかないものの、文庫版は今でも普通に流通しているらしい。
 しかしそれだけではない。オバQを始めとした様々な作品が、いまだ日の目を見ることなく眠り続けているのも事実なのだ。
 ドラにしてみたところで、最近はぴかコミでだいぶ補完できているとは言え、単行本未収録の話はまだ3分の1ほどある。
 殊にオバQは深刻だ。「コロコロ伝説」1巻に新オバQこそ収録されたものの、それ以外の動きはまったくなく、旧オバQに至っては、作品がどこかに収録される気配すらない。
 オバQに関しては権利上の問題などで、取り扱いが難しいと言うのはわかる。しかしそれではその問題を解決するために誰がどれだけ動いているのだろうか。我々一般人はまったく知ることも出来ない。
 藤子プロはドラ以外の作品群を、これからどうするつもりなのだろうか。手塚先生や石ノ森先生の作品については全集が出ているが、藤本先生の作品については(安孫子先生もそうだけど)、そういう気配がまったくない。
 作品を後の世代が受け継いでいくためには、それを若い世代が容易に手に取り、読むことの出来る環境が必要である。そしてその環境を作ることが出来るのは、現状では小学館と藤子プロしかないのだ。
 しかしそのような動きは一向に見られない。これでは藤本作品を後々まで残していこうという意思がないと見られても、仕方がないだろう。
 今日と言う日にこういうことを言うのは何だが、藤本作品の未来はそれほど明るいものではないのかもしれない。

 最近のリニュ版ドラも含め、藤本作品近辺にはここ数年、あまり明るい話題はないと言っていい。
 この現状を打破するためには、結局小学館や藤子プロにがんばってもらうしかないというのも、なんとも歯がゆく残念なことである。
posted by 銀河満月 at 23:31| Comment(0) | TrackBack(3) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月15日

「ドラえもん」の楽しみ方

 「日刊スレッドガイド」さんでこんなスレッドが紹介されていた。

 この「無人島へ家出」の話も含めて、ドラの話を現実的な理屈に当てはめてどうこう考えるというのは、かなり以前から存在している鑑賞法ではあるんだけど、僕としてはちょっと違和感を感じてしまうんだよね。
 所詮はギャグマンガなんだから、整合性を求めようとしたところでそれは無意味なことだろう、と考えてしまうのだ。
 僕にとってドラえもんと言う作品はどこまで行ってもギャグマンガでしかない。しかしその「ギャグマンガ」というメインストリームの中に、大小様々なエッセンスが混ざっていることも確かであり、それらが混ざり合って出来上がったストーリーそのものを楽しむのがすきなのだ。
 だからこういう風に無理に現実の科学や倫理に当てはめるのは、あまり好きじゃないんだよね。
 もちろんだからと言って、こういう風に作品を見ることで作品世界を楽しんでいる人たちに対して、どうこう言うつもりはないんだけど。それこそ作品の受け取り方や楽しみ方なんて人それぞれだからね(それを押し付けられたら困るが)。
 ま、見方はともかく、こんな風に話題にあがると言うこと自体はいいことなのかもね。まだ「ドラえもん」という作品が一般層にも広く知られている作品だということを認識することが出来るから。
 尤もこれからはどうなるか知らんけど。

 そう言えば来週はまたあの日が巡ってきますね…。
posted by 銀河満月 at 23:20| Comment(0) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする