2018年09月16日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)23話「妖怪アパート秘話」感想

 今回の話はオーソドックスな妖怪退治話ではなく、鬼太郎を狂言回しとしてある1つのものにまつわる物語を追いかけているという話になっており、構成としては20話「妖花の記憶」と同じになっている。
 違っている点は20話はまなの大叔母とその恋人だった男性という「人」にまつわる物語だったのに対し、今話はアパートという物、と言うより「舞台」が中心の話になっていることだろう。それにより今話はアパートの管理人夫婦やアパートに集まる妖怪たちを交えてアパートの歴史そのものを追体験していく一種の群像劇・年代記として完成しており、さらに20話とは違いこの舞台には鬼太郎自身も深くかかわっているというのも、今話の特異性を際立たせている。基本が同じような構成でもアレンジ次第で如何様にでも面白い話が作れるというスタッフの自信または余裕が垣間見えるようである。それは回想場面の年代がそれぞれ68年、71年、85年と1〜3期の歴代アニメ作が放送開始された年に合わせるという、お遊び的な描写にも見て取ることができるだろう(各時代の考証をしっかり行うなど決して単なるお遊び描写だけで終わらせてはいないが)。
 この年代記的な作りは最後まで徹底しており、途中までは鬼太郎の語りによる3妖怪とアパートとの関係が、そして終盤は現在のアパートの管理人である夏美と3妖怪の関係性の掘り下げが主として描かれ、アパートにまつわる過去と現在を過不足なくリンクさせている。
 回想場面では各時代ごとに管理人夫婦と3妖怪、つまりは人間と妖怪の関係が発展していく流れを丁寧に描き、このアパートが「人間と妖怪が一緒に住めるアパート」であるということを強調している(人間の店子は妖怪に気づいていないが)。3つの時代を通してそのことを強調してきたからこそ終盤、夏美が実は幼少の頃は3妖怪の存在を理解していたということを思い出す流れに説得力が付与されている。
 人間の子供は人間の世界で生きるべきとの砂かけ婆たちの考えにより3妖怪は夏美のそばを離れ、夏美もいつしか妖怪の存在を忘れてしまった。しかし忘れてからも妖怪たちはそこに在り続けていた。歳を取らず寿命を迎えることもない妖怪たちは、1968年からずっとアパートで生きる人間たちを見守り続けてきたのである。そのことに夏美が気づいた・思いだした時、彼女の祖父母でありかつての管理人であった夫婦と3妖怪が紡いだ「家族」としての繋がりが、彼女にも再び生まれたのだろう。ここで過去と現在がリンクしたのである。
 2つの時間が繋がったその先にあるのは当然未来。砂かけ婆が管理する形でアパートは存続し、豆腐小僧を始め様々な妖怪がアパートを利用するようになってきた。夏美は外で暮らしているもののアパートのオーナーとして時折戻ってくる様子。人間と妖怪が共に暮らす場としての舞台はこれからも残り続けるわけだ。これから先がどうなるかはわからないが、紆余曲折あっても幸福な時代であった過去や現在と同様、幸せな時間を過ごすことができるものだと思いたいものである。幸福な時間をずっと妖怪たちと共にずっと見続けてきたであろう柱時計が変わることなく鎮座しているように。

 今話で自分的に注目したいのはこのアパートに対する鬼太郎の思い入れだ。
 かつて3話でまなに言っていた「妖怪と人間は近付き過ぎちゃいけない、恐れられているくらいがちょうどいい」という言葉を今話もまた口にしている鬼太郎だが、それは今期におけるこれまでの挿話の中で数々見られたとおり、妖怪と人間が近くなりすぎることで生まれてしまう悲劇や事件を数多く見てきたからだというのは間違いないところだろう。
 そんな鬼太郎が85年での地上げ屋との一件を始め、今回のアパート取り壊しの件などでもかなり積極的に動いているのは、鬼太郎のパーソナリティを考えると(妖怪が巻き込まれているからという建前があるにしても)かなり意外な感じがする。
 このアパートの件があってもなお妖怪の人間に対するスタンスが変わっていない鬼太郎ではあるが、一方ではこのアパートにおける人間と妖怪が共存している空間にどこか理想的なものを見ていたのではないか。人間と距離を置く理由が究極的にはそれに伴う怪異に人間を巻き込んでしまうのが嫌だからという鬼太郎の本心を考えると、そんな風にも考えられるのではないかと思うのである。

 次回は石妖。何と今期が初めてのアニメ化となる話だが、自分としては「このスケベじじいなにするの!」とか「とらえかたがスケベくさい!」が聞けるのかどうかが今から楽しみである(笑)。


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2018年09月04日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)22話「暴走!!最恐妖怪牛鬼」感想

 鬼太郎のファンであればよくご存知のことと思うが、鬼太郎はいわゆる無敵のヒーローなどでなく1人では勝てなかった、ギリギリの勝利だったと言った戦いはかなり多い。一度やられて復活してからのリターンマッチは定番だし、今期で言えば八百八狸との決戦では多くの仲間たちの力を借りてやっと勝つことができた戦いである。食われたり溶かされたりと色々やられながらも最後には勝利すると言うのが鬼太郎の戦いにおける最大公約数的なイメージと言えるだろう。
 そんな鬼太郎の戦歴には当然敗北に終わったものも存在している。鬼太郎は敗北し仲間たちが変わって戦うとか、正義の第三者妖怪が戦って決着をつけるとかそんな場合だ。牛鬼との戦いはそんな敗北の一つに加えられる戦いである。難しい言い方になるが、牛鬼との物理的な戦いにおいては鬼太郎が優勢のまま勝利したが、「生き死に」という根本的な勝負については完膚なきまでにやられてしまった、そんな戦いである。

 直近の5期では原作の話にかなり大胆なアレンジが加えられ、鬼太郎ファミリーに焦点を絞った物語構成になっていたが、今話は大筋は原作に沿った展開をなぞりつつ、リゾート地を目指したいが故に過去の因習を切り捨てた離島や牛鬼を見ても驚かず自撮りし出すなど、1話にも見られた現代的な描写を盛り込んでブラッシュアップするという第6期らしい物語作りが行われた。
 歴代アニメ作でも必ずアニメ化されてきたと言うこともあってか、特に鬼太郎が牛鬼に変わってしまうシーンには結構な尺とタメを用意して、鬼太郎という妖怪がさらに異形のものに変わって行ってしまう様子を画面たっぷりに描いており、インパクトが絶大なものに仕上がっている。牛鬼の作画ラインのみ他のキャラクターとは異なるタッチで描かれていることもあり(タイガーマスクWで使用されたレタッチ処理だろうか)、「別のものに変わってしまう」というイメージがより強烈なものとなって見る側に伝わったのではないかと思う。先に牛鬼に取りつかれた芸能人が結果的に死んでしまうという後味の悪さも含めて、本作屈指の恐怖シーンだったと言えるのではないだろうか。まさに最強ではなく「最恐」妖怪の所以というところだろう。
 牛鬼を退治するために神様へ祈るところは原作と同じだが、後半の展開で大きく異なっていたのはそれまでの時間稼ぎとしてねこ娘が鬼太郎の牛鬼と戦うところだろう。牛鬼であり鬼太郎でもある敵に相対するねこ娘の胸中には様々な感情が渦巻いていたのは疑いなく、それでも町の人たちを守るために牛鬼と戦うその姿は2話や3話で見せた格好いいアクションではなく、「人間を守る」という最後の、ただ一つ残された大義名分のために無理にでも戦おうとする必死の姿だった。どうしてそこまで戦うのかは言うまでもない、鬼太郎が自分と同じ立場であれば、何があっても戦うだろうから。それをわかっているからねこ娘は「人間を守る」ために戦ったのだろう。それは誰より鬼太郎自身が望むことであるのに違いないのだから。
 だから牛鬼を人々から引き離しとりあえずの安全が確保されたと察すると、ねこ娘は動きを止めて鬼太郎にその身を委ねようとする。わき起こる感情を押し殺して大義のために戦うのも限界だったのかもしれない。
 そしてそんなねこ娘やまなたち多くの人々のギリギリの思いに応えるかのように迦楼羅様が出現し、原作どおり迦楼羅様の術によって牛鬼の本体は捕まり、鬼太郎もどうにか無事に帰還するのだが、帰還した鬼太郎に思わず泣きながら抱きついてしまうねこ娘の姿は、今話だけでなく2話の頃から一貫して好意を隠しツンツンした態度を鬼太郎に向けてきた彼女だからこその感情の爆発ぶりで、ずっと見てきた視聴者であればより深くねこ娘の想いを理解できる名シーンと言えるだろう。…これだけの想いをぶつけられてなおまったくねこ娘の気持ちに気づかない鬼太郎も罪作りな奴だが(笑)。
 なおねこ娘の描写説明に文章を割いてしまったけども、市街地で暴れまわったりねこ娘と戦う牛鬼の描写も妖怪獣の時と同じく怪獣映画を彷彿とさせる重厚なものに仕上がっており、短い時間ではあったが実に濃密なシーンだったと言えるだろう。後はゲスト声優として歴代作にも出演経験のある田中亮一氏や野田圭一氏といった大ベテランが参加しており、非常に耳が幸せだった点も個人的には忘れがたい。

 次回は妖怪アパートの話になるらしいが直接該当する原作はないのでオリジナルの話になる様子。砂かけ婆が登場しているのは当然としてどんな話に仕上がるのだろう。
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2018年09月02日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)21話「炎上!たくろう火の孤独」感想

 今回登場のたくろう火、原作や3期版ではどちらも悪妖怪として登場しており、特に原作では今話と同じようにねずみ男と組んでインチキ商売を行っていたし、水木先生の描いた妖怪画が非常にいかついと言うかいかにも怖い妖怪と言った感じなので、今話のように「ねずみ男に騙されてインチキ商売を手伝わされてしまう善良な妖怪」というイメージがまったくなかっただけに、今話でのキャラシフトはかなり意外だった。
 逆を言えば原作でもあまり出番のないマイナーどころであるだけに、アニメで色々アレンジしやすかったと言うところはあるのだろうが、そのせいかキャラデザインも妖怪画に比べると少しマイルドになっており、演じる吉田小南美氏の声もあってどちらかと言うと子供っぽい存在として造形されていることがわかる。
 このようなアレンジはサブタイにもあるとおり、たくろう火の「孤独」を強調したいからという意図があったのは想像に難くない。いかつい声のおっさんよりは可愛い声の子供っぽいキャラクターの方が感情移入しやすいと言うものであろうし。そしてたくろう火の「火」もクローズアップし、ハリネズミのジレンマの如く触れたいけど自分の体故に触れられないという設定も盛り込んで、孤独でありながら内心では友達を求めている純粋な性格の妖怪として今話のたくろう火は完成している。
 純粋な性格だからこそ、同じような孤独を抱えている不思議なロボットのピグとも仲良くなれたわけだが、同時にBパートでねずみ男に大人の屁理屈をぶつけられ切り捨てられてしまうあたりは、露骨に冷めた現実を見せつけてくる今期の鬼太郎らしくてニヤリとさせられるところだが、だからこそそういう小賢しい屁理屈を吹き飛ばすたくろう火とピグの着ぐるみを被っていた正体・雨降り小僧が純粋さ故に迎えたハッピーエンドが清々しく思えるのだろう。
 …Bパートのアイキャッチでピグの正体をばらしてしまっていたのはちょっと演出上の配慮が足りなかった気がしないでもないが。ついでに言えば雨降り小僧も原作にはほぼ出たことがないにもかかわらず、アニメでは出演率が妙に高い面白いタイプの妖怪でもある。

 次回は牛鬼。最強ではなく「最恐」の妖怪は一体何が恐ろしいのか、原作でも超有名な話であるだけに6期版がどのような話になるのか楽しみである。
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2018年08月26日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)20話「妖花の記憶」感想

 さて「妖花」である。これも2期を除く歴代作品で必ずアニメ化されてきた話であるが、これは人気のある話だからという以前に、この作品が「水木しげるの作ったゲゲゲの鬼太郎」である以上、必ずアニメ化しなければならないという一種の暗黙の了解のようなものが存在しているからのように思われる。
 何故そう思わせるのか。それは言うまでもなく鬼太郎作品の中ではある1つの要素がかなり色濃く反映されているからに他ならない。その要素とは「戦争」である。
 ご承知のように水木しげると戦争(第二次大戦)は切っても切れない関係にある。ご本人が召集され南方戦線に送り込まれてまさに生き地獄を味わったことは今では多くの人が知るところだろう。その体験は水木作品のもう一つの代表作である戦記漫画に反映されており、鬼太郎を始めとした妖怪漫画の方にも大なり小なり影響を与えている、水木漫画における重要な要素の一つである。
 妖花という話は大なり小なりの「大なり」に属する話だろう。バトルどころか敵妖怪も出ず、不思議な花の秘密を追った末に今なお残る戦争の爪痕を確認するという、水木漫画としては正当と言えるだろうが鬼太郎としてはかなり異質な物語でもある。
 まして現在は2018年、原作が描かれた頃からは文字通り半世紀ほど経過している時代である。そんな時代にこの話を原作のテイストを損なうことなく描くことができるのか、不安に思ったオールドファンも少なからず存在していたのではないだろうか。実際、直近の5期では戦争と言うテーゼを除外してアニメ化していただけに、一抹の不安すら覚えた人もいたかもしれない。

 結果としては原作での花子の役回りをまなの大叔母に託すというアレンジもあって杞憂に終わったわけだが、今話ではさらに妖花を巡る出来事を通して、かつての戦争をまったく知らない世代であるまなが戦争を知ろうと思い立つまでに至る流れが加わっていた。この辺は戦争を直接知る世代の減少に伴い、若い世代が戦争に触れる機会が減っているのでどう伝えていくかが課題になっているという近年の問題を取り入れたということなのだろう。
 日本を遠く離れた南の島に昔も今も日本人がいる(いた)と言うこと自体に疎いのも、ずっと日本に住んでいる子供であれば当然の感覚だろうし、まして70年以上も前の戦争のことなど、例え学校の授業で習ったとしてもそうそう心に留めるものではない(今は知らないけど僕の子供の頃は、明治維新以降はかなり授業も適当になってた覚えがある。学期末が迫っていたりして)。「日本が一方的に攻撃されたのだと思ってた」というまなのセリフがそういう意味では非常にリアリティのある現代の子供的セリフだったと言える。
 そしてそんなまなに鬼太郎も目玉親父も「戦争があった」という事実だけを話し、それ以上のことは口にしていない。ねずみ男が「嫌な時代だった」と300年生きてきた設定をさり気なくカバーするセリフを口にしてはいるが、それだけである。話そのものも南方の精霊たちも事実をまなに伝えることを目的として機能しており、何かしらのイデオロギーが介在することを徹底的に避けている。それは言うまでもなく、まなを代表とする現代の子供たちがかつての戦争についてイデオロギーを持つ以前、「戦争があった」程度の認識すら持ち合わせていないかもしれない、という現状を反映させているのだろう。
 それは実際に妖花の源と思われる島についても慰霊碑を見ても、現地で今働いている日本人のサラリーマンを見ても同じだった。真夜中になって戦争の「音」だけが聞こえるという怪現象が起き、怯えるまながそこにいる「見えない何か」に導かれ、妖花に守られるように眠る日本兵たちの遺体を見、その中に大叔母に向けられたかつての恋人の手紙を発見し、まなはようやく実感する。この島で多くの日本人が生き、そして死んでいったことを。
 妖花とは亡くなった人の果たせなかった想いが生み出した花。その言わば「生」の想いを遺体という「死」の中から見出すまな。それはある意味で妖怪と同じように「見えないもの」と言えるものかもしれなかった。だがそれはそこに確実に存在している。以前から妖怪という見えざるものに触れているからこそ感じることができたのだと考えれば、まなが介入する物語として今話を完成させたのも納得がいくし、1話から積み重ねてきたまなと妖怪たちとの触れ合いが、このような少々イレギュラーな形でまな自身に影響を与えるという構成は非常に巧みである。
 ラストで描かれるのはまなが戦争を知ることを始めている姿だ。どう思うかではなくまず忘れないこと、知っていくこと。それが出発点であり大切なことなのだと訴える今話は、2018年という現代に子供たちが戦争を考える上で非常に大切な点を描いている良作と言えるだろう。

 次回はたくろう火。一応原作話はあるものの鬼太郎シリーズ中ではだいぶマイナーな妖怪だが、原作どおりかオリジナルか、一体どのような話になるのだろうか。
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2018年08月19日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)19話「復活妖怪!?おばけの学校」感想

 昔の東映ヒーロー特撮は夏になると必ずお化けが出てくる怪奇調の話だとか再生怪人を大挙登場させる話なんかを作っていたものだったけど、まさか最新作の鬼太郎でそれを見ることになろうとは思ってもいなかった。
 …まあ鬼太郎は元々怪奇調の話なんだけど。

 とまあ戯言はさておき、今回はアニメの完全オリジナル作品であると同時に、八百八狸編以来の「名無し」が登場・暗躍する話でもある。以前のようにまなに直接何かをするようなことこそなかったものの、まなや鬼太郎の前に直接姿を現したり、今話のメインである見上げ入道やたんたん坊一味といった以前鬼太郎に倒された妖怪を復活させたりと、黒幕としての存在感は十分発揮していた。その正体も目的もやはり今話の段階では明らかにならなかったものの、何やら人間の悪意と言うか負の感情のようなどす黒いものを必要としているようで、妖怪たちを復活させたのもそこに関係がある様子。今後は鬼太郎もより注意していくことになるのは間違いない。
 名無し自体とは対決はしなかったものの、今回は復活した見上げ入道やたんたん坊たちとまた戦うことになるという、久しぶりに派手な戦闘シーンが用意されていた。昔だったら以前登場した妖怪が再登場するなんて場合の時は声の出演が変わっていたりしたものだったが、声優陣も2話、3話でそれぞれの妖怪を演じた諸氏が再度集まって演じていて、細かいことだが嬉しく思う。結構気になるんだよね、こういうところ。
 「存在しない四丁目の妖怪学校」というくだりは都市伝説というよりは学校の怪談という感じで、いかにも子供が引っ掛かりそうな噂の類だし、八百八狸事件以降人間たちが妖怪と言うか不思議な物の存在をある程度認知しているようにも見えて面白い。実際八百八狸編以降の話でいわゆる「妖怪なんているわけないだろ」的な言が一度も登場しておらず、制作側が意識しているのかは不明であるし今後そういう話が出てこないとも言えないわけだが、今の時点では歴代アニメ作にあまりなかった「過去話との関連性」を楽しんでみるのもいいかもしれない。
 そしてさらに面白いのはその妖怪学校での妖怪たちと子供たちとのやり取り。最終的に子供たちを妖怪にしようと企てて見上げ入道は原作さながらの妖怪製造マシーンを引っ張り出してきたりするところにはニヤリとさせられるが、中途では今時の学校よりも子供たちのことを考えているかのような授業をしており、その方針に目玉親父も納得してしまうと言った一幕があり、もしかしたらこの妖怪たちもやり方は間違っているものの子供たちの幸せを考えて動いていたのかもしれないなどと、見ている側も考えさせられてしまう面白い構成になっているのだ(たんたん坊たちは3話では違う野望を持っていたけど)。その辺は人間と似ているようでまったく異なる考えや価値観を持ち、それ故に人間相手に事件を起こしてしまう5期の敵妖怪に通じるものがあるかもしれない。
 いずれにしてもそれは鬼太郎の認めるところではないので再び彼らと戦い、ねこ娘やまなと協力して妖怪たちを再び倒す。親父の言っているとおり今期の敵妖怪はいずれも倒されたあと体を失い魂だけが残った状態になるのが常だったが、今回倒された見上げ入道たちはその魂さえも完全に消滅しており、これも名無しの力か術かによるものなのだろう。たんたん坊が今際の際に残した「鬼太郎は名無しには勝てない」と言う言葉も含め、今回の事件自体は解決したものの今後の展開に不安を残す、すっきりしない幕切れとなった。

 次回は妖花。原作はこの時期に放送するのにふさわしい内容であるが、大胆に改変された5期版の例もあるし、どのような話になるのかまったく読めない。
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ゲゲゲの鬼太郎(第6期)18話「かわうそのウソ」感想

 今回は色々な表情を見せるねこ娘が非常に可愛かったです。終わり。


 …で終わってしまうのもつまんないので、いつも通りの感想も書いていこう。
 今話登場の妖怪はかわうそ。話の内容はだいぶ変わっていたものの、かわうそ自身のパーソナリティは原作「オベベ沼の妖怪」とほぼ同じに仕上がっていた。直近の5期では妖怪横丁の住人として準レギュラー格の扱いという隠れた人気キャラであったかわうそだが、今話もその5期版、引いては原作版と同様に単なる悪戯者ではないデリケートな内面を抱えた妖怪としての一面が描かれている。
 今話独自の要素としてはサブタイトルにあるとおりかわうその嘘が挙げられる。かわうそは元来嘘をついて悪戯をするのが好きの妖怪ではあるが(そういう描写もある)、今話に限っては怪我をして動けなくなっていた老婆のために食べ物を手に入れようと、その手段として嘘をついていた。そして最後までそのことを認めようとせずただ悪戯をしていただけと虚勢を張る姿もまた、かわうそのついた「嘘」なわけである。
 今話ではもう1人、ねこ娘も鬼太郎に嘘をついていた。自分が育てた野菜を鬼太郎に差し入れているのを最後まで認めようとしなかったのは、一つには農作業時の冴えない格好を見られたくない、知られたくないという気持ちからだろうが、最後の最後、バレバレの状態になっても認めようとせずに嘘をついたのは、格好以上に鬼太郎への自分の気持ちを知られたくないが故の虚勢だったのだろう。
 かわうそとねこ娘の2人とも自分の本音、しかもどちらかと言えば弱い・切ない本音を明かしたくないからこその「嘘」だったわけだ。序盤では騙す側と騙される側、中盤では追う側と追いかける側とずっと対極の関係にあった2人の気持ちがラストになって重なった、本人たちも気づかないうちに似たもの同士になっていたのである。その象徴がゲゲゲの森へ誘うねこ娘と、それを笑顔で受けるかわうその姿なのだろう。

 と同時に、今話は実質的なねこ娘主役回と言うべき内容にもなっているので、件の作業着姿もだが偶然鬼太郎に出会って慌てる仕草、かわうそを追いかける時の「猫」の顔、取れた野菜を親切に分け与える人の良さなど、ねこ娘の魅力が全開になっている話でもあった。
 こういう展開の場合演出がおちゃらけるかと思いきやそうでもなく、例えば農作業や自然と共生していくことの大切さをいまいち理解できておらずねこ娘の姿に幻滅してしまったまなを否定的に見せず、あくまで知らないだけのまなにねこ娘がやんわりと伝える(しかも「スイカの種飛ばし」という他愛もないお遊びを使って)ことでまなに自分で学ばせるという、ともすればまなにマイナスイメージがついてしまったり説教臭さが漂ったりしそうなところを丁寧に作り上げている点は素直に好感が持てる。
 この説教的な理屈を説教臭くなく物語世界に溶け込ませる手法は今期鬼太郎でよく行われている手法だが、今話はそれだけでなく真菜に自分からそれを理解させる=学ばせることでより一層ねこ娘を尊敬するようになるというキャラクターの底上げまで行っており、毎度のことながらこの巧みな演出と構成は素晴らしいものがある。
 このようなグレードの高いアニメを日曜朝の清々しい時間帯に毎週見られるというのは本当に幸せなことだなと今更ながら思い知らされる次第だ。

 さて次回は以前倒された妖怪が復活するとか怪談話めいた噂とか、一昔前の東映特撮夏恒例の怪奇話を思わせる内容が散見されるが、同時に八百八狸以来の名無しも登場するようで、どんな内容になるかまったく読めないのが逆に楽しみである。
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2018年07月29日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)17話「蟹坊主と古の謎」感想

 さて今回の話は境港編の後半である。今回登場の妖怪は蟹坊主。4期では一度鬼太郎と戦った後は味方に、5期ではぬらりひょん一味の一人として登場していたが、今話はようやく原典に近い「人間に質問して答えられなかった人間を殺す」設定を持っての登場となった。担当声優の田中秀幸氏も鬼太郎には特に5期で準レギュラーとして活躍、最近でも6期放送前に配信されたこれまでのアニメ版を振り返る動画のナレーターを担当していたのが記憶に新しいところである。

 前話は境港の各所を背景として盛り込みつつ、私欲のために人間を困らせる海座頭と鬼太郎たちの戦いを描いていたが、今話は名所観光的な側面は影を潜め、蟹坊主と鬼太郎側の戦いや蟹坊主と境港の因縁を暴いていく謎解きに終始した、オーソドックスな妖怪退治譚に回帰した内容となっていた。一応鳥取県のシンボルの一つである大山が登場してはいるが、物語としてはそこに住んでいる烏天狗との絡みに焦点を当てているのが、妖怪退治ものという骨子をより強調している。
 鬼太郎を始めほとんどの味方妖怪が蟹坊主に銅像にされてしまい、人間のまなが目玉親父や砂かけ婆と協力して鬼太郎たちを救おうと奔走するのはこれまでの話でも何度か見られたパターンだが、今話がまな自身が直接何かの助けを成すことはなく最終的には烏天狗などの助力もあって解決するという流れになっていたのは、まなの「偶然力」のようなご都合主義的展開に陥らせないようにする配慮もあったのかもしれない。
 暴れる蟹坊主も前話の海座頭のような私欲で暴れる自分勝手な輩とは違い、かつて忠誠を誓った姫の影を追い求め、それが幻とわかっていてもさすらわないではいられない、人間よりもはるかに長く生きられるからこそ起きる悲劇の体現者であった。そしてこれもまた人間と妖怪が必要以上に深く関わり合ったために生まれてしまった悲劇でもある。
 今期鬼太郎は人間であるまなの鬼太郎たち妖怪への接し方の変化を通して、人間と「見えないもの」との距離を縮めていく流れが根底にあるのだが、それと一緒に人間と妖怪が歩み寄った故に起きてしまった悲劇というのも執拗に描写している。まなに狙いを定めた名無しの件も含めてそれがどのような展開に繋がっていくのか、非常に気になるところだ。

 烏天狗の力を借りて鬼太郎は復活し、蟹坊主は現代に自分の居場所がないことを悟って敢えて自滅、姫の眠る境港の地に自分も眠らせてほしいと伝えて自ら泡を浴びて銅像になる。
 蟹坊主を憐れに思った境港の人々は蟹坊主を銅像として飾り、また蟹坊主だけでなく事件の解決に尽力してくれた鬼太郎たち妖怪の銅像も作ってそれを町に飾る。
 言うまでもないことだが、これは現実世界にある「水木しげるロード」を元ネタにしており、冒頭で名所観光の要素は影を潜めと書いたが、何のことはない、物語の中で新たな「名所」を作ってしまったわけである。現実世界のネタを巧みにリンクさせただけでなく、その要素を生かして最終的には昔話・民話的寓話として完成させてしまうのだから堪らない。さすがプロの仕事と言うべきトリッキーな物語作りであろう。
 なぜか1人だけ銅像から元に戻らなかったねずみ男のオチも含めて、単なるタイアップに留まらない秀作・良作として成立していると言って過言ではない。

 次回登場妖怪はかわうそ。近作の5期では準レギュラーとして活躍していたかわうそだが、今回は原作「オベベ沼の妖怪」に沿った話になるのだろうか。
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2018年07月22日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)16話「潮の怪!海座頭」感想

 今週と来週とは古めかしい言い回しをするなら「境港編」とでも言おうか、まなの父親の故郷と設定されている鳥取県境港市へ、まなが夏休みを利用して旅行に行くところからはじまり、全編にわたって境港そのものを推し出した内容となっていた。まなのおじさんである庄司や漁師のキノピーといった登場人物が、それぞれ水木しげる記念館の庄司館長と木下氏をモデルにしているという徹底ぶりである。
 鬼太郎を見ている人なら周知の事実だろうが、境港は原作者である水木しげる先生の生まれ育った地であり、現在は1993年から始まった「水木しげるロード」を始め水木先生や水木先生の描いた様々な妖怪たちを使った町おこしも継続して行っており、まさに妖怪と共存している町と言っていいほどである。
 1993年と書いたとおり境港の町おこしは4期鬼太郎の開始前から行われていたのだが、このような所謂アニメとのタイアップについてはかつての4期も5期も行っておらず、水木しげるロードの開始から25年の今年、初めてアニメ鬼太郎とのタイアップが行われる運びとなった。それだけに冒頭からまなが境港の風土や名産などをべた褒めし、風景もロケハンによって現実のものがほぼ忠実に背景として描かれている(背景の1つとして水木しげる記念館が映ったが、6期鬼太郎の世界にも水木先生が存在しているのだろうか)。
 ただ褒めそやすだけでなく名物の祭りを巡って伝統を守ろうとする側と革新を求める側とで対立が起き、結果祭りが実施できなくなっていると言う展開はいかにも今期の鬼太郎らしい今日的な要素であるが、最終的に町民も団結するとは言えこのようなマイナスと取られかねない要素までタイアップ話の中に盛り込んでくると言うのは、それだけ境港の懐が深いと言うことなのだろうか。
 個人的な余談としては、庄司おじさんたちに甘えてテンションが高くなっている時のまなの声が、ミリオンライブの所恵美の声っぽく聞こえたりもしたのがおかしかった。

 その庄司おじさんや漁師のキノピーたちを船幽霊に変えてしまう妖怪・海座頭が出てきたことから鬼太郎の出番となるが、船幽霊は海座頭に操られて鬼太郎たちを襲ってくるため、鬼太郎はまともに海座頭と戦うことができない。船幽霊たちの魂を閉じ込めた海底の祠は扉がとても重く簡単には開けられないと知ったまなは、町の全員でやれば開けられると考える。
 自分の大好きな境港の町を守りたいと必死に訴えるまなの呼びかけに祭りの件で反目していた人たちも団結、駆けつけたねこ娘たちとも協力して祠の扉を開け、船幽霊の魂を解放する。
 その後もなお苦戦する鬼太郎をかつて高校球児だった庄司おじさんの投球による一撃で救ったり、事件解決後無事に開かれた祭りをまなたち人間と鬼太郎たち妖怪が共に楽しむ様子を描いたりと、前述のとおり25年の間「妖怪との共存」を実現してきた境港を舞台とした話にふさわしい展開でクロージングとなった。
 妖怪と人間とは必要以上に交わってはいけないと言うスタンスを持つ鬼太郎だが、そんな鬼太郎にとってもこの町は居心地が良かったのだろう。そもそもアニメと現実とは違う世界なのだから我々の知っている境港と劇中の境港とが同じとも言えないのだが、「境港」とは妖怪と人間が共存できる場所という一種のシンボルなのだとして考えれば、妖怪と人間とが一つの町で仲良く過ごせるひと時を大切に想うまなの「こんな時間がずっと続くといいな」という言葉に、笑みを浮かべながら頷くように顔を下げる鬼太郎の姿にも納得がいくというものであろう。

 次回もまた境港が舞台のお話で登場妖怪は蟹坊主。世代人なら3期EDの最初に出てくる妖怪として記憶しているであろう妖怪だが、人々を銅像に変えていく理由は何なのだろうか。
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2018年07月08日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)15話「ずんべら霊形手術」感想

 アイドルのプロデューサーはアイドルになってもいい奴だった。

 …と、わかる人にしかわからんネタはさておき、今話は2期でも一度アニメ化された、鬼太郎の登場しない短編漫画を原作とした「霊形手術」。2期はどこまでも自分の美しさを追い求めた故に残酷な、そして自業自得な結末を迎えた女・月子の末路を描いていたが、6期版と言うべき今話は2期版のメインであった月子よりも、その月子に惚れていた男の三吉に近い立場の少女がメインとなった。
 一応月子のキャラシフトに対応しているイケメンアイドルのユウスケも登場しているが、今話の三吉≒きららはそこまでユウスケ個人に固執しているわけではなく(理由の一つではあるが)、恵まれていない自分の容姿そのものに劣等感を抱き、それ故に周囲から蔑まれる現状に苦しんでいる。容姿の問題は化粧や服の着こなしである程度は改善が見込めるものの、特に顔となればそう簡単に解決できるものではないだろうし、何だかんだ言っても女性の容姿となればどうしても男性より重視されがちである以上、きららにとっては大きな問題であったのは当然と言える。他人の美醜に何かしらの感想を抱いてしまうのは仕方ない面があるとしても、それを本人にわかるレベルではっきり態度に示した時点で周囲の人間にも明確な悪意があったと言え、苦しむきららの描写にシンパシーを覚える人もいたのではないだろうか。
 そんなきららは妖怪ずんべらの力で美しい死体の顔を元の顔の代わりに貼り付けることで幸せなひと時を味わうが、時間が経つとその効力も消えて顔のないのっぺらぼうになってしまう。この辺は原作とほぼ同様だが、最終的にきららの出した答えは「美しい顔でい続ける」と言うものだった。
 以前から彼女の書いたファンレターに励まされていたというユウスケに説得され一時は元の顔に戻したものの、最後に見せた顔は霊形手術をした時と同様の顔だった。その最後のシーンはエピローグ的描写で元に戻ってから再び美しい顔になるまでの経緯は描かれていないので、最終的にこの顔をどうしたのかについては視聴者の判断にゆだねるというところなのだろう。つまり再びずんべらに霊形手術をしてもらったのか、それとも一般的な整形手術で顔を変えたのか。
 どちらにせよ1人の男に許容されるだけの幸せでは満足できなかった、と言うより結局それ自体も彼女にとっては幸せ足りえなかったという事実がそこにあり、ラストのきららの小悪魔的な笑顔と相まって彼女の先を想像しないではいられない。
 思えば2期版の三吉はただ月子に想いが通じればそれで良いという一念で霊形手術を行った一方、月子はそんな三吉に目もくれずずんべらと結婚し、自分自身が霊形手術をする側になって儲けようとまで企んだ。
 ただ今の自分を変えたい、美しくなりたいと望んだきららは、霊形手術を受けることで変わった世界を忘れられずさらなる「自分の望んだ世界」を求めるために顔を変えた。美しくなりたいという望みは男女問わず一度は願う普遍的で、見ようによっては小さな望みとも言えるだろうが、きららはその望みをかなえた先の望みをも叶えることに貪欲になってしまった。言ってみればきららは2期版の三吉と月子、両方の登場人物の望みを体現したキャラクターとして完成してしまったのである。
 美しくなって小さな望みを叶えたいという「三吉」ではいられなくなったきららは「月子」然とした存在になって世界へと邁進していく。しかし2期版の月子が最終的に迎えた結末は……。それを知るときららの行く末に幸福な結末が待っているとはどうしても思えない。
 かような苦い終局を迎えた挿話かと思いきや、一方では「1人の男に愛される女というありきたりの幸福論を越えて自分が幸せになる道に進んだハッピーエンド」と考える向きもあるようで、感想とはやはり千差万別と改めて思い知ると同時に、正味25分程度の一エピソードでここまで色々考えさせてくれるアニメを見られることはこの上ない幸福だなあと感じ入る次第である。

 と、そんなお話のために割りを食った、という言い方も不適当だろうが、鬼太郎たちの出番はほとんどなかったのは残念と言えば残念だが、元々鬼太郎の登場しない短編が原作であるために鬼太郎たちが直接介入する余地がほとんどないのは仕方のないところでもあるので、むしろ原作短編の味を比較的忠実にアニメ化出来たという点を素直に褒めるべきだろう。
 声優に目を向けると、きらら役のゆかなさんやずんべら役の久川綾さんと言ったベテランが4期から継続してゲスト参加している(と簡単に言うけど4期は20年近く前だからやっぱりすごいことですねえ)一方で、アニマスのプロデューサー役で一躍名を馳せたバネPこと赤羽根健治さんがユウスケ役で出演されていた。前話のちゃんゆりことのぐちゆりさんもだが青二の若手がポンポン参加してくれるのも東映アニメの良いところなので、その内そらそらあたりも出演してくれることを願うとしよう。

 次回は海座頭。水木先生の故郷である境港が舞台になるということなので、まさか原作のように鬼太郎やねずみ男が厭世感に囚われる話にはならないだろうが、どんな話にするのであろうか。境港を舞台にするのだから名所巡りくらいはしそうなものだけど(笑)。
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2018年07月01日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)14話「まくら返しと幻の夢」感想

 まあなんと言いますか、今話の鬼太郎はこれに尽きるだろうなあ。

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 今の姿になる前の親父の姿としては「鬼太郎の誕生」などで描かれるミイラ男状態のものがよく知られているが、あれは体が溶けるという病気にかかって死ぬ寸前の状態であって、病気にかかる前の健康な状態の姿は原作でも描かれたことはなかった。なのでその病気になる前の姿の親父をアニメオリジナルで創作することは別段悪いことでも何でもないのだが、まさかこんな形でそれが描かれるとは、と言うかそもそも「病気になる前の親父」を作ろうという考え自体がパッと頭に浮かんでこず、浮かんだとしてもまさかアニメでそこまでやるとはまったく思いもしなかっただけに、この衝撃は自分としてはかなり大きい。コロンブスの卵と言うかコペルニクス的転回と言うべきか、いわゆる「腐」の方々にも衝撃が大きかったようだが、僕としてはそれとは別の次元で衝撃を受けているのである。
 言っておくが別に病気になる前の父親の姿を描くことは別にタブーとなっていたわけではない。原作についてはそこを描く気が端からなかっただけなのだろうし。歴代のアニメ作品も鬼太郎の幼少時代を描くのが精々であったし、そもそも鬼太郎の幼少時代とはいわゆる「墓場鬼太郎」時代になるから「ゲゲゲの鬼太郎」で忠実に描くのは難しいものがある。だから鬼太郎の誕生や幼少期が断片的にとは言え描かれるようになってきたのは4期以降のことだし、まして目玉親父の「鬼太郎が生まれる前の姿」に思いを至らせるなどまったくありえないことだったのだ。
 だからこそそれをやってのけた今回のアニメスタッフはすごいと言わざるを得ない。単に出しただけでなく、死んだ母親の胎内から自力で這い出しその際に左目を潰してしまったという壮絶な誕生となった鬼太郎に「生まれおちた時から苦労をかけた」父親としての負い目と、それでも我が子を案じるが故に今の姿となるまでに至った父としての強い想いが、夢の中という特殊空間でのみ具象化したという展開に落とし込んだその手腕。原作や歴代アニメを研究した上での独自性を打ち出しているのが今期の特徴だが、それが今までで最も強く発揮された回だったのではないだろうか。
 アニメ版では原作以上に鬼太郎と目玉親父の親子の絆を強調しているのだが、それをこんな形で提示してくるとは全く本当に脱帽である。すごいし素晴らしい。

 やっぱりこの親父のインパクトが強すぎて、大した才も技量もない中年リーマンの悲哀という決して他人事ではない(笑)描写とか、ねこ娘とまなの夢の話とか、夢の世界から抜け出しても根本的な解決にはなっておらず、今後もいずれ夢の世界にひきこもる人間が出てくるであろうことを示唆する少女の最後の邪悪な笑みと言った種々のネタもどこかに吹っ飛んでしまった感があるな。
 そう言えばまくら返しの話はこれも1期から5期に渡って必ずアニメ化されており、3期世代にはEDで唯一動いていた背景妖怪としても記憶されていることだろうが、今回のようにまくら返しが敵妖怪ではなく鬼太郎の味方の側に立って行動するという筋はなかなか珍しかった(一応3期でも味方描写のある話はあったけど)。

 さて次回は「霊形手術」。元々は水木先生のオリジナル短編で非鬼太郎ものだが2期では原作として登用され、多くの視聴者を恐怖に陥れた名作・良作として今なお多くのファンに愛されている話だが、さて6期ではこの話をどのように料理するのだろうか。
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ゲゲゲの鬼太郎(第6期)13話「欲望の金剛石!輪入道の罠」感想

 鬼太郎らしからぬスペクタクルとなった八百八狸編も一段落し、比較的オーソドックスな妖怪退治ものに回帰した今話。だが今話は毎回のゲストである敵妖怪より鬼太郎一番の悪友であるねずみ男と鬼太郎の関係性にフィーチャーした内容となっていた。
 今期の鬼太郎は人間のまなとの交流に序盤の話を割いたため、ねずみ男と鬼太郎がどういう関係なのかについてはニュアンスで察せられる程度に留めており明確に描写してはこなかったわけで、既に鬼太郎とねずみ男という有名キャラクターは今更説明しなくても視聴者は知っているだろうという打算が働いていたのかと意地悪な見方も一時はしてしまったものだが、ここで改めて両者の関係を打ち出してくるというのは、第1クールの最後となる今話にはふさわしい構成だと言えるだろう。

 今回の話は原作の「ダイヤモンド妖怪」を下敷きにしているので、敵妖怪の輪入道の特徴や能力、それに対する鬼太郎の攻撃方法と言った重要な部分の要素は概ね原作に沿ったものとなっていた。
 だからこそそれ以外のアニメオリジナルと言っていい部分でねずみ男の様々な描写が光っていた。自分を半妖怪の鼻つまみとして自嘲するのは4期版でもあった少々らしくない描写だったが、ダイヤモンドの材料として躊躇なく人間たちを犠牲にするところ、他者と結託して自分の手に余る状態になりつつあるのを理解しながらも目先の金を優先し、いよいよとなると虫の良さを自覚しつつも鬼太郎に助けを求め、事件が解決した後も反省はまったくしないという、どこまでも自分の欲望や欲求に忠実(特に金銭欲)に生きるねずみ男らしさが存分に発揮されている。特に材料となる人間が世界規模にまで広がりながらもそのこと自体にはさほど後ろめたさを感じておらず、ダイヤの販売や輪入道の制御が自分の手を離れてしまうことの方を懸念しているあたりのドライな描写が、実に原作のねずみ男と近しい個性になっていて、原作ファンとしては非常に嬉しいところだった。
 これだけ悪どいことをしておいて罰を受けないのは…という意見もネット上ではチラホラ見るが、原作からして受ける時は受けるし受けない時は受けないという扱いだったし、水木世界自体が欲望に忠実に生きることを否定しない世界でもあるから、罰を受けないこと自体に目くじらを立てる必要はないのだろう。
 その分鬼太郎の出番がAパートで少々、Bパートも半分ほど過ぎてからと少々少なくなってしまっているが、原作でも事件に直接絡むねずみ男の描写ばかりで、主人公たる鬼太郎が最後の方に登場して事件を解決して終わる、というパターンもいくつもあるので、ある意味ではねずみ男が一番お気に入りだったという水木先生の作風に沿った内容と言えるかもしれない(今期でも既に5話でやっているストーリー構成ではあるが)。
 むしろねずみ男に輪入道、人間たちの三すくみで欲望が入り乱れた醜い描写が続いただけに、鬼太郎が登場して敵妖怪をやっつけるという単純な構成がむしろストーリー上の救いとして一層の効果を発揮する結果にもなっており、これもまた水木ワールドならではのマジックであろう。

 次回はまくら返しが登場するようだが、粗筋を読む限りだとまくら返しが敵という展開にはならないようで、今話が原作の味をほぼそのまま生かした話だっただけに、次回でどの程度捻ってくるのか楽しみである。
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2018年06月23日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)12話「首都壊滅!恐怖の妖怪獣」感想

 狸たちの攻勢に日本政府は事実上の降伏、鬼太郎は刑部狸の妖術で石にされてしまうという窮地で次回に続いた八百八狸編、今話はその後編である。
 さすがに男はソーセージ、女はすべてメイドにという原作での侵略構想は再現されなかったものの、日本が狸に支配されてしまったという構図自体や狸の悪口を言ったら逮捕されてしまうといった原作のシチュエーションは冒頭の描写にも生かされている。間違って「たぬきそば」を注文しても逮捕されるというちょっと笑えるシーンと、狸の尻尾をつけている者とそうでない者とで格差が生じており、侵略された側の人間も一枚岩ではなく内部に支配階級と被支配階級が出来上がっているというかなりきつめのアニメオリジナルシーンとを織り交ぜて描写しているのは、原作描写にさらに一捻り加えることを得手とする6期らしい描写と言える。
 鬼太郎を復活させるべく要石の元へ向かう仲間たちの戦闘描写もまた原作だけでなく歴代アニメ作品の良点を引き継ぎつつ、さらに熱いアクションシーンとなっており、それは復活した鬼太郎と妖怪獣の激闘も同様だった。ストーリー上のヴォルテージに呼応してか作画も1話あたりの原画枚数が指定されているという東映アニメらしからぬ力の入れようで、鬼太郎&一反木綿の空中戦など何回か見返さないとどういう動きをしているのか判別できないほどの挙動になっており、この八百八狸以前の数話がアクション控えめだったこともあり、この前後編にアクション面での全精力を投入したと言わんばかりの戦闘は非常に見応えあるものになっていた(鬼太郎らしくないと言ってしまえばそれまででもあるのだけど…)。
 一部ではあまり目立っていないと言われていたぬりかべは今回得意技である壁塗り込みを初披露し、子泣き爺は5期でも見せた腕だけ石化させての格闘、砂かけ婆も5期で見せた特殊な砂(しびれ砂)を使っての砂かけ、ネコ娘はシルクハット狸の団一郎とガチの格闘戦、そして一反木綿は団三郎のふんどしにされながらも原作どおりに隙をついて刑部狸の首を絞め、まなにかけられた呪いを一時無効化させるという殊勲を上げており、それぞれに活躍の場が与えられていた。特に砂かけ婆はかつての月曜ドラマランド版や80年代マガジン版でのみ使用していたアイテム「砂太鼓」を奥の手として使用しており、ここでいきなりこのマイナーな道具を使ってきたことに原作・テレビ双方を長く見てきたファンは驚きの声を上げたのではないだろうか。戦いに入る前の子泣きと砂かけのやり取りも、今回の戦いがまさに血戦であることを物語っていて、大いに盛り上げてくれた。
 その分ねずみ男はほとんど最後まで狸側に与し、刑部狸がやられた時の洞窟崩壊に巻き込まれるのみと、原作でも見せた「敵についたり味方についたりする」ねずみ男らしさがほとんど発揮されていなかったのが残念だった。恐らくこれは今話オリジナルであるまなの描写に力を入れる分、ねずみ男の描写をどうしても省略せざるを得なかったのではと愚考する。

 そのまなの活躍が文字通り今話のキーとなっているのだが、今回のまなの行動はありきたりな「いつも鬼太郎に助けられているのだから今度は自分が助けたい」という恩返し的な理由からのみ来ているものではないという点に注目すべきだろう。
 要石にかけられた術が人間に効かないはずだからという(いささかご都合主義的な)理由はあったもののそこに到達するまでは簡単ではなく、前話で刑部狸にかけられた呪いが発動してまなは狸化してしまう。体が変わるだけでなく心まで八百八狸のものとなってしまう妖術だったようでまなもかなり苦しめられるが、そんな彼女の脳裏に浮かぶのは鬼太郎と初めて出会ってからの鬼太郎や妖怪たちと過ごした記憶。妖怪など信じていなかったまなが鬼太郎たち「見えないもの」の存在を信じて触れ合えるようになり、短い時間ではあるが共に生きてきた「友達」との思い出だ。
 単純な恩返しではない、むしろそれよりもさらに単純な、それでも初登場の頃から友達を大事にする姿勢を見せてきたまなだからこそ抱く単純で素直な「友達を助けたい」という行動理念。まなの脳裏によぎったその記憶は彼女のその理念を思い出させるには十分だったのだろう、失いかけた人間としての感情をギリギリのところで押し留める。
 大げさに言えばこの瞬間、まなは他の仲間妖怪と同様に「戦って」いたし、その意味ではいわゆる鬼太郎ファミリーと同格の立ち位置についたとも言える。鬼太郎たち妖怪にただ守られるだけではない、いつも助けてくれる相手への恩を返す形で奮起したのでもない、ただ友達を助けるために自分なりの戦いを続けたまなが、だからこそ到達できた一つの帰結と言うべき形が人間と妖怪の垣根を超えたこの立ち位置なのである。それは2話の時と違い石から復活した鬼太郎がごく自然に、素直にまなへお礼の言葉を伝えるという演出、そして要石の力を一時的に得たまなが鬼太郎と協力して妖怪獣を倒すというクライマックスに結実している。
 余談だけどもまなの協力を得たスーパー指鉄砲(仮名)で妖怪獣を打ち抜くだけでなく、そのまま13金パート9の某シーンのように体を割いてしまうところまでやってしまうのはなかなかにえげつなかったが、同時にあれだけ苦戦した妖怪獣に完全勝利できたということがわかりやすく描かれており、親切な見せ方とも思った(笑)。

 だがまなが得た立ち位置とはあの瞬間だけの極めて特異なものでもあった。その特異性故にまなは名無しに目をつけられてしまう。彼女の掌から注ぎ込まれた得体の知れない力、そして「木」の刻印は何を意味するのか。名無しの回想と思しき断片映像も含めて今期独自の縦糸となる物語がようやく本格的に動き出したようである。

 さて次回はダイヤモンド妖怪こと輪入道。5期では妖怪横丁に住む味方妖怪だったため、悪役として鬼太郎との戦いが描かれるのは4期以来になるが、どんな話になるのだろうか。
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2018年06月11日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)11話「日本征服!八百八狸軍団」感想

 6期の鬼太郎は原作漫画や歴代アニメ作品の良い部分を抜き出しながらもかなり挑戦的な作りをしているわけだが、まさかこの話を1クール終盤という早い時期に持ってくるとは思っていなかった。
 言わずと知れた今話の敵、組織だった行動で一時は完全に日本を掌握し、妖怪獣(蛟龍)に大なまずに要石と三つの巨大妖怪を使役しての破壊活動を繰り広げた原作中でも屈指の強敵「八百八狸」である。対する鬼太郎も右目は潰され髪の毛針は使いはたして丸坊主になり、挙句に蛟竜に踏みつぶされ胃から漏れた自分の胃液で蛟竜と一緒に自分も溶けてしまい、ドロドロの状態で大なまずを北極に誘導したはいいものの今度は氷漬けになるという、文字通り満身創痍になりながらもどうにか勝利を収めたというほどの強豪妖怪軍団である。
 原作でもマガジン連載時は最長の中編となり(単独の敵を含めると吸血鬼エリートの方が話数は長い)、歴代アニメでも1期、3期、4期と必ず前後編で敵の脅威と決戦が描かれてきた(5期はそこを描く前に放送終了してしまった)。時の政権や軍事兵器に対する風刺なども込められた一方で上述のシーソーゲーム的決戦の幾末も見どころとなる屈指の人気エピソード、さて6期鬼太郎はどのように料理するのであろうか。

 今話でまず特筆すべきなのは妖怪獣の圧倒的な存在感だろう。元々頭と胴体が一体化したようなものに小さい手足がついているだけという異様な風体の存在だったが、今話では頭部の毛の部分が攻撃をする際にまるで超サイヤ人のように逆立つようになり、攻撃シーン自体の溜めの演出効果もあって、異様であり同時に脅威であるという印象を短い時間で見ている側に強烈に印象付けることに成功している。
 既にネット上では散々言われているが、その妖怪獣の攻撃や逆に攻撃してくる人間側の兵器軍、攻撃によって吹っ飛ぶ町並みや妖怪獣のデザインなどを含め、明らかに「シン・ゴジラ」の影響を受けていると思われる部分が続出していたが、元々この妖怪獣という存在や町を破壊して暴れ回るというシチュエーション自体、ゴジラを始めとする東宝怪獣映画の影響を受けている(原作「妖怪獣」が描かれた時期は所謂第一次怪獣ブームに近い時期)ので、今話がシンゴジの影響を受けるのは原作に準じた正当な話作りの一環と言えなくもない。
 防衛軍もすぐに出動して攻撃するのではなく政府、総理大臣の許可を得るまでは攻撃しないといったリアリスティックな描写も盛り込まれ、現代的な設定や解釈を盛り込んだ6期鬼太郎らしい描写になったと言えるだろう。「責任」を連呼する総理大臣の描写は少しクドイ感じもしたけど。
 対する鬼太郎側はまだ妖怪獣との直接対決はしていないものの、狸側の計略にはまり後手に回ってしまうというのは原作等と同じ流れだった。原作では第2の月が出てきた時点で鬼太郎が自分から動き出していたが、今作の鬼太郎は積極的に動く方ではないからか、まなからの手紙を受け取って初めて八百八狸の存在を知るというのは、まなを今回の事件に介入させるという物語上の意図を考えても良い構成だった。鬼太郎と友人関係になってはいても、それこそ3期のユメコのように直接鬼太郎の元へ行くことができないという今話独自の設定も巧く生きている。
 ねずみ男は例によって狸側について手紙を出そうとしたまなを捕まえてしまうが、これはやはり良くも悪くもドライで真の自由人であるねずみ男の真骨頂と言うべき行動と言うべきだろう。ねずみ男は己の欲望だとか好奇心だとかにどこまでも忠実に従って行動するのみであり、法律はもちろん社会通念とか常識と言ったようなことは彼の行動の制限にはならないのである。前話でガチ惚れしていたまなを今話で狸たちに引き渡せるような、善も悪もなくただ「自由」な男、それがビビビのねずみ男なのだ。前話と続けて見るとそのキャラクター性が非常によく出た好シーンだと思う。
 原作では鬼太郎が受けていた刑部狸の呪いをまなが受けるという改変は、今話の段階ではその改変の意図が表出していないようなので、これは次回に期待と言うところか。

 声優さんに目を向けるとやはり今回初めて声がついた「名無し」役の銀河万丈氏が気になるところか。銀河氏は過去作では3期にのみゲスト声優として人間・妖怪を問わず色々な役を演じてこられたが、今回久々の鬼太郎参加となる。今話では妙な呪文を唱えるだけで終わったし、そもそも名無しがどんな存在なのかまったくわかっていないわけだが、ボス的存在として鬼太郎の前に今後も立ちはだかってほしいものである。
 刑部狸の堀内賢雄氏が今回鬼太郎初参加と言うのはちょっと意外だった一方、団二郎は5期でオカマの狼男ワイルドを演じた高戸靖広氏が、そのワイルドと同じような女装男(狸)の役を演じているのは面白い。

 妖怪獣は暴れ続け、まなは呪いを受けたまま。そして要石を破壊しようとした鬼太郎もまた刑部狸の術にかかり石になってしまう。ねこ娘たち仲間妖怪は未だ八百八狸の住み家に入ることもできない。
 まさに絶体絶命のこの状態、次回でどう解決させどう決着をつけるのか、今から非常に楽しみである。
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2018年06月10日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)10話「消滅!学校の七不思議」感想

 いわゆる学校の怪談というやつが鬼太郎作品で扱われたことはなく、90年代に起きた学校の妖怪ブームが間接的に4期制作に影響を与えた程度なのだが(OPの運動会の背景に学校があったり1話の見上げ入道と戦う場所が小学校だったりと)、今回初めてがっつり「学校の怪談」を鬼太郎作品で扱うこととなった。
 代表的な例であるトイレの花子さんにしたところで有名になったのが80年代、即ち約40年前なのだから、現代日本において生まれた妖怪的怪異と看做すには十分な時間が経ったと考えるべきなのだろう。
 しかし出来上がったストーリーは一見すればわかるとおり学校の怪談をモチーフにした怪奇調の話ではまったくなく、前話のようなコメディ調とも異なる純然なギャグタッチの話として仕上がっていた。この辺は怖さだけでなく人間のような俗っぽさを内包している水木作品の世界観を忠実に踏襲していると言え、前述のとおり原作の存在しない完全オリジナルの話ではあるものの、これまでの話や世界観から大きく逸脱しているわけでないところに、今回の制作陣の作品世界に対する正確な理解と表現度の高さが感じられて良い。
 花子さん始めやたらとアナクロな七不思議ネタが登場するのも現代妖怪の代表格として有名どころ?を用意したというところなのだろうが、その中で今回の敵妖怪であるヨースケくんの存在はまったく知らなかったので却って異質な存在に見えるのが面白かった(実際はその内面が異質、というより鏡じじいとは別ベクトルの変態だったわけだが)。
 ヨースケくんの知名度は僕にはわからないが恐らくメインターゲットである子供さんにはそれなりに有名なのだろうし、そこを考えると親子揃って見る(はずの)作品である鬼太郎の登場キャラクターとしては「親世代」「子世代」それぞれに通じるネタとして隙のないキャラ編成を組んだ、と言えるのかもしれない。

 とかまあ小難しいことを書いてはいるが、今話は結局のところまなやねこ娘、それにゲストキャラの花子さんの可愛らしさにやられていればそれでいいのではなかろうか。
 特にこれまではほとんど美少女ぶりがフィーチャーされてこなかったまなは、その分のフラストレーションをスタッフが爆発させたかのように可愛らしさを発揮、ねずみ男やぬりかべを無自覚にたらし込むという小悪魔ぶりを発揮していた。そう言えば人間レギュラーキャラの筆頭格である3期のユメコもねずみ男だけでなく鏡じじいや枕がえし、朱の盤までたらしこんでいたっけな。ちなみにまなに惚れてしまったねずみ男をロリコン呼ばわりする向きも一部にあるようだが、奴は300年間生きているので奴からすれば80過ぎのババアも年齢的には「幼女」になってしまうから、今更10代の少女に惚れても何の問題もないのである。
 今回鬼太郎の代わりに妖怪退治を担ったねこ娘はまなの言うとおりのカッコよさを見せたが、そんなねこ娘が「娘」としての面を見せるのが鬼太郎の前でだけ、しかもあからさまでなく内に秘める形でというのもなかなかレベルが高い。いきなりタオル一枚の姿で登場した花子さんも含め、鬼太郎という作品でこうも多様な魅力を持つ女の子をいっぺんに見ることができるとは、ある意味これが今話における最も原作を超えたオリジナリティあふれる部分だったのかもしれない。
 …なんか鬼太郎の感想で書く内容じゃないなあ、これ(笑)。
 個人的にはカビまみれになったりどくだみ草やらタンポポをプレゼントしようとしてあっさり破局を迎えたねずみ男も面白かったけど。

 さて次回はこんなのんびりした空気を吹き飛ばすような強敵が登場。原作でも歴代作品でも鬼太郎がギリギリの戦いを繰り広げてようやく勝利した刑部狸率いる八百八狸軍団。6期鬼太郎はこの話をどのように料理するのだろうか。
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2018年05月27日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)9話「河童の働き方改革」感想

 前話の感想ですっかり書くのを忘れてしまっていたが、鏡じじいの担当声優が塩屋浩三氏だったのでラストで子泣きと酒を飲んでいる姿が「4期と6期の子泣きの共演」とも取れて楽しかったし懐かしかったなあ。と、それだけ。

 で今話の鬼太郎は登場する妖怪としては河童といそがしになるのだが、妖怪退治が主眼ではなく妖怪と人間とが織りなす悲喜劇の方に重点が置かれていた。前話で鏡じじいが敵役かと思いきやがしゃどくろが出てきたように、わざわざサブタイトルにも「河童」と入れているにもかかわらず公式の前情報ではいそがしが唐突に紹介されたので、今回もいそがしが敵役の立場になるのではと思ってしまうところをそうさせないあたり、これまでの例に漏れず視聴者の思い込みを逆手に取った構成を組んでいるのだと感心させられる。
 個人的にはいそがしがかつて活動していたのが「10年ほど前」というところに、5期でいそがしが登場した89話の放送年を思わせてくれたり、鬼太郎の情報をネットに流して大量に依頼を募集するねずみ男の様子は、鬼太郎家に大量の電話(!)を引いて依頼を取ろうとした3期49話を想起させたりと過去作を意識したのかと思わせてくれるような描写が気に入ってしまったのだが、それを抜きにしても十分楽しい内容だった。
 ブラック企業という明確なテーマが存在している点で今話は7話と同様と言えるが、恐怖で彩った7話と違い今話は終始コメディタッチを貫いており、同じテーマを扱うにしても風刺の仕方にはこれだけ幅を持たせられるのだということがよくわかる好例と言えるだろう。
 ただどちらかと言えば今回はブラック企業と言うよりは、その企業に翻弄される労働者・サラリーマンの方に主眼を置いた構成になっており、水木漫画の「サラリーマン死神」シリーズを例に挙げるまでもなく、サラリーマンの悲哀というやつは鬼太郎世界に元々マッチしているものなのかもしれない(言うまでもないが2期の死神関連作や5期35話の元ネタでもある)。
 PCの前で働く河童たちも人間臭いなどと生易しいものではなく、モロに(追い込まれていく)サラリーマンそのもののように描かれているのがいかにも水木世界らしい。遠野の池で暮らしていた頃の朴訥さが消えていき、知識を経て賃上げ交渉にまで出張って行くその様は、まさしく目玉親父の言った「心を亡くした」姿でもあり、我が身を顧みて痛々しさを覚えた大人もいたのではないだろうか。

 最終的にその河童たちも社長に対し反乱、というか反抗し出すのは、前半で人間の部下が社長に反抗していたところを思い返すと、文字通りまったく同じ事の繰り返しになっていて、人間と妖怪が全く異なる存在ではないと訴えてくるこの構成は5話のかみなりの描写に近いものがあるが、こんな形で人間と妖怪の同質な面を見せつけられるのは鬼太郎でなくともたまったものではないだろう。妖怪と人間が近づくということはこんな情けないザマを互いに見せつけ合う結果になってしまうのかもしれない。
 ただ人間だったらそこで泣き寝入りしてしまうようなところを、河童たちは尻子玉を引っこ抜くという手段で応戦する。駆けつけた鬼太郎はおろか器物が基のぬりかべや一旦木綿までやられてしまうのは少々コメディ要素が過ぎるのではとも思えるが、あまり人間相手の尻子玉抜きを繰り返すと生々しすぎるのでこのくらいで線を引いておいた方が良いのかもしれない。
 いそがしの力を使った鬼太郎に河童たちは抑え込まれ、彼らの先頭に立っていた太郎丸も弟の説得で故郷に戻ることを決める。そのやり取りを聞いていた社長が今度はいきなりスローライフに目覚めて家族に呆れられ、結局ほどほどが一番というこれまた水木漫画らしいオチで今話は締めくくられるのだった。

 他に今話の特筆点と言えば4期5期に参加していた信実節子氏が作画監督として6期に初参加したという点か。丸っこくて大きい目が特徴で且つ戦闘シーンでもさほど崩れずよく動くという魅力的な作画をしていた人だが、今話の場合は…。尻子玉を戻された時の鬼太郎の表情とか面白かったでしょ?(笑)

 次回はねこ娘とまながメイン?になっての「学校七不思議」回とのこと。鬼太郎で七不思議と言ったら3期最終回で生かされた本所七不思議の諸要素が思い出されるが、今回は勿論まったく別のものになるだろうし、何より6期を代表する要素である「まな」と「ねこ娘」のコンビがメインになるようなので、今から楽しみである。
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2018年05月26日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)8話「驚異!鏡じじいの計略」感想

 今回登場する妖怪は鏡じじい。と言っても今話のトピックスとして注目されているのは久しぶりに登場するまなや今回初登場のまなの母親のようで、何と言ってよいやら(笑)。まあ公式からしてそちらを推している風なのはまるわかりなので、これも今期の特色と捉えるべきなのだろう。
 そんな感じで始まる前から存在感が乏しくなってしまった鏡じじい、原作からして美少女の姿を盗み鏡の世界に閉じ込めて、怖がり悲しむ少女の姿を見ていひひと笑うエッチなやつとして描かれているが、アニメの方では美少女こそ毎回絡むものの、原作に比較的忠実に作られた1期版を除いてあまり変態的に描かれることはない。直近の登場作である5期劇場版「日本爆裂!」では歴代随一とも言える鏡の妖術使いとして鬼太郎を苦戦させ、紆余曲折ありながらも最後にはヤトノカミとの決戦で鬼太郎に協力するというおいしい役どころだった(個人的にはパチスロ版「ブラック鬼太郎の野望」も覚えておきたいところだけど)。

 そんな歴代作での活躍から一転して、今回登場の鏡じじいは「初恋の人に似た少女を鏡の中から見つめ続けるコミュ障っぽいじじい」という、ある意味では原作以上に変態度合いの増した妖怪となってしまった。原作のキャラ設定を現代的に翻案したと考えればさほど違和感がないあたりがなんともはやというところなのだけども。
 勿論ただの変態と言うだけではなく、気に入ってしまったまなを見つめ続けるうち、まなが別の凶悪妖怪であるがしゃどくろに狙われていることに気づき、まなを助けるために奔走するという好漢の一面も持っているのだが、前述の性格や行為によるキモさが彼の良い面を完全に打ち消してしまっているのは、笑っていいのかどうなのか。
 今話は前半は謎の妖怪にまなの友人が襲われたりまな自身がつけ狙われたりと言った恐怖描写、後半が鬼太郎たちの妖怪退治描写とかなり明確に分かれており、オーソドックスな妖怪退治ものに終始した作りとなっている。捻ったストーリー構成や社会風刺の利いていた6、7話あたりと比べると物足りなさを感じてしまう向きもあるかもしれないが、今話はあくまでまなを含むレギュラー陣によるキャラクター主体の物語であって、どちらが優れているかと言った甲乙つけられる類の話ではないので、鬼太郎たちの活躍に素直に見入るべきだろう。5期版を想起させるねこ娘と黒猫との会話シーンや、6話と同一個体かは不明なもののチラッとすねこすりが再登場したりといったファンサービス的描写もその一環と言える。
 …まあ人によってはそれこそ怯えるまなや初登場(の割に出番は少なかったが)のまなママさんに見入るのだろうが、それもまた一つの視聴の仕方ではある。その意味では公式の推し方もやはり正しいのだ。
 ただ今回も6期ならではの捻った演出が施されており、物語上の単調さを回避しているのはさすがというところだろう。前半のまなが不可思議な何かに追い詰められていく時、視聴者としてはサブタイにもなっているのだから当然鏡じじいが何かをしているのだろうと思うのだが、一度視聴した上で改めて見返してみるとこの場面の視点は所謂「神の視点」としてすべてを俯瞰しているのではなく、まなに対する外的焦点化として演出されていることがわかる。
 だからこっちもそのブラフに簡単に引っかかってしまうわけだが、6話もだがそのブラフのかけ方が今作は実に巧妙で、特に今期は2018年現在の作品である以上、鏡じじいと言う妖怪が原作ではどんなキャラでアニメ版でもどんな扱いだったかと言ったことは視聴者もすぐに調べられるわけで、その上で美少女であるまなと絡むとなればまあ鏡じじいが何かをやらかすのだろうと思い込んで見始める視聴者も少なくないと思われ、そんな視聴者の思考をも逆手に取ったかなりグレードの高い演出が本作でほぼ毎回成されていることにはもっと注目すべきだろう。

 前述の通りまなを襲おうとしていた妖怪は鏡じじいではなくがしゃどくろであり、鏡じじいはがしゃどくろからまなを守ろうとして鏡の世界に連れ込んだのだった。がしゃどくろと言えばアニメでは3期以降毎回ゲストの敵妖怪として何らかの形で登場してきているが、今回は第3期劇場版4作目や第4期のように人語も話さず、自分の封印を解いた人間をひたすら襲い来る意思疎通ができなさそうな怪物然としたスタイルで攻めてくる。
 実は前半でまなを襲いまなが怯えていたのもがしゃどくろに対してだったのであるが、見せ方としては前述のとおり外的焦点化視点の演出となっていたため視聴者としては気づくことなく、終盤になって初めてわかる構成になっている。
 目からレーザー状の光線を放つという今期のがしゃどくろはアクション重視の3期っぽい改変であるが、今回のバトルフィールドは鏡の世界という異世界だけに、少々派手なアクションを繰り広げても人間の世界には影響が出ないということで演出する側も羽目を外してみたのかもしれない。
 まなを光線で狙ってきたその瞬間を逆手にとって鏡で光線をはね返す鏡じじいもまなを救うカッコよさと、あくまで眼中にあるのはまなだけでピンチに陥っている鬼太郎たちには目もくれないというキモさが両立していて楽しいし、まなも助けに現れた鬼太郎にではなくねこ娘に抱きついたりと、これまでの話で培ってきたキャラクター性がきちんと生かされている丁寧な作りになっている。
 そして事件は解決しつつも結局女好きのキモい奴ということで終わった鏡じじいを前に、「ああはなってくれるなよ」と鬼太郎に伝える目玉親父、とオチもこれまでにないコメディタッチでつけられ、図らずも原作の持つとぼけた味わいを再現した形で幕となった。
 これもまた、と言うよりこういうとぼけた味わいこそがゲゲゲの鬼太郎という作品の真骨頂であり、前話のように強烈な印象を見る者に残す挿話ではないかもしれないが、本作を見る上で忘れてはならない「鬼太郎らしさ」の一つであることは疑いない。

 次回は河童の三平…ではなく普通の河童の話。河童がメインの話は原作にもアニメ版にもさほどなく、ほぼアニメオリジナルの話になると思われるが、ストレートに現代的なサブタイトルは何を意味しているのであろうか。
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2018年05月22日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)7話「幽霊電車」感想

 さて幽霊電車である。原作は「ゆうれい電車」としてマガジン版初期に掲載、歴代アニメ作品でも1期の直接の続編である2期を例外として、それ以外の4作ですべてアニメ化されており(1期「ゆうれい電車」、3期「地獄行!幽霊電車!」、4期「霊園行・幽霊電車!」、5期「ゆうれい電車 あの世行き」)、原作ファンにもアニメファンにも高い認知度を誇る人気作と考えていいだろう。
 身勝手な人間が鬼太郎の霊力によって様々な怪現象に出会い、最終的に因果応報な目に合うというのが原作漫画の骨子であるが、今日的な視点で見るとさすがに恐怖描写が弱いと言わざるを得ない部分もいくつか見られるためか、3期以降は何かしらの味付けを施した上でアニメ化するというのが定番となっており、本作第6期鬼太郎もそれに倣う形でのアニメ化が試みられている。
 本作におけるアニメ化時の味付けは一見すればすぐわかるとおり「恐怖」である。何をいまさら元からそうじゃんというツッコミもあるかもしれないが、前述のとおり原作の「ゆうれい電車」は確かに人間たちを脅かす話ではあるものの、今の目で見るとホラーテイストと言うよりはお化け屋敷的な虚仮威かしとも取れ、脅かす鬼太郎も「この鬼太郎さまが霊力でおどかしてやったのさ」、脅かされた人間も「ひゃあ、た、助けてえ」と叫んで逃げていくというノリで、あまり現代的な怖さは感じられない内容になってしまっている。それが時代のせいなのかそれとも掲載誌の関係で露骨な恐怖描写を抑えたのかは今となっては定かでないが。
 (どちらかと言えばその虚仮威かしの後に来る「因果応報」が主であったり、そもそも「不思議な電車に乗っているうちに異界へと到達してしまう」というシチュエーションを恐怖の中心に据えている面も窺えたりするのだけども。)

 その今となっては物足りないと思われる「恐怖」の部分に現代的な解釈や設定を付加してブラッシュアップしてみせたのが今作における幽霊電車なのだが、方法論自体は今回で初めてというわけではなく、5期版にて初めて導入されたものである。もっと言えば「怖い代物が出てきてワッと脅かす」直接的な恐怖ではなく、ストーリーや設定、伏線を積み上げそれらの関係性を終盤明らかにすることで恐怖を感じさせる、怪談噺のような文学的趣向が用いられているのも5期版からになっている。
 原作のストレートなアニメ化だけでは容易に怖がらせにくくなっている現実を踏まえた上でも、原作の味を残しつつ怖い作品に仕上げようとしている制作陣の苦心が察せられるが、それだけに今話も一筋縄ではいかない捻りの利いた物語展開で見る者の恐怖感を実にうまく煽っていく。
 原作には全くない人死に描写があったり、死人が自分の死に気づいていないというのも実は5期と同様なのだが、今話ではさらに捻って幽霊電車に乗ってしまう会社社長と部下の2人組のうち、部下だけでなく格上の社長の方も実は既に死んでおり(つまり2人とも既に死んでいる)、幽霊電車に直接かかわったキャラクターが全員「人間でない」存在だったということが、物語が進むにつれて明らかになる。
 冒頭で登場した女子高生が目撃した電車への飛び込み事故の当事者が社長だったわけだが、その事故もアバンの段階では当事者が社長であることが判明しておらず女子高生が何を目撃したのかも視聴者にはわからない、と言うよりわからせていない。その上で今話のストーリー上の重要な要素を段階的に見せていきつつ数々の恐怖描写で2人組(実際は1人だけなのだが)を驚かせていき、最終的に電車事故を伏線としてきちんと回収するという今期ならではの特徴的なストーリーテリングは相変わらず秀逸だ。電車を飛び下りる原作準拠の描写を混ぜながらもそこで終わらせない捻り具合も面白い。
 脅かされる側の社長も最初は原作準拠の居丈高な男という人物像かと思いきや、所謂「ブラック企業」の社長でこれまでに幾人もの社員を苦しめ破滅させてきたという、たくさんの恨みを買ってきた人間だった。冒頭のアバンで電車に轢かれ死んでしまったのも単なる事故ではなく、その積もり積もった恨みの念によって突き落とされ命を失ったのである。しかし当人は自分が死んだという事実を受け入れずこの世に留まり続けたため、部下を始めとするたくさんの死人が幽霊電車という形を使って改めて行動を起こしたのだった。鬼太郎はその手助けをしたに過ぎなかったのである。つまり原作と違い今話の2人組は鬼太郎と直接は関係なく、その意味では今話の鬼太郎は前話と同様に傍観者的立場に徹していたとも言える。
 すべてを思い出し地獄へ引きずり込まれるだけとなった社長はそれでも抵抗し助けてくれと懇願するが、鬼太郎は「(社長自身に)そう言ってきた人たちを今までに助けたことがあるか」と突き放す。ここで序盤に鬼太郎も触れた「因果応報」が繋がってくるわけだが、この感想の最初でも触れたとおり、原作もそもそもは因果応報の話である。尤も原作は鬼太郎が2人組に付けられたものと同じ大きさのたんこぶをつけ返すという程度であったが、単に恐怖体験をしたという話ではなくその果てに自分のしたことがそのまま自分に返ってきてしまうという点こそが「ゆうれい電車」という話の肝なのだ(余談だが、だからかつて水木先生はその因果応報のインパクトが薄れる結果となった3期版の構成に不満を持ったのだろう)。
 原作を巧くブラッシュアップした演出であるが、ここからさらに今話は独自の味付けを施す。社長はなおも食い下がり鬼太郎に向けて「それでも人間か!」と叫ぶが、鬼太郎は事もなげに言い返す。「僕は人間じゃありません」と。勿論鬼太郎は人間ではないのだから当然と言えば当然の返事なのだが、この応答に込められているものはそれだけではないようにも感じられる。
 鬼太郎は「妖怪」ではなく「人間ではない」と言った。では社長は?確かに今は死人だが死ぬ前は果たして人間だったのか。助けを求める社長の声を無視した鬼太郎の行為を非人間的行為と言うなら、それは社長自身にもあてはまることではないか。多くの人を自死に追いやるような非人道的な人間は本当に「人間」と言えるのか。彼は高圧的で独善的でそれでいて自分大事という、ある意味では人間らしい人間だった。だが同時に自分を殺してしまうほどの恨みの想念を向けられていた時点で彼は「人間ではない」ものに成り下がっていたのではないか。そこには皮肉と言う言葉で言い切れないほどの深い闇が横たわっているのではないだろうか。
 そしてそれは最後、社長が死ぬ瞬間を目撃してしまった冒頭の女子高生にものしかかる。鬼太郎は最後に人間が人間を殺し、その恨みが人間を殺す、堂々巡りのような救いのない負の循環と言うべきものを繰り返す人間を「妖怪より恐ろしい」と言い切る。
 社長も女子高生もまぎれもなく人間でありそれ以外のものではない。だから鬼太郎も今回の事件を人間が人間の社会・集団の中で起こした事件と断言した。しかし同時にその負の循環を続ける存在を鬼太郎はどんな風に見やっていたのか。少なくともこれまでの話の中で出会ったまなや裕太のような人間と同類とは思っていなかったろう。
 今話は妖怪がほぼ関与しない、どこまでも人間が生み出した救いのない話だという感想が大勢だろうし、スタッフもそういう意図を多分に込めて作ったのだろうが、今話に登場した「人間」たちはそんな制作陣の意図を超えた異質な存在になったのではないかと思えるし、そういう力を第6期ゲゲゲの鬼太郎という作品が原作どおりに内包しているという事実が嬉しい。それをはっきり認知することができるという意味でも今回の話は今作の中で特殊な存在となり得るのかもしれない。

 あとすごい個人的には「骨壺」が原作どおり「ほねつぼ」読みになっていたのが嬉しかった。5期版では「こつつぼ」になっており恐らくこっちの方が読みとしては正しいのだろうが、やっぱりあそこはほねつぼじゃないとねえ。ねこ娘の声出しはちょっと無理してる感ありつつ可愛らしくもあったけど。

 で、次回は鏡じじい。原作設定からして根っからのエッチな爺さんである鏡じじいが久々登場のまなとどんな風に絡むのか。
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2018年05月19日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)6話「厄運のすねこすり」感想

 …やられた。今話に関しては色々考えてみても結局「やられた」という感想に集約されるし、自分としてもこの言葉が一番今話にふさわしい感想だと思う。
 話の内容については後で触れるとして、自分的に一番やられたと思ったのは前半部分の構成なのである。
 今作の構成として特徴的なサブタイトル前のアバン(と言っていいのか?)部分、今作ではあの部分にて2、4、5話と3つの挿話において本編中盤の恐怖シーンをほぼそのまま、言わば先取りの形で最初に見せてしまうことで視聴者の興味を引く構成にしていた。それはそれで一つの手段だからいいのだが何度もやられてしまうと見ているこっちの興味も削がれてしまい、むしろさっさと本編に入れよといった気持ちさえ浮かんでしまうものである。実際前話を見終えた時点では僕もそう感じていたのだが、今話はそうした視聴者感情を逆手に取った演出が成されていた。
 今話の粗筋をまったく知らない状態でアバンの映像だけ見れば小さいすねこすりが巨大化して人間を襲い、人間が絶命した恐怖シーンだと思ってしまうだろう。だがそうではなかった。この場面は妖怪の脅威を見せる場面でもなければ恐怖シーンでもないのである。
 さっさとネタばらしすると、今回登場する妖怪すねこすりは2期「怪自動車」に登場した際のように人間に害をなす妖怪ではなく、むしろ人間が好きで人間と共に生きることを望んでいる平和的な妖怪である。原典の水木絵以上に猫っぽいデザインにリファインされていることもあり、今話のゲストキャラである老女・マサエに猫の「シロ」としてじゃれている様子は本物の猫との触れ合いのように見えて微笑ましい。
 しかしすねこすりは当人の意志に反して人間とは相容れない宿命を背負っていた。すねこすりは人間と触れ合うだけで人間の気力を「勝手に」吸い取ってしまう性質があり、それが1人の人間に集中し大量に気力を吸い取ってしまった場合、その人間は最後には死んでしまうのである。しかもすねこすりは自分にそんな能力があることを鬼太郎たちに教えられるまで知らず、そもそも自分が妖怪であるということさえも気づいていなかったのだ。
 すねこすりにとっては衝撃でしかないこの事実を知り彼は回想する。以前に仲良くしていた内村という男が衰弱し、最後には自分の目の前でミイラのような姿に変わり果てて死んでしまったことを。悲惨な最期を目の当たりにして感情が高ぶったすねこすりは巨大化した姿で絶叫する。
 アバンで挿入されたシーンとはつまりこの場面だったのだが、ここまで見て初めて視聴者はハッと気づかされることになる。あのアバンで描かれていたシーンとは今までのような(見ている側にとっては)ありきたりの恐怖シーンではなく、大切な人を失ったすねこすりが悲しみ、そして自らの能力に絶望する場面だったのである。
 この構成は本当に見事という他ない。今話だけを独立してみてみればまあちょっと捻った構成というだけ(それでも巧みであるが)になるのだが、5話までの積み重ねを経て視聴者の胸中に生じたであろう「思い込み」をも逆手にとって、それを演出の一環として組み込んでしまったわけだ。
 1話完結が主体の鬼太郎という作品においてここまでトリッキーな演出が施されるとはまったく想定していなかったので、これは「やられた」というしかないのである。

 と、演出上の技巧についての「やられた」はここまで書いたとおりだが、ストーリーについても十分「やられた」し、その理由については既にたくさんのブログやらSNSやらで触れられているのと同様である。
 すねこすりはマサエを母ちゃんと呼び慕っていた。恐らくは件の男性やこれまで共に過ごしてきたであろう人間も同様に自分の家族として大事に思ってきたであろうことは想像に難くない。その大切な家族の命を自分自身が奪ってしまっていたというあまりに残酷な現実を知ったすねこすりの胸中は如何ばかりであったろうか。
 一度はマサエの元に戻ったすねこすりや、いたたまれず飛び出したすねこすりを探すため弱りながらも森の中までやってきたマサエの様子からは、2人が本当に互いを大切に思いやっていることが窺えるが、それでも2人が共にいる限りマサエは死に近づいていくという「現実」は変わらない。
 偶然現れた熊に襲われそうになったマサエを助けるため、すねこすりは彼女の眼前で妖怪としての正体と言うべき巨大な姿を晒して奮戦、傷を負いながらも熊を追い払う。首に付けられた首輪と鈴から、目の前の巨大な生き物がすねこすり=シロだと気づくマサエだったが、すねこすりは近寄ろうとするマサエを振り切るように、自分はマサエから気力を「わざと」吸い取っていた悪妖怪なのだと宣言する。
 無論これはすねこすりが土壇場で考えついたマサエを遠ざけるための嘘なのだが、マサエはそれでもいいと告げる。すねこすりにどんな理由があろうとも「シロ」と一緒にいられれば幸せなのだからと。
 2人の確かな絆を感じられるこのセリフだが、今のすねこすりにとっては最も聞きたくない言葉でもあったろう。彼女が自分と共にいようとすればするほど彼女は衰弱し死んでしまう、それはすねこすりが一番望まない結果だからだ。ただの猫ではなく妖怪だという真実を知ってもなお自分を大切に想ってくれるマサエの心情はすねこすりに取っては本当に嬉しいものであったろうが、だからこそ彼はその自分に向けられた温情を否定しなければならないのである。誰も悪くない、互いが互いを思いやっているだけなのにそうすればするほど互いを拒絶し離れなければならない、これ以上の皮肉はないだろう。
 すねこすりは結局そのワルぶりを真実と受け止めたマサエの息子・翔がマサエを守ろうと振り回した傘に当たり、やられた振りをして去っていく。すねこすりは当初マサエに反抗的な態度を取る翔に明確な敵意を持っており追い出そうとしていた節があるのだが、そんな自分にとっての邪魔者はまぎれもなくマサエの実の子供であり、母を助けようと非力ながらも力を振るうことができる。対して自分の方は自分の力で「母」を苦しませ死に追いやってしまう、所詮は疑似的な家族関係。
 1人森の中を歩きながらマサエと過ごした日々を思い返し慟哭するその胸中には単純な寂しさや悲しさだけでなく、妖怪である自分にはどうあってももう何もできないという無力感もあったのかもしれない。

 そしてそんな2人に対し鬼太郎は物の見事に無力だった。元々すねこすりは人間に対し明確な敵意を持っていないのだから戦う理由はないのだが、それは鬼太郎の能力を以てしても出来ることはそこまでだということでもあり、鬼太郎は離れていく2人に対し何もできなかったのである。
 結果的に第三者・傍観者としての立場に甘んじてしまった鬼太郎の姿には、鬼太郎以外の水木原作に材を取った2期の諸作品と重なるものがあるが、今話は悲しい結末を迎えてしまったマサエとすねこすりに対し鬼太郎自身が言葉で明確な感想を漏らすことがないため、傍観者としての立場がより強調されている。
 何より今作の鬼太郎は良い関係性を保つために妖怪と人間は必要以上に近い存在にならない方がいいというスタンスを取っている。であればこれは鬼太郎にとってはまさに起きるべくして起きた悲劇と言えなくもないのだが、本人がそう簡単に割り切れていないであろうことは最後の鬼太郎の苦い表情を見れば一目瞭然というところだろう。
 特に上述の感想では悲劇と書いてはいるが実際に今回の事件は「悲劇」なのか。確かに2人は離れ離れになってしまったし相応に辛い気持を味わってはいるが、互いに対する想いが消えてしまったわけではなくマサエに至っては最後のすねこすりの嘘も理解した上で礼の言葉を口にしているわけで、逆に今話を悲劇と括るのは簡単だが実際登場人物たちの胸中を推し量るとこれは単純な悲しみの物語なのか、苦い終局の物語なのか、判断がつきかねる部分がある。ラストの鬼太郎はまさにそんな想いだったのではないだろうか。

 次回は打って変わって予告の時点で怪奇色バリバリの「幽霊電車」。サブタイトルに余計な言葉をつけていないところにもスタッフの力の入れようが窺えるが、6期版「ゆうれい電車」はどのように仕上がるのだろうか。
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2018年05月18日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)5話「電気妖怪の災厄」感想

 これまでの6期鬼太郎はブログにも書いたとおり人間であるまなや裕太が鬼太郎との出会いやその過程で巻き込まれた事件を通して、妖怪という「見えないもの」「信じていないもの」を信じるようになり歩み寄っていく過程が描かれてきた。
 その作りが非常に丁寧であるということは今までの感想に書いたとおりであるがその反面、基本的に1話完結である本作の基本的なストーリー骨子である「妖怪退治」の要素が弱くなってしまっていたのも事実である。勿論単純な妖怪退治ものに留まらない様々な副次的要素を内包しているストーリーや描写がゲゲゲの鬼太郎という作品の魅力であるというのは僕も十分承知しているが、それでもやはり本作におけるストーリー編成の中心に位置している要素が「妖怪退治」であるという点も忘れてはいけないだろう。
 そういう意味でもこの4話までの構成は鬼太郎作品としては極めて異例のことだった。大げさに言えば記念すべき初回に妖怪退治話を持ってこず「妖怪」という存在そのものを視聴者に認知させることを第一とした、1期の1話に匹敵する大胆な構成と言えるかもしれない。

 さてそんな見せるべき最優先事項を見せきって作劇上の余裕ができたのか、今話は6期鬼太郎としては初のオーソドックスな妖怪退治ものとなっている。敵は電気妖怪かみなり。その名の通り電気を操るだけでなく巨大な浮遊岩をも操って科学実験を行う人間たちを襲い、鬼太郎も子泣きじじいとの連携で倒したなかなかの強敵だ。
 今話は原作にはいなかったねずみ男を登場させてねずみ男の悪だくみを発端とすることで、「ねずみ男が何らかの形で妖怪に出会う」→「妖怪の能力を使って金もうけを企む」という本作における妖怪退治話のパターンを明示している。2話も発端としては同様だったのだが先に書いたとおり2話は妖怪退治要素を後方に引っ込めて作られた話なので、今話で改めて鬼太郎世界における妖怪退治話のフォーマットを提示しようと言うことだろうか。
 その一方で原作にも登場した「人間」をストレートにかみなりに絡めているのが面白い。科学を探究する科学者たちが襲われるのみだった原作に対し、今話で登場する人間はかみなりをも利用してのし上がっていくヤクザと一見すれば真逆の変更に見えるが、借金の取り立てから裏金による根回しで市長にまで出世したり、自分の犯罪を暴こうとする女性ジャーナリストをかみなりの力を借りて殺してしまったりと思いっきり自らの欲望に忠実に行動しているところは、科学の「探究」が行動理念であった原作の科学者たちと重なる点がないとも言えない。どちらも自己の欲求に忠実に行動した結果としてかみなりの災厄を招いてしまうところなどは等価と考えていいだろう。
 かみなりの方はそういった人間の勝手さにただ怒り暴れるだけの存在だった原作に比して、ねずみ男たちに持ち上げられてすっかりのぼせあがり、気に入った美人を手元に置こうとするなど俗な面が新たに付与されており、それも強引な手段によってであったり最終的には恐怖で人間たちからの尊敬を集める、畏怖されるような存在に君臨しようとするあたりからは原作を超える横暴さが感じられる。結局は人間と妖怪、そしてねずみ男の誰もが自分の身勝手な欲望のままに動き、利用していたつもりが圧倒的な暴力で立場を覆させられるといった関係には、原作とは似て非なる人間と妖怪の歪な関係性を集約させていると言える。
 かみなりを利用して作りだした発電所の電気を平時では称賛し、かみなりが暴れ出すと途端に否定的になるモブキャラの態度も、根底にあるものは同じなのだろう(キャラデザがなぜサザエさん風味だったのかはよくわからないが。笑)。

 さてそんな悪党たちに対する鬼太郎の態度は、ある意味では非常に鬼太郎らしいものであった。序盤に登場した際は原作どおりに子泣きじじいと将棋を指していたりして原作ファンを喜ばせてくれたが、今話の鬼太郎は事件に対して動き出すのはかなり遅い。ねずみ男は早々にかみなりを利用して電力会社や発電所を設立し、そこで稼いだ金を非合法手段に用いてヤクザを強引に市長にまでのし上げるわけだが、その時点では鬼太郎はねずみ男が具体的にどんな悪事をしているかまったく知らず、ねずみ男がまた何かやらかしていないかと訝しむだけだ。
 ねずみ男が絡んでいることを鬼太郎は知らないし特に誰も伝えていないのだから当然と言えば当然なのだが、この時点でねずみ男は確かに鬼太郎が心配するところの「悪さ」を働いているのである。にもかかわらず鬼太郎は気にかけるだけで積極的には動かず、ジャーナリストがかみなりの仕業で感電死したというニュースを知ってからようやく動き出すこととなる。
 これもまた新聞に載るほどのニュースであり鬼太郎も容易に知ることは出来るのだから、そこで初めて動き出すのも当然の話ではある。ここで気に留めるべきは鬼太郎の行動ではなく鬼太郎が行動する理由となる、劇中における動機的原因の設定である。確かにねずみ男たちがやっていたこともヤクザがかみなりの力で女性を殺害したことも、どちらも等しく悪いことであるが、鬼太郎はその内後者の事件を動機として動き出す。
 前者の行為も悪事であることに変わりはないのだが、逆に言えばもしこの段階で何かしら・誰かしらの被害が出ていればその時点で鬼太郎も動き出したろう。しかしここで行われたのは帳簿の記載変更であったり金銭の譲渡に過ぎないのである(それぞれ「改竄」だったり「裏金」だったりするわけだが)。
 この時点で鬼太郎が積極的に動かないのは言うまでもなく、鬼太郎にはそこまでする義理がないからである。原作にも「そんなに人類のために奉仕ばかりしていたらしまいにはベトナム和平にまで手を出さなきゃならなくなってくるよ」という鬼太郎本人のセリフがあるように、強引に分類するならば「正義の味方」的存在である鬼太郎も常に人間のために無償で働くといった性質の存在ではない。原作でも本作でも鬼太郎自身が何度も触れているが鬼太郎の目的は、あくまで鬼太郎が考える人間と妖怪の程良い距離感を保てるようにするというのが第一義であり、人間に尽くすことを目的としてはいないのだ。
 だから悪人が書類をいじろうが金をばらまこうがその辺は全く頓着しない。彼が気にかけるのはそれらの行為によって誰かの生死にかかわったり生活圏が脅かされるような具体的な(それも巨視的に見れば極めて些細な一個人または複数人の)被害が出た時なのである。
 鬼太郎は原作者である水木先生も認めるように正義側に立っているキャラクターであるが、同時に単純な正義の味方ではない微妙なスタンスを維持し続けている存在でもある。それがゲゲゲの鬼太郎というキャラクターの代えがたい魅力であることは言うまでもないし、それを妖怪退治というオーソドックスな話の中で改めて視聴者に見せつけたのは構成の妙であろう。と言うよりオーソドックスでありこれからも何度も出てくるであろう物語構成だからこそ、ここではっきりと描写しておく必要があったとも言える。
 そんな構成の影響で鬼太郎の出番は後半に集中することになってしまっているが、かみなりとの対決場面はそれを補って余りある迫力の映像に仕上がっている。かみなりの暴れっぷりも一つの街を滅ぼしかねない破壊を引き起こしたり機動隊を壊滅状態に追い込んだりとかなり派手なものになっており、鬼太郎を倒すために放った雷撃が唐突に龍の姿を形作って鬼太郎を襲うあたりなどはちょっとやり過ぎではと思わないでもないが、アニメの鬼太郎は子供向けのアクションヒーロー的側面を担っていることも確かなので、むしろアクションはやりすぎと思われるくらいにした方が良いのかもしれない。今話の場合は終盤までずっとかみなり側の描写ばかりだったので、見ている側のフラストレーションを発散させる意味でもド派手なアクションシーンは必要だったろう。
 対する鬼太郎も原作どおり子泣きじじいの援護を得て、少々強引な鬼太郎の電磁石化でかみなりの能力を一部無効化した最後の最後、大体の視聴者も「お前あれ使えるんだから使えばいいじゃん」と思っていた(に違いない)体内電気を、かみなりの電気を吸収した上で大放出、かみなりを葬り去ることに成功する。
 この体内電気を鬼太郎が繰り出すまでの間の取り方も実に絶妙だ。早すぎれば連発しても相手に効いていないと取られるし遅すぎればもっと早く使えばいいのにとのツッコミを受け、どっちにしてもストーリーに対する視聴側の没入度を阻害してしまいかねないところだが、今話では相手の武器を奪って能力を一部無効化するというシチュエーションを直前に配することでワンクッション置き、その上で相手の最後のあがきに対して待ってましたとばかりに体内電気を使用するという、見ている側のテンションの上昇度合いをきちんと見定めていたかのような見せ方は非常に素晴らしい。
 逆転のきっかけになった手段が人間の生み出した科学の産物というのも皮肉が利いていて実に巧みだ。

 さて次回は「厄運のすねこすり」。予告を見る限りでは2期「怪自動車」のように巨大な体への変身能力も持っているようだが、果たしてどのようなストーリーになるのだろうか。
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2018年05月10日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)4話「不思議の森の禁忌」感想

 本作「第6期ゲゲゲの鬼太郎」は前話までの3つの話の中で、主人公である鬼太郎のパーソナリティや能力、ねずみ男やねこ娘たち仲間妖怪の紹介、今作の世界観、今作における妖怪と人間の関係性やスタンス、その上で妖怪の鬼太郎と人間のまなが「友人」という関係性を持つに至るまでの流れを丁寧に描いてきた。
 1話完結形式の物語でそのような言ってみれば「初期設定公開」を3話もかけて行うのは長すぎるのではないか、そこまでする必要があるかと思う向きもあるかもしれないが、それは逆に鬼太郎を今アニメ化するに当たって最初にやっておかなければならなかったことだった。
 前回のアニメ化作品である第5期鬼太郎の放送が終了してから約10年の間に「妖怪」というものについての社会の受け取り方や考え方が変わってきたことや、境港市を始めとする各自治体や企業の尽力による作品やキャラクターのさらなるパーマネント化、「水木しげる漫画大全集」の刊行による水木作品の世界観の浸透といった劇的な変化を迎えた後で、改めてゲゲゲの鬼太郎という作品をアニメにするにあたってどのようなアニメを目指すのか、過去5回もアニメになった作品を今またアニメ化して何を描くのかといった難しい命題に向き合い、導き出した今作なりの回答をはっきりと一番最初に明言しておく必要があったのである。
 言わばこの1話から3話までの流れは一般的な初期設定公開話であったのと同時に、今回の第6期制作陣の「我々は鬼太郎をこのように作る」という決意表明でもあったのだろう。ゲゲゲの鬼太郎という、言い方は悪いが手垢のついた作品を今改めて一からアニメ化するには、それくらいの覚悟を必要とすることでもあるということだ。

 それ故に3話までは見ているこちらが驚くほどに生真面目な、見方を変えれば少々堅苦しい内容になっていたわけだが、そんな序盤の話も一段落ついて今話は有名なゲゲゲの森を舞台にした少々の箸休め的挿話となった。
 ゲゲゲの森は言うまでもなく鬼太郎や仲間の妖怪たちが住んでいたり集まったりする場所として知られているが、その認知度の割に実は原作からしてゲゲゲの森の存在はさほど重視されていない。あくまで「鬼太郎たちが住んでいる場所」「日本のどこかにある場所」程度の扱いしか受けておらず、アニメ版でも森そのものがフィーチャーされたことはほぼなかったと言っていい(5期の妖怪横丁はあくまで横丁限定であり森そのものが描かれることはあまりなかった)。
 そんなゲゲゲの森は今作では2期や3期のような人間社会と地続きの森ではなく、妖怪と同じで人間の目には見えないもの、見えない場所に存在しているサブタイトル通りの「不思議の森」として描かれた。現実問題として2期あたりの時代ならともかく現代において都心から比較的近い場所に人間が入ることも困難なような森が存在しているというのはあまりリアリティがないし、鬼太郎たち妖怪の不可思議性を強調するという点においても、この設定付与は必要不可欠なものだったと言えるだろう(異界に存在している場所という点では5期も同様であるが)。
 そしてゲゲゲの森を描写するきっかけとなるのは1話にも登場したまなの友達の少年・裕太。1話では友人にからかわれてばかりの気弱なところが目立っていたが今話では始終明るくはしゃいでおり1話とのギャップに驚かされるが、それだけ妖怪のことが好きなのだろうということが窺えて微笑ましい。鬼太郎をはじめ様々な妖怪のことは祖母から聞いたという設定は、水木ファンであれば水木先生とご存知「のんのんばあ」の関係が想起されてニヤリとさせられるところである。
 魂がまだ安定していないという子供だったことと、妖怪に対する純粋な好意や憧れのような「見えないものを信じる」感覚とが偶発的に働いたのか、裕太はゲゲゲの森に迷い込んでしまう。当初追い返そうとする鬼太郎も邪気のない子供には抗いがたかったようで、結局砂かけばばあや目玉親父の言いつけに従い、裕太にゲゲゲの森を案内することとなる。
 このあたりの描写は極端にコメディタッチとして描かれたわけではないものの、今までは冷静な態度しか見せなかった鬼太郎の様々な表情が見られ、妖怪世界における鬼太郎の言わば素の表情が見られるという点でも面白い。

 そして裕太たちの目を通して描かれる今作のゲゲゲの森は万年樹や妖怪温泉といったオリジナル要素を含みつつ、全体としては我々視聴者がパッと思いつく「人間の手が入っていない天然そのままの森閑とした森」を見事に表現している。かつて第4期鬼太郎を制作する際に水木先生は「宮崎(駿)アニメのように作ってほしい」とスタッフに注文したそうだが、今回のゲゲゲの森は作画の流麗さもあってまさにその宮崎アニメに出てきても何ら遜色がない「森」「自然」として完成している。
 上にも書いたとおり今までゲゲゲの森と言えばせいぜい鬼太郎や仲間妖怪が住んでいるところという程度の個性?しかなかった(掘り返せば家獣を食べた妖怪ヅタの生息地とかそこそこ追加設定はあるけど)わけだが、今回ここまで独自の設定を加味してゲゲゲの森を念入りに描写しているのには、つまりは異界の人である鬼太郎たちと同様に彼らが住む場所もまた異界、人間の世界とは異質な場所であるということを強調しているのだろう。
 だがそこは異界であっても何かのきっかけさえあれば出入りすることは出来るし繋がりを持てる場所でもある。裕太が入れた事実がそうだし以前から存在していたであろう妖怪ポストもそうだろう。森の中で出会う油すましや水妖怪といった妖怪たちが人間の裕太に対し、鬼太郎ほど突き放した態度を取っておらず、他ならぬ鬼太郎自身が「人間が好きな妖怪もいれば嫌いな妖怪もいる」と話しているところについても、人間と妖怪の世界とが明確に断絶しているわけではないということを暗に示しているように見える(水妖怪は裕太を食おうとしているが)。
 そう考えると前話で既に鬼太郎たちと友達関係という明確な繋がりを持ったまながゲゲゲの森に来なかった、(スタッフ的には)来させなかった理由もわかる。まなはゲゲゲの森という広大な異界に迷い込んで強引に繋がってしまうことなく、悩みながらも自分自身で行動し結果として繋がりを得ることができたのだから、作劇上の話としてはまながここでさらにゲゲゲの森に来る必要はなかったのである。明言はされていないがまなもいずれそう遠くないうちにゲゲゲの森に来ることになる、それだけの関係性を既に築いているのだから。
 同時にそれは純粋にただ妖怪への好奇心だけで動く、悪い言い方をすれば見世物的なものとして妖怪を見やっている「子供」の裕太と、鬼太郎たちを思いやって彼らのことを極力話さないように考えていた「少し大人」のまなとの対比になっている。

 だから仮にまながゲゲゲの森に来ていたとすれば、裕太のように山じじいの実をむしり取ることもなかったろうし、それ故の騒動も起こらなかったに違いない。無論裕太にも悪気は全くなかったろうが、好奇心や純真さがそのまま相手に受け入れられるわけではないというのはそれこそ3話序盤での鬼太郎とまなのやり取りで提示されたことでもあるし、それ「だけ」で互いに異質な存在と容易く繋がれるほど容易なものではなかったというわけだ。
 山じじい自体は原作漫画にメインで登場したことはなく、アニメ版でも4期113話「鬼太郎対三匹の刺客!」に登場したのみであり、しかもその話ではまったくしゃべらず何もせずにボーっとしていたり蝶を追いかけたりするだけという、今なら癒し担当と言うべきポジションであっただけに、今回の水木絵を比較的忠実に再現した恐ろしげな顔や、実を盗んだ裕太だけでなく彼をかばう鬼太郎やねこ娘、近くにいただけというねずみ男や子泣きじじいまでも容赦なく襲い来るという描写は、4期を知っている人にも知らない人にも底知れない恐怖を味わわせたことだろう。
 山じじいが動き出すと同時にこれまでただ不思議だけども綺麗に見えていたゲゲゲの森が、裕太に対して牙を向くかのような恐怖の対象に変貌した、ように裕太には見えるという場面の転換も巧かった。
 結局騒動自体は裕太が実を返すことで終息し、山じじいも未熟な子供がやったこととして戒めの印を残しながらも裕太を許す。異質なもの同士が理解し歩み寄ることの難しさをこれまでの話に続けて描いたようにも見える一方で、それでもなお妖怪を恐れず妖怪を知りたいと好奇心のままに話す裕太の姿からは、まなとは異なる「見えないもの」との触れあい方の可能性を示しているようにも感じられる。

 今話もまた小ネタが多くその辺はネット上で既にさんざん触れられている通りだが、いくつか触れておくと油すまし役の龍田直樹氏は過去作では3期から出演しており4期では一反もめんとぬりかべ、5期では子泣きじじいとぬりかべとそれぞれ兼役でレギュラーを演じている。山じじい役の佐藤正治氏も同様に3期からの出演経験があり、さらに言えば「墓場鬼太郎」にもゲストで参加している。オールドファンには5期のがしゃどくろ役が比較的記憶に新しいところだろうか。
 もう一体の水妖怪は鬼太郎の原作漫画に出たことはないが、「水妖怪」と言う名前の妖怪は1966年制作の実写版悪魔くんの第8話に登場しており、デザインもそこそこ似通ったものとなっている。
 他に砂かけばばあが口にした「寅吉」と言う名前の人間は、江戸時代の国学者・平田篤胤が遺した「仙境異聞」に記載されている天狗に攫われたという子供の名前と同じであり、水木先生も過去に漫画化したこともあるこの書物を元ネタにしたのではとも言われている。
 いずれにせよ水木先生が遺したゲゲゲの鬼太郎と言う作品、引いては数多くの妖怪画を6期鬼太郎の作品世界で咀嚼し再構築し、しかもそれが今のところ問題なく成功しているというのは特筆すべきことだろう。

 さて次回は「電気妖怪の災厄」。原作でも鬼太郎はかなり追い込まれた末に辛くも勝利したという感じであり、実は5期には登場していないのでアニメには実に4期32話以来、22年ぶりの復活となるわけだが、どんな活躍?を見せてくれるのであろうか。
posted by 銀河満月 at 02:02| Comment(0) | ゲゲゲの鬼太郎(第6期)感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする