2019年03月17日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)43話「永遠の命 おどろおどろ」感想

 鬼太郎世界のおどろおどろと言えば「人間が妖怪になった」という特異な設定の持ち主…なのだが、実のところその設定自体はこれまでさほど重要視されていなかった節がある。正体を人間と知りながら葬った鬼太郎に息子の正太郎が罵声を浴びせるという苦い結末ではあるのだが、「正体が人間だった」という筋は他に土ころびもあったりするし、原作の話自体がそちらよりはホウキ元素で飛ぶプラモデルの飛行機だとか霊界輸送機と言ったガジェットの方に傾注している。そも苦い勝利自体は鬼太郎も何度も経験している上に同様の設定を持ちながら鬼太郎の味方として中国妖怪と戦った井戸仙人なんて妖怪もいるので、原作に精通すればするほど際立った特徴としては認識されない傾向が強いのである。
 それはアニメでも同じで、原作に比較的忠実に沿った1期以外はほぼそのあたりは改変されており、あまり重視しない話作りが長いこと続いてきたのだが、この6期ではその設定に正面から切り込むこととなった。むしろそれ以外の要素をすべて廃して「人間が妖怪になり果てた」点のみを話の軸に据え、それに対して鬼太郎たち登場人物がどう動くかがメインとなっている。

 そうする上で良改変だったのは、おどろおどろに変身してしまう人間の小野崎を原作とは違い良識人にしたことだろうか。原作のおどろおどろは自分の延命と秘密を守るために血を吸った子供たちをすべて殺してしまおうと考えるどうしようもない奴だったが、小野崎は人間の姿でいる間は人間としての理性を保っており、かと言って肉体的には妖怪と同様の不死になってしまっているから自殺も出来ず、鬼太郎に自分を殺すよう依頼するという流れになっている。
 これにより鬼太郎も素直に倒すべきか悩まざるを得ない状況に立たされてしまったのだが、こういう展開の場合、妖怪になる前の状態の人間が同情的な存在であればあるほど悩みも深くなる(そして物語としては面白くなる)わけで、この設定変更は今話の展開にマッチした良改変だったと言えるだろう。
 その改変により浮き彫りになるのは鬼太郎の心情だ。これまでにも鬼太郎がその胸中を吐露する局面は何度かあったが、それはたんたん坊戦だったりバックベアードとの決戦だったりと戦いの中で激昂する義憤をそのまま声に出したような感じであり、今話のように毎度の妖怪事件の中で自分の気持ちをはっきり表明することはあまりなく、今話の鬼太郎も例によって口数は少ないものの、「おどろおどろが吸血事件の犯人かどうかはまだわからないから(即断を避けた)」と目玉親父が鬼太郎の考えを代弁しており、犯行が実際におどろおどろの仕業とわかってからもなお指鉄砲を構える手がどこか躊躇いがちだったところから見ても、未だ割り切れていない鬼太郎の心情が窺える。
 小野崎の娘・美琴は父が妖怪化しても自分だけは襲わなかったからまだ最後の理性は残っていると訴えるものの、再度妖怪化したおどろおどろはそんな彼女の自分を想う気持ちを「理解」しているかのように、美琴の血を吸おうとする。それは自分が実の娘までも餌食にするような、完全に理性を失ったただの化け物なのだと鬼太郎に思わせるための芝居だったのか、それとも本当に変貌しつくしてしまったのかはわからない。
 それを見た鬼太郎が何を考えて止めの指鉄砲を放ったのかも含め、中盤で鬼太郎の心情をある程度言葉ではっきりさせていたからこそ、このクライマックスでまた敢えて鬼太郎の気持ちの吐露を封印させて見る者の判断に委ねる構成は、巧みであると同時にある意味では非常にストレスの強いものになってはいるが、だからこそラスト、美琴と鬼太郎の「やり取り」が一層冴えるのである。
 事件解決後、「絶対に許さない」と告げる美琴に無言という形で応え去っていく鬼太郎。事件解決の最終的な手段も事件解決した後もどちらもすっきりとしない後味の悪さは原作が迎えた結末の苦さをさらに一歩推し進めたクロージングであり、その意味で今話は「妖怪に変貌した人間の末路を描く」という一点において、原作をも超えた挿話と言ってもいいのかもしれない。

 次回の話はのっぺらぼう。原作では敵妖怪として登場したのっぺらぼうだが今期ではOPを始めこれまでに数回ゲゲゲの森の住人として登場しており、つまりは鬼太郎と直接敵対していない仲間妖怪的立ち位置であるはずだが、そののっぺらぼうをメインにした話はどのようなものになるだろうか。
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2019年03月03日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)42話「百々爺の姦計 妖怪大裁判」感想

 6期鬼太郎もどうやら2年目放送が確定したようだが、3月の放送は10日が休止だけどもこれで残りの話数で名無しとの決着がつくのだろうか。というか24日と31日放送分のサブタイトルが不安を煽りまくるタイトルなので、どんな内容になるのか今から心配である。

 それはそれとして今回の話。妖怪大裁判の話も普段の鬼太郎の世界観から考えるとかなり異質な話ではあるのだけど、それ以前に出たものも含めて妖怪たちが大挙して登場する一種のお祭り回として印象に残りやすい話である。当然歴代アニメ作でも漏れなくアニメ化されており、特に裁判長役の大天狗が以前から鬼太郎の知り合いという設定になっていた5期ですらアニメ化したのだから、制作側にとってはアニメに「してみたい」話なのかもしれない。
 そんな今回の妖怪大戦争、原作だと前半の裁判シーンと後半の濡れ衣を晴らす&百々爺との対決シーンとに結構はっきり分かれているが、今話では前半部分にあたる裁判のシーンに焦点をほぼ絞った構成となっていた。証人にただ延々と説明させるだけでなく検察側と弁護側(親父やねこ娘)による質疑の時間を与えたりと、公式ツイッターでも触れているとおり地味になりがちな、ともすれば後半の戦闘場面の前座として処理されがちなシーンに工夫を凝らして見栄えのする展開にしようと腐心しているのが見受けられる。
 その分原作の後半で描かれた百々爺との対決はほぼ完全にオミットされており、特に百々爺の得意技である鼻もんもがまったく登場しなかったのは残念なところだった(鼻毛針は使った後のものだけ登場していたけど)。ただ刑に処されようとする鬼太郎を何とか救おうと目玉親父が時間稼ぎをしている間にねこ娘たちが真相を究明するという流れ自体は法廷ドラマのセオリーに従ったものであり(個人的には「のび太の宇宙小戦争」を思い出したけど)、それも考えて今話はやはり百々爺との戦いと言うよりは「妖怪大裁判」そのものに注力していたと考えるのが妥当なのだろう。
 人間であるまなが証人として登場したのはちょいとご都合主義な感じがしたけども、今回の裁判と言うか事件自体が名無しに仕組まれたものであったのだからこれはこれでいいのだろう。何よりまなとしては鬼太郎と貶めるつもりは全くないにもかかわらず、百々爺の誘導尋問的な質問に従う内に結局鬼太郎を窮地に追い込んでしまうという展開は結構見応えのあるものに仕上がっていたと思う。まなに惚れていたり鬼太郎とは個人的に知り合いでもある小次郎の態度も、これまでの話を踏まえたものになっていて細かい描写にも注意が行き届いていた。
 個人的に一番物足りなかったのは原作でも歴代のアニメ版でも大挙して登場するモブ妖怪たちが、今回は目の光だけで処理されてしまい実態を拝むことができなかったというところかな。そのせいで最初に書いた今話らしいお祭り感がいまいち乏しくなってしまった気がする。まあ今話は裁判描写に注力していた以上、そもそもお祭り感覚の話ではないのだけど。
 …鬼太郎のケツは別に出なくてもいいよ(笑)。

 今回の大裁判の影に名無しの存在を鬼太郎が感じ取る一方、まなはその名無しにこれまでに続き4つ目の印「金」を刻印されてしまう。五行由来と考えると残りの印は「水」。最後の刻印がまなに施される時、一体何が起きるのだろうか。
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2019年02月24日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)41話「怪事!化け草履の乱」感想

 さて今回の話は化け草履…なのだが、話の内容とは別の次元で個人的に腑に落ちない点が出てしまって、どうにも話自体の感想をきちんと考えられないというのが正直なところだったりする。
 器物百年を経て変化する付喪神の存在が今話の肝でその付喪神たちが人間に簡単に捨てられてしまう現状を悲しんで…(「怒って」でないのは今期独自のアレンジで程良い匙加減だった)、というのが今話の粗筋なわけだけど、この種の話を見るとどうしても「物を捨てるのってそんなに悪いことなのかなあ」と思ってしまうのである。まして今話の場合は大事にしてくれた人が亡くなったのと引っ越しという生活環境の変化があって、取っておく意味がほとんど失われてしまった状態だから、原作で買ったばかりの靴を気に入らないからという理由で捨ててしまうのとはだいぶ状況が異なっているから、それを同等のものとして考えていいものなのかなあと考えてしまうのだ。尤も制作側もその辺は踏まえているからこその怒り→悲しみへのニュアンスの変化なのだろうけど。
 でもよほどの好条件が揃わない限り、1人の人間が生きている中で手に入れたすべての物を所有し続けることなんて事実上不可能なのだから、捨てることは悪いことと断じているような話作りにはちょっとうーむと思わざるを得ない。今話ではそのあたりの落とし所として化け草履たちを資料館に保存するという形で幕を閉じさせたので、話としては巧いまとめ方だったとも思うのだけど(じゃあ言うな)。
 個人的にはエキセントリックな変人を登場させるよりはごく普通の、何の悪意もないけど物を大切にしない人(5期78話でヒダル神を怒らせた料理番組のような)を出して、その上で古い物を大事に思う人たちをクローズアップした方が良かったんじゃないかなあと思ったり。
 あくまで個人的にそう思うだけで今話そのものは、何度も触れてるけど怒りではなく悲しみが行動の動機としている時点であまり殺伐とした雰囲気にはなっておらず、良い話としてまとめきっている手腕は見事である。今回の騒動のそもそもの原因が「人間」と「器物」のコミュニケーション不足という、文章で書くとおかしいのだけど作品世界的にその通りとしか言いようがない点も、いかにも鬼太郎や水木漫画らしいユーモアがあって良い。

 次回は妖怪大裁判。…あまり鬼太郎のケツにばかり目を向けないように(笑)
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2019年02月17日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)40話「終極の譚歌 さら小僧」感想

 …いつも思うけど「ぺったらぺたらこ」が受ける世界ってのも不思議なもんだよなあ。

 というわけで今回登場の妖怪はさら小僧。例によって彼の代名詞的フレーズ「ぺったらぺたらこ」も引っ提げての登場である。自分だけの歌を人間に盗まれたので復讐に現れ、そこを鬼太郎によってとっちめられるという展開は基本的に原作に沿ったものである。原作では目玉親父もその実力を危険視し鬼太郎は一方的にやられてしまい、ねずみ男の反則的な不潔攻撃によって退けることができたというレベルの強豪妖怪だが、今話ではねずみ男たちを閉じ込めた檻を一蹴りで吹っ飛ばすという力の片鱗は見せていたものの、鬼太郎と全面的な対決には発展せずに終わっており、その辺は少々物足りなかったかもしれない。
 だが今回の白眉は鬼太郎とさら小僧との対決云々ではなく、さら小僧の歌を盗んだ売れない芸人・ビンボーイサムの去就だろう。一度鬼太郎に歌を歌わないよう忠告を受けても無視してさら小僧に攫われるところまではこれまでにも見られたセオリーの範疇だったが、この芸人はさら小僧の手から鬼太郎に救われ再度忠告を受けたにもかかわらず、最終的に自分の意思で再び歌を歌ってしまう。家族にさえ止められたにもかかわらずである。
 勿論その理由は劇中でねずみ男が言ったとおり、結局のところは家族のためとか金銭的な収入とかではなく芸人として大勢の人から喝さいを浴びたかったからに他ならず、そのために家族を捨てただけでなく鬼太郎やさら小僧との約束をも反故にした、まさに自分勝手の極みと言ったところの理由なわけだが、この結末はいわゆる風刺や皮肉といった味わいとはまた別の次元で非常に鬼太郎らしい結末でもあった。
 それは自分勝手な理由ではあるし救いも全くないのだが、自分の意思で自分の生死を決定づけた、命さえも自分の欲の天秤にかけたという点である。これが鬼太郎らしい結末というのは、極めて「水木漫画」的な結末でもあるからだ。
 命の重みとかそういった観念はまるっと無視して自己の欲望と命を天秤にかけて欲望の方を取る。これは古今東西の物語でよく描かれるパターンでもあるが、水木漫画の場合少々趣が異なるのは、このパターンを否定的に描くのではなく「自分の命なんだから自分の生き死にを自分で決めるのは当然のこと」とむしろ肯定的なスタンスで描くことが多い点にある。
 これには水木先生がかつての軍隊時代、自分も含めた多くの戦友が自分の意思で生か死かを決めることが叶わず、上官の命令、あるいは敵の攻撃によって強制的、理不尽に死を迎えることになったという辛い体験故の死生観が大きく影響している。簡単に言えば「自分で考えて決めたのだから、考えた末に死にたいと思った人は死なせてあげなさい」というスタンスだ。この感覚が水木作品に大きく影響しているというのは、原作の鬼太郎や多くの水木漫画を読んだ方なら理解できるところだろう。
 水木しげるの世界にとっては自分の意思で自分の生死を決められることは幸福なことなのだ。たとえその結末が「死」であっても。その意味でビンボーイサムは芸人として最高の喝采を浴びたから幸福なのではなく、その先に迎えるであろう結末までも自分で決められたからこそ幸福なのである。ビンボーイサムの姿を見て悲しむ母子と怒るさら小僧の姿に隠れがちだが、何も言わず音も立てずに(下駄の音もしない)立ち去っていく鬼太郎の姿は今話、引いては今作の世界そのものがビンボーイサムに向ける冷徹な視点の代替であり、それこそが今話の真骨頂と言えるだろう。そしてこの結末を迎え「られた」今作はやはりゲゲゲの鬼太郎、そして水木しげる漫画の系譜に連なる作品の1つであると断言することができるのである。
 今話は表層を見ればバッドエンド、ビンボーイサムの視点に立てばハッピーエンドと捉えられるだろうが、実際は鬼太郎の視点に立ってそのどちらとも取れる結末を「フハッ」と見やる、水木世界的に極めてオーソドックスなエンド、と言えるのかもしれない。

 次回の登場妖怪は化け草履。さら小僧に対するぺったらぺたらこと同じくらい、化け草履と言ったら器物の妖怪変化と関係性が決まっているところがあるが、今期ではどのような物語になるのだろうか。
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ゲゲゲの鬼太郎(第6期)39話「雪女純白恋愛白書」感想

 うん、面白い。3期以降の歴代ねこ娘声優が集まるという話題性を抜きにしても、ラブコメの定石も種族の違う男女の恋愛劇もそつなく見せており、それでいてこの種の話だと出番が本当になさそうな鬼太郎にもメインストーリーの埒外で(これもコメディタッチの)出番を作っており、脚本も演出も絶妙なバランスで成り立ったグレードの高いコメディに仕上がっている。
 鬼太郎に出てくる雪女と言えば原作的には雪ん子回に出てくる冷凍妖怪の1人であるが、アニメの古参ファンであれば5期の巨乳雪女・葵ちゃんを思い出すところだろうか。今回登場の雪女・ゆきはいかにも「雪女」という感じのクールビューティーな見た目(別に中の人がかつて演じたキュアビューティにかけているわけではない)だが、恋愛ごとに関して非常に疎い面は一種の天然っぽい雰囲気も見せており、感情移入しやすい可愛らしさも発揮していて好印象。
 お相手の暑苦しい男・俊(演じるは5期でミイラ男のバルモンドも演じていた森田成一氏)との対照的なバランスもラブコメぶりに拍車をかけており、それでいてゆきを想う気持ちは本当に一途で真っ当なもので、その暑さがいつの間にかゆきの中で好意的なものとして根付いており、それがねこ娘やまなとのやりとりの中で偶発的に気づくというシチュエーションはその直後、沼御前と一緒にいる俊の姿を見て初めて嫉妬心を覚える描写も含め、正しく恋愛劇のそれであった。
 妖怪と人間の恋愛譚と言えばこれまた5期でのろくろ首と鷲尾とのものがあり、こちらは今回のような種族の違い故の問題はさほど提起されることはなかったが、5期91話の一つ目小僧回で若干提示されていたことを踏まえて3年目も放送されていたらその辺りに突っ込んだ話もあったのかもしれないと想像してみると、今話はコメディの体裁ではあるものの5期で描ききれなかった一つ先の話を描いたと取れなくもないだろう。その最たるものは人間の方がどうしても先に寿命を迎えてしまうというところだが、「愛があるならそれでもやって行けるだろう」という理想的なハッピーエンドを今回は迎えられており、いささか理想に過ぎると思われる向きもあるかもしれないが、ゆきの母親の言葉からするとその理想の結果として生まれた存在がゆきであるのだろうから今話、引いては6期の世界ではこれでいいのだろう。こちらとしても視聴後感は心地よくて良いしね。
 鬼太郎側の描写でおかしかったのはやはり恋愛とは何かと聞かれて説明するうち自分のことを話している風になってしまうねこ娘の様子だろうか。ねずみ男から渡された恋愛シミュレーションゲームをやる羽目になって寝不足になってしまった鬼太郎や、鬼太郎と反対に妙にやる気の目玉親父と、その鬼太郎と相対する妖怪が5期ねこ娘役の今野宏美氏演じる沼御前だったことも含め、今話は全体的に5期っぽさがそこかしこに漂う話であったとも言える。
 もちろん冒頭に述べた歴代ねこ娘声優の共演も僕のようなオールドファンには嬉しいサービスだった。ゆきの母親役だった三田ゆう子氏とゆき役の西村ちなみ氏は4期48話で、西村氏と今野氏は5期96話で共演経験があるものの、全員が一堂に会したのは勿論今回が初めてのことであり、半世紀に渡って続いてきたアニメ版ゲゲゲの鬼太郎ならではのちょっとしたお祭りであった。
 この調子で5期映画の5大鬼太郎みたいにいつか6人の鬼太郎が勢揃いしてくれたら非常に嬉しいのだけど、ま、夢は夢のままでも、ね。

 次回はさら小僧。さら小僧と言えば「ぺったらぺたらこ」。こちらも歴代アニメではコメディだったり怪奇話だったりと様々なアプローチが成されているのだが今期ではどのように料理するだろうか。
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2019年02月14日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)38話「新春食人奇譚 火車」感想

 第3クール全般に渡って展開された西洋妖怪編も、バックベアードの退場とアニエス・アデル姉妹の旅立ちを象徴として無事に幕を閉じた。年が明けての第4クールからはいつもの1話完結形式に戻る一方で公式的には「名無し最終決戦編」とも銘打っており、名実ともに今期鬼太郎の縦糸として話を引っ張ってきた名無しとの決着がつく重要な期を迎えたわけである。
 今の段階では2年目の放送があるかどうかはわからないが(京極先生の発言はあったようだけど)、どちらにせよやはり名無しとの決着は放送1年目のラストを飾るこの第4クール期でつけなければならないのだろう。
 まなの体に刻印された印は今のところ3つ。名無しの目的もまなを標的にした理由もその実力さえもほぼ不明なままではあるが、どのような展開と決着を見せるのか今から非常に楽しみである。

 それはそれとして第4クール初回である。…しっかし年明け早々にえらく物騒なサブタイトルを持ってきたなあ(笑)。
 今回の登場妖怪は火車。葬式や葬列中の人間の死体を盗んでいく悪どい妖怪だが、原作では「皮を残して内臓を取る」とまで言われるほどの強豪であり、実際鬼太郎は魂入れ替わりの術を食らってあっさり破れてしまっている。歴代アニメでは原作に準拠した2期や3期に反して涙もろい人情家として作られた4期、妖怪四十七士の1人(つまり鬼太郎の味方)になる5期など、なかなか多様なキャラ造形が行われているが、今回はとぼけた雰囲気を見せつつも比較的原作に準拠した悪辣な妖怪として描写されていた。
 最初は死体を食っていないために妖力も乏しくまなに見つかって逃げてしまうような情けない姿をさらしていたが、これは原作にあった「昔の元気はねえよ」というセリフを発展させた設定と言え、久々にねずみ男が火車を巻き込んで単独で金もうけに走る様も、原作で印象的だった「困っている人間から金を稼ぐのが一番簡単な儲け方」という小狡いセリフや態度の今期風焼き直しと考えると、なかなか巧いこと原作をアレンジしていると言える。
 さらに直接的な表現こそないものの火車が物理的に人間の死体を「食う」という原作にはない、ある意味原作以上とも言える描写を加えたことで、最初は少しとぼけた感じのしていた火車が本来的には図々しく悪辣な存在であることを短い時間で十分に見せていた。妖力がある程度戻ってからの魂入れ替わりの術を駆使してのねずみ男→ねこ娘→鬼太郎の変化は、それぞれの担当声優の熱演もあって非常に聴きごたえがあり、鬼太郎in火車とねこ娘in鬼太郎のバトルという珍しい対戦カードも実現しており、視覚的にも面白いシチュエーションに仕上がっていたと思う(入れ替えられた鬼太郎たちにしてみればたまったものではないだろうが)。
 そして実に3期以来に披露された目玉親父の大技「逆モチ殺し」。近年はどちらかと言うとマスコット的な扱いが(特に画面外で)多く見られるようになってきた目玉親父もれっきとした実力者であり、鬼太郎のピンチを救えるだけの力を持っているということを久々に画面の中で見せつけてくれた。火車がかなり好き勝手やって鬼太郎たちを追い詰めていただけに、見た目のグロさにかかわらず物語的なカタルシス・高揚感まで覚えさせてくれるのも物語運びの妙であろう。

 ただ個人的にはラストのオチは、今回に限っては少々やりすぎだったようにも思う。元々死体を手に入れる手段として「死体があることを世間的に知られたくない」後ろめたさを持つ人間たちから回収するというねずみ男のやり口はいかにも6期らしい風刺が利いていたし、その延長線上としてのオチなのだとは思うのだけど、あそこまでの悪辣さを発揮し目玉親父という一種切り札的存在に倒されるという展開を受けながらのうのうと逃れ落ちてしまうというのは、ちょっと演出の嗜好的に風刺に偏りすぎてはいなかったろうか。
 まあ原作のクロージングは火車が目を回して降参というあまり見栄えのするものではなかったから、それをそのままアニメ化するというのもそれはそれでどうかとは思うけど、ゲゲゲの鬼太郎という作品はエスプリやアイロニーの利いた娯楽作品なのだから、そのあたりの匙加減は慎重にやってほしいなあと思う次第である。
 オチのせいで今話全体の完成度が深刻な影響を受けるとかそういうことでも全然ないのだけど。

 次回は雪女。直近で雪女と言ったら5期の葵ちゃんを思い浮かべてしまうところだけど、スタッフ談話によるとラブコメ話になるようで久々に笑い重視の話となるのだろうか。
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2019年02月11日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)37話「決戦!!バックベアード」感想

 アルカナの指輪とブリガドーン計画を巡って鬼太郎たち日本妖怪とバックベアード率いる西洋妖怪が激闘を繰り広げる中、鬼太郎は大ダメージを受けアニエスを運命から救おうとしたアデルと共にベアードに痛めつけられてしまい、彼らの命と引き換えにアニエスはブリガドーンのコアになる運命を受け入れ、ついにブリガドーン計画を発動させてしまう。
 ブリガドーンにより異形に変わっていく人間たち、そしてそんな人間たちから放たれるどす黒い念を1人吸い寄せ続ける名無し。計画完遂と高笑いするベアード。絶体絶命のこの状況で鬼太郎は復帰できるのか、そしてベアードと決着をつけアニエスを救うことができるのだろうか。

 鬼太郎を救うための最初のキーマンとして動き出したのはまなだった。前話でアニエスの助けも間に合わず航空から落下したまなだったが、鬼太郎から渡されていたちゃんちゃんこの力で難を逃れただけでなく、前々話でアニエスから手の甲に受けた「魔女のキス」の効果により、ブリガドーンの只中にいても妖怪化するのを免れていたのである。後のセリフでベアードもまなが変化しないことに多少なりとも驚いていたことから見てもかなりイレギュラーなことであり、これもまたブリガドーンのコアに選ばれるほどの魔力の持ち主であるアニエスだからこそできる芸当なのであろう。
 まなは鬼太郎と同じくベアードの攻撃を受けて痛めつけられていたアデルと邂逅する。鬼太郎の妖力を回復させる魔法石を渡そうとするアデルを目玉親父は警戒するが、まなはアデルの必死の眼差しにアニエスと同じものを見出し、魔法石を受け取って鬼太郎の下へ走り寄る。
 それを見つけて弄ぶように攻撃してくるバックベアード。たちまち追い込まれてしまうまなだったが間一髪、魔法石の力で復活を果たした鬼太郎と一反木綿に救出され、鬼太郎も起死回生の指鉄砲をベアードに放つ。
 しかしベアードもその程度で倒されることはなかった。何と目玉だけと思われた自分の体を人型に変形させ、鬼太郎に肉弾戦を挑んできたのである。
 バックベアードと手足と言えば「鬼太郎国盗り物語」における相撲対決で手足をニョキニョキニョキーと生やしてきたベアードの姿を思い浮かべる原作ファンも少なくないだろうが、まさか体型そのものまで人の形に変えてくるとは思っていなかったので、個人的にはかなり驚かされたものである。着想の一つに前述の「国盗り物語」があったのだろうが何とも大胆なアレンジであり、まるで前番組のドラゴンボールみたいと一部で囁かれるのも無理ないことであろう。ただベアードの場合元々の姿だと鬼太郎とあまりに体型が違い過ぎるので、たとえば3期〜5期におけるぬらりひょんと鬼太郎の格闘のように分かりやすいアクションを構築しにくく、かと言って今期は5期における地獄究極奥義のような派手な技も存在していないため、従来の味を生かしつつ派手なアクションという画を完成させるためには、むしろこの種のアレンジは必要な条件だったとも言えるだろう。
 単眼からの妖力攻撃も健在で鬼太郎もたちまち劣勢に追い込まれてしまう。その合間にもアデルは今度はアニエスを救おうと、身動きも出来ない体をまなに支えられながらアニエスの下へ歩み寄るが、すぐにベアードに気づかれ一撃を受けてしまう。その攻撃自体はアデルの防御壁でどうにか防いだが、ここに至ってついに鬼太郎も激しい怒りを見せ、リモコン下駄や大技・体内電気を使ってベアードに対抗する。
 この流れ自体はかつての妖怪大戦争の時と同じなのだが、注意したいのはここで鬼太郎が怒る原因になった「傷つけられた仲間」が妖怪仲間ではなく人間のまなという点である。まなと歩み寄ることをやんわり拒絶した3話の頃から比べると隔世の感があるが、西洋妖怪編を含め何度となくまなと行動を共にし、鬼太郎にとっても気の置けない間柄になっていたというのは、内面の変容ぶりが外見からはわからない今期の鬼太郎における明確な成長(と言っていいだろう)であり、クライマックスの大事なシーンであるがなかなか微笑ましい瞬間でもあった。
 思わぬ反撃に驚きながらも一気に決着をつけようと大技をぶつけてくるバックベアード。それに対抗して放つ鬼太郎の指鉄砲とが空中で激しく拮抗し合う様は本当に前番組アニメのようである(笑)。圧倒的な力で指鉄砲を押し返しつつベアードは自分の歪んだ思想を鬼太郎に押し付けてくる。絶対的な強者が弱者を束ね崇めさせる世界、それが理想的な「平和の世界」であり自分はそれを作ろうとしていると強弁するベアード。しかしそれで出来上がる世界とは特定の存在のみが持つ理念のままに支配されすべてが抑圧された不幸な世界であり、それは自由と共存を望む鬼太郎の最も嫌うものでもあった。
 ベアードの邪な野心に反発する鬼太郎の心情に呼応するかのように、怒りの色に染め上がっていくちゃんちゃんこ。鬼太郎の祖先である幽霊族も同じ信念を持っているのか、それとも単に子孫である鬼太郎の助力となるべく立ち上がったのか、どちらの理由によるものかはわからないが、鬼太郎の想いに多くの先祖たちが呼応し力を貸してくれるのは間違いない。原作と同様、鬼太郎の窮地に立ちあがったちゃんちゃんこの力も得て、鬼太郎は極大級の指鉄砲を放ち、ついにバックベアードを地上から消滅させる。
 ベアードの消滅を目の当たりにした他の西洋妖怪も離脱、アニエスもアデルの命をかけた行動でついに救出されブリガドーン計画も停止し指輪は消滅、長い戦いはついに決着を見る。
 魔女の運命から解き放たれたアニエスはアデルと共に世界を見て回ることにし、まずは耳長たちの故郷へ向かうことを決める。そのことを鬼太郎に教えられたまなは鬼太郎に導かれるまま初めてゲゲゲの森を訪れ、再会を約束して旅立つアニエスたちを見送るのだった。

 しかしまだ「事件」は完全に終わってはいない。この西洋妖怪との一連の戦いの中で漁夫の利を得たと言っていい唯一の存在・名無しが今もまた暗躍し、まなに今度は「土」の刻印を施す。以前刻印した「木」「火」に続いてこれで3つ目。この刻印が何を意味するのか、そもそも名無しの目的が何なのか未だに判明していない中、物語は第4クール「名無し最終決戦編」へと入っていく…。

 今話で「西洋妖怪編」と名付けられた第3クールは終了したわけだが、3クール全体を軽くまとめて感想書いてみるとすると、少なくとも異質な展開ではあったと思う。それがスタッフの意図したものかどうかはわからないけれど。
 元々今期は名無しという縦糸的要素が存在してはいたものの、はっきりとクール全体に渡る連作形式を取るのは鬼太郎アニメの中でも初のことであり、しかもバトル重視という初めてづくしのクールであったが、この西洋妖怪編のメインキャラというべき存在であるアニエスに注目して見てみるとよくまとまっていたと思う。
 それほど西洋妖怪との絡みがない33話で「運命に従おうとしている娘」に対して辛辣な態度を取っていたのも、35話を見た後ならその理由も納得できるし、31話や34話の描写からも本来は素直で心優しく、でもどこかで無理をしているというアニエスのパーソナリティが垣間見え、その描写については非常に丁寧で巧く盛りたてていたと言っていいだろう。
 反面、開始前のスタッフの言にあった「鬼太郎個人を深く見せる(大意)」についてはちょっと首をかしげざるを得ない。アニエスと積極的に絡む役目はまなが担っていたこともあって、鬼太郎自身は今までとさほど変わらないスタンスを維持していたため、前2クールと比べてもさほど鬼太郎自身に変わりはなかったように思われる。ただこれについては演じる沢城みゆきさんの体調の問題(ちょうど産休・出産の時期)もあったろうから、一概に否定の材料にはなりえないのだけど。
 だからどこに注目するかで本クールの評価は変わってくるだろう。今まで以上の鬼太郎の活躍を望んでいた人や前2クールで多く見られた風刺の色合いを望んでいた人からはつまらないと思われるだろうし。僕としてはゲゲゲの鬼太郎という作品自体が極めて自由な作風だしそれが作品最大の魅力と思っているからこのくらいの変遷は望むところであるし、1話1話のクオリティは高いものだったので概ね満足しているというところである。

 さて次回からは先述のとおり「名無し最終決戦編」と銘打たれた第4クールに突入する。新年一発目からなかなか物騒なサブタイトルだが、果たして久しぶりに逆モチ殺しは拝めるのだろうか。
posted by 銀河満月 at 16:28| Comment(0) | ゲゲゲの鬼太郎(第6期)感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)36話「日本全妖怪化計画」感想

 前話にてアニエスが本当の意味で鬼太郎たちの仲間となったところを描いたこの西洋妖怪編、いよいよ今話と次の話の前後編がクライマックスとなる。
 当然今話の出だしはアルカナの指輪を求めて再襲来したバックベアード軍団と鬼太郎たちとの戦いになるわけだが、単なる闘争以上の意味を持たせるためのギミックとしてまなに指輪を拾わせているのは作劇上の都合と言ってしまえばそれまでなのだが、名無しを登場させてそこにも何らかの作為が働いているであろうことを匂わせ、ご都合主義的な脚本上の強引さを回避している。
 まなの拾った指輪を巡って鬼太郎はアデルと、子泣き爺はヴォルフガングと、ぬりかべはフランケンシュタインと、ねこ娘はカミーラとそれぞれ四者四様の戦いを繰り広げる。カラスを通してまなとアニエスの関係性を知っている鬼太郎がまなのことを「(アニエスの)友人、だろうな」とアデルに伝えるシーンは、アニエスだけでなくまなに対しても一定の信頼を抱いていることが感じられてなかなか良い。原作の展開に沿うならフランケンと戦うのは子泣きがいい(5期ではやってた)とかいう点で原作ファン的には若干の不満がないでもないが、まあそれはそれだしそれで今話の展開に水を差されるようなものでもないだろう。
 鬼太郎たちの助力を得て指輪と共に逃げるまなだが、鬼太郎を一旦退けたアデルが再びまなを襲い、アニエスの助けも及ばず指輪は奪われてしまう。指輪と共に高所から落下していたまなを掴んだのはアデルだったが、それは単に指輪を手に入れるためだったのか、それとも妹の「友人」であるまなにある種の興味が働いたのか、この描写だけではどちらとも言えないがそこは見る人が判断するべきところなのだろうか。
 だが結局まなはアニエスの助けも間に合わず落下してしまい、駆けつけた鬼太郎もバックベアードの不意の攻撃を受けて別空間=ベアードの空間に閉じ込められてしまう。

 アニエスもアデルに捕らえられまさに絶体絶命となった時、アデルはアニエスではなく自分が指輪をはめ、自分自身をコアにしてブリガドーンを実行しようとする。アデルもまた魔女の一族の運命に抗い、せめて妹のアニエスだけは自由にしてやりたいと願っていた、そのためにベアードの下で忠実な部下として今まで行動していたのである。魔女の運命に従って大切な家族を失う悲しみを彼女はアニエスと同様に抱いていた、そして母親を失った今、さらに妹をも失う悲しみを味わいたくないがためにずっと行動してきたのだった。
 正直に言えばこのシークエンスこそ強引に思わないではない。勿論アデルの真意が他の登場人物、引いては視聴者側にもばれないようにするためには安易に伏線になりそうな描写を織り込むことは難しかったろうが、あまりにも何もなさすぎて唐突すぎる印象はどうしても付きまとう。Aパートで見せたまなを助ける描写にそれらしさを感じられなくもないのだが。前話でアニエスが回想していたようにアデルもまたアニエスとの過去のやり取りを思い出させるなりして「(かつては)妹を大切に想っていた」くらいのシーンはあっても良かったかもしれない。
 しかしそのアデルの考えもバックベアードには見透かされていた。さらに元々の魔力が足りなかったためにブリガドーンは発動せず、ベアードはアデル、さらには捕まえた鬼太郎をも人質にとってアニエスにコアとなることを強要する。
 目の前で大切な仲間、そして姉が傷つく様を見せつけられ、アニエスに耐えられようはずもない。アニエスは自分をコアとしてブリガドーン計画を発動させてしまう。その魔力はあっという間に暗雲の如く空に満ち、人間たちは妖怪に変貌していく。そして変わりゆく人間たちから放出される黒い念をどんどんと集めていく名無し。

 と、文章で書けば今話の内容と感想は大体こんなものだけど、バトル主体の話は感想を書くのが難しい(笑)。
 とりあえず気になったのは上記のアデルの真意関連の部分くらいで、西洋妖怪編のクライマックスとしては十分な出来だったんじゃないだろうか。他の西洋妖怪と鬼太郎ファミリーの戦いがあまり描かれてないのはちょっと物足りない気もしたけど。
 鬼太郎があまり活躍できずやられる描写が多いのは、まなにちゃんちゃんこを貸し出しているという点もあるのだろう。原作どおり後編の次回ではちゃんちゃんこさんのブチギレ大活躍を期待したいところである。
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2019年02月10日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)35話「運命の魔女たち」感想

 西洋妖怪編も折り返しを過ぎ、明確に鬼太郎自身がバックベアードと敵対する理由を見出したことで再び激しい戦いが起きることを予感させる流れになってきたが、その渦中で仲間としての絆を培ったはずのアニエスは鬼太郎の元をまたも離れていってしまう。
 彼女が何を思い、その思いに鬼太郎はどのように応えるのか。最終決戦の前に今一度両者の気持ち・決意を明示する儀礼的な話が今話の主な内容である。

 アニエスが自分の過去と自分自身に秘められた事情を最初に打ち明けた相手は鬼太郎ではなく、鬼太郎よりも前に友達として関係性を築いていたまなだった。
 まなと仲良くなれた場所でアニエスはゆっくりと語り出す。姉のアデル、そして母親と楽しく暮らした幼い日のこと、優秀な姉にコンプレックスを抱いてきたこと、些細なきっかけで見せた魔法の力の一端がバックベアードの目にとまったこと、そしてブリガドーン計画とアルカナの指輪のこと…。
 アルカナの指輪がその力を最大限に発揮するには強い魔力を持つ魔女の命を生贄に捧げることが必要だった。アニエスの母もかつてその「運命」に従って命と引き換えにブリガドーン計画を発動させていたのである。そしてバックベアードは日本でブリガドーンを実行するためそのコアに、つまり次の生贄としてアニエスを選んでいたのだった。アニエスはベアードの命に従って生贄になることに、そしてそれを受け入れて母を見殺しにしたアデルに、魔女である自分が当然持つべきものとして存在していた「運命」に反発して遁走してきたのである。
 彼女にしてみれば母の死の直接の原因であるベアードに従いたくないという気持ちも当然あるだろうが、それと同等に幼い頃はいつでも一緒だったという姉のアデルが変わってしまったことに対する反発心もあるのだろう。アデルを姉として慕っていたからこそ今のアデルがしていることを認めることができない、複雑な胸中を吐露するアニエス。
 そしてその気持ちはアデルの方も同じだった。アデルは魔力の才能を見いだされベアードに選ばれた妹という存在に嫉妬していたのではないかと自問する。殊更に魔女一族の誇りに固執するのはその裏返しではないのかという苦悩さえその表情には浮かべており、彼女も決してベアードを盲目的に信奉しているわけではないということがわかるのだが、その苦悩さえも強い意志の元に抑え込み改めてアニエスと指輪を手に入れようと決意するアデル。

 そしてアニエスは自分の正直な気持ちをまなに打ち明ける。指輪を破壊するため、ブリガドーンを止めるために最初はただ利用するつもりだった鬼太郎たち、そして人間であるまなと仲良くならなければよかった、そうならなければ「巻きこみたくない」という思いを抱くことなどなかったのにと。
 これまでにもたびたび見せてきたアニエスの優しさを考えれば、仲間として迎え入れてくれた鬼太郎たちを大切に思う気持ちも、それ故に鬼太郎たちを巻き込みたくないと考えるのも当然であろう。彼女はバックベアードや配下の西洋妖怪だけでなく、自分自身の背負わされた運命ともずっとただ1人で戦ってきたのである。
 優しさ故にずっと苦しんできたであろうアニエスの心を救ったのはまなの言葉だった。友達になれて良かった、巻き込まれたなんて思わないと言うまなの素直な想いは、1人で苦しんできたアニエスの乾いた心を潤すには十分であったろう。アニエスがまなに抱きつき涙を流すのは1人で運命に抗い続けてきたアニエスが初めて他人を、仲間を頼った瞬間でもあった。
 その上でまなは改めて鬼太郎に相談するようアニエスに持ちかける。いささか逡巡しながらも友達であるまなの言葉を信じ、鬼太郎の下へ向かうことを決意したアニエスは、まなの手に感謝のキスをした後ゲゲゲの森へと向かう。
 森に入ってきたアニエスを妖怪たちは警戒し、果ては石まで投げて追い出そうとするが、そこに現れたねこ娘がアニエスを静かに後押しする。それに呼応するかのように続々と姿を見せる砂かけ婆に子泣き爺、一反木綿にぬりかべ。ねこ娘に限っては途中からだがアニエスとまなの会話を目撃していたこともあり、それを踏まえてのこの行動だろうが、それ以外の面々が敢えて言葉を発することなくアニエスの下に集まってきたのは、もはや会話を改めて交わさずともその想いが1つになっていることの証左なのだろう。多くの妖怪たちがアニエスの存在自体を拒絶する中、見知ったレギュラー妖怪であり、そして視聴者にとっては「ファミリー」として定着している妖怪たちがただ一つの目的のために集結する様は否応なしに高揚させてくれるではないか。

 集結した仲間たちの想い。それは彼ら「ファミリー」の中心に常にあり続ける1人の妖怪とも同じだった。注意して見ているとわかるが、アニエスとまなの会話は最初からカラスがずっと見続けていた。この世界において情報伝達役として重要な存在でもあるカラスは、アニエスの事情をすべて見て聞いていたのである。すべての事情をある妖怪に伝えるために。
 恐らくはアニエスが訪れる直前に彼はカラスからすべての事情を聴いていたのだろう。だから彼は敢えて多言を口にすることはなかったに違いない。助けてというアニエスの短い言葉に今の彼女の想いすべてが込められていることを彼は理解し、その必死の想いに応えたのだ。これこそが「ゲゲゲの鬼太郎」なのである。
 鬼太郎はなおもアニエスを追い出そうとする妖怪たちにはっきりと宣言する。ベアードの作る世界は単なる妖怪の世界ではなくバックベアードの世界であり、ただ1人の存在に支配され互いが互いを監視し合うような世界はまっぴらだと、そしてそれを果たそうとするベアードとは1人でも戦うと。
 忘れられがちだが鬼太郎もねずみ男とは別ベクトルながら、ねずみ男と同様に何にも縛られないという意味での自由人的気質を持っている。勿論「正義の味方」としての考え方も鬼太郎の大事な信念であるからまるっきりねずみ男と一緒というわけではないが、以前の3話でも片鱗をみせていたその気質が、今話にて最大限に炸裂したと言えるだろう(さらに言うなら結構とんでもないことをしでかし続けているねずみ男と悪友の関係を保ち続けているのも、根本が似通っているからである)。

 来たる最終決戦に向けて鬼太郎側の決意は固まった。その時とタイミングを同じくして出現するアルカナの指輪。指輪を求めて再び日本へ向かうバックベアード軍。そして暗躍する名無し。
 最後の戦いはいかなる結末を迎えるのであろうか。
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ゲゲゲの鬼太郎(第6期)34話「帝王バックベアード」感想

 別作業を優先していたら鬼太郎の感想を書くのがすっかり遅れてしまった。5期の感想も結局中途半端に終わってしまったし(まあ全体の4分の3くらいは書いたんだけどね…)、早く最新話に追いつくようにしていかないと。

 今回の話はこれまで顔見せ程度だった出番のバックベアードがメイン。力と力をぶつける話ではなかったものの、鬼太郎とベアードの思想・信条的な対立を決定づけるという点では両者の初「対決」話と言ってもいいだろう。
 今期のベアードは原作やこれまでのアニメ版におけるベアードのような「球体の体で中央に目がついている」存在と違い、存在そのものが別空間に存在しており周囲の黒い部分は空間の裂け目で、別空間から目だけを突き出しているという存在に改変が成されているが、今話はその改変が生きた話でもあった。28話でも少し描写があったが本体が別空間に存在しているから自分自身が移動することなく、どこからでも常にこちら側の世界の至る所を見やることができるという設定が加えられたことで、アニエスやねこ娘たち仲間妖怪の居場所を容易に見つけ虜にするというやり口に説得力が付与されている。
 さらに言えば妖怪大戦争後のアニエスや鬼太郎たちの行動さえも筒抜けだったのかもしれない、指輪が見つかるまで泳がされていただけだったのかもしれないと考えると、バックベアードの帝王としての圧倒的な実力と恐ろしさが窺い知れるわけで、今話の時点ではそれほど出番のないベアードの存在感を見せつけるには十分な能力設定だろう。
 そのような具体的な力を見せつけるだけでなく、鬼太郎の仲間たちを攫ったりねずみ男たちを甘言で惑わせてアニエスを精神的に追い詰めていくという卑劣な手段を行使してくるところは、いかにも「悪の軍団のリーダー」らしい完璧な敵役としての立ち回りであった。ましてその直前に悩みながらも妖怪バスツアーに参加しようと手弁当を作るアニエスと、それを微笑ましく見守る砂かけ婆たち妖怪アパートの面々を描写したばかりである。鬼太郎や日本の妖怪たちとも打ち解けたい、仲良くなりたいというアニエスの純粋な気持ちを見せておいて、そのアニエスの優しさを巧みに突く作戦を用いてくるやり口は、バックベアードという妖怪の恐ろしさを印象付けるという意味でもこれ以上ないほどに効果的であったろう。

 それ故にクライマックス、操られた仲間たちと戦うことを強要される窮地に立たされながらもベアードに屈することなく仲間たち、そしてアニエスも全員救って見せると決然と言い放つ鬼太郎の姿は非常に凛々しくカッコいい、正しく正義の味方・ヒーローであった。そしてそれはいみじくもバスツアーに参加することをためらうアニエスがまなに受けた「アニエスはどうしたいの」という助言と同じく、自分の心が求めるものに素直に従った故の決意であり、この時ようやくアニエスと鬼太郎は「共にありたい」という1つの想いを共有することができたのだろう。
 その想いに絶望の中の光を見出したアニエスは鬼太郎と協力し合うことでベアードからの脱出に成功する。鬼太郎だけでなくカミーラに騙されていたとは言えアニエスを追い出そうとしていたねずみ男が、唯一の武器である最後っ屁と「屁子力」による爆発で鬼太郎をアシストした点も、鬼太郎単独ではなく鬼太郎「たち」がアニエスを救うという骨子の暗喩になっており、同時にねずみ男らしいフリーダムぶりをも体現している名シーンと言える。
 この瞬間、アニエスはいわゆる鬼太郎ファミリーの一員になったのかもしれない。

 しかし想いを共有したはずのアニエスは、いやだからこそなのか、さよならの言葉を残して鬼太郎の元を飛び立ってしまう。ベアードの残した「ブリガドーンのコア」という言葉の意味も含め、アニエスの胸中は次回で明らかになるのだろうか。
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2019年01月13日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)33話「狐の嫁入りと白山坊」感想

 白山坊という妖怪も1話限りの適役にしては知名度の高いキャラクターではないだろうか。狐そのものが日本の様々な昔話や民話に登場する馴染み深い存在だとか、狙われた美少女を守るために鬼太郎が戦うという妖怪退治ものとして極めて王道的なストーリー展開だとか、決着のつけ方が「最後にでかい蛾が出てくる」というインパクトの強いものだとか色々理由はあるだろうが、その周知ぶりを裏付けるように歴代アニメでも必ずアニメ化されている話の1つになっている。
 アニメはアニメで4期版と5期版で演じたのは初代ねずみ男こと大塚周夫氏だったりとか、その5期版の話は原作から大きく逸脱し原型すらほとんど留めておらず、その代わりか中の人繋がりでねずみ男と妙に仲が良いといった小ネタがいくつも存在しており、これらの要素もまた見る人に白山坊の存在を強く印象付ける一因になっているのは間違いないだろう。
 そんな中でも1つだけ、白山坊のパーソナリティとして「誰かを騙す」というものだけは原作でもこれまでのアニメ版でも一貫して失われなかった。5期版は違うだろうと思う人もいるかもしれないが、5期版の白山坊は妖怪興行師として漫才や演芸などの興行で見る人を「良い意味で」騙している存在でもあるのだ(ちょっと強引な解釈だけど)。今にして考えるとその興行師という立場に白山坊を据えた5期のスタッフの原作咀嚼の確かさに驚かされるわけだが、逆を言えば原作からほぼ完全に離れていた5期版ですら白山坊というキャラの大元、根っこの部分を支えるパーソナリティは残されていたわけである。
 ではその「騙す」という個性までを完全に取っ払ったらどうなってしまうのか。白山坊はどういうキャラクターになってどういう話を組み立てることになるのか。そんな思考実験的な試みの場が今話、即ち6期版の白山坊のストーリーだったのかもしれない。

 序盤は白山坊に連れて行かれそうになっている娘・やよいとその父親・葛見が登場し、父親からの懇願を受けて鬼太郎たちが行動を起こすという原作どおりの流れで進行する。アニエスが同行した劇中における理由はともかく制作面における理由こそ今の時点ではわからないものの、それ以外は目玉親父とねずみ男にねこ娘、そして原作でも知恵袋として活躍した砂かけ婆と面子も比較的いつも通りであり、被害者であるやよいの線の細さが気になる程度でしかないだろう。
 だがこのいつも通り的な空気は中盤に入る直前、白山坊が鬼太郎たちの前に現れてから180度ひっくり返ることになる。現れた白山坊(余談だが今話の白山坊を5期でねずみ男を演じた高木渉氏が演じているのは、前述のとおり4期・5期版で大塚周夫氏が白山坊を演じた流れに沿う形での、スタッフのある種お遊び的な配役とも思われる)は目玉親父が話していた「娘をさらって食べてしまう」悪辣な存在ではなく、その悪辣な先代の白山坊を倒したという新しい代の白山坊だったのである。
 当代の白山坊は真実、やよいを嫁にもらいに来たと言い、食らうなどということは当然しないこと、そしてそれは以前やよいの父親と交わした約束の通りと鬼太郎に告げる。娘を差し出すという約束を白山坊と交わしたことで父親は富を得たというのは原作どおりの流れだが、父親はその点について鬼太郎に説明をしていなかった。つまり結果としてではあるが騙す形になっていたのは人間であるやよいの父親の方で、白山坊は極めて誠実にやよいを娶りに現れただけだったのだ。
 逆転してしまった立場の両者を前に、鬼太郎は手を出さず静観することを決める。単純な人間の味方でないことを静かに宣言する鬼太郎はいかにも今期の鬼太郎らしい姿だが、この鬼太郎の態度には本人の信念以上に「約束」というものを重要視しているからかもしれない。冒頭でもアニエスから妖怪退治をする理由を聞かれて「約束のようなもの」と発言していることからして並々ならぬ拘りを持っていることが窺えるので、これについては是非今後の話の中でフォローしていってほしいところである。

 そうこうしているうちにアルカナの指輪がやよいの体内に出現し、やよいは現れたアデルに連れ去られてしまう。体内の指輪を取り出すために呼ばれた妖怪として登場するのは、次回予告の最後にチラッと映っていた悪魔ブエル。原作では多勢の悪魔軍団を率いて鬼太郎たちを圧倒し、ヤカンヅルという禁断の存在によってようやく退治できた難敵だったが、今話では原作での人間に怪しい義手をくっつけるシチュエーションからインスピレーションを受けたのか、危険なマッドドクターとしての登場となった。最終的に今話で鬼太郎との決着は付けず逃亡してしまうので、こちらもいずれ決着をつけることになるのだろうか。個人的には数話前で耳長という西洋妖怪の被害者役を演じた龍田直樹氏に加害者側のブエルを演じてほしくはなかったけども。
 白山坊は鬼太郎たちと協力してやよいの元に駆けつけ、襲い来るブエルに傷つけられながらもやよいを守り続ける。その献身的な行動の理由は何の打算もない、ただやよいへの想い故のものだった。子供の頃のやよいに命を救われた時からずっと見守り続けてきた白山坊の純粋な想いの深さに触れたやよいは、白山坊の気持ちを受け入れることを決める。
 ラストで描かれる、鬼太郎曰く「『狐の嫁入り』ならぬ『狐の嫁取り』」。目玉親父の言うとおり所謂異種婚姻譚は民話や昔話に数多く見られる定型話であるだけに、2人の未来は明るいものになるであろうことを示唆していて極めて晴れやかなクロージングだ。そう言えば狐と人間の異種婚姻譚で有名な信太の森の話に登場する狐の名前は「葛の葉」だし、葛見という今回のゲスト親子の名前もここから取ったのだろうと考えると、2人が幸せな未来を掴んで欲しいと制作側からも後押しされているようで、見ていて心地よいものである。
 先述のとおり白山坊の「騙す」というファクターがなくなったことにより、原典では騙す前提で交わした約束を極めてピュアな感情のままで遵守しようとする、異端ではあるがあるいみ原作どおりの新しい白山坊像が想像されているのも面白い。大胆なアレンジではあるがそれもまた良しと思えてしまうのが鬼太郎という作品の不思議なところであり魅力でもあろう。
 人間と妖怪は必要以上にかかわらない方がいいという考えの鬼太郎がこの結婚を素直に喜んでいるように見えるのは、前述の約束の件があるからなのか、それともまなと出会って考え方が若干変わってきたからなのか。まさか原作や3期版の地獄編のような出自を抱えているからというわけではないだろうが、この鬼太郎の心の変遷が今後の物語に影響していくのかどうか、それも注視していきたいところである。
 注視していきたいキャラでいうならアニエスもだろう。親のいいなりになっているやよいを非難したり、そんなしがらみから抜け出して白山坊と結婚するやよいに笑顔を向けたりしているのには、自分自身の現状を重ねてもいるであろうことは想像に難くない。やよいの体内にある指輪を手に入れようとすれば出来たろうに、それをしてしまえばやよいを殺すことになるからと放置してしまうあたりからは彼女の隠しきれない優しさが見て取れ、アニエスの人となりを示す描写も順調に積み重ねられていると言えるだろう。

 次回は妖怪大戦争以降久々にバックベアードが自ら動く模様。次なる決戦の時は近い…?
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2018年12月15日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)32話「悪魔ベリアル 百年の怨嗟」感想

 今回の敵は悪魔ベリアル。その名の通りどんな相手も大抵「妖怪」にカテゴライズされる傾向のある鬼太郎作品の敵としては珍しい「悪魔」であり、明治元年に日本襲来したものの烏天狗によって魔力を封じられ、以来百年以上もただの老人として生き永らえてきたという凝った設定の持ち主である。原作発表時点で明治100年だから約50年後の今、今年はキリ良く150年目ということでベリアルが登場するには最適なタイミングだと言える。
 と、豊富なネタのあるキャラクターであり「脳を持つ水爆」に例えられるほどの存在であるにもかかわらず、さほど強敵として扱われることはなく単話で倒されてしまうのがいかにも鬼太郎らしいところであるのだが、その点に注目してみると今話は比較的原作に忠実に作られていた。割とあっさり目の決着に残念がっている人もネット上ではチラホラ見かけるが、これは恐らく歴代アニメ作の中でも特に強敵としての描写に比重が置かれていた3期版の印象が強かったのかもしれない。そもそも原作からして魔力が戻って最初にしたことが好物のホットケーキ生成という俗な奴だったし。
 烏天狗(今回は長老)を封印したり鬼太郎との決戦では百倍分裂をしたりという原作の要素をきちんと盛り込むだけでなく、烏天狗の存在をキーとして舞台を鳥取・大山に設定したり、その流れでまなやアニエス、さらには17話にも登場した若い天狗の小次郎をストーリーのメインに絡めるところはこれまでの挿話を踏まえた上での構成の妙味であろう。分裂したベリアルの本体を見極めるために鬼太郎自身でなく仲間の力を借りるところなどは過去のアニメ版を踏襲しているとも言え、ベリアルの強さや原作の展開は過不足なく描かれている。
 ただそれでも若干の物足りなさを覚えてしまうのは、ベリアルの脅威よりも小次郎の恋の苦悩や能力覚醒の方に主として焦点が当てられていたため、鬼太郎とベリアルの戦い自体は毎回のルーティーンワークレベルで決着してしまうためだろうか。
 その小次郎の恋の方は17話での出来事から未だまなに恋慕しており、長老には種族の異なる人間相手の恋を否定されてしまう。だがこのネタ自体はよくよく考えてみると多少の違いはあるにせよ、異なる種族や立場を超えて歩み寄ることができるかという西洋妖怪編に通底するテーマに繋がっており、ともすれば枝葉末節的なネタに終始しそうな小次郎の恋物語を西洋妖怪編にマッチした挿話として昇華させている点は見逃してはならないだろう。
 …尤も小次郎1人が盛り上がってお相手のまなには結局気づいてもらえていないという、ラブコメ的お約束展開になってしまってはいるのだが。さらに言えばベリアルの復活・決戦と完全に同質に描いているのが、前述のベリアル関連描写の物足りなさに繋がってもいる。
 他方、アニエスうはまなとすっかり打ち解けて一緒に箒に乗って境港まで行く仲の良さぶりを見せている。それだけでなく小次郎の恋慕相手が誰なのかをいち早く察し、指輪出現の予兆があったためでもあるがまなと2人きりさせる気遣いを見せたり、まなを巻き込まないために深い事情を未だ話さない心遣いをしながらも、自分を案じてくれるまなにすまなそうにする仕草を見せるといった細かい描写もあり、彼女が人の心の機微を理解できる優しさの持ち主だということを何気ない描写で見せている点はさすがである。同時にベリアルによって封印されてしまった烏天狗たちを1人で解放してしまう能力的なポテンシャルも発揮しており、わずかながらにアルカナの指輪の力を自力で発動させた28話の件も含め、今後の伏線になっているであろう部分も見逃せない。

 次回の話は白山坊。これまた歴代アニメ作品でも必ずアニメ化している定番妖怪だが、原作と同様のオーソドックスな敵妖怪になるか5期版のようなまったく新しいキャラクター像として登場するか、楽しみなところである。
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2018年11月25日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)31話「小豆洗い小豆はかり小豆婆」感想

 今回は前話の感想にも書いたとおり原作「小豆連合軍」のアニメ化なのだが…。うーむ、何と言えばいいやら。
 伝承どおりの妖怪たちが現代の文化や風俗の中でのし上がっていくものの、その中での矛盾に気づき結局自分の思い描いていた理想がかなっていないことに焦って人間に対し牙をむく、という全体の流れが完全に9話と同じで、悪く言えば単なる焼き直しになってしまっている印象が拭えない。
 9話と違う良点と言えば29話での一部和解や30話での共闘を経て、すっかり鬼太郎とも角を立てることなく行動できるようになったアニエスの描写がきちんと挟まれているというところだが、これは今話の本筋には関係のない部分でもあるので、今話の相対的な評価アップとはならないかなあという感じ。
 ただ逆を言えば昔ながらの生き方と現代的な生き方とのギャップで苦しむ妖怪、というテーマで描くとなると、その見せ方はある程度固定化されてしまうと言えなくもなく、あまり応用の利く題材でもないのだろう。その場合はキャラクターの個性とか濃さで押し切ってみてもいいのだが、その意味では今回登場の小豆洗い、小豆はかり、小豆婆はちょっと個性が弱かったと思う。仲間同士で仲違いを起こしその仲間が最終的に皆を諌めるという構図も9話と同じだし。
 …まなやねこ娘といった美少女キャラも少ししか出なかったしね(笑)。
 まあ1年間も放送するのだから中にはこういう話も出てくるだろうということで。

 次回は原作でも歴代アニメ版でも単話ながら力を入れて描かれることの多い悪魔ベリアル。昨今ではすっかり別作品のキャラクター群が定着した感のあるベリアルだが、今期の鬼太郎世界におけるベリアルは鬼太郎とどのように戦ってくれるのだろうか。
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ゲゲゲの鬼太郎(第6期)30話「吸血鬼のハロウィンパーティー」感想

 鬼太郎役の沢城みゆきさんが無事に赤ちゃんを出産されたようで、おめでとうございます。産休期間はてっきり鬼太郎も代役を立てるものと思っていたけど、それをせずにやりきったのはやはり主役だからということだろうか。ただこれまでの話の中で鬼太郎の出番が比較的少なかったのは、もしかするとその辺の事情も影響していたのかもしれないね。まあ、だからと言ってこれから鬼太郎の出番が劇的に増えるかと言ったらそうでもないだろうし、何より現状普通に面白く仕上がっているのだから別に問題ないのだろう。

 それはそれとして今回の話。今回はアデル配下の西洋妖怪3人の中で最後の1人である女吸血鬼カミーラが敵役となったが、こちらも前話のヴィクター・フランケンと同じく鬼太郎たちと本格的な戦いをするわけではなく、日本の少女を配下の吸血鬼に変えてしまうという自分自身の小さな目的、彼女曰く「お遊び」の一環で鬼太郎やねこ娘と戦っただけにとどまった。とは言ってもねこ娘は苦戦させられたし鬼太郎の指鉄砲を食らってもまったく動じていないところに、これまでの西洋妖怪と同様に強敵の匂いを感じさせていたが。
 今話で本当に焦点が当てられていたのは西洋妖怪の直接的な脅威ではなく、妖怪大戦争を経て心の距離が離れてしまった鬼太郎とアニエスの方だったと見るべきだろう。メインで活躍していたのはカミーラによって映画館に閉じ込められてしまいながらも脱出のために奮戦するねこ娘とまなだったが(実際尺で見るとこっちの方が長かったような…)、危機に陥ったその2人を救うという共通の目的、しかもこれまでは言わばなし崩し、受動的にアニエスに協力せざるを得なかった鬼太郎が、初めて同じ目的のために能動的に協力したというのが、今話における最大の見せ場だったと言える。
 前話でアニエスがまなと友達になることで、「友達を大切に出来る」「友達を危ない目に合わせたくないと思うことができる」人並みの優しさや人情といったものをアニエスもちゃんと持っていると鬼太郎や視聴者に提示したそのすぐ次の話で、本質的にはお互い変わらない優しさを持っている2人が改めて共通の目的と意思を以て協力しあう流れを描写しているのは、本来的には異分子であるアニエスと鬼太郎との歩み寄りの手順としては最適解であろう。
 Aパートでアニエスの魔法解説をわかるように説明してほしいと鬼太郎が言ったように、鬼太郎はアニエスのすべてを「理解した」わけではないし、アニエスと協力する段になってもアニエスが具体的に何をどうして何をしようとしていたのかはわからないままだ。それでも同じ目的のためにアニエスと手を携えることができたのは、鬼太郎としては3話で目玉親父が言ったように相手を「理解しようとする」気持ちを持ち続けることというのを実践しているためでもあろうし、鬼太郎にそう思わせるきっかけを作ったまなが今回もキーパーソンになっているという構成には改めて舌を巻く。本当にこの6期のスタッフは細部まで計算した上で描写しているんだねえ。

 その割を食ったというわけではないが、鬼太郎と西洋妖怪との戦いという点において物足りなくなってしまったというのは否めない。今話もほとんど戦っていたのはねこ娘だし。今話に関してはアルカナの指輪も登場しなかったので敵側との直接的なやり取りは小休止というところだろうか。
 また上記の感想ではあえて書かなかったけども、ねこ娘やまな、アニエスといった6期鬼太郎が誇る美少女キャラがほぼ出ずっぱりで活躍していたのは実に眼福であり、日本の女の子は可愛いというカミーラの言にも非常に納得できるというものである(笑)。
 後はねこ娘たちが見ようとしている映画の宣伝文句が往年の東宝東和配給ホラー映画のキャッチコピーみたいだったのも、僕のようなオッさんオタには非常に受けが良かったです。 

 そんなことを考えていたら次回の話は原作の「小豆連合軍」が元になるようで、今話に続いて西洋妖怪との戦いはお休み状態になるらしい。まあ1クール13話分をずっとバトルバトルでやりくりするのも難しいし、これはこれでいいのだろう。次の話がどんな内容になるかにもよるけども。
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2018年11月04日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)29話「狂気のフランケンシュタイン」感想

 ゲゲゲの森を舞台にした鬼太郎たち日本妖怪とバックベアード率いる西洋妖怪軍団との「妖怪大戦争」は、西洋妖怪側の求めるアルカナの指輪が一時的に消失したことにより、半ばなし崩し的に終幕を迎えた。辛くも西洋妖怪を撤退させることに成功した鬼太郎たちではあるものの彼ら自身の被害も大きく、傷ついた仲間たちを前に鬼太郎はついにアニエスを拒絶してしまう。
 ベアードが最終的に世界の支配を目的としているにせよ、少なくとも今の時点では日本に攻めてくる気は全くなく、今回の戦争は言わばアニエスという異分子によって強引にもたらされた天災と言ってもいい事象であっただけに、自らアニエスを受け入れたとは言え結果的に迷惑を被った鬼太郎には同情できるというものだろう。
 さりとてアニエスにもアニエスの事情があるようだが、元々素直ではない性格の持ち主であるだけにその事情をすべて鬼太郎に話すことはせず、ケンカ別れのような形で1人ゲゲゲの森を出て行ってしまう。アニエスの事情とは夢に見た母親の死と関連しているようだが、それが指輪やベアード軍団とどう関係しているのかは見ているこちらにも分かりようがない。

 といった感じで始まった今回の話。西洋妖怪との決戦という妖界での話が続いたために出番のなかった人間界代表とも言うべきキャラクターであるまなが、今話の鍵となっていた。
 「まなとアリエスが友達になる」と大まかの流れだけ短く言葉でまとめるとなんだかご都合主義的に思えるが、実際には指輪に固執し周囲のことを考えず突っ走ってしまうアニエスの危うさ、しかしそのおかげでアニエスを目に留めるまな、1話から描かれた人懐っこさや妖怪を理解したいと思う心からアニエスに積極的に話しかけると、これまでの話の中で描かれてきた2人の個性を踏まえた上での出会いを丁寧に描出していた。
 敢えてご都合主義的な面を挙げるとすれば、今話でいきなり個性を発揮するようになったアニエスのホウキだろうか(笑)。
 人懐っこいまなの行動やホウキのアシストもあってアニエスは初めて笑顔を見せる。日本に来てから初めて見せた笑顔と笑い声、それが本来アニエスが持っている個性であろうことは想像に難くないし、まなと一緒にいることでそれが引き出されたという時点で2人の「友達」という関係は決まったと言ってもいいのだろう。
 それをわかっているから、異国での初めての友達を危険な目に合わせたくないからとまなの元を去ろうとするアニエス。そんなアニエスに鬼太郎が助け舟を出したのは、かつて自分も同じ理由でまなと距離を取ろうとしていたこと、そしてそれは自分でも気づかぬうちにまなを大切に思うようになっていたからだということを思い出していたのかもしれない。そしてその時の自分と同じ行動をまなのために取ろうとしているアニエスが、根本的には優しい子なのだということを察したのだろう。
 まなやアニエスだけでなく鬼太郎自身においても過去の挿話で描かれた個性を踏まえた上での描写を盛り込み、それでいてヴィクター・フランケンシュタインという西洋妖怪の脅威と、彼に対する共闘と前述の助け舟を挟むことで鬼太郎とアニエスの融和も描出するスタッフの手腕は相変わらず巧みである。
 今回の敵は前述のとおりフランケンシュタインのみであったが、人造人間とそれを生み出す博士という原典における二者の個性を同一化した今作独自のキャラクターのみならず、原典の人造人間のように花嫁を求める描写まで盛り込まれ、まさにフランケンシュタインとしての魅力を遺憾なく発揮したと言っていいだろう。指輪を求めるための情報も手に入れたようだし、これからは全面戦争ではなく指輪を求めての小競り合いも行われるかと思うと、こちらも期待大である。

 次回登場するのは女吸血鬼のカミーラ。ハロウィンをモチーフにした話になるようだが、主に戦うのは同じ女妖怪であるねこ娘になる模様。まなも交えてどのような展開になるか楽しみである。
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2018年10月14日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)28話「妖怪大戦争」感想

 前回から始まった西洋妖怪編の今話のタイトルはそのものずばり「妖怪大戦争」。前回はヴォルフガング1人にかなり苦戦させられたが、これも前哨戦に過ぎないということでとうとうバックベアード率いる西洋妖怪軍団が総勢で乗り込んでくることになってしまう。その事実は日本に住んでいる海外妖怪たちを震え上がらせ、特にベアードについてはその名前を口にするだけでも危機を感じさせるような有様だった。
 鬼太郎はアニエスという闖入者に巻き込まれる形で、言わばなし崩しで西洋妖怪と事を構えることになったが、犠牲にしてしまった耳長たちのことを想い、せめてアニエスは守ろうと決意を新たにするものの、肝心のアニエスは自分やベアード軍についての事情をほとんど話さず、アルカナの指輪を破壊することにのみ固執する。
 鬼太郎が仮の住処を案内してもさして興味を示さず、指輪を壊せない鬼太郎に厳しい言葉を放つその姿の裏には、前回ヴォルフガングの決壊魔法を打ち破った鬼太郎の実力を当てにしているからという面もあるのだが、自分の利だけを考えているようなその言動には、ねこ娘でなくてもいらついてしまうところだろう。鬼太郎の背後で子泣きや砂かけに止められているねこ娘の姿には笑ってしまったが。
 ただアニエスも決して情に薄いわけではないというのは、彼女もまた耳長たちの墓前で謝罪の言葉を口にしているところからもわかるので、決して鬼太郎たちのことを軽んじているのではないということも理解できるだろう。彼女が墓前で使った魔法に何の意味があるのかはこの時点ではわからないが。
 だがそういう彼女が本来持っているのであろう情に厚い部分も、指輪の破壊という大目的のために抑え込まなければならないようで、アニエスは自分の魔術で鬼太郎の妖力を強制的に強化してしまう。そこだけ見ればアニエスが目的のために鬼太郎を利用していると思われても仕方なく、ねこ娘も恐らくはそう考えてアニエスに爪を向けたのだろうが、そこでも鬼太郎はまだアニエスに協力する意志をなくさなかった。いきなり強化された妖力に体が耐えきれず苦しんでいる状態であってもである。
 そこにはやはり耳長たち「助けを求めてきた者」を救えなかった後悔が根本にあるのは明白だし、その無念を晴らすためなら自分の体が傷つくことも厭わないというのは、これまで数多くの悪妖怪たちと戦い退治してきた鬼太郎の信念と呼ぶべきものであった。実際これまでの27の挿話の中で鬼太郎が何度も敵妖怪にやられ、時には死の淵に立たされながらも戦ってきたのだから説得力もさもありなんというところだろう。
 だが鬼太郎にも唯一の泣き所があった。それはかつて3話でまなを拒絶したのと同じ理由。「自分の力で大切なものを傷つけてしまったら、守れなかったら」という恐れ。そしてそれはベアード軍のゲゲゲの森への全面侵攻という形で現実のものとなってしまう。

 満月の夜、魔術によって炎に包まれるゲゲゲの森。妖力が全開になったヴォルフガングには銀の弾丸も効かず、フランケンシュタインは自身の製造した怪物に妖怪を襲わせ、カミーラの術に子泣きじじいたちも翻弄される。頼みの鬼太郎はアニエスの魔術のために身動きすら取れないまま、日本妖怪は追い込まれていってしまう。
 自分が動けないまま傷ついていく森と仲間たちを目の当たりにした鬼太郎は怒りのままに増幅された妖力を制御、復讐戦を仕掛けるヴォルフガングを一蹴しアデルと直接対決、一度は奪われた指輪を取り戻す。
 しかしそんな状態の鬼太郎でさえも、ついに姿を現したバックベアードの強大な妖力には歯が立たなかった。アニエスが無理やり指輪の力を起動させたおかげで難は逃れ西洋妖怪軍は撤退、双方痛み分けというとりあえずの決着はついたものの、森や仲間たちに残した爪痕は大きかった。
 そしてそれを見た鬼太郎は初めてアニエスを明確に拒絶してしまう。力の解放と同時に消えてしまったアルカナの指輪を探す手伝いはするというが、元を正せば鬼太郎たちにとって今回の件は西洋妖怪同士のいざこざのとばっちりのようなものでもあり、鬼太郎が積極的に介入する理由は存在しなかったわけで、その「とばっちり」のために守るべき大切なものを傷つけてしまった鬼太郎の胸中は察するに余りあるというところだろう。
 この辺は悪妖怪と戦う道を選びながらもどこかその行為に遠慮がちだった今期の鬼太郎らしいアンビバレンツと言えるだろう。アニエスを守りたい気持ちはあれど、そのために別の守りたいものを傷つけてしまった故の苦悩が滲み出ており、ヒーローでありながらヒーロー然とした存在でない鬼太郎というキャラクターを生かした秀逸な描写である。
 しかし同時に「怒りによってパワーアップ」という少年漫画的王道展開も盛り込んでおり、同時に強力な西洋妖怪とも、少なくとも鬼太郎本人は互角以上に戦えるであろう伏線も張られたわけで、今後もバトルを重視しつつ今まで通りの「ゲゲゲの鬼太郎」の物語を紡いでいってくれるのだろうと、些か楽観的ではあるがそんな風に思える今回の話であった。

 来週はそんな今まで通りの物語を体現する今期独自のキャラクターであるまなとアニエスが邂逅を果たすようだが、そこにフランケンシュタインも絡んでくる様子。指輪が消えてしまったことで全面侵攻は一旦ストップするのかは定かでないが、どんな展開が待っているのか楽しみなところである。
 
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2018年10月08日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)27話「襲来!バックベアード軍団」感想

 とある西洋の古城。そこに眠る1つの小さな指輪を1人の魔女が盗み出す。魔女と因縁があると思しきもう1人の魔女は指輪を取り戻そうと魔女を攻撃するが、その攻撃を防ぎ指輪の魔女を逃がしたのは「名無し」だった……。

 ゲゲゲの鬼太郎という作品に慣れ親しんだ人ならば、数あるエピソードの中でも「妖怪大戦争」をよく覚えているのではないだろうか。日本侵略に訪れたバックベアード率いる西洋妖怪の軍団と、原作では初めて結成された子泣きじじい、砂かけばばあ、一反木綿、ぬりかべの鬼太郎ファミリーとの決戦、多くの犠牲を払いながらも初披露となる鬼太郎の髪の毛針や先祖の魂が眠るちゃんちゃんこの力が発揮されることでようやく勝利を得たという、文字通りの「大戦争」である。
 この屈指の人気エピソード、当然歴代アニメ作品でも1期の前後編や3期の劇場版とかなり力を入れてアニメ化されており、原作そのままでなくとも西洋妖怪のリーダーであるバックベアードとその部下のドラキュラ、狼男、フランケン、魔女といった重要な要素は4期の妖怪王編や劇場版、5期の一連の西洋妖怪編に反映されており、いずれも重要なエピソードに位置付けられている。それだけ「西洋妖怪の軍団」というのは鬼太郎世界において重要なファクターであるのだ。
 そしてこの6期においてもついに西洋妖怪軍団が登場する。西洋妖怪が日本に攻めてくるという導入部は変わらないものの、魔女アニエスという鬼太郎側につく新キャラクターの登場、重要なキーアイテムであるアルカナの指輪の存在など多数の新機軸も導入され、さて今期の「妖怪大戦争」はどのように始まるのか…?

 日本側の導入は穏やかではあるがゲゲゲの森の中で話が進行するという、今までと比べると少々異質な舞台設定になっているが、これはこの西洋妖怪編でスタッフが目指しているのが「鬼太郎中心の物語」であるという点が意識されているのだろう。
 そこで鬼太郎が紹介するのは南方から故郷を追われてやってきたという妖怪たち。劇中では耳長しか名前が出ないが、他の妖怪たちもひときわ顔のでかいのはエギク、竹を食べてしまうのは竹鼠の精、川に小便を垂れ流していたのはビディという名前がちゃんとあり、いずれも水木しげる先生による妖怪画が存在している。どれも耳長同様マレーシアの妖怪というのもなかなかの拘りだ。
 彼らは故郷を追われて逃げてきたということでゲゲゲの森に住むことにはなったものの、追われた理由については怯えてしまって話そうとしない。さらには彼らの生活習慣があまりにも日本妖怪のそれとは違いすぎて、鬼太郎たちも最初は受け入れたものの次第に軋轢が生まれてしまう。
 鬼太郎も何とか説得しようとするものの逆に言い負かされてしまい、結局別々の場所に住むことを余儀なくされる。この辺の現実社会を反映したかのような展開はいかにも今期鬼太郎らしいところだが、このへんはコメディタッチで描かれているのでそれほど風刺色は強くなく、どちらかと言えば現実を揶揄したギャグシーンと捉えるべきだろう。
 ここの描写がギャグ的であるからこそ、宝石に擬態していたアニエス、そしてアニエスを追って現れた西洋妖怪の1人・ヴォルフガングが現れてからの急展開が俄然冴えてくる。ヴォルフガングたち西洋妖怪は耳長たちマレーシア妖怪を襲った張本人でもあり、意を決して立ち向かった耳長たちも次々とヴォルフガングの餌食になってしまう。そう言えば現実世界でもマレーシアは昔、西洋(イギリス)の植民地だったっけ。
 目の前で耳長たちを殺され怒る鬼太郎は指鉄砲の力で結界を粉砕、ヴォルフガングと対峙するが、ヴォルフガングも狼男の本性を現して鬼太郎たちに襲いかかる。その力は圧倒的でねこ娘たち仲間妖怪の力は全く及ばず、鬼太郎が初めて見せる指鉄砲の連射にもその再生能力を生かしてビクともしない。かつてない窮地に陥った鬼太郎はしかしアニエスから託された狼男の弱点・銀の銃弾を使って辛くもヴォルフガングを退けるのだった。
 耳長たちのために作った墓を前に、もっと言葉を尽くしていればと悔やむ鬼太郎。3話でも見せた「異なる考えの持ち主を問答無用で排除する」ことを何より嫌う鬼太郎だからこそ、この言葉は重く鬼太郎自身にのしかかる。この時点で鬼太郎が西洋妖怪たちに対して、「耳長たちを殺した相手」以上の感覚を覚えているのかは定かでないが、アニエスから自分を守るよう言われ即決で引き受けたあたり、鬼太郎の胸中にもある種の覚悟が生まれていたのかもしれない。
 そしてそれは西洋妖怪側も同じだった。アニエスの姉であるアデルはリーダーであるバックベアードの命に従い、ヴォルフガングのみならず人造人間のヴィクター・フランケンシュタイン、吸血鬼のカミーラを始めとする全軍で日本に攻め入ることを決断、ベアードは日本妖怪との「妖怪大戦争」を開始することを高らかに宣言する。
 そんな危機迫る状況の中で1人、計画通りとばかりに佇む名無し。日本妖怪と西洋妖怪の戦いの中で彼は何を企むのか。

 今話は導入編ということで西洋妖怪側の謎と強大さを短時間で見せつけることに終始していた。擬態魔法とか転移魔法とかあまり鬼太郎では聞く機会のない用語も出てくるあたりにも、これまでの話とは違うという雰囲気が感じられて面白い。まだ鬼太郎が西洋妖怪側の事情を詳しく知らず状況に流されている感が強いのは否めないが、まだこの物語が始まったばかりであることを考えると、鬼太郎がこの戦争の中でどう能動的に動くようになって行くかも一つのキーポイントになっているのかもしれない。
 いずれにしても鬼太郎が望むと望まざるとにかかわらず西洋妖怪との戦争は始まってしまう。次回はズバリ「妖怪大戦争」。鬼太郎たちが穏やかに暮らしてきたゲゲゲの森が戦場になる中、鬼太郎は西洋妖怪に対しどのように戦いを挑むのであろうか。
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2018年10月07日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)26話「蠱惑!麗しの画皮」感想

 今回登場の画皮は元々中国の妖怪で、原作ではほとんど出番はないもののアニメ版では3期と5期でそれぞれ中国妖怪の総大将であるチーの手下として登場している。美しい女性に化けて男をたぶらかすという伝承に沿って女性の姿に化けたのは5期が初めてだが、今回は女性ではなく美しい男性に化けての登場となった。
 前話登場のくびれ鬼とほぼ同じようなデザインで巨大な醜い顔だけという真の姿はかなりインパクトがあり、化けている時の姿とのギャップは凄まじいものがある。そのせいなのか今話のアフレコ現場でも、話自体はかなり重苦しい話であったのにもかかわらず笑いが漏れる一幕もあったようだ。

 今話はそんな人間側の重苦しい話に比して鬼太郎たち妖怪側の描写がのんびりした雰囲気になっており、妖怪側の様子がそういう雰囲気で描かれるというのは今話が初めてではないにしろ、人間側のドラマがいつも以上に重い雰囲気だっただけに、良くも悪くも対照的な描写になっていた。
 クライマックスの画皮との戦いも少し苦戦はしたものの、決着自体はかなりあっさりとついてしまったのだが、この「フハッ」とした決着が個人的には実に水木漫画ライクしていていいなと思っている。
 今話のような人間のドラマがメインで鬼太郎は最後に現れて事態を解決するだけという話は今期多く見られ、鬼太郎は主人公と言うよりデウス・エクス・マキナとしての存在価値が大きいとさえ思われてしまうところが、鬼太郎の立ち位置を考える上で非常に難しいのだが、逆に言えば2クール目最後の話となる今話に今期の定型と言える話を持ってきたのは、「次回」以降に控えているストーリーを踏まえて、とりあえずこのフォーマットは今回で一区切り、というスタッフの宣言であったのかもしれない。
 同様の話作りだった前話が、鬼太郎とねこ娘の激しいアクションでそれまでの陰鬱とした空気を吹っ飛ばしたのに対し、今話はアクションではなく正体を現した画皮の強烈なインパクト(叫び声も含めて)が空気を変える役割を果たしていたというのも、うまく全話との差別化を果たせていた。

 翻って人間側のドラマは何度も言っているがかなり陰鬱である。夫に捨てられた経験から娘に女としての自主独立を許さない母親と、そんな母親に反発心はあっても逆らおうとはしない娘の愛憎劇というのは、とてもニチアサの時間帯で放送する内容とは思えない(笑)。
 娘のゆうなが幼友達にキスまでされてしまうのはやりすぎかとも思ったけど、母親に「汚らわしい」とまで言わせるにはそこまで見せないといけなかったのだろうし、ゆうなの方も無理やりキスされたことよりもそれにより母親に見捨てられてしまうことの方を恐れるという、病的に追い込まれていく2人の描写には不可欠なものだったのだろう。
 ゆうなが偶然出会った画皮というこの世ならざるものに溺れていくのは、娘にいつまでも変わらない理想像というある意味でこの世のものではない幻想を抱き続けてきた自分の母親の姿そのものであり、だからこそ同じ幻の中に生きてきた母親がいきなり現実の男に恋慕するようになったのを目の当たりにした時、混乱して包丁を持ち出す暴挙に出てしまった。自分を長いこと幻想の中に引きずり込んできた張本人が、今度は自分だけが率先して幻想から出ていこうとしたのだから、混乱するのは当然だろう。まして画皮に魂を食わせるという凶行の片棒を担いでしまった後でもある。
 最後には画皮に襲われ助けを求める母の声に呼応するように、かつて夫に捨てられ娘に助けを求めるようにすがった母と一緒に生きることを約束したその理由が、母への愛情だったということを思い出すゆうな。恐怖や歪みではなく最初は真っ当な愛情による繋がりだったことを、妖怪との戦いの中で思い出させる流れはいかにも鬼太郎らしい。
 ラストでそれぞれの道を生きていくことを決めた親子の姿は清々しく、今騎の鬼太郎には珍しい明朗なハッピーエンドを迎えられたというところだろう。わざわざ母子の様子を見に来る鬼太郎というのは今回の鬼太郎の性格を考えると少々おせっかいな気もするが。

 そして次回からはついに西洋妖怪編に突入する。多くの強力妖怪との戦いが展開されるのは必至だが、前情報どおりなら原作や歴代アニメ版ともかなり異なる展開になることが予想されるし、まなや名無しといった存在はどう動くのか、鬼太郎のこれからが今から非常に楽しみである。
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2018年09月30日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)25話「くびれ鬼の呪詛」感想

 今回登場の妖怪はくびれ鬼。原作ではほぼ出番がない妖怪だがアニメ版では4期以降、各期1回は必ず登場する名の知られた存在である。アニメで出番が増えた点については、凶悪な面構えが全体の大部分を占めるというデザイン上の強烈なインパクトもさることながら、「人間を自殺に追いやる」という伝承に沿って登場する人間側ゲストの心の闇とか弱さを描きやすいという作劇上の便利キャラ的都合もあるのだろう。
 今回もその例に漏れず人間の持つ心の暗部を、まなを中心として描いているのだが、今回描かれた暗部とは闇と言うよりもむしろ「弱さ」の方を強調していたように思われる。

 くびれ鬼が隠れ蓑として使用していた呪いのアプリとは、一定時間内に誰でもいいから名前を入力しないと自分に呪いが返ってくるという、言わば現代版不幸の手紙のようなもの。
 で、元ネタである不幸の手紙と同様に「誰でもいい」というのがこのシステムの厄介なところで、まなも友達の雅や香凛も(そう言えば今までは「みやび」表記だったけど初めてフルネーム設定が出てきたな)何か相手を憎んでいるとか恨んでいるとかそんなことはなく、当初は本当に軽い気持ちで、中途からは自分が呪いを受けたくないからという気持ちで誰かの名前を入力している。
 そこに悪意があったのかと言うとまったくないとは言い切れないが、強烈なマイナスの感情を抱いているというわけでもない。むしろ何か気に入らないことがあった時、誰かをさしたる理由もなく呪うというよくよく考えれば人の道に外れていると言ってもいい行為に救い、あるいは一時の心の安寧を求めてしまう「弱さ」に根本の原因があったように思われる。
 だからこそその弱さを最後の小さな勇気で跳ねのけて自分が呪いを受ける道を選択したまなが鬼太郎に救われる、という展開にも得心がいくというものであろう。この手の話はねこ娘も言っていた通り「人を呪わば穴二つ」という教訓が定番であるが、その穴二つを避けて敢えて自分だけの穴で済ませようとしたまなが救われるのは物語上の道理なのである。
 …蒼馬についてはおいておくとして(笑)。

 冒頭からかなり陰鬱とした展開が続いただけに、クライマックスの鬼太郎&ねこ娘とくびれ鬼との決戦はかなり爽快。くびれ鬼の髪の毛で縛られるところをねこ娘の爪で脱出した後は、ちゃんちゃんこで強引に叩きつけて消滅させるという力技を披露。まなに陰湿な嫌がらせをし続けてきたくびれ鬼の退治の仕方としてはこれ以上ないくらい痛快な止めだった。
 だがそこで終わらないのが今回の鬼太郎。久々登場の名無しが八百八狸編に続いてまなに今度は「火」の見えない刻印を施す。これまでの描写から見るに名無しは人間の放つ悪意のようなマイナスの感情をエネルギーとしてまなを何かしらの器として完成させようとしているようだが、その理由まではさすがにまだ見えてこない。木に火と来ているからにはいわゆる「五行」、つまり残りは水、土、金の3つを刻印するのだろうが、来たる西洋妖怪編では暗躍するのか出番を今まで以上に控えるのか、それもこれからの見どころの一つであろう。
 あと今回でやるなと思ったのは「首吊り」の描写。首吊り用の縄がポンポン出てくるし冒頭では直接的ではないにせよ首を吊った人間の足をそのまま映したりと、このご時世でかなり挑戦的な描写を入れてくるのには素直に感心した。

 次回は画皮。予告を見る限りだと今回は美青年の姿で登場するようだが、最終的にはいつものあの姿を晒すことになるのだろうか。
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2018年09月17日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)24話「ねずみ男失踪!?石妖の罠」感想

 さて今回の話は「石妖」。原作漫画としては3期放送時のマガジン連載時に描かれた話だがアニメ化するのは今回が初めてである。
 僕としては前話の感想に書いたとおり「このスケベじじい何するの」「捕らえ方がスケベくさい!」という原作のセリフがきちんと再現されるのかどうかが気になっていたところなのだけど、さすがに服が脱げて下着姿になるところまでは再現しなかったものの、セリフについてはどちらもきちんと再現されていたので非常に満足である(笑)。
 後者では原作でおなじみのビビビビンタが擬音付きで再現されており、前者は石妖演じる内田真礼さんのボイスで完全再現されていたのも個人的にはポイントの高いところ。花子さんのあやねるもだけど、今が旬の若手声優さんもどんどん出てほしいものですねえ。
 話自体は比較的原作に忠実に展開し、明確に違っていると言えるのは石妖の去就くらいか。その分原作では描かれていない細かい部分での各人の何気ない描写が光っていたのも今話の魅力だろう。器物の妖怪ということで結婚式には参加できないながらも、ゲゲゲの森で酒を飲みつつ祝う一反木綿とぬりかべや、腐れ縁ではあってもねずみ男のために金を貸す砂かけ婆や石妖探しに奔走するねこ娘などからは、いわゆる「鬼太郎ファミリー」の繋がりの強さが感じられて良かったと思う。結婚式で鬼太郎が恐らく友人代表ということでスピーチをしていたがそこはあっさり飛ばされてしまったので、鬼太郎が何をしゃべったのか聞いてみたかったなんて思ったりもする。
 石妖との戦いも概ね原作どおり。まったく何の伏線もなくいきなり海坊主が出てくるところも原作そのまんまなので、伏線を大事にする傾向の強い本作では逆に異質に思われるかもしれないが、原作ファンとしてはニヤリとさせられるところ。石妖にしがみつく子泣きじじいも、原作では不可抗力で服が脱げ砂かけにビンタされてしまうという割と理不尽な扱いをされていたのだが、今話では結構なスケベ心を出した結果としてのビンタという自業自得な流れになっており、このへんは良改編と言えるかもしれない。
 ちなみに何でか、ぬりかべが石になった石妖を粉々に踏みつぶすシーンに文句を言っている者がいるようだが、全くもって意味不明なので聞く価値はないと考えるべきだろう。
 それはともかく終盤の改変点は、海坊主に捕まった石妖を結局ねずみ男が助けるという描写である。その理由をねずみ男は「結婚指輪だけは盗んでいかなかったから」と言っているが、それが本当に石妖の仏心だったのか、ねずみ男の小さな感傷に過ぎないものだったのかは定かでない。しかし他の被害者の中にも石妖を訴える気にならないという者がいたように、石妖と出会って幸せな時間を過ごしたのも事実なのだから、心底から恨めないのも仕方のないことかもしれない。無論そう思わせることが結婚詐欺の特徴だということがわかっていてもどうしようもない、その意味では誰よりも人間臭いキャラクターであるねずみ男だからこそ描くことのできたクロージングだったと言えるかもしれない。

 さて次回はくびれ鬼。原作では一切登場していないにもかかわらず4期からずっと登場し続けている、アニメで知名度を上げたと言ってもいい妖怪だが、今回はまなを巻き込んで何かをする様子。名無しも暗躍するようだし西洋妖怪編に突入する前に何かまた動きが出てくるのだろうか。
posted by 銀河満月 at 14:51| Comment(0) | ゲゲゲの鬼太郎(第6期)感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする