2008年03月28日

墓場鬼太郎11話「アホな男」感想

 さてさて、とうとう「墓場鬼太郎」も最終回を迎えることとなった。
 ラストの話は、原作者である水木センセイの人生観・人間観が強く反映された話でもある、「怪奇オリンピック・アホな男」が原案である。

 で、のっけからこういうことを書くのはちょっとアレなんだけど、今話に限ってのあの「語句説明」の演出は、唐突過ぎてちょっといただけなかったねえ。
 唐突な上に、話の中でそういう演出をする意図が全く不明であっただけに、なおさら唐突感が倍増してしまった。
 話自体は原作をきちんとまとめているだけに、こういう不思議な演出が全体の足を引っ張ってしまっているように思う。

 内容そのものは非常に良く出来ていた。「不老不死」というキーワードを元にあれこれ奔走する人間の滑稽さと、ラスト、怪奇オリンピックを観戦する水木さがる達の、何か悟りきったような様子とが非常に対照的に描かれている。
 水木センセイがその作風のモチーフとして良く扱う、「人間にとっての幸せ」について真正面から描かれており、現世で生きることは苦痛であり、あの世へ行って一切のしがらみから解放されることこそが、人間にとって最良の幸せなのではないかという、水木センセイならではの死生観が良く打ち出されている。
 (さらに言えばこの死生観は、そのまま水木センセイの南方に対する想いへと繋がっていくわけだけど、その辺は割愛)
 水木さがるの女房が最後に言い放った言葉、これはいつの時代の人間にも通用する、非常に重い意味を持つ言葉だろう。
 怪奇オリンピックの描写自体はそれほど念入りに描かれたわけではなく、あっさりとしたものだったが、それでも1話からたびたび登場していた「あの世」が舞台となるだけに、その見せ方もだいぶこなれてきた感がある。

 そんな人間達とはこれまた対照的に、鬼太郎もねずみ男も極めてマイペースに、世知辛い人間の世界でどうにかこうにか生きていこうとする。
 彼らは人間ではない以上、今話で登場した人間達のように名声とか大金とか、そんなものにわざわざ固執する必要はない。しかし人間社会で生きていくためには、そういったものに固執せざるを得ない。
 人間ほどに固執はしない、しかし人間のように固執しなければならない部分もある。そういった二律背反的要素を抱えながら存在しているからこそ、彼らは人間とは別個の存在でありながら、人間に近い存在として人間社会で行き、時には人間を嘲ることも出来るのだろう。
 鬼太郎とねずみ男は、真の意味で「自由」な存在なのだ。
 今回登場した人間達と、鬼太郎たちにほとんど接点がないのも、このような鬼太郎たちのスタンスを体現しているからとも言えなくもない。

 ラストの鬼太郎とねずみ男のやり取りも、原作「墓場鬼太郎」が発表されてから40年余り、様々な形で長いこと共演するようになった2人の関係性が見えて面白い。
 だからこそ、できるならクロージングカットは、鬼太郎・目玉親父・ねずみ男の3人にして欲しかった。

 今回で最終回を迎えた「墓場鬼太郎」。傑作とまでは言わないが、原作の雰囲気を現代的にアレンジしつつ抽出した、良作に仕上がっていたと思う。
 全体の詳しい感想なんかは、恐らく後日書くと思うので、またその時にでも触れようと思う。
 たった3ヶ月ではあったものの、色々楽しませていただきありがとうございました。
 来月からはセルDVDでまた楽しませてもらうつもりなので、その時もまたよろしく(笑)。
posted by 銀河満月 at 01:47| Comment(0) | TrackBack(1) | 墓場鬼太郎感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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