そう言えばもうすぐ3月も終わるから、5期鬼太郎が放送されてからの1年間も振り返ってみたいものだ。
さて、先日からドラえもんの劇場版最新作「のび太と緑の巨人伝」が公開されている。
そして当然のことながら僕は見に行く気は全くない。
まあこれは作品云々よりも、だいぶ花粉症がひどくなってきつつあるので、外に出たくないという気持ちが強いからでもあるのだけど。
だからドラよりも見に行きたい劇場版ケロロも、なかなか見に行くことが出来ないからなあ。
そんなわけなのでもちろん今回の映画ドラについてあれこれいうようなことはしないし、僕は言える立場でもない。
そうなんだけど、そうなんだけどさあ…。
見に行った方々の感想をブログとかで色々検索して読んでみたんだけどさあ、ほとんどのサイトで「つまらない」「意味がわからない」とか言われている現状ってどうなんだ?
そもそもドラ映画で「意味がわからない」ってなんなんだ?「ドラえもん」と言う作品は、子供にもわかるような簡潔な構成の中に、匠の業とも言うべきコマ割り、カット、台詞回しなどが、決して強烈な個性を発揮することなく配置され、その中に作者の訴えたいこと、伝えたいことがそっと込められている。そんな作品じゃなかったか。
それなのに、見ている人間が意味不明になるような高尚なシーンでも出てくるんだろうか?
いや、高尚なシーンって言ったって、意味がわかるからこそ「高尚」と表現することが出来るんだから、本当に意味のわからないシーンだったのだろうけど、なんだかその言葉自体が、「映画ドラ」の感想として出てくるあたりに、非常に違和感を感じる。
そのくせ初日の興行成績は新作映画の中で1位とかなってるし、もはやわけがわからん。
と言っても初日の成績が良くたって、後が続かないと意味がないんだけどな。
ただ、僕自身は今回の映画には全く期待していない。短編作を無理やり引き伸ばした作品がどんな無残な結果を迎えるか、それは南海なんとかやら漂流なんちゃらやらで経験しているからね。
それより僕にとってはこちらの方が重大だ。
げぇ―――――――――――――!!
来年は宇宙開拓史のリメイクだって!!
宣伝広告としてやたら「友情」とか「感動」を大々的に押しつけるようになったと感じています。
画面的にものび太がやたらオーバーに号泣して絶叫しているのです。
おそらく「友情」や「感動」を観ている側にゴリ押しているのでしょうね。
遺されたスタッフに力量がないのか、そうすることでしか「感涙」を誘えないのかなと寂しくなります。
F先生が生きていた頃は、原作も映画もわかりやすいだけでなく、読めば読むほど、観れば観るほど新しい感動があったものです。
とことんまでこだわって丁寧に作っていたからだと思います。
いちいちくさい演出をしなくてもF先生の、映画スタッフの思いが自然と伝わってきたものです。
ゴリ押されなくても感動できたものです。
今のドラえもんはいちいち卑しさを感じます、あんなものがF先生の作品だと思われたら悔しいです。
これからの子供はあれで育っちゃうんですからね、誤解されてしまいます。