というわけで今回登場の妖怪はさら小僧。例によって彼の代名詞的フレーズ「ぺったらぺたらこ」も引っ提げての登場である。自分だけの歌を人間に盗まれたので復讐に現れ、そこを鬼太郎によってとっちめられるという展開は基本的に原作に沿ったものである。原作では目玉親父もその実力を危険視し鬼太郎は一方的にやられてしまい、ねずみ男の反則的な不潔攻撃によって退けることができたというレベルの強豪妖怪だが、今話ではねずみ男たちを閉じ込めた檻を一蹴りで吹っ飛ばすという力の片鱗は見せていたものの、鬼太郎と全面的な対決には発展せずに終わっており、その辺は少々物足りなかったかもしれない。
だが今回の白眉は鬼太郎とさら小僧との対決云々ではなく、さら小僧の歌を盗んだ売れない芸人・ビンボーイサムの去就だろう。一度鬼太郎に歌を歌わないよう忠告を受けても無視してさら小僧に攫われるところまではこれまでにも見られたセオリーの範疇だったが、この芸人はさら小僧の手から鬼太郎に救われ再度忠告を受けたにもかかわらず、最終的に自分の意思で再び歌を歌ってしまう。家族にさえ止められたにもかかわらずである。
勿論その理由は劇中でねずみ男が言ったとおり、結局のところは家族のためとか金銭的な収入とかではなく芸人として大勢の人から喝さいを浴びたかったからに他ならず、そのために家族を捨てただけでなく鬼太郎やさら小僧との約束をも反故にした、まさに自分勝手の極みと言ったところの理由なわけだが、この結末はいわゆる風刺や皮肉といった味わいとはまた別の次元で非常に鬼太郎らしい結末でもあった。
それは自分勝手な理由ではあるし救いも全くないのだが、自分の意思で自分の生死を決定づけた、命さえも自分の欲の天秤にかけたという点である。これが鬼太郎らしい結末というのは、極めて「水木漫画」的な結末でもあるからだ。
命の重みとかそういった観念はまるっと無視して自己の欲望と命を天秤にかけて欲望の方を取る。これは古今東西の物語でよく描かれるパターンでもあるが、水木漫画の場合少々趣が異なるのは、このパターンを否定的に描くのではなく「自分の命なんだから自分の生き死にを自分で決めるのは当然のこと」とむしろ肯定的なスタンスで描くことが多い点にある。
これには水木先生がかつての軍隊時代、自分も含めた多くの戦友が自分の意思で生か死かを決めることが叶わず、上官の命令、あるいは敵の攻撃によって強制的、理不尽に死を迎えることになったという辛い体験故の死生観が大きく影響している。簡単に言えば「自分で考えて決めたのだから、考えた末に死にたいと思った人は死なせてあげなさい」というスタンスだ。この感覚が水木作品に大きく影響しているというのは、原作の鬼太郎や多くの水木漫画を読んだ方なら理解できるところだろう。
水木しげるの世界にとっては自分の意思で自分の生死を決められることは幸福なことなのだ。たとえその結末が「死」であっても。その意味でビンボーイサムは芸人として最高の喝采を浴びたから幸福なのではなく、その先に迎えるであろう結末までも自分で決められたからこそ幸福なのである。ビンボーイサムの姿を見て悲しむ母子と怒るさら小僧の姿に隠れがちだが、何も言わず音も立てずに(下駄の音もしない)立ち去っていく鬼太郎の姿は今話、引いては今作の世界そのものがビンボーイサムに向ける冷徹な視点の代替であり、それこそが今話の真骨頂と言えるだろう。そしてこの結末を迎え「られた」今作はやはりゲゲゲの鬼太郎、そして水木しげる漫画の系譜に連なる作品の1つであると断言することができるのである。
今話は表層を見ればバッドエンド、ビンボーイサムの視点に立てばハッピーエンドと捉えられるだろうが、実際は鬼太郎の視点に立ってそのどちらとも取れる結末を「フハッ」と見やる、水木世界的に極めてオーソドックスなエンド、と言えるのかもしれない。
次回の登場妖怪は化け草履。さら小僧に対するぺったらぺたらこと同じくらい、化け草履と言ったら器物の妖怪変化と関係性が決まっているところがあるが、今期ではどのような物語になるのだろうか。