2018年10月07日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)26話「蠱惑!麗しの画皮」感想

 今回登場の画皮は元々中国の妖怪で、原作ではほとんど出番はないもののアニメ版では3期と5期でそれぞれ中国妖怪の総大将であるチーの手下として登場している。美しい女性に化けて男をたぶらかすという伝承に沿って女性の姿に化けたのは5期が初めてだが、今回は女性ではなく美しい男性に化けての登場となった。
 前話登場のくびれ鬼とほぼ同じようなデザインで巨大な醜い顔だけという真の姿はかなりインパクトがあり、化けている時の姿とのギャップは凄まじいものがある。そのせいなのか今話のアフレコ現場でも、話自体はかなり重苦しい話であったのにもかかわらず笑いが漏れる一幕もあったようだ。

 今話はそんな人間側の重苦しい話に比して鬼太郎たち妖怪側の描写がのんびりした雰囲気になっており、妖怪側の様子がそういう雰囲気で描かれるというのは今話が初めてではないにしろ、人間側のドラマがいつも以上に重い雰囲気だっただけに、良くも悪くも対照的な描写になっていた。
 クライマックスの画皮との戦いも少し苦戦はしたものの、決着自体はかなりあっさりとついてしまったのだが、この「フハッ」とした決着が個人的には実に水木漫画ライクしていていいなと思っている。
 今話のような人間のドラマがメインで鬼太郎は最後に現れて事態を解決するだけという話は今期多く見られ、鬼太郎は主人公と言うよりデウス・エクス・マキナとしての存在価値が大きいとさえ思われてしまうところが、鬼太郎の立ち位置を考える上で非常に難しいのだが、逆に言えば2クール目最後の話となる今話に今期の定型と言える話を持ってきたのは、「次回」以降に控えているストーリーを踏まえて、とりあえずこのフォーマットは今回で一区切り、というスタッフの宣言であったのかもしれない。
 同様の話作りだった前話が、鬼太郎とねこ娘の激しいアクションでそれまでの陰鬱とした空気を吹っ飛ばしたのに対し、今話はアクションではなく正体を現した画皮の強烈なインパクト(叫び声も含めて)が空気を変える役割を果たしていたというのも、うまく全話との差別化を果たせていた。

 翻って人間側のドラマは何度も言っているがかなり陰鬱である。夫に捨てられた経験から娘に女としての自主独立を許さない母親と、そんな母親に反発心はあっても逆らおうとはしない娘の愛憎劇というのは、とてもニチアサの時間帯で放送する内容とは思えない(笑)。
 娘のゆうなが幼友達にキスまでされてしまうのはやりすぎかとも思ったけど、母親に「汚らわしい」とまで言わせるにはそこまで見せないといけなかったのだろうし、ゆうなの方も無理やりキスされたことよりもそれにより母親に見捨てられてしまうことの方を恐れるという、病的に追い込まれていく2人の描写には不可欠なものだったのだろう。
 ゆうなが偶然出会った画皮というこの世ならざるものに溺れていくのは、娘にいつまでも変わらない理想像というある意味でこの世のものではない幻想を抱き続けてきた自分の母親の姿そのものであり、だからこそ同じ幻の中に生きてきた母親がいきなり現実の男に恋慕するようになったのを目の当たりにした時、混乱して包丁を持ち出す暴挙に出てしまった。自分を長いこと幻想の中に引きずり込んできた張本人が、今度は自分だけが率先して幻想から出ていこうとしたのだから、混乱するのは当然だろう。まして画皮に魂を食わせるという凶行の片棒を担いでしまった後でもある。
 最後には画皮に襲われ助けを求める母の声に呼応するように、かつて夫に捨てられ娘に助けを求めるようにすがった母と一緒に生きることを約束したその理由が、母への愛情だったということを思い出すゆうな。恐怖や歪みではなく最初は真っ当な愛情による繋がりだったことを、妖怪との戦いの中で思い出させる流れはいかにも鬼太郎らしい。
 ラストでそれぞれの道を生きていくことを決めた親子の姿は清々しく、今騎の鬼太郎には珍しい明朗なハッピーエンドを迎えられたというところだろう。わざわざ母子の様子を見に来る鬼太郎というのは今回の鬼太郎の性格を考えると少々おせっかいな気もするが。

 そして次回からはついに西洋妖怪編に突入する。多くの強力妖怪との戦いが展開されるのは必至だが、前情報どおりなら原作や歴代アニメ版ともかなり異なる展開になることが予想されるし、まなや名無しといった存在はどう動くのか、鬼太郎のこれからが今から非常に楽しみである。
posted by 銀河満月 at 15:01| Comment(0) | ゲゲゲの鬼太郎(第6期)感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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