身勝手な人間が鬼太郎の霊力によって様々な怪現象に出会い、最終的に因果応報な目に合うというのが原作漫画の骨子であるが、今日的な視点で見るとさすがに恐怖描写が弱いと言わざるを得ない部分もいくつか見られるためか、3期以降は何かしらの味付けを施した上でアニメ化するというのが定番となっており、本作第6期鬼太郎もそれに倣う形でのアニメ化が試みられている。
本作におけるアニメ化時の味付けは一見すればすぐわかるとおり「恐怖」である。何をいまさら元からそうじゃんというツッコミもあるかもしれないが、前述のとおり原作の「ゆうれい電車」は確かに人間たちを脅かす話ではあるものの、今の目で見るとホラーテイストと言うよりはお化け屋敷的な虚仮威かしとも取れ、脅かす鬼太郎も「この鬼太郎さまが霊力でおどかしてやったのさ」、脅かされた人間も「ひゃあ、た、助けてえ」と叫んで逃げていくというノリで、あまり現代的な怖さは感じられない内容になってしまっている。それが時代のせいなのかそれとも掲載誌の関係で露骨な恐怖描写を抑えたのかは今となっては定かでないが。
(どちらかと言えばその虚仮威かしの後に来る「因果応報」が主であったり、そもそも「不思議な電車に乗っているうちに異界へと到達してしまう」というシチュエーションを恐怖の中心に据えている面も窺えたりするのだけども。)
その今となっては物足りないと思われる「恐怖」の部分に現代的な解釈や設定を付加してブラッシュアップしてみせたのが今作における幽霊電車なのだが、方法論自体は今回で初めてというわけではなく、5期版にて初めて導入されたものである。もっと言えば「怖い代物が出てきてワッと脅かす」直接的な恐怖ではなく、ストーリーや設定、伏線を積み上げそれらの関係性を終盤明らかにすることで恐怖を感じさせる、怪談噺のような文学的趣向が用いられているのも5期版からになっている。
原作のストレートなアニメ化だけでは容易に怖がらせにくくなっている現実を踏まえた上でも、原作の味を残しつつ怖い作品に仕上げようとしている制作陣の苦心が察せられるが、それだけに今話も一筋縄ではいかない捻りの利いた物語展開で見る者の恐怖感を実にうまく煽っていく。
原作には全くない人死に描写があったり、死人が自分の死に気づいていないというのも実は5期と同様なのだが、今話ではさらに捻って幽霊電車に乗ってしまう会社社長と部下の2人組のうち、部下だけでなく格上の社長の方も実は既に死んでおり(つまり2人とも既に死んでいる)、幽霊電車に直接かかわったキャラクターが全員「人間でない」存在だったということが、物語が進むにつれて明らかになる。
冒頭で登場した女子高生が目撃した電車への飛び込み事故の当事者が社長だったわけだが、その事故もアバンの段階では当事者が社長であることが判明しておらず女子高生が何を目撃したのかも視聴者にはわからない、と言うよりわからせていない。その上で今話のストーリー上の重要な要素を段階的に見せていきつつ数々の恐怖描写で2人組(実際は1人だけなのだが)を驚かせていき、最終的に電車事故を伏線としてきちんと回収するという今期ならではの特徴的なストーリーテリングは相変わらず秀逸だ。電車を飛び下りる原作準拠の描写を混ぜながらもそこで終わらせない捻り具合も面白い。
脅かされる側の社長も最初は原作準拠の居丈高な男という人物像かと思いきや、所謂「ブラック企業」の社長でこれまでに幾人もの社員を苦しめ破滅させてきたという、たくさんの恨みを買ってきた人間だった。冒頭のアバンで電車に轢かれ死んでしまったのも単なる事故ではなく、その積もり積もった恨みの念によって突き落とされ命を失ったのである。しかし当人は自分が死んだという事実を受け入れずこの世に留まり続けたため、部下を始めとするたくさんの死人が幽霊電車という形を使って改めて行動を起こしたのだった。鬼太郎はその手助けをしたに過ぎなかったのである。つまり原作と違い今話の2人組は鬼太郎と直接は関係なく、その意味では今話の鬼太郎は前話と同様に傍観者的立場に徹していたとも言える。
すべてを思い出し地獄へ引きずり込まれるだけとなった社長はそれでも抵抗し助けてくれと懇願するが、鬼太郎は「(社長自身に)そう言ってきた人たちを今までに助けたことがあるか」と突き放す。ここで序盤に鬼太郎も触れた「因果応報」が繋がってくるわけだが、この感想の最初でも触れたとおり、原作もそもそもは因果応報の話である。尤も原作は鬼太郎が2人組に付けられたものと同じ大きさのたんこぶをつけ返すという程度であったが、単に恐怖体験をしたという話ではなくその果てに自分のしたことがそのまま自分に返ってきてしまうという点こそが「ゆうれい電車」という話の肝なのだ(余談だが、だからかつて水木先生はその因果応報のインパクトが薄れる結果となった3期版の構成に不満を持ったのだろう)。
原作を巧くブラッシュアップした演出であるが、ここからさらに今話は独自の味付けを施す。社長はなおも食い下がり鬼太郎に向けて「それでも人間か!」と叫ぶが、鬼太郎は事もなげに言い返す。「僕は人間じゃありません」と。勿論鬼太郎は人間ではないのだから当然と言えば当然の返事なのだが、この応答に込められているものはそれだけではないようにも感じられる。
鬼太郎は「妖怪」ではなく「人間ではない」と言った。では社長は?確かに今は死人だが死ぬ前は果たして人間だったのか。助けを求める社長の声を無視した鬼太郎の行為を非人間的行為と言うなら、それは社長自身にもあてはまることではないか。多くの人を自死に追いやるような非人道的な人間は本当に「人間」と言えるのか。彼は高圧的で独善的でそれでいて自分大事という、ある意味では人間らしい人間だった。だが同時に自分を殺してしまうほどの恨みの想念を向けられていた時点で彼は「人間ではない」ものに成り下がっていたのではないか。そこには皮肉と言う言葉で言い切れないほどの深い闇が横たわっているのではないだろうか。
そしてそれは最後、社長が死ぬ瞬間を目撃してしまった冒頭の女子高生にものしかかる。鬼太郎は最後に人間が人間を殺し、その恨みが人間を殺す、堂々巡りのような救いのない負の循環と言うべきものを繰り返す人間を「妖怪より恐ろしい」と言い切る。
社長も女子高生もまぎれもなく人間でありそれ以外のものではない。だから鬼太郎も今回の事件を人間が人間の社会・集団の中で起こした事件と断言した。しかし同時にその負の循環を続ける存在を鬼太郎はどんな風に見やっていたのか。少なくともこれまでの話の中で出会ったまなや裕太のような人間と同類とは思っていなかったろう。
今話は妖怪がほぼ関与しない、どこまでも人間が生み出した救いのない話だという感想が大勢だろうし、スタッフもそういう意図を多分に込めて作ったのだろうが、今話に登場した「人間」たちはそんな制作陣の意図を超えた異質な存在になったのではないかと思えるし、そういう力を第6期ゲゲゲの鬼太郎という作品が原作どおりに内包しているという事実が嬉しい。それをはっきり認知することができるという意味でも今回の話は今作の中で特殊な存在となり得るのかもしれない。
あとすごい個人的には「骨壺」が原作どおり「ほねつぼ」読みになっていたのが嬉しかった。5期版では「こつつぼ」になっており恐らくこっちの方が読みとしては正しいのだろうが、やっぱりあそこはほねつぼじゃないとねえ。ねこ娘の声出しはちょっと無理してる感ありつつ可愛らしくもあったけど。
で、次回は鏡じじい。原作設定からして根っからのエッチな爺さんである鏡じじいが久々登場のまなとどんな風に絡むのか。