2018年05月19日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)6話「厄運のすねこすり」感想

 …やられた。今話に関しては色々考えてみても結局「やられた」という感想に集約されるし、自分としてもこの言葉が一番今話にふさわしい感想だと思う。
 話の内容については後で触れるとして、自分的に一番やられたと思ったのは前半部分の構成なのである。
 今作の構成として特徴的なサブタイトル前のアバン(と言っていいのか?)部分、今作ではあの部分にて2、4、5話と3つの挿話において本編中盤の恐怖シーンをほぼそのまま、言わば先取りの形で最初に見せてしまうことで視聴者の興味を引く構成にしていた。それはそれで一つの手段だからいいのだが何度もやられてしまうと見ているこっちの興味も削がれてしまい、むしろさっさと本編に入れよといった気持ちさえ浮かんでしまうものである。実際前話を見終えた時点では僕もそう感じていたのだが、今話はそうした視聴者感情を逆手に取った演出が成されていた。
 今話の粗筋をまったく知らない状態でアバンの映像だけ見れば小さいすねこすりが巨大化して人間を襲い、人間が絶命した恐怖シーンだと思ってしまうだろう。だがそうではなかった。この場面は妖怪の脅威を見せる場面でもなければ恐怖シーンでもないのである。
 さっさとネタばらしすると、今回登場する妖怪すねこすりは2期「怪自動車」に登場した際のように人間に害をなす妖怪ではなく、むしろ人間が好きで人間と共に生きることを望んでいる平和的な妖怪である。原典の水木絵以上に猫っぽいデザインにリファインされていることもあり、今話のゲストキャラである老女・マサエに猫の「シロ」としてじゃれている様子は本物の猫との触れ合いのように見えて微笑ましい。
 しかしすねこすりは当人の意志に反して人間とは相容れない宿命を背負っていた。すねこすりは人間と触れ合うだけで人間の気力を「勝手に」吸い取ってしまう性質があり、それが1人の人間に集中し大量に気力を吸い取ってしまった場合、その人間は最後には死んでしまうのである。しかもすねこすりは自分にそんな能力があることを鬼太郎たちに教えられるまで知らず、そもそも自分が妖怪であるということさえも気づいていなかったのだ。
 すねこすりにとっては衝撃でしかないこの事実を知り彼は回想する。以前に仲良くしていた内村という男が衰弱し、最後には自分の目の前でミイラのような姿に変わり果てて死んでしまったことを。悲惨な最期を目の当たりにして感情が高ぶったすねこすりは巨大化した姿で絶叫する。
 アバンで挿入されたシーンとはつまりこの場面だったのだが、ここまで見て初めて視聴者はハッと気づかされることになる。あのアバンで描かれていたシーンとは今までのような(見ている側にとっては)ありきたりの恐怖シーンではなく、大切な人を失ったすねこすりが悲しみ、そして自らの能力に絶望する場面だったのである。
 この構成は本当に見事という他ない。今話だけを独立してみてみればまあちょっと捻った構成というだけ(それでも巧みであるが)になるのだが、5話までの積み重ねを経て視聴者の胸中に生じたであろう「思い込み」をも逆手にとって、それを演出の一環として組み込んでしまったわけだ。
 1話完結が主体の鬼太郎という作品においてここまでトリッキーな演出が施されるとはまったく想定していなかったので、これは「やられた」というしかないのである。

 と、演出上の技巧についての「やられた」はここまで書いたとおりだが、ストーリーについても十分「やられた」し、その理由については既にたくさんのブログやらSNSやらで触れられているのと同様である。
 すねこすりはマサエを母ちゃんと呼び慕っていた。恐らくは件の男性やこれまで共に過ごしてきたであろう人間も同様に自分の家族として大事に思ってきたであろうことは想像に難くない。その大切な家族の命を自分自身が奪ってしまっていたというあまりに残酷な現実を知ったすねこすりの胸中は如何ばかりであったろうか。
 一度はマサエの元に戻ったすねこすりや、いたたまれず飛び出したすねこすりを探すため弱りながらも森の中までやってきたマサエの様子からは、2人が本当に互いを大切に思いやっていることが窺えるが、それでも2人が共にいる限りマサエは死に近づいていくという「現実」は変わらない。
 偶然現れた熊に襲われそうになったマサエを助けるため、すねこすりは彼女の眼前で妖怪としての正体と言うべき巨大な姿を晒して奮戦、傷を負いながらも熊を追い払う。首に付けられた首輪と鈴から、目の前の巨大な生き物がすねこすり=シロだと気づくマサエだったが、すねこすりは近寄ろうとするマサエを振り切るように、自分はマサエから気力を「わざと」吸い取っていた悪妖怪なのだと宣言する。
 無論これはすねこすりが土壇場で考えついたマサエを遠ざけるための嘘なのだが、マサエはそれでもいいと告げる。すねこすりにどんな理由があろうとも「シロ」と一緒にいられれば幸せなのだからと。
 2人の確かな絆を感じられるこのセリフだが、今のすねこすりにとっては最も聞きたくない言葉でもあったろう。彼女が自分と共にいようとすればするほど彼女は衰弱し死んでしまう、それはすねこすりが一番望まない結果だからだ。ただの猫ではなく妖怪だという真実を知ってもなお自分を大切に想ってくれるマサエの心情はすねこすりに取っては本当に嬉しいものであったろうが、だからこそ彼はその自分に向けられた温情を否定しなければならないのである。誰も悪くない、互いが互いを思いやっているだけなのにそうすればするほど互いを拒絶し離れなければならない、これ以上の皮肉はないだろう。
 すねこすりは結局そのワルぶりを真実と受け止めたマサエの息子・翔がマサエを守ろうと振り回した傘に当たり、やられた振りをして去っていく。すねこすりは当初マサエに反抗的な態度を取る翔に明確な敵意を持っており追い出そうとしていた節があるのだが、そんな自分にとっての邪魔者はまぎれもなくマサエの実の子供であり、母を助けようと非力ながらも力を振るうことができる。対して自分の方は自分の力で「母」を苦しませ死に追いやってしまう、所詮は疑似的な家族関係。
 1人森の中を歩きながらマサエと過ごした日々を思い返し慟哭するその胸中には単純な寂しさや悲しさだけでなく、妖怪である自分にはどうあってももう何もできないという無力感もあったのかもしれない。

 そしてそんな2人に対し鬼太郎は物の見事に無力だった。元々すねこすりは人間に対し明確な敵意を持っていないのだから戦う理由はないのだが、それは鬼太郎の能力を以てしても出来ることはそこまでだということでもあり、鬼太郎は離れていく2人に対し何もできなかったのである。
 結果的に第三者・傍観者としての立場に甘んじてしまった鬼太郎の姿には、鬼太郎以外の水木原作に材を取った2期の諸作品と重なるものがあるが、今話は悲しい結末を迎えてしまったマサエとすねこすりに対し鬼太郎自身が言葉で明確な感想を漏らすことがないため、傍観者としての立場がより強調されている。
 何より今作の鬼太郎は良い関係性を保つために妖怪と人間は必要以上に近い存在にならない方がいいというスタンスを取っている。であればこれは鬼太郎にとってはまさに起きるべくして起きた悲劇と言えなくもないのだが、本人がそう簡単に割り切れていないであろうことは最後の鬼太郎の苦い表情を見れば一目瞭然というところだろう。
 特に上述の感想では悲劇と書いてはいるが実際に今回の事件は「悲劇」なのか。確かに2人は離れ離れになってしまったし相応に辛い気持を味わってはいるが、互いに対する想いが消えてしまったわけではなくマサエに至っては最後のすねこすりの嘘も理解した上で礼の言葉を口にしているわけで、逆に今話を悲劇と括るのは簡単だが実際登場人物たちの胸中を推し量るとこれは単純な悲しみの物語なのか、苦い終局の物語なのか、判断がつきかねる部分がある。ラストの鬼太郎はまさにそんな想いだったのではないだろうか。

 次回は打って変わって予告の時点で怪奇色バリバリの「幽霊電車」。サブタイトルに余計な言葉をつけていないところにもスタッフの力の入れようが窺えるが、6期版「ゆうれい電車」はどのように仕上がるのだろうか。
posted by 銀河満月 at 13:05| Comment(0) | ゲゲゲの鬼太郎(第6期)感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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