2018年05月18日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)5話「電気妖怪の災厄」感想

 これまでの6期鬼太郎はブログにも書いたとおり人間であるまなや裕太が鬼太郎との出会いやその過程で巻き込まれた事件を通して、妖怪という「見えないもの」「信じていないもの」を信じるようになり歩み寄っていく過程が描かれてきた。
 その作りが非常に丁寧であるということは今までの感想に書いたとおりであるがその反面、基本的に1話完結である本作の基本的なストーリー骨子である「妖怪退治」の要素が弱くなってしまっていたのも事実である。勿論単純な妖怪退治ものに留まらない様々な副次的要素を内包しているストーリーや描写がゲゲゲの鬼太郎という作品の魅力であるというのは僕も十分承知しているが、それでもやはり本作におけるストーリー編成の中心に位置している要素が「妖怪退治」であるという点も忘れてはいけないだろう。
 そういう意味でもこの4話までの構成は鬼太郎作品としては極めて異例のことだった。大げさに言えば記念すべき初回に妖怪退治話を持ってこず「妖怪」という存在そのものを視聴者に認知させることを第一とした、1期の1話に匹敵する大胆な構成と言えるかもしれない。

 さてそんな見せるべき最優先事項を見せきって作劇上の余裕ができたのか、今話は6期鬼太郎としては初のオーソドックスな妖怪退治ものとなっている。敵は電気妖怪かみなり。その名の通り電気を操るだけでなく巨大な浮遊岩をも操って科学実験を行う人間たちを襲い、鬼太郎も子泣きじじいとの連携で倒したなかなかの強敵だ。
 今話は原作にはいなかったねずみ男を登場させてねずみ男の悪だくみを発端とすることで、「ねずみ男が何らかの形で妖怪に出会う」→「妖怪の能力を使って金もうけを企む」という本作における妖怪退治話のパターンを明示している。2話も発端としては同様だったのだが先に書いたとおり2話は妖怪退治要素を後方に引っ込めて作られた話なので、今話で改めて鬼太郎世界における妖怪退治話のフォーマットを提示しようと言うことだろうか。
 その一方で原作にも登場した「人間」をストレートにかみなりに絡めているのが面白い。科学を探究する科学者たちが襲われるのみだった原作に対し、今話で登場する人間はかみなりをも利用してのし上がっていくヤクザと一見すれば真逆の変更に見えるが、借金の取り立てから裏金による根回しで市長にまで出世したり、自分の犯罪を暴こうとする女性ジャーナリストをかみなりの力を借りて殺してしまったりと思いっきり自らの欲望に忠実に行動しているところは、科学の「探究」が行動理念であった原作の科学者たちと重なる点がないとも言えない。どちらも自己の欲求に忠実に行動した結果としてかみなりの災厄を招いてしまうところなどは等価と考えていいだろう。
 かみなりの方はそういった人間の勝手さにただ怒り暴れるだけの存在だった原作に比して、ねずみ男たちに持ち上げられてすっかりのぼせあがり、気に入った美人を手元に置こうとするなど俗な面が新たに付与されており、それも強引な手段によってであったり最終的には恐怖で人間たちからの尊敬を集める、畏怖されるような存在に君臨しようとするあたりからは原作を超える横暴さが感じられる。結局は人間と妖怪、そしてねずみ男の誰もが自分の身勝手な欲望のままに動き、利用していたつもりが圧倒的な暴力で立場を覆させられるといった関係には、原作とは似て非なる人間と妖怪の歪な関係性を集約させていると言える。
 かみなりを利用して作りだした発電所の電気を平時では称賛し、かみなりが暴れ出すと途端に否定的になるモブキャラの態度も、根底にあるものは同じなのだろう(キャラデザがなぜサザエさん風味だったのかはよくわからないが。笑)。

 さてそんな悪党たちに対する鬼太郎の態度は、ある意味では非常に鬼太郎らしいものであった。序盤に登場した際は原作どおりに子泣きじじいと将棋を指していたりして原作ファンを喜ばせてくれたが、今話の鬼太郎は事件に対して動き出すのはかなり遅い。ねずみ男は早々にかみなりを利用して電力会社や発電所を設立し、そこで稼いだ金を非合法手段に用いてヤクザを強引に市長にまでのし上げるわけだが、その時点では鬼太郎はねずみ男が具体的にどんな悪事をしているかまったく知らず、ねずみ男がまた何かやらかしていないかと訝しむだけだ。
 ねずみ男が絡んでいることを鬼太郎は知らないし特に誰も伝えていないのだから当然と言えば当然なのだが、この時点でねずみ男は確かに鬼太郎が心配するところの「悪さ」を働いているのである。にもかかわらず鬼太郎は気にかけるだけで積極的には動かず、ジャーナリストがかみなりの仕業で感電死したというニュースを知ってからようやく動き出すこととなる。
 これもまた新聞に載るほどのニュースであり鬼太郎も容易に知ることは出来るのだから、そこで初めて動き出すのも当然の話ではある。ここで気に留めるべきは鬼太郎の行動ではなく鬼太郎が行動する理由となる、劇中における動機的原因の設定である。確かにねずみ男たちがやっていたこともヤクザがかみなりの力で女性を殺害したことも、どちらも等しく悪いことであるが、鬼太郎はその内後者の事件を動機として動き出す。
 前者の行為も悪事であることに変わりはないのだが、逆に言えばもしこの段階で何かしら・誰かしらの被害が出ていればその時点で鬼太郎も動き出したろう。しかしここで行われたのは帳簿の記載変更であったり金銭の譲渡に過ぎないのである(それぞれ「改竄」だったり「裏金」だったりするわけだが)。
 この時点で鬼太郎が積極的に動かないのは言うまでもなく、鬼太郎にはそこまでする義理がないからである。原作にも「そんなに人類のために奉仕ばかりしていたらしまいにはベトナム和平にまで手を出さなきゃならなくなってくるよ」という鬼太郎本人のセリフがあるように、強引に分類するならば「正義の味方」的存在である鬼太郎も常に人間のために無償で働くといった性質の存在ではない。原作でも本作でも鬼太郎自身が何度も触れているが鬼太郎の目的は、あくまで鬼太郎が考える人間と妖怪の程良い距離感を保てるようにするというのが第一義であり、人間に尽くすことを目的としてはいないのだ。
 だから悪人が書類をいじろうが金をばらまこうがその辺は全く頓着しない。彼が気にかけるのはそれらの行為によって誰かの生死にかかわったり生活圏が脅かされるような具体的な(それも巨視的に見れば極めて些細な一個人または複数人の)被害が出た時なのである。
 鬼太郎は原作者である水木先生も認めるように正義側に立っているキャラクターであるが、同時に単純な正義の味方ではない微妙なスタンスを維持し続けている存在でもある。それがゲゲゲの鬼太郎というキャラクターの代えがたい魅力であることは言うまでもないし、それを妖怪退治というオーソドックスな話の中で改めて視聴者に見せつけたのは構成の妙であろう。と言うよりオーソドックスでありこれからも何度も出てくるであろう物語構成だからこそ、ここではっきりと描写しておく必要があったとも言える。
 そんな構成の影響で鬼太郎の出番は後半に集中することになってしまっているが、かみなりとの対決場面はそれを補って余りある迫力の映像に仕上がっている。かみなりの暴れっぷりも一つの街を滅ぼしかねない破壊を引き起こしたり機動隊を壊滅状態に追い込んだりとかなり派手なものになっており、鬼太郎を倒すために放った雷撃が唐突に龍の姿を形作って鬼太郎を襲うあたりなどはちょっとやり過ぎではと思わないでもないが、アニメの鬼太郎は子供向けのアクションヒーロー的側面を担っていることも確かなので、むしろアクションはやりすぎと思われるくらいにした方が良いのかもしれない。今話の場合は終盤までずっとかみなり側の描写ばかりだったので、見ている側のフラストレーションを発散させる意味でもド派手なアクションシーンは必要だったろう。
 対する鬼太郎も原作どおり子泣きじじいの援護を得て、少々強引な鬼太郎の電磁石化でかみなりの能力を一部無効化した最後の最後、大体の視聴者も「お前あれ使えるんだから使えばいいじゃん」と思っていた(に違いない)体内電気を、かみなりの電気を吸収した上で大放出、かみなりを葬り去ることに成功する。
 この体内電気を鬼太郎が繰り出すまでの間の取り方も実に絶妙だ。早すぎれば連発しても相手に効いていないと取られるし遅すぎればもっと早く使えばいいのにとのツッコミを受け、どっちにしてもストーリーに対する視聴側の没入度を阻害してしまいかねないところだが、今話では相手の武器を奪って能力を一部無効化するというシチュエーションを直前に配することでワンクッション置き、その上で相手の最後のあがきに対して待ってましたとばかりに体内電気を使用するという、見ている側のテンションの上昇度合いをきちんと見定めていたかのような見せ方は非常に素晴らしい。
 逆転のきっかけになった手段が人間の生み出した科学の産物というのも皮肉が利いていて実に巧みだ。

 さて次回は「厄運のすねこすり」。予告を見る限りでは2期「怪自動車」のように巨大な体への変身能力も持っているようだが、果たしてどのようなストーリーになるのだろうか。
posted by 銀河満月 at 15:14| Comment(0) | ゲゲゲの鬼太郎(第6期)感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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