2010年09月18日

長期間放送のツケ

 色々思うところあってリニュ版ドラのことを書こうかと思っていたら、こんなありがたくない記事が飛び込んできた。


<ドラえもん>スネ夫の家に3Dテレビ のび太の家の地デジ化も課題に 17日放送


 別に記事の内容がおかしいと言うわけではない。この記事についているコメント欄の内容が異常すぎるのだ。
 2005年のリニュ版ドラ放送開始時によく見られた批判・文句が、ほとんど同じ内容のままでコメントされており、さらにひどい内容まで散見される。
 5年経ってもこのザマなのだから、呆れ返ると言う外ない。

 一番多いのは「今のドラは昔のと違って性格が変わった」とかいう類のコメントだけど、この種の批判についてはもはや相手にする必要もなかろう。
 今のリニュ版ドラは大山ドラ時代のコピーを目的として作っているわけではない。あくまで「藤子・F・不二雄が描いた漫画『ドラえもん』」をアニメにしているだけであって、「漫画のアニメ化」における回答の1つとして今のアニメを作っているに過ぎない。別に大山時代のドラを踏襲するために今のアニメを作っているわけではないのだ。
 だから昔と今とが違っているのは当たり前で、逆に同じだったらそっちの方が問題になる。結果としての作品の出来不出来はともかく、安易に大山ドラの劣化コピーを目指してしまいがちなところを、一から原作ドラえもんのアニメ化を行おうとするその制作姿勢は、きちんと評価されるべきだろう。
 「今の声優がひどい」云々なんてのも同じ口だ。結局自分の気に入る声ではないから文句を言っているだけのコメントがほとんどである。
 別に気に入らないならそれでいいが、それで作品そのものを批判したつもりになってもらっては困る。それは単なる好き嫌いの範疇だ。
 挙句に「声優を変えるべきではなかった」などという、もはや定型文的な様相を呈してきている文句。
 こういうことを書く人たちはメインを努めた声優陣5人のうち2人が、勇退後にガンを患って手術を受けていたと言う事実を知っているのだろうか。

 ひどいのは「『ドラえもん』に、流行に合わせたような現実の道具(ここでは3Dテレビ)を出して欲しくない。昔はそんなの出さなかった」みたいな文句である。
 こういう人は一体ドラの何を見てこういう文句を言ってるんだろうね。
 スーパーカーブームが来ればスーパーカーを出し、チョロQが流行れば「チョコQ」として登場させる、ミニ四駆が話題になればミニ四駆を出す、ロッキード事件が起きれば「記憶にない」と言わせる、日航逆噴射事故が起きれば「機長、なにをするんだ!」と言わせる。
 そもそも秘密道具にしたところで「友だちの輪」、「百万ボルトひとみ」、「ドッキリビデオ」、「ざんげぼう」などなど、その時代ごとに話題になったことのあるネタを道具として昇華させている。
 それが「ドラえもん」という作品である。ドラはむしろその時代時代の流行を敏感に感じ取り、積極的に話に盛り込んできたのだ。
 そもそもドラに決まった時代設定はない。84年の掲載作品であれば、その時の時代設定は1984年になるのだ。
 「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」を引き合いに出して文句を言ってる人もいるが、そもそも「ドラえもん」という作品は読者のノスタルジーを掻き立てるための作品ではないし、作者であるF先生もそれを望んでいたわけではない。F先生はどこまでも現役の読者である、その時々の子供たちに向けて作品を作っていたのだ。
 有名な「空き地のある土管」にしたところで、別にノスタルジックな思いからそんな舞台を設定したわけではない。
 つまりドラ本来の作劇に照らし合わせてみれば、スネ夫の自慢の種として「3Dテレビ」が出てくることはさほどおかしいことではない。「秘密道具をすぐ使えるのび太がそんなものをありがたがるのか」などというトンチンカンな突っ込みをする人もいるようだが、そういう人は「虹のビオレッタ」を百回くらい読めばいいんじゃないかな。

 まあほとんどがそんな感じの文句なのだけど、そういう文句の類とはまったく別次元で問題のあるコメントがあったので、それについても触れておこう。
 そのコメントはこういう内容だった。

 「それは藤子Aが担当したネームだと思う」

 バカすぎる。A先生がドラえもんには一切タッチしていないことぐらい、それこそちょっと検索をかければすぐわかることだろうに。
 それともどっかの三流ゴシップ誌が書いてた「実はA先生も描いてた」説を信じてしまってたりするんかね?


 たかがyahooニュースのコメント程度にムキになって批判することもあるまい考える方もいるだろう。
 しかしそれこそ今と昔とでは、情報伝播のスピードがまるで異なる。スピードだけが異常に早くなり、その情報の真偽についてはあまり重要視されていないのが現状だ。
 そんな現代において、私的感情による文句やあからさまな間違いが公の場所に記述されてしまっている。そしてそれを見ただけで「リニュ版ドラはダメな作品だ」と、人の意見を鵜呑みにしただけなのに、さも自分自身が判断したかのように勘違いしたままの認識を抱く人が必ず出てくる。
 かつてドラえもん最終回同人誌が、一介の同人誌とは思えぬ早さで一般層にまで浸透してしまった現実を考えれば、あながち的外れな見方とは言えないだろう。
 だからこそ個人個人が書き込む内容をよく吟味しなければならない。個人のメモ帳ではない、公に公開されている場所だからこそ、「自分の書きたいことを書き込んだ」だけでは済まない事態に発展することもありうると言うことを、きちんと認識しておくべきだろう。
 もちろんリニュ版ドラが百点満点の出来とは思っていない。しかしだからと言って、個人の単なる文句や間違いを根拠に作品全体を批判していい理由にはならないのだ。

 これも長い間休むことなく放送してきたことの弊害なんだろうな。一回休んでおけば、出来はどうあれ大山ドラとはきちんと区別されて扱われたことだろう。連続して放送を続けるから、「リニュ版ドラは大山ドラと同じ作品観である」と考える人が出てくるわけで。
 無論好き嫌いはあっていい。リニュ版ドラが嫌いならそれでいい。だがそれをネット上に文章として残すなら、それが個人の単なる好みであって作品の出来不出来とは無関係であることを、一緒に示した方がいいだろう。
 尤も「自分の好みに合わないからこの作品はダメな作品」と、短絡的に決め付ける人間が多いのもまた事実なのだけども。
posted by 銀河満月 at 01:27| Comment(0) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック