2010年03月14日

「のび太の耳にタコができる話」を見た

 一昨日のドラえもんは久しぶりに、個人的に色々楽しめる話だったので、久々に感想でも書いてみようかと思う。

 今回放送されたのは「ペタンコスタンプ」と「のび太の耳にタコができる話」の2つ。
 このうちBパートの方は、てんとう虫コミックス39巻に収録されている「具象化鏡」が原作になっている。
 この話は原作ドラえもんのあらゆる話の中で僕が一番好きな話であり、道具そのものも一番好きな道具である。
 それだけにかなり思いいれもあるので、リニュ版ドラでどのようなアニメ化が成されるのか、興味があったのだ。

 全体としては原作の流れに沿ったオーソドックスな作りだった。
 原作では登場することわざや慣用句の一部をナレーション的な説明で終わらせる部分がかなりあったが、元来ナレーターと言うものが存在しないアニメ版ではそれを忠実に再現させることは難しかったようで、今回のアニメ版ではドラをのび太についていかせることで、慣用句などの解説を行わせていた。
 これは妥当な改変だろう。ちょっとそのせいでテンポが悪くなってしまっている部分もあったが、この程度は十分許容できる範囲だ。
 ただ「言葉の上での表現が現実になる」というナンセンス極まる描写は、このアニメ版でも遺憾なく描写され、さらにそこに「色」と「動き」が加わることで、道具の効果が発揮されている部分に関しては、原作漫画以上のインパクトを発揮していたと言える。
 ラストの「春の足音」に関しては、もう少し時間をかけてゆっくりと叙情的な演出をして欲しかったところだが、それでも原作と同様に穏やかな感じのクロージングになっていた。
 大山時代のアニメ版では放送時期の関係もあって、「春の足音」に関する部分は丸ごとカットされてしまっていたからね。

 いくつか不満を上げるとすれば、原作で味わい深かったエキストラキャラ(「絶望のどん底」に落ちたのび太を助け上げる通りがかりの人)がいなかったところか。
 あとは、これは欠点と言っていいのかどうかわからないのだが、「耳にタコが出来る」で耳に生物のタコが出来てしまうのは、あれは正直いかがなものかと思う。気にしすぎだとは思うのだけど、完全に間違っていることを正しいことのように演出してしまっていいものだろうか。
 この道具は言葉上の表現がストレートに現実のものになるわけだから、間違った解釈が現実化したりはしないのだけど。
 むしろここで、この場合の「タコ」と言うものがどういうものなのかを、さらっとでいいから説明させておくべきだった。ドラえもんという解説役も同行していたのに、非常にもったいない。
 あと、個人的にサブタイは変えるべきではなかったな。あの「具象化鏡」という、短くて漢字だけのタイトルだからこそ印象深くなるのに。

 まあそれでもBパートの方は十分楽しめた。
 問題はAパートの方だろう。ジャイアンのいとこが怒り出すシーンで、「目を釣りあがらせて巨大になったイメージで威嚇し、それを見て手足をバタバタさせて恐怖するジャイスネ」なんて、一体何十年前の作品から引っ張ってきたのかと苦笑してしまったよ。
 あの古臭い演出だけでAパートはダメになったと言っていいくらいだ。
 そもそも原作におけるあの場面は、ガランとなった部屋で満足そうにしているジャイスネのコマから、次のコマ(ラストのコマでもある)でいとこに追いかけられているジャイスネを、事情をまったく知らないのびドラが不思議がりつつ見つめる、という絶妙な間の取り方こそが面白いのであって、あそこでジャイアンのいとこが具体的に起こる描写を入れると言うのは、原作漫画の持っていた良い部分をわざわざ消してしまっていることになる。
 今のリニュ版ドラは場面場面では良いところも多いのだけど、こういう肝心要の部分で大きなポカをやらかすからイカンのだよな。


 そう言えばもう映画も始まっているんだったな。
 来年の映画作品は「アレ」になるらしい、という情報も聞いたのだけど、果たしてどんな出来栄えになるのだろうか。
 今回の映画は時間の都合もあって見に行けるかどうかは難しいけども、来年の映画はどうしても見に行かねばならんだろう。
posted by 銀河満月 at 02:30| Comment(0) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック