2019年03月17日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)43話「永遠の命 おどろおどろ」感想

 鬼太郎世界のおどろおどろと言えば「人間が妖怪になった」という特異な設定の持ち主…なのだが、実のところその設定自体はこれまでさほど重要視されていなかった節がある。正体を人間と知りながら葬った鬼太郎に息子の正太郎が罵声を浴びせるという苦い結末ではあるのだが、「正体が人間だった」という筋は他に土ころびもあったりするし、原作の話自体がそちらよりはホウキ元素で飛ぶプラモデルの飛行機だとか霊界輸送機と言ったガジェットの方に傾注している。そも苦い勝利自体は鬼太郎も何度も経験している上に同様の設定を持ちながら鬼太郎の味方として中国妖怪と戦った井戸仙人なんて妖怪もいるので、原作に精通すればするほど際立った特徴としては認識されない傾向が強いのである。
 それはアニメでも同じで、原作に比較的忠実に沿った1期以外はほぼそのあたりは改変されており、あまり重視しない話作りが長いこと続いてきたのだが、この6期ではその設定に正面から切り込むこととなった。むしろそれ以外の要素をすべて廃して「人間が妖怪になり果てた」点のみを話の軸に据え、それに対して鬼太郎たち登場人物がどう動くかがメインとなっている。

 そうする上で良改変だったのは、おどろおどろに変身してしまう人間の小野崎を原作とは違い良識人にしたことだろうか。原作のおどろおどろは自分の延命と秘密を守るために血を吸った子供たちをすべて殺してしまおうと考えるどうしようもない奴だったが、小野崎は人間の姿でいる間は人間としての理性を保っており、かと言って肉体的には妖怪と同様の不死になってしまっているから自殺も出来ず、鬼太郎に自分を殺すよう依頼するという流れになっている。
 これにより鬼太郎も素直に倒すべきか悩まざるを得ない状況に立たされてしまったのだが、こういう展開の場合、妖怪になる前の状態の人間が同情的な存在であればあるほど悩みも深くなる(そして物語としては面白くなる)わけで、この設定変更は今話の展開にマッチした良改変だったと言えるだろう。
 その改変により浮き彫りになるのは鬼太郎の心情だ。これまでにも鬼太郎がその胸中を吐露する局面は何度かあったが、それはたんたん坊戦だったりバックベアードとの決戦だったりと戦いの中で激昂する義憤をそのまま声に出したような感じであり、今話のように毎度の妖怪事件の中で自分の気持ちをはっきり表明することはあまりなく、今話の鬼太郎も例によって口数は少ないものの、「おどろおどろが吸血事件の犯人かどうかはまだわからないから(即断を避けた)」と目玉親父が鬼太郎の考えを代弁しており、犯行が実際におどろおどろの仕業とわかってからもなお指鉄砲を構える手がどこか躊躇いがちだったところから見ても、未だ割り切れていない鬼太郎の心情が窺える。
 小野崎の娘・美琴は父が妖怪化しても自分だけは襲わなかったからまだ最後の理性は残っていると訴えるものの、再度妖怪化したおどろおどろはそんな彼女の自分を想う気持ちを「理解」しているかのように、美琴の血を吸おうとする。それは自分が実の娘までも餌食にするような、完全に理性を失ったただの化け物なのだと鬼太郎に思わせるための芝居だったのか、それとも本当に変貌しつくしてしまったのかはわからない。
 それを見た鬼太郎が何を考えて止めの指鉄砲を放ったのかも含め、中盤で鬼太郎の心情をある程度言葉ではっきりさせていたからこそ、このクライマックスでまた敢えて鬼太郎の気持ちの吐露を封印させて見る者の判断に委ねる構成は、巧みであると同時にある意味では非常にストレスの強いものになってはいるが、だからこそラスト、美琴と鬼太郎の「やり取り」が一層冴えるのである。
 事件解決後、「絶対に許さない」と告げる美琴に無言という形で応え去っていく鬼太郎。事件解決の最終的な手段も事件解決した後もどちらもすっきりとしない後味の悪さは原作が迎えた結末の苦さをさらに一歩推し進めたクロージングであり、その意味で今話は「妖怪に変貌した人間の末路を描く」という一点において、原作をも超えた挿話と言ってもいいのかもしれない。

 次回の話はのっぺらぼう。原作では敵妖怪として登場したのっぺらぼうだが今期ではOPを始めこれまでに数回ゲゲゲの森の住人として登場しており、つまりは鬼太郎と直接敵対していない仲間妖怪的立ち位置であるはずだが、そののっぺらぼうをメインにした話はどのようなものになるだろうか。
posted by 銀河満月 at 14:41| Comment(0) | ゲゲゲの鬼太郎(第6期)感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする