2019年02月17日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)40話「終極の譚歌 さら小僧」感想

 …いつも思うけど「ぺったらぺたらこ」が受ける世界ってのも不思議なもんだよなあ。

 というわけで今回登場の妖怪はさら小僧。例によって彼の代名詞的フレーズ「ぺったらぺたらこ」も引っ提げての登場である。自分だけの歌を人間に盗まれたので復讐に現れ、そこを鬼太郎によってとっちめられるという展開は基本的に原作に沿ったものである。原作では目玉親父もその実力を危険視し鬼太郎は一方的にやられてしまい、ねずみ男の反則的な不潔攻撃によって退けることができたというレベルの強豪妖怪だが、今話ではねずみ男たちを閉じ込めた檻を一蹴りで吹っ飛ばすという力の片鱗は見せていたものの、鬼太郎と全面的な対決には発展せずに終わっており、その辺は少々物足りなかったかもしれない。
 だが今回の白眉は鬼太郎とさら小僧との対決云々ではなく、さら小僧の歌を盗んだ売れない芸人・ビンボーイサムの去就だろう。一度鬼太郎に歌を歌わないよう忠告を受けても無視してさら小僧に攫われるところまではこれまでにも見られたセオリーの範疇だったが、この芸人はさら小僧の手から鬼太郎に救われ再度忠告を受けたにもかかわらず、最終的に自分の意思で再び歌を歌ってしまう。家族にさえ止められたにもかかわらずである。
 勿論その理由は劇中でねずみ男が言ったとおり、結局のところは家族のためとか金銭的な収入とかではなく芸人として大勢の人から喝さいを浴びたかったからに他ならず、そのために家族を捨てただけでなく鬼太郎やさら小僧との約束をも反故にした、まさに自分勝手の極みと言ったところの理由なわけだが、この結末はいわゆる風刺や皮肉といった味わいとはまた別の次元で非常に鬼太郎らしい結末でもあった。
 それは自分勝手な理由ではあるし救いも全くないのだが、自分の意思で自分の生死を決定づけた、命さえも自分の欲の天秤にかけたという点である。これが鬼太郎らしい結末というのは、極めて「水木漫画」的な結末でもあるからだ。
 命の重みとかそういった観念はまるっと無視して自己の欲望と命を天秤にかけて欲望の方を取る。これは古今東西の物語でよく描かれるパターンでもあるが、水木漫画の場合少々趣が異なるのは、このパターンを否定的に描くのではなく「自分の命なんだから自分の生き死にを自分で決めるのは当然のこと」とむしろ肯定的なスタンスで描くことが多い点にある。
 これには水木先生がかつての軍隊時代、自分も含めた多くの戦友が自分の意思で生か死かを決めることが叶わず、上官の命令、あるいは敵の攻撃によって強制的、理不尽に死を迎えることになったという辛い体験故の死生観が大きく影響している。簡単に言えば「自分で考えて決めたのだから、考えた末に死にたいと思った人は死なせてあげなさい」というスタンスだ。この感覚が水木作品に大きく影響しているというのは、原作の鬼太郎や多くの水木漫画を読んだ方なら理解できるところだろう。
 水木しげるの世界にとっては自分の意思で自分の生死を決められることは幸福なことなのだ。たとえその結末が「死」であっても。その意味でビンボーイサムは芸人として最高の喝采を浴びたから幸福なのではなく、その先に迎えるであろう結末までも自分で決められたからこそ幸福なのである。ビンボーイサムの姿を見て悲しむ母子と怒るさら小僧の姿に隠れがちだが、何も言わず音も立てずに(下駄の音もしない)立ち去っていく鬼太郎の姿は今話、引いては今作の世界そのものがビンボーイサムに向ける冷徹な視点の代替であり、それこそが今話の真骨頂と言えるだろう。そしてこの結末を迎え「られた」今作はやはりゲゲゲの鬼太郎、そして水木しげる漫画の系譜に連なる作品の1つであると断言することができるのである。
 今話は表層を見ればバッドエンド、ビンボーイサムの視点に立てばハッピーエンドと捉えられるだろうが、実際は鬼太郎の視点に立ってそのどちらとも取れる結末を「フハッ」と見やる、水木世界的に極めてオーソドックスなエンド、と言えるのかもしれない。

 次回の登場妖怪は化け草履。さら小僧に対するぺったらぺたらこと同じくらい、化け草履と言ったら器物の妖怪変化と関係性が決まっているところがあるが、今期ではどのような物語になるのだろうか。
posted by 銀河満月 at 15:35| Comment(0) | ゲゲゲの鬼太郎(第6期)感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)39話「雪女純白恋愛白書」感想

 うん、面白い。3期以降の歴代ねこ娘声優が集まるという話題性を抜きにしても、ラブコメの定石も種族の違う男女の恋愛劇もそつなく見せており、それでいてこの種の話だと出番が本当になさそうな鬼太郎にもメインストーリーの埒外で(これもコメディタッチの)出番を作っており、脚本も演出も絶妙なバランスで成り立ったグレードの高いコメディに仕上がっている。
 鬼太郎に出てくる雪女と言えば原作的には雪ん子回に出てくる冷凍妖怪の1人であるが、アニメの古参ファンであれば5期の巨乳雪女・葵ちゃんを思い出すところだろうか。今回登場の雪女・ゆきはいかにも「雪女」という感じのクールビューティーな見た目(別に中の人がかつて演じたキュアビューティにかけているわけではない)だが、恋愛ごとに関して非常に疎い面は一種の天然っぽい雰囲気も見せており、感情移入しやすい可愛らしさも発揮していて好印象。
 お相手の暑苦しい男・俊(演じるは5期でミイラ男のバルモンドも演じていた森田成一氏)との対照的なバランスもラブコメぶりに拍車をかけており、それでいてゆきを想う気持ちは本当に一途で真っ当なもので、その暑さがいつの間にかゆきの中で好意的なものとして根付いており、それがねこ娘やまなとのやりとりの中で偶発的に気づくというシチュエーションはその直後、沼御前と一緒にいる俊の姿を見て初めて嫉妬心を覚える描写も含め、正しく恋愛劇のそれであった。
 妖怪と人間の恋愛譚と言えばこれまた5期でのろくろ首と鷲尾とのものがあり、こちらは今回のような種族の違い故の問題はさほど提起されることはなかったが、5期91話の一つ目小僧回で若干提示されていたことを踏まえて3年目も放送されていたらその辺りに突っ込んだ話もあったのかもしれないと想像してみると、今話はコメディの体裁ではあるものの5期で描ききれなかった一つ先の話を描いたと取れなくもないだろう。その最たるものは人間の方がどうしても先に寿命を迎えてしまうというところだが、「愛があるならそれでもやって行けるだろう」という理想的なハッピーエンドを今回は迎えられており、いささか理想に過ぎると思われる向きもあるかもしれないが、ゆきの母親の言葉からするとその理想の結果として生まれた存在がゆきであるのだろうから今話、引いては6期の世界ではこれでいいのだろう。こちらとしても視聴後感は心地よくて良いしね。
 鬼太郎側の描写でおかしかったのはやはり恋愛とは何かと聞かれて説明するうち自分のことを話している風になってしまうねこ娘の様子だろうか。ねずみ男から渡された恋愛シミュレーションゲームをやる羽目になって寝不足になってしまった鬼太郎や、鬼太郎と反対に妙にやる気の目玉親父と、その鬼太郎と相対する妖怪が5期ねこ娘役の今野宏美氏演じる沼御前だったことも含め、今話は全体的に5期っぽさがそこかしこに漂う話であったとも言える。
 もちろん冒頭に述べた歴代ねこ娘声優の共演も僕のようなオールドファンには嬉しいサービスだった。ゆきの母親役だった三田ゆう子氏とゆき役の西村ちなみ氏は4期48話で、西村氏と今野氏は5期96話で共演経験があるものの、全員が一堂に会したのは勿論今回が初めてのことであり、半世紀に渡って続いてきたアニメ版ゲゲゲの鬼太郎ならではのちょっとしたお祭りであった。
 この調子で5期映画の5大鬼太郎みたいにいつか6人の鬼太郎が勢揃いしてくれたら非常に嬉しいのだけど、ま、夢は夢のままでも、ね。

 次回はさら小僧。さら小僧と言えば「ぺったらぺたらこ」。こちらも歴代アニメではコメディだったり怪奇話だったりと様々なアプローチが成されているのだが今期ではどのように料理するだろうか。
posted by 銀河満月 at 12:14| Comment(0) | ゲゲゲの鬼太郎(第6期)感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。