2018年08月26日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)20話「妖花の記憶」感想

 さて「妖花」である。これも2期を除く歴代作品で必ずアニメ化されてきた話であるが、これは人気のある話だからという以前に、この作品が「水木しげるの作ったゲゲゲの鬼太郎」である以上、必ずアニメ化しなければならないという一種の暗黙の了解のようなものが存在しているからのように思われる。
 何故そう思わせるのか。それは言うまでもなく鬼太郎作品の中ではある1つの要素がかなり色濃く反映されているからに他ならない。その要素とは「戦争」である。
 ご承知のように水木しげると戦争(第二次大戦)は切っても切れない関係にある。ご本人が召集され南方戦線に送り込まれてまさに生き地獄を味わったことは今では多くの人が知るところだろう。その体験は水木作品のもう一つの代表作である戦記漫画に反映されており、鬼太郎を始めとした妖怪漫画の方にも大なり小なり影響を与えている、水木漫画における重要な要素の一つである。
 妖花という話は大なり小なりの「大なり」に属する話だろう。バトルどころか敵妖怪も出ず、不思議な花の秘密を追った末に今なお残る戦争の爪痕を確認するという、水木漫画としては正当と言えるだろうが鬼太郎としてはかなり異質な物語でもある。
 まして現在は2018年、原作が描かれた頃からは文字通り半世紀ほど経過している時代である。そんな時代にこの話を原作のテイストを損なうことなく描くことができるのか、不安に思ったオールドファンも少なからず存在していたのではないだろうか。実際、直近の5期では戦争と言うテーゼを除外してアニメ化していただけに、一抹の不安すら覚えた人もいたかもしれない。

 結果としては原作での花子の役回りをまなの大叔母に託すというアレンジもあって杞憂に終わったわけだが、今話ではさらに妖花を巡る出来事を通して、かつての戦争をまったく知らない世代であるまなが戦争を知ろうと思い立つまでに至る流れが加わっていた。この辺は戦争を直接知る世代の減少に伴い、若い世代が戦争に触れる機会が減っているのでどう伝えていくかが課題になっているという近年の問題を取り入れたということなのだろう。
 日本を遠く離れた南の島に昔も今も日本人がいる(いた)と言うこと自体に疎いのも、ずっと日本に住んでいる子供であれば当然の感覚だろうし、まして70年以上も前の戦争のことなど、例え学校の授業で習ったとしてもそうそう心に留めるものではない(今は知らないけど僕の子供の頃は、明治維新以降はかなり授業も適当になってた覚えがある。学期末が迫っていたりして)。「日本が一方的に攻撃されたのだと思ってた」というまなのセリフがそういう意味では非常にリアリティのある現代の子供的セリフだったと言える。
 そしてそんなまなに鬼太郎も目玉親父も「戦争があった」という事実だけを話し、それ以上のことは口にしていない。ねずみ男が「嫌な時代だった」と300年生きてきた設定をさり気なくカバーするセリフを口にしてはいるが、それだけである。話そのものも南方の精霊たちも事実をまなに伝えることを目的として機能しており、何かしらのイデオロギーが介在することを徹底的に避けている。それは言うまでもなく、まなを代表とする現代の子供たちがかつての戦争についてイデオロギーを持つ以前、「戦争があった」程度の認識すら持ち合わせていないかもしれない、という現状を反映させているのだろう。
 それは実際に妖花の源と思われる島についても慰霊碑を見ても、現地で今働いている日本人のサラリーマンを見ても同じだった。真夜中になって戦争の「音」だけが聞こえるという怪現象が起き、怯えるまながそこにいる「見えない何か」に導かれ、妖花に守られるように眠る日本兵たちの遺体を見、その中に大叔母に向けられたかつての恋人の手紙を発見し、まなはようやく実感する。この島で多くの日本人が生き、そして死んでいったことを。
 妖花とは亡くなった人の果たせなかった想いが生み出した花。その言わば「生」の想いを遺体という「死」の中から見出すまな。それはある意味で妖怪と同じように「見えないもの」と言えるものかもしれなかった。だがそれはそこに確実に存在している。以前から妖怪という見えざるものに触れているからこそ感じることができたのだと考えれば、まなが介入する物語として今話を完成させたのも納得がいくし、1話から積み重ねてきたまなと妖怪たちとの触れ合いが、このような少々イレギュラーな形でまな自身に影響を与えるという構成は非常に巧みである。
 ラストで描かれるのはまなが戦争を知ることを始めている姿だ。どう思うかではなくまず忘れないこと、知っていくこと。それが出発点であり大切なことなのだと訴える今話は、2018年という現代に子供たちが戦争を考える上で非常に大切な点を描いている良作と言えるだろう。

 次回はたくろう火。一応原作話はあるものの鬼太郎シリーズ中ではだいぶマイナーな妖怪だが、原作どおりかオリジナルか、一体どのような話になるのだろうか。


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2018年08月19日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)19話「復活妖怪!?おばけの学校」感想

 昔の東映ヒーロー特撮は夏になると必ずお化けが出てくる怪奇調の話だとか再生怪人を大挙登場させる話なんかを作っていたものだったけど、まさか最新作の鬼太郎でそれを見ることになろうとは思ってもいなかった。
 …まあ鬼太郎は元々怪奇調の話なんだけど。

 とまあ戯言はさておき、今回はアニメの完全オリジナル作品であると同時に、八百八狸編以来の「名無し」が登場・暗躍する話でもある。以前のようにまなに直接何かをするようなことこそなかったものの、まなや鬼太郎の前に直接姿を現したり、今話のメインである見上げ入道やたんたん坊一味といった以前鬼太郎に倒された妖怪を復活させたりと、黒幕としての存在感は十分発揮していた。その正体も目的もやはり今話の段階では明らかにならなかったものの、何やら人間の悪意と言うか負の感情のようなどす黒いものを必要としているようで、妖怪たちを復活させたのもそこに関係がある様子。今後は鬼太郎もより注意していくことになるのは間違いない。
 名無し自体とは対決はしなかったものの、今回は復活した見上げ入道やたんたん坊たちとまた戦うことになるという、久しぶりに派手な戦闘シーンが用意されていた。昔だったら以前登場した妖怪が再登場するなんて場合の時は声の出演が変わっていたりしたものだったが、声優陣も2話、3話でそれぞれの妖怪を演じた諸氏が再度集まって演じていて、細かいことだが嬉しく思う。結構気になるんだよね、こういうところ。
 「存在しない四丁目の妖怪学校」というくだりは都市伝説というよりは学校の怪談という感じで、いかにも子供が引っ掛かりそうな噂の類だし、八百八狸事件以降人間たちが妖怪と言うか不思議な物の存在をある程度認知しているようにも見えて面白い。実際八百八狸編以降の話でいわゆる「妖怪なんているわけないだろ」的な言が一度も登場しておらず、制作側が意識しているのかは不明であるし今後そういう話が出てこないとも言えないわけだが、今の時点では歴代アニメ作にあまりなかった「過去話との関連性」を楽しんでみるのもいいかもしれない。
 そしてさらに面白いのはその妖怪学校での妖怪たちと子供たちとのやり取り。最終的に子供たちを妖怪にしようと企てて見上げ入道は原作さながらの妖怪製造マシーンを引っ張り出してきたりするところにはニヤリとさせられるが、中途では今時の学校よりも子供たちのことを考えているかのような授業をしており、その方針に目玉親父も納得してしまうと言った一幕があり、もしかしたらこの妖怪たちもやり方は間違っているものの子供たちの幸せを考えて動いていたのかもしれないなどと、見ている側も考えさせられてしまう面白い構成になっているのだ(たんたん坊たちは3話では違う野望を持っていたけど)。その辺は人間と似ているようでまったく異なる考えや価値観を持ち、それ故に人間相手に事件を起こしてしまう5期の敵妖怪に通じるものがあるかもしれない。
 いずれにしてもそれは鬼太郎の認めるところではないので再び彼らと戦い、ねこ娘やまなと協力して妖怪たちを再び倒す。親父の言っているとおり今期の敵妖怪はいずれも倒されたあと体を失い魂だけが残った状態になるのが常だったが、今回倒された見上げ入道たちはその魂さえも完全に消滅しており、これも名無しの力か術かによるものなのだろう。たんたん坊が今際の際に残した「鬼太郎は名無しには勝てない」と言う言葉も含め、今回の事件自体は解決したものの今後の展開に不安を残す、すっきりしない幕切れとなった。

 次回は妖花。原作はこの時期に放送するのにふさわしい内容であるが、大胆に改変された5期版の例もあるし、どのような話になるのかまったく読めない。
posted by 銀河満月 at 16:51| Comment(0) | ゲゲゲの鬼太郎(第6期)感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)18話「かわうそのウソ」感想

 今回は色々な表情を見せるねこ娘が非常に可愛かったです。終わり。


 …で終わってしまうのもつまんないので、いつも通りの感想も書いていこう。
 今話登場の妖怪はかわうそ。話の内容はだいぶ変わっていたものの、かわうそ自身のパーソナリティは原作「オベベ沼の妖怪」とほぼ同じに仕上がっていた。直近の5期では妖怪横丁の住人として準レギュラー格の扱いという隠れた人気キャラであったかわうそだが、今話もその5期版、引いては原作版と同様に単なる悪戯者ではないデリケートな内面を抱えた妖怪としての一面が描かれている。
 今話独自の要素としてはサブタイトルにあるとおりかわうその嘘が挙げられる。かわうそは元来嘘をついて悪戯をするのが好きの妖怪ではあるが(そういう描写もある)、今話に限っては怪我をして動けなくなっていた老婆のために食べ物を手に入れようと、その手段として嘘をついていた。そして最後までそのことを認めようとせずただ悪戯をしていただけと虚勢を張る姿もまた、かわうそのついた「嘘」なわけである。
 今話ではもう1人、ねこ娘も鬼太郎に嘘をついていた。自分が育てた野菜を鬼太郎に差し入れているのを最後まで認めようとしなかったのは、一つには農作業時の冴えない格好を見られたくない、知られたくないという気持ちからだろうが、最後の最後、バレバレの状態になっても認めようとせずに嘘をついたのは、格好以上に鬼太郎への自分の気持ちを知られたくないが故の虚勢だったのだろう。
 かわうそとねこ娘の2人とも自分の本音、しかもどちらかと言えば弱い・切ない本音を明かしたくないからこその「嘘」だったわけだ。序盤では騙す側と騙される側、中盤では追う側と追いかける側とずっと対極の関係にあった2人の気持ちがラストになって重なった、本人たちも気づかないうちに似たもの同士になっていたのである。その象徴がゲゲゲの森へ誘うねこ娘と、それを笑顔で受けるかわうその姿なのだろう。

 と同時に、今話は実質的なねこ娘主役回と言うべき内容にもなっているので、件の作業着姿もだが偶然鬼太郎に出会って慌てる仕草、かわうそを追いかける時の「猫」の顔、取れた野菜を親切に分け与える人の良さなど、ねこ娘の魅力が全開になっている話でもあった。
 こういう展開の場合演出がおちゃらけるかと思いきやそうでもなく、例えば農作業や自然と共生していくことの大切さをいまいち理解できておらずねこ娘の姿に幻滅してしまったまなを否定的に見せず、あくまで知らないだけのまなにねこ娘がやんわりと伝える(しかも「スイカの種飛ばし」という他愛もないお遊びを使って)ことでまなに自分で学ばせるという、ともすればまなにマイナスイメージがついてしまったり説教臭さが漂ったりしそうなところを丁寧に作り上げている点は素直に好感が持てる。
 この説教的な理屈を説教臭くなく物語世界に溶け込ませる手法は今期鬼太郎でよく行われている手法だが、今話はそれだけでなく真菜に自分からそれを理解させる=学ばせることでより一層ねこ娘を尊敬するようになるというキャラクターの底上げまで行っており、毎度のことながらこの巧みな演出と構成は素晴らしいものがある。
 このようなグレードの高いアニメを日曜朝の清々しい時間帯に毎週見られるというのは本当に幸せなことだなと今更ながら思い知らされる次第だ。

 さて次回は以前倒された妖怪が復活するとか怪談話めいた噂とか、一昔前の東映特撮夏恒例の怪奇話を思わせる内容が散見されるが、同時に八百八狸以来の名無しも登場するようで、どんな内容になるかまったく読めないのが逆に楽しみである。
posted by 銀河満月 at 14:49| Comment(0) | ゲゲゲの鬼太郎(第6期)感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする