何故そう思わせるのか。それは言うまでもなく鬼太郎作品の中ではある1つの要素がかなり色濃く反映されているからに他ならない。その要素とは「戦争」である。
ご承知のように水木しげると戦争(第二次大戦)は切っても切れない関係にある。ご本人が召集され南方戦線に送り込まれてまさに生き地獄を味わったことは今では多くの人が知るところだろう。その体験は水木作品のもう一つの代表作である戦記漫画に反映されており、鬼太郎を始めとした妖怪漫画の方にも大なり小なり影響を与えている、水木漫画における重要な要素の一つである。
妖花という話は大なり小なりの「大なり」に属する話だろう。バトルどころか敵妖怪も出ず、不思議な花の秘密を追った末に今なお残る戦争の爪痕を確認するという、水木漫画としては正当と言えるだろうが鬼太郎としてはかなり異質な物語でもある。
まして現在は2018年、原作が描かれた頃からは文字通り半世紀ほど経過している時代である。そんな時代にこの話を原作のテイストを損なうことなく描くことができるのか、不安に思ったオールドファンも少なからず存在していたのではないだろうか。実際、直近の5期では戦争と言うテーゼを除外してアニメ化していただけに、一抹の不安すら覚えた人もいたかもしれない。
結果としては原作での花子の役回りをまなの大叔母に託すというアレンジもあって杞憂に終わったわけだが、今話ではさらに妖花を巡る出来事を通して、かつての戦争をまったく知らない世代であるまなが戦争を知ろうと思い立つまでに至る流れが加わっていた。この辺は戦争を直接知る世代の減少に伴い、若い世代が戦争に触れる機会が減っているのでどう伝えていくかが課題になっているという近年の問題を取り入れたということなのだろう。
日本を遠く離れた南の島に昔も今も日本人がいる(いた)と言うこと自体に疎いのも、ずっと日本に住んでいる子供であれば当然の感覚だろうし、まして70年以上も前の戦争のことなど、例え学校の授業で習ったとしてもそうそう心に留めるものではない(今は知らないけど僕の子供の頃は、明治維新以降はかなり授業も適当になってた覚えがある。学期末が迫っていたりして)。「日本が一方的に攻撃されたのだと思ってた」というまなのセリフがそういう意味では非常にリアリティのある現代の子供的セリフだったと言える。
そしてそんなまなに鬼太郎も目玉親父も「戦争があった」という事実だけを話し、それ以上のことは口にしていない。ねずみ男が「嫌な時代だった」と300年生きてきた設定をさり気なくカバーするセリフを口にしてはいるが、それだけである。話そのものも南方の精霊たちも事実をまなに伝えることを目的として機能しており、何かしらのイデオロギーが介在することを徹底的に避けている。それは言うまでもなく、まなを代表とする現代の子供たちがかつての戦争についてイデオロギーを持つ以前、「戦争があった」程度の認識すら持ち合わせていないかもしれない、という現状を反映させているのだろう。
それは実際に妖花の源と思われる島についても慰霊碑を見ても、現地で今働いている日本人のサラリーマンを見ても同じだった。真夜中になって戦争の「音」だけが聞こえるという怪現象が起き、怯えるまながそこにいる「見えない何か」に導かれ、妖花に守られるように眠る日本兵たちの遺体を見、その中に大叔母に向けられたかつての恋人の手紙を発見し、まなはようやく実感する。この島で多くの日本人が生き、そして死んでいったことを。
妖花とは亡くなった人の果たせなかった想いが生み出した花。その言わば「生」の想いを遺体という「死」の中から見出すまな。それはある意味で妖怪と同じように「見えないもの」と言えるものかもしれなかった。だがそれはそこに確実に存在している。以前から妖怪という見えざるものに触れているからこそ感じることができたのだと考えれば、まなが介入する物語として今話を完成させたのも納得がいくし、1話から積み重ねてきたまなと妖怪たちとの触れ合いが、このような少々イレギュラーな形でまな自身に影響を与えるという構成は非常に巧みである。
ラストで描かれるのはまなが戦争を知ることを始めている姿だ。どう思うかではなくまず忘れないこと、知っていくこと。それが出発点であり大切なことなのだと訴える今話は、2018年という現代に子供たちが戦争を考える上で非常に大切な点を描いている良作と言えるだろう。
次回はたくろう火。一応原作話はあるものの鬼太郎シリーズ中ではだいぶマイナーな妖怪だが、原作どおりかオリジナルか、一体どのような話になるのだろうか。