2018年07月29日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)17話「蟹坊主と古の謎」感想

 さて今回の話は境港編の後半である。今回登場の妖怪は蟹坊主。4期では一度鬼太郎と戦った後は味方に、5期ではぬらりひょん一味の一人として登場していたが、今話はようやく原典に近い「人間に質問して答えられなかった人間を殺す」設定を持っての登場となった。担当声優の田中秀幸氏も鬼太郎には特に5期で準レギュラーとして活躍、最近でも6期放送前に配信されたこれまでのアニメ版を振り返る動画のナレーターを担当していたのが記憶に新しいところである。

 前話は境港の各所を背景として盛り込みつつ、私欲のために人間を困らせる海座頭と鬼太郎たちの戦いを描いていたが、今話は名所観光的な側面は影を潜め、蟹坊主と鬼太郎側の戦いや蟹坊主と境港の因縁を暴いていく謎解きに終始した、オーソドックスな妖怪退治譚に回帰した内容となっていた。一応鳥取県のシンボルの一つである大山が登場してはいるが、物語としてはそこに住んでいる烏天狗との絡みに焦点を当てているのが、妖怪退治ものという骨子をより強調している。
 鬼太郎を始めほとんどの味方妖怪が蟹坊主に銅像にされてしまい、人間のまなが目玉親父や砂かけ婆と協力して鬼太郎たちを救おうと奔走するのはこれまでの話でも何度か見られたパターンだが、今話がまな自身が直接何かの助けを成すことはなく最終的には烏天狗などの助力もあって解決するという流れになっていたのは、まなの「偶然力」のようなご都合主義的展開に陥らせないようにする配慮もあったのかもしれない。
 暴れる蟹坊主も前話の海座頭のような私欲で暴れる自分勝手な輩とは違い、かつて忠誠を誓った姫の影を追い求め、それが幻とわかっていてもさすらわないではいられない、人間よりもはるかに長く生きられるからこそ起きる悲劇の体現者であった。そしてこれもまた人間と妖怪が必要以上に深く関わり合ったために生まれてしまった悲劇でもある。
 今期鬼太郎は人間であるまなの鬼太郎たち妖怪への接し方の変化を通して、人間と「見えないもの」との距離を縮めていく流れが根底にあるのだが、それと一緒に人間と妖怪が歩み寄った故に起きてしまった悲劇というのも執拗に描写している。まなに狙いを定めた名無しの件も含めてそれがどのような展開に繋がっていくのか、非常に気になるところだ。

 烏天狗の力を借りて鬼太郎は復活し、蟹坊主は現代に自分の居場所がないことを悟って敢えて自滅、姫の眠る境港の地に自分も眠らせてほしいと伝えて自ら泡を浴びて銅像になる。
 蟹坊主を憐れに思った境港の人々は蟹坊主を銅像として飾り、また蟹坊主だけでなく事件の解決に尽力してくれた鬼太郎たち妖怪の銅像も作ってそれを町に飾る。
 言うまでもないことだが、これは現実世界にある「水木しげるロード」を元ネタにしており、冒頭で名所観光の要素は影を潜めと書いたが、何のことはない、物語の中で新たな「名所」を作ってしまったわけである。現実世界のネタを巧みにリンクさせただけでなく、その要素を生かして最終的には昔話・民話的寓話として完成させてしまうのだから堪らない。さすがプロの仕事と言うべきトリッキーな物語作りであろう。
 なぜか1人だけ銅像から元に戻らなかったねずみ男のオチも含めて、単なるタイアップに留まらない秀作・良作として成立していると言って過言ではない。

 次回登場妖怪はかわうそ。近作の5期では準レギュラーとして活躍していたかわうそだが、今回は原作「オベベ沼の妖怪」に沿った話になるのだろうか。


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2018年07月22日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)16話「潮の怪!海座頭」感想

 今週と来週とは古めかしい言い回しをするなら「境港編」とでも言おうか、まなの父親の故郷と設定されている鳥取県境港市へ、まなが夏休みを利用して旅行に行くところからはじまり、全編にわたって境港そのものを推し出した内容となっていた。まなのおじさんである庄司や漁師のキノピーといった登場人物が、それぞれ水木しげる記念館の庄司館長と木下氏をモデルにしているという徹底ぶりである。
 鬼太郎を見ている人なら周知の事実だろうが、境港は原作者である水木しげる先生の生まれ育った地であり、現在は1993年から始まった「水木しげるロード」を始め水木先生や水木先生の描いた様々な妖怪たちを使った町おこしも継続して行っており、まさに妖怪と共存している町と言っていいほどである。
 1993年と書いたとおり境港の町おこしは4期鬼太郎の開始前から行われていたのだが、このような所謂アニメとのタイアップについてはかつての4期も5期も行っておらず、水木しげるロードの開始から25年の今年、初めてアニメ鬼太郎とのタイアップが行われる運びとなった。それだけに冒頭からまなが境港の風土や名産などをべた褒めし、風景もロケハンによって現実のものがほぼ忠実に背景として描かれている(背景の1つとして水木しげる記念館が映ったが、6期鬼太郎の世界にも水木先生が存在しているのだろうか)。
 ただ褒めそやすだけでなく名物の祭りを巡って伝統を守ろうとする側と革新を求める側とで対立が起き、結果祭りが実施できなくなっていると言う展開はいかにも今期の鬼太郎らしい今日的な要素であるが、最終的に町民も団結するとは言えこのようなマイナスと取られかねない要素までタイアップ話の中に盛り込んでくると言うのは、それだけ境港の懐が深いと言うことなのだろうか。
 個人的な余談としては、庄司おじさんたちに甘えてテンションが高くなっている時のまなの声が、ミリオンライブの所恵美の声っぽく聞こえたりもしたのがおかしかった。

 その庄司おじさんや漁師のキノピーたちを船幽霊に変えてしまう妖怪・海座頭が出てきたことから鬼太郎の出番となるが、船幽霊は海座頭に操られて鬼太郎たちを襲ってくるため、鬼太郎はまともに海座頭と戦うことができない。船幽霊たちの魂を閉じ込めた海底の祠は扉がとても重く簡単には開けられないと知ったまなは、町の全員でやれば開けられると考える。
 自分の大好きな境港の町を守りたいと必死に訴えるまなの呼びかけに祭りの件で反目していた人たちも団結、駆けつけたねこ娘たちとも協力して祠の扉を開け、船幽霊の魂を解放する。
 その後もなお苦戦する鬼太郎をかつて高校球児だった庄司おじさんの投球による一撃で救ったり、事件解決後無事に開かれた祭りをまなたち人間と鬼太郎たち妖怪が共に楽しむ様子を描いたりと、前述のとおり25年の間「妖怪との共存」を実現してきた境港を舞台とした話にふさわしい展開でクロージングとなった。
 妖怪と人間とは必要以上に交わってはいけないと言うスタンスを持つ鬼太郎だが、そんな鬼太郎にとってもこの町は居心地が良かったのだろう。そもそもアニメと現実とは違う世界なのだから我々の知っている境港と劇中の境港とが同じとも言えないのだが、「境港」とは妖怪と人間が共存できる場所という一種のシンボルなのだとして考えれば、妖怪と人間とが一つの町で仲良く過ごせるひと時を大切に想うまなの「こんな時間がずっと続くといいな」という言葉に、笑みを浮かべながら頷くように顔を下げる鬼太郎の姿にも納得がいくというものであろう。

 次回もまた境港が舞台のお話で登場妖怪は蟹坊主。世代人なら3期EDの最初に出てくる妖怪として記憶しているであろう妖怪だが、人々を銅像に変えていく理由は何なのだろうか。
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2018年07月08日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)15話「ずんべら霊形手術」感想

 アイドルのプロデューサーはアイドルになってもいい奴だった。

 …と、わかる人にしかわからんネタはさておき、今話は2期でも一度アニメ化された、鬼太郎の登場しない短編漫画を原作とした「霊形手術」。2期はどこまでも自分の美しさを追い求めた故に残酷な、そして自業自得な結末を迎えた女・月子の末路を描いていたが、6期版と言うべき今話は2期版のメインであった月子よりも、その月子に惚れていた男の三吉に近い立場の少女がメインとなった。
 一応月子のキャラシフトに対応しているイケメンアイドルのユウスケも登場しているが、今話の三吉≒きららはそこまでユウスケ個人に固執しているわけではなく(理由の一つではあるが)、恵まれていない自分の容姿そのものに劣等感を抱き、それ故に周囲から蔑まれる現状に苦しんでいる。容姿の問題は化粧や服の着こなしである程度は改善が見込めるものの、特に顔となればそう簡単に解決できるものではないだろうし、何だかんだ言っても女性の容姿となればどうしても男性より重視されがちである以上、きららにとっては大きな問題であったのは当然と言える。他人の美醜に何かしらの感想を抱いてしまうのは仕方ない面があるとしても、それを本人にわかるレベルではっきり態度に示した時点で周囲の人間にも明確な悪意があったと言え、苦しむきららの描写にシンパシーを覚える人もいたのではないだろうか。
 そんなきららは妖怪ずんべらの力で美しい死体の顔を元の顔の代わりに貼り付けることで幸せなひと時を味わうが、時間が経つとその効力も消えて顔のないのっぺらぼうになってしまう。この辺は原作とほぼ同様だが、最終的にきららの出した答えは「美しい顔でい続ける」と言うものだった。
 以前から彼女の書いたファンレターに励まされていたというユウスケに説得され一時は元の顔に戻したものの、最後に見せた顔は霊形手術をした時と同様の顔だった。その最後のシーンはエピローグ的描写で元に戻ってから再び美しい顔になるまでの経緯は描かれていないので、最終的にこの顔をどうしたのかについては視聴者の判断にゆだねるというところなのだろう。つまり再びずんべらに霊形手術をしてもらったのか、それとも一般的な整形手術で顔を変えたのか。
 どちらにせよ1人の男に許容されるだけの幸せでは満足できなかった、と言うより結局それ自体も彼女にとっては幸せ足りえなかったという事実がそこにあり、ラストのきららの小悪魔的な笑顔と相まって彼女の先を想像しないではいられない。
 思えば2期版の三吉はただ月子に想いが通じればそれで良いという一念で霊形手術を行った一方、月子はそんな三吉に目もくれずずんべらと結婚し、自分自身が霊形手術をする側になって儲けようとまで企んだ。
 ただ今の自分を変えたい、美しくなりたいと望んだきららは、霊形手術を受けることで変わった世界を忘れられずさらなる「自分の望んだ世界」を求めるために顔を変えた。美しくなりたいという望みは男女問わず一度は願う普遍的で、見ようによっては小さな望みとも言えるだろうが、きららはその望みをかなえた先の望みをも叶えることに貪欲になってしまった。言ってみればきららは2期版の三吉と月子、両方の登場人物の望みを体現したキャラクターとして完成してしまったのである。
 美しくなって小さな望みを叶えたいという「三吉」ではいられなくなったきららは「月子」然とした存在になって世界へと邁進していく。しかし2期版の月子が最終的に迎えた結末は……。それを知るときららの行く末に幸福な結末が待っているとはどうしても思えない。
 かような苦い終局を迎えた挿話かと思いきや、一方では「1人の男に愛される女というありきたりの幸福論を越えて自分が幸せになる道に進んだハッピーエンド」と考える向きもあるようで、感想とはやはり千差万別と改めて思い知ると同時に、正味25分程度の一エピソードでここまで色々考えさせてくれるアニメを見られることはこの上ない幸福だなあと感じ入る次第である。

 と、そんなお話のために割りを食った、という言い方も不適当だろうが、鬼太郎たちの出番はほとんどなかったのは残念と言えば残念だが、元々鬼太郎の登場しない短編が原作であるために鬼太郎たちが直接介入する余地がほとんどないのは仕方のないところでもあるので、むしろ原作短編の味を比較的忠実にアニメ化出来たという点を素直に褒めるべきだろう。
 声優に目を向けると、きらら役のゆかなさんやずんべら役の久川綾さんと言ったベテランが4期から継続してゲスト参加している(と簡単に言うけど4期は20年近く前だからやっぱりすごいことですねえ)一方で、アニマスのプロデューサー役で一躍名を馳せたバネPこと赤羽根健治さんがユウスケ役で出演されていた。前話のちゃんゆりことのぐちゆりさんもだが青二の若手がポンポン参加してくれるのも東映アニメの良いところなので、その内そらそらあたりも出演してくれることを願うとしよう。

 次回は海座頭。水木先生の故郷である境港が舞台になるということなので、まさか原作のように鬼太郎やねずみ男が厭世感に囚われる話にはならないだろうが、どんな話にするのであろうか。境港を舞台にするのだから名所巡りくらいはしそうなものだけど(笑)。
posted by 銀河満月 at 15:07| Comment(0) | ゲゲゲの鬼太郎(第6期)感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月01日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)14話「まくら返しと幻の夢」感想

 まあなんと言いますか、今話の鬼太郎はこれに尽きるだろうなあ。

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 今の姿になる前の親父の姿としては「鬼太郎の誕生」などで描かれるミイラ男状態のものがよく知られているが、あれは体が溶けるという病気にかかって死ぬ寸前の状態であって、病気にかかる前の健康な状態の姿は原作でも描かれたことはなかった。なのでその病気になる前の姿の親父をアニメオリジナルで創作することは別段悪いことでも何でもないのだが、まさかこんな形でそれが描かれるとは、と言うかそもそも「病気になる前の親父」を作ろうという考え自体がパッと頭に浮かんでこず、浮かんだとしてもまさかアニメでそこまでやるとはまったく思いもしなかっただけに、この衝撃は自分としてはかなり大きい。コロンブスの卵と言うかコペルニクス的転回と言うべきか、いわゆる「腐」の方々にも衝撃が大きかったようだが、僕としてはそれとは別の次元で衝撃を受けているのである。
 言っておくが別に病気になる前の父親の姿を描くことは別にタブーとなっていたわけではない。原作についてはそこを描く気が端からなかっただけなのだろうし。歴代のアニメ作品も鬼太郎の幼少時代を描くのが精々であったし、そもそも鬼太郎の幼少時代とはいわゆる「墓場鬼太郎」時代になるから「ゲゲゲの鬼太郎」で忠実に描くのは難しいものがある。だから鬼太郎の誕生や幼少期が断片的にとは言え描かれるようになってきたのは4期以降のことだし、まして目玉親父の「鬼太郎が生まれる前の姿」に思いを至らせるなどまったくありえないことだったのだ。
 だからこそそれをやってのけた今回のアニメスタッフはすごいと言わざるを得ない。単に出しただけでなく、死んだ母親の胎内から自力で這い出しその際に左目を潰してしまったという壮絶な誕生となった鬼太郎に「生まれおちた時から苦労をかけた」父親としての負い目と、それでも我が子を案じるが故に今の姿となるまでに至った父としての強い想いが、夢の中という特殊空間でのみ具象化したという展開に落とし込んだその手腕。原作や歴代アニメを研究した上での独自性を打ち出しているのが今期の特徴だが、それが今までで最も強く発揮された回だったのではないだろうか。
 アニメ版では原作以上に鬼太郎と目玉親父の親子の絆を強調しているのだが、それをこんな形で提示してくるとは全く本当に脱帽である。すごいし素晴らしい。

 やっぱりこの親父のインパクトが強すぎて、大した才も技量もない中年リーマンの悲哀という決して他人事ではない(笑)描写とか、ねこ娘とまなの夢の話とか、夢の世界から抜け出しても根本的な解決にはなっておらず、今後もいずれ夢の世界にひきこもる人間が出てくるであろうことを示唆する少女の最後の邪悪な笑みと言った種々のネタもどこかに吹っ飛んでしまった感があるな。
 そう言えばまくら返しの話はこれも1期から5期に渡って必ずアニメ化されており、3期世代にはEDで唯一動いていた背景妖怪としても記憶されていることだろうが、今回のようにまくら返しが敵妖怪ではなく鬼太郎の味方の側に立って行動するという筋はなかなか珍しかった(一応3期でも味方描写のある話はあったけど)。

 さて次回は「霊形手術」。元々は水木先生のオリジナル短編で非鬼太郎ものだが2期では原作として登用され、多くの視聴者を恐怖に陥れた名作・良作として今なお多くのファンに愛されている話だが、さて6期ではこの話をどのように料理するのだろうか。
posted by 銀河満月 at 17:17| Comment(0) | ゲゲゲの鬼太郎(第6期)感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)13話「欲望の金剛石!輪入道の罠」感想

 鬼太郎らしからぬスペクタクルとなった八百八狸編も一段落し、比較的オーソドックスな妖怪退治ものに回帰した今話。だが今話は毎回のゲストである敵妖怪より鬼太郎一番の悪友であるねずみ男と鬼太郎の関係性にフィーチャーした内容となっていた。
 今期の鬼太郎は人間のまなとの交流に序盤の話を割いたため、ねずみ男と鬼太郎がどういう関係なのかについてはニュアンスで察せられる程度に留めており明確に描写してはこなかったわけで、既に鬼太郎とねずみ男という有名キャラクターは今更説明しなくても視聴者は知っているだろうという打算が働いていたのかと意地悪な見方も一時はしてしまったものだが、ここで改めて両者の関係を打ち出してくるというのは、第1クールの最後となる今話にはふさわしい構成だと言えるだろう。

 今回の話は原作の「ダイヤモンド妖怪」を下敷きにしているので、敵妖怪の輪入道の特徴や能力、それに対する鬼太郎の攻撃方法と言った重要な部分の要素は概ね原作に沿ったものとなっていた。
 だからこそそれ以外のアニメオリジナルと言っていい部分でねずみ男の様々な描写が光っていた。自分を半妖怪の鼻つまみとして自嘲するのは4期版でもあった少々らしくない描写だったが、ダイヤモンドの材料として躊躇なく人間たちを犠牲にするところ、他者と結託して自分の手に余る状態になりつつあるのを理解しながらも目先の金を優先し、いよいよとなると虫の良さを自覚しつつも鬼太郎に助けを求め、事件が解決した後も反省はまったくしないという、どこまでも自分の欲望や欲求に忠実(特に金銭欲)に生きるねずみ男らしさが存分に発揮されている。特に材料となる人間が世界規模にまで広がりながらもそのこと自体にはさほど後ろめたさを感じておらず、ダイヤの販売や輪入道の制御が自分の手を離れてしまうことの方を懸念しているあたりのドライな描写が、実に原作のねずみ男と近しい個性になっていて、原作ファンとしては非常に嬉しいところだった。
 これだけ悪どいことをしておいて罰を受けないのは…という意見もネット上ではチラホラ見るが、原作からして受ける時は受けるし受けない時は受けないという扱いだったし、水木世界自体が欲望に忠実に生きることを否定しない世界でもあるから、罰を受けないこと自体に目くじらを立てる必要はないのだろう。
 その分鬼太郎の出番がAパートで少々、Bパートも半分ほど過ぎてからと少々少なくなってしまっているが、原作でも事件に直接絡むねずみ男の描写ばかりで、主人公たる鬼太郎が最後の方に登場して事件を解決して終わる、というパターンもいくつもあるので、ある意味ではねずみ男が一番お気に入りだったという水木先生の作風に沿った内容と言えるかもしれない(今期でも既に5話でやっているストーリー構成ではあるが)。
 むしろねずみ男に輪入道、人間たちの三すくみで欲望が入り乱れた醜い描写が続いただけに、鬼太郎が登場して敵妖怪をやっつけるという単純な構成がむしろストーリー上の救いとして一層の効果を発揮する結果にもなっており、これもまた水木ワールドならではのマジックであろう。

 次回はまくら返しが登場するようだが、粗筋を読む限りだとまくら返しが敵という展開にはならないようで、今話が原作の味をほぼそのまま生かした話だっただけに、次回でどの程度捻ってくるのか楽しみである。
posted by 銀河満月 at 16:29| Comment(0) | ゲゲゲの鬼太郎(第6期)感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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