2018年05月26日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)8話「驚異!鏡じじいの計略」感想

 今回登場する妖怪は鏡じじい。と言っても今話のトピックスとして注目されているのは久しぶりに登場するまなや今回初登場のまなの母親のようで、何と言ってよいやら(笑)。まあ公式からしてそちらを推している風なのはまるわかりなので、これも今期の特色と捉えるべきなのだろう。
 そんな感じで始まる前から存在感が乏しくなってしまった鏡じじい、原作からして美少女の姿を盗み鏡の世界に閉じ込めて、怖がり悲しむ少女の姿を見ていひひと笑うエッチなやつとして描かれているが、アニメの方では美少女こそ毎回絡むものの、原作に比較的忠実に作られた1期版を除いてあまり変態的に描かれることはない。直近の登場作である5期劇場版「日本爆裂!」では歴代随一とも言える鏡の妖術使いとして鬼太郎を苦戦させ、紆余曲折ありながらも最後にはヤトノカミとの決戦で鬼太郎に協力するというおいしい役どころだった(個人的にはパチスロ版「ブラック鬼太郎の野望」も覚えておきたいところだけど)。

 そんな歴代作での活躍から一転して、今回登場の鏡じじいは「初恋の人に似た少女を鏡の中から見つめ続けるコミュ障っぽいじじい」という、ある意味では原作以上に変態度合いの増した妖怪となってしまった。原作のキャラ設定を現代的に翻案したと考えればさほど違和感がないあたりがなんともはやというところなのだけども。
 勿論ただの変態と言うだけではなく、気に入ってしまったまなを見つめ続けるうち、まなが別の凶悪妖怪であるがしゃどくろに狙われていることに気づき、まなを助けるために奔走するという好漢の一面も持っているのだが、前述の性格や行為によるキモさが彼の良い面を完全に打ち消してしまっているのは、笑っていいのかどうなのか。
 今話は前半は謎の妖怪にまなの友人が襲われたりまな自身がつけ狙われたりと言った恐怖描写、後半が鬼太郎たちの妖怪退治描写とかなり明確に分かれており、オーソドックスな妖怪退治ものに終始した作りとなっている。捻ったストーリー構成や社会風刺の利いていた6、7話あたりと比べると物足りなさを感じてしまう向きもあるかもしれないが、今話はあくまでまなを含むレギュラー陣によるキャラクター主体の物語であって、どちらが優れているかと言った甲乙つけられる類の話ではないので、鬼太郎たちの活躍に素直に見入るべきだろう。5期版を想起させるねこ娘と黒猫との会話シーンや、6話と同一個体かは不明なもののチラッとすねこすりが再登場したりといったファンサービス的描写もその一環と言える。
 …まあ人によってはそれこそ怯えるまなや初登場(の割に出番は少なかったが)のまなママさんに見入るのだろうが、それもまた一つの視聴の仕方ではある。その意味では公式の推し方もやはり正しいのだ。
 ただ今回も6期ならではの捻った演出が施されており、物語上の単調さを回避しているのはさすがというところだろう。前半のまなが不可思議な何かに追い詰められていく時、視聴者としてはサブタイにもなっているのだから当然鏡じじいが何かをしているのだろうと思うのだが、一度視聴した上で改めて見返してみるとこの場面の視点は所謂「神の視点」としてすべてを俯瞰しているのではなく、まなに対する外的焦点化として演出されていることがわかる。
 だからこっちもそのブラフに簡単に引っかかってしまうわけだが、6話もだがそのブラフのかけ方が今作は実に巧妙で、特に今期は2018年現在の作品である以上、鏡じじいと言う妖怪が原作ではどんなキャラでアニメ版でもどんな扱いだったかと言ったことは視聴者もすぐに調べられるわけで、その上で美少女であるまなと絡むとなればまあ鏡じじいが何かをやらかすのだろうと思い込んで見始める視聴者も少なくないと思われ、そんな視聴者の思考をも逆手に取ったかなりグレードの高い演出が本作でほぼ毎回成されていることにはもっと注目すべきだろう。

 前述の通りまなを襲おうとしていた妖怪は鏡じじいではなくがしゃどくろであり、鏡じじいはがしゃどくろからまなを守ろうとして鏡の世界に連れ込んだのだった。がしゃどくろと言えばアニメでは3期以降毎回ゲストの敵妖怪として何らかの形で登場してきているが、今回は第3期劇場版4作目や第4期のように人語も話さず、自分の封印を解いた人間をひたすら襲い来る意思疎通ができなさそうな怪物然としたスタイルで攻めてくる。
 実は前半でまなを襲いまなが怯えていたのもがしゃどくろに対してだったのであるが、見せ方としては前述のとおり外的焦点化視点の演出となっていたため視聴者としては気づくことなく、終盤になって初めてわかる構成になっている。
 目からレーザー状の光線を放つという今期のがしゃどくろはアクション重視の3期っぽい改変であるが、今回のバトルフィールドは鏡の世界という異世界だけに、少々派手なアクションを繰り広げても人間の世界には影響が出ないということで演出する側も羽目を外してみたのかもしれない。
 まなを光線で狙ってきたその瞬間を逆手にとって鏡で光線をはね返す鏡じじいもまなを救うカッコよさと、あくまで眼中にあるのはまなだけでピンチに陥っている鬼太郎たちには目もくれないというキモさが両立していて楽しいし、まなも助けに現れた鬼太郎にではなくねこ娘に抱きついたりと、これまでの話で培ってきたキャラクター性がきちんと生かされている丁寧な作りになっている。
 そして事件は解決しつつも結局女好きのキモい奴ということで終わった鏡じじいを前に、「ああはなってくれるなよ」と鬼太郎に伝える目玉親父、とオチもこれまでにないコメディタッチでつけられ、図らずも原作の持つとぼけた味わいを再現した形で幕となった。
 これもまた、と言うよりこういうとぼけた味わいこそがゲゲゲの鬼太郎という作品の真骨頂であり、前話のように強烈な印象を見る者に残す挿話ではないかもしれないが、本作を見る上で忘れてはならない「鬼太郎らしさ」の一つであることは疑いない。

 次回は河童の三平…ではなく普通の河童の話。河童がメインの話は原作にもアニメ版にもさほどなく、ほぼアニメオリジナルの話になると思われるが、ストレートに現代的なサブタイトルは何を意味しているのであろうか。
posted by 銀河満月 at 12:15| Comment(0) | ゲゲゲの鬼太郎(第6期)感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする