2018年05月27日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)9話「河童の働き方改革」感想

 前話の感想ですっかり書くのを忘れてしまっていたが、鏡じじいの担当声優が塩屋浩三氏だったのでラストで子泣きと酒を飲んでいる姿が「4期と6期の子泣きの共演」とも取れて楽しかったし懐かしかったなあ。と、それだけ。

 で今話の鬼太郎は登場する妖怪としては河童といそがしになるのだが、妖怪退治が主眼ではなく妖怪と人間とが織りなす悲喜劇の方に重点が置かれていた。前話で鏡じじいが敵役かと思いきやがしゃどくろが出てきたように、わざわざサブタイトルにも「河童」と入れているにもかかわらず公式の前情報ではいそがしが唐突に紹介されたので、今回もいそがしが敵役の立場になるのではと思ってしまうところをそうさせないあたり、これまでの例に漏れず視聴者の思い込みを逆手に取った構成を組んでいるのだと感心させられる。
 個人的にはいそがしがかつて活動していたのが「10年ほど前」というところに、5期でいそがしが登場した89話の放送年を思わせてくれたり、鬼太郎の情報をネットに流して大量に依頼を募集するねずみ男の様子は、鬼太郎家に大量の電話(!)を引いて依頼を取ろうとした3期49話を想起させたりと過去作を意識したのかと思わせてくれるような描写が気に入ってしまったのだが、それを抜きにしても十分楽しい内容だった。
 ブラック企業という明確なテーマが存在している点で今話は7話と同様と言えるが、恐怖で彩った7話と違い今話は終始コメディタッチを貫いており、同じテーマを扱うにしても風刺の仕方にはこれだけ幅を持たせられるのだということがよくわかる好例と言えるだろう。
 ただどちらかと言えば今回はブラック企業と言うよりは、その企業に翻弄される労働者・サラリーマンの方に主眼を置いた構成になっており、水木漫画の「サラリーマン死神」シリーズを例に挙げるまでもなく、サラリーマンの悲哀というやつは鬼太郎世界に元々マッチしているものなのかもしれない(言うまでもないが2期の死神関連作や5期35話の元ネタでもある)。
 PCの前で働く河童たちも人間臭いなどと生易しいものではなく、モロに(追い込まれていく)サラリーマンそのもののように描かれているのがいかにも水木世界らしい。遠野の池で暮らしていた頃の朴訥さが消えていき、知識を経て賃上げ交渉にまで出張って行くその様は、まさしく目玉親父の言った「心を亡くした」姿でもあり、我が身を顧みて痛々しさを覚えた大人もいたのではないだろうか。

 最終的にその河童たちも社長に対し反乱、というか反抗し出すのは、前半で人間の部下が社長に反抗していたところを思い返すと、文字通りまったく同じ事の繰り返しになっていて、人間と妖怪が全く異なる存在ではないと訴えてくるこの構成は5話のかみなりの描写に近いものがあるが、こんな形で人間と妖怪の同質な面を見せつけられるのは鬼太郎でなくともたまったものではないだろう。妖怪と人間が近づくということはこんな情けないザマを互いに見せつけ合う結果になってしまうのかもしれない。
 ただ人間だったらそこで泣き寝入りしてしまうようなところを、河童たちは尻子玉を引っこ抜くという手段で応戦する。駆けつけた鬼太郎はおろか器物が基のぬりかべや一旦木綿までやられてしまうのは少々コメディ要素が過ぎるのではとも思えるが、あまり人間相手の尻子玉抜きを繰り返すと生々しすぎるのでこのくらいで線を引いておいた方が良いのかもしれない。
 いそがしの力を使った鬼太郎に河童たちは抑え込まれ、彼らの先頭に立っていた太郎丸も弟の説得で故郷に戻ることを決める。そのやり取りを聞いていた社長が今度はいきなりスローライフに目覚めて家族に呆れられ、結局ほどほどが一番というこれまた水木漫画らしいオチで今話は締めくくられるのだった。

 他に今話の特筆点と言えば4期5期に参加していた信実節子氏が作画監督として6期に初参加したという点か。丸っこくて大きい目が特徴で且つ戦闘シーンでもさほど崩れずよく動くという魅力的な作画をしていた人だが、今話の場合は…。尻子玉を戻された時の鬼太郎の表情とか面白かったでしょ?(笑)

 次回はねこ娘とまながメイン?になっての「学校七不思議」回とのこと。鬼太郎で七不思議と言ったら3期最終回で生かされた本所七不思議の諸要素が思い出されるが、今回は勿論まったく別のものになるだろうし、何より6期を代表する要素である「まな」と「ねこ娘」のコンビがメインになるようなので、今から楽しみである。


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2018年05月26日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)8話「驚異!鏡じじいの計略」感想

 今回登場する妖怪は鏡じじい。と言っても今話のトピックスとして注目されているのは久しぶりに登場するまなや今回初登場のまなの母親のようで、何と言ってよいやら(笑)。まあ公式からしてそちらを推している風なのはまるわかりなので、これも今期の特色と捉えるべきなのだろう。
 そんな感じで始まる前から存在感が乏しくなってしまった鏡じじい、原作からして美少女の姿を盗み鏡の世界に閉じ込めて、怖がり悲しむ少女の姿を見ていひひと笑うエッチなやつとして描かれているが、アニメの方では美少女こそ毎回絡むものの、原作に比較的忠実に作られた1期版を除いてあまり変態的に描かれることはない。直近の登場作である5期劇場版「日本爆裂!」では歴代随一とも言える鏡の妖術使いとして鬼太郎を苦戦させ、紆余曲折ありながらも最後にはヤトノカミとの決戦で鬼太郎に協力するというおいしい役どころだった(個人的にはパチスロ版「ブラック鬼太郎の野望」も覚えておきたいところだけど)。

 そんな歴代作での活躍から一転して、今回登場の鏡じじいは「初恋の人に似た少女を鏡の中から見つめ続けるコミュ障っぽいじじい」という、ある意味では原作以上に変態度合いの増した妖怪となってしまった。原作のキャラ設定を現代的に翻案したと考えればさほど違和感がないあたりがなんともはやというところなのだけども。
 勿論ただの変態と言うだけではなく、気に入ってしまったまなを見つめ続けるうち、まなが別の凶悪妖怪であるがしゃどくろに狙われていることに気づき、まなを助けるために奔走するという好漢の一面も持っているのだが、前述の性格や行為によるキモさが彼の良い面を完全に打ち消してしまっているのは、笑っていいのかどうなのか。
 今話は前半は謎の妖怪にまなの友人が襲われたりまな自身がつけ狙われたりと言った恐怖描写、後半が鬼太郎たちの妖怪退治描写とかなり明確に分かれており、オーソドックスな妖怪退治ものに終始した作りとなっている。捻ったストーリー構成や社会風刺の利いていた6、7話あたりと比べると物足りなさを感じてしまう向きもあるかもしれないが、今話はあくまでまなを含むレギュラー陣によるキャラクター主体の物語であって、どちらが優れているかと言った甲乙つけられる類の話ではないので、鬼太郎たちの活躍に素直に見入るべきだろう。5期版を想起させるねこ娘と黒猫との会話シーンや、6話と同一個体かは不明なもののチラッとすねこすりが再登場したりといったファンサービス的描写もその一環と言える。
 …まあ人によってはそれこそ怯えるまなや初登場(の割に出番は少なかったが)のまなママさんに見入るのだろうが、それもまた一つの視聴の仕方ではある。その意味では公式の推し方もやはり正しいのだ。
 ただ今回も6期ならではの捻った演出が施されており、物語上の単調さを回避しているのはさすがというところだろう。前半のまなが不可思議な何かに追い詰められていく時、視聴者としてはサブタイにもなっているのだから当然鏡じじいが何かをしているのだろうと思うのだが、一度視聴した上で改めて見返してみるとこの場面の視点は所謂「神の視点」としてすべてを俯瞰しているのではなく、まなに対する外的焦点化として演出されていることがわかる。
 だからこっちもそのブラフに簡単に引っかかってしまうわけだが、6話もだがそのブラフのかけ方が今作は実に巧妙で、特に今期は2018年現在の作品である以上、鏡じじいと言う妖怪が原作ではどんなキャラでアニメ版でもどんな扱いだったかと言ったことは視聴者もすぐに調べられるわけで、その上で美少女であるまなと絡むとなればまあ鏡じじいが何かをやらかすのだろうと思い込んで見始める視聴者も少なくないと思われ、そんな視聴者の思考をも逆手に取ったかなりグレードの高い演出が本作でほぼ毎回成されていることにはもっと注目すべきだろう。

 前述の通りまなを襲おうとしていた妖怪は鏡じじいではなくがしゃどくろであり、鏡じじいはがしゃどくろからまなを守ろうとして鏡の世界に連れ込んだのだった。がしゃどくろと言えばアニメでは3期以降毎回ゲストの敵妖怪として何らかの形で登場してきているが、今回は第3期劇場版4作目や第4期のように人語も話さず、自分の封印を解いた人間をひたすら襲い来る意思疎通ができなさそうな怪物然としたスタイルで攻めてくる。
 実は前半でまなを襲いまなが怯えていたのもがしゃどくろに対してだったのであるが、見せ方としては前述のとおり外的焦点化視点の演出となっていたため視聴者としては気づくことなく、終盤になって初めてわかる構成になっている。
 目からレーザー状の光線を放つという今期のがしゃどくろはアクション重視の3期っぽい改変であるが、今回のバトルフィールドは鏡の世界という異世界だけに、少々派手なアクションを繰り広げても人間の世界には影響が出ないということで演出する側も羽目を外してみたのかもしれない。
 まなを光線で狙ってきたその瞬間を逆手にとって鏡で光線をはね返す鏡じじいもまなを救うカッコよさと、あくまで眼中にあるのはまなだけでピンチに陥っている鬼太郎たちには目もくれないというキモさが両立していて楽しいし、まなも助けに現れた鬼太郎にではなくねこ娘に抱きついたりと、これまでの話で培ってきたキャラクター性がきちんと生かされている丁寧な作りになっている。
 そして事件は解決しつつも結局女好きのキモい奴ということで終わった鏡じじいを前に、「ああはなってくれるなよ」と鬼太郎に伝える目玉親父、とオチもこれまでにないコメディタッチでつけられ、図らずも原作の持つとぼけた味わいを再現した形で幕となった。
 これもまた、と言うよりこういうとぼけた味わいこそがゲゲゲの鬼太郎という作品の真骨頂であり、前話のように強烈な印象を見る者に残す挿話ではないかもしれないが、本作を見る上で忘れてはならない「鬼太郎らしさ」の一つであることは疑いない。

 次回は河童の三平…ではなく普通の河童の話。河童がメインの話は原作にもアニメ版にもさほどなく、ほぼアニメオリジナルの話になると思われるが、ストレートに現代的なサブタイトルは何を意味しているのであろうか。
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2018年05月22日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)7話「幽霊電車」感想

 さて幽霊電車である。原作は「ゆうれい電車」としてマガジン版初期に掲載、歴代アニメ作品でも1期の直接の続編である2期を例外として、それ以外の4作ですべてアニメ化されており(1期「ゆうれい電車」、3期「地獄行!幽霊電車!」、4期「霊園行・幽霊電車!」、5期「ゆうれい電車 あの世行き」)、原作ファンにもアニメファンにも高い認知度を誇る人気作と考えていいだろう。
 身勝手な人間が鬼太郎の霊力によって様々な怪現象に出会い、最終的に因果応報な目に合うというのが原作漫画の骨子であるが、今日的な視点で見るとさすがに恐怖描写が弱いと言わざるを得ない部分もいくつか見られるためか、3期以降は何かしらの味付けを施した上でアニメ化するというのが定番となっており、本作第6期鬼太郎もそれに倣う形でのアニメ化が試みられている。
 本作におけるアニメ化時の味付けは一見すればすぐわかるとおり「恐怖」である。何をいまさら元からそうじゃんというツッコミもあるかもしれないが、前述のとおり原作の「ゆうれい電車」は確かに人間たちを脅かす話ではあるものの、今の目で見るとホラーテイストと言うよりはお化け屋敷的な虚仮威かしとも取れ、脅かす鬼太郎も「この鬼太郎さまが霊力でおどかしてやったのさ」、脅かされた人間も「ひゃあ、た、助けてえ」と叫んで逃げていくというノリで、あまり現代的な怖さは感じられない内容になってしまっている。それが時代のせいなのかそれとも掲載誌の関係で露骨な恐怖描写を抑えたのかは今となっては定かでないが。
 (どちらかと言えばその虚仮威かしの後に来る「因果応報」が主であったり、そもそも「不思議な電車に乗っているうちに異界へと到達してしまう」というシチュエーションを恐怖の中心に据えている面も窺えたりするのだけども。)

 その今となっては物足りないと思われる「恐怖」の部分に現代的な解釈や設定を付加してブラッシュアップしてみせたのが今作における幽霊電車なのだが、方法論自体は今回で初めてというわけではなく、5期版にて初めて導入されたものである。もっと言えば「怖い代物が出てきてワッと脅かす」直接的な恐怖ではなく、ストーリーや設定、伏線を積み上げそれらの関係性を終盤明らかにすることで恐怖を感じさせる、怪談噺のような文学的趣向が用いられているのも5期版からになっている。
 原作のストレートなアニメ化だけでは容易に怖がらせにくくなっている現実を踏まえた上でも、原作の味を残しつつ怖い作品に仕上げようとしている制作陣の苦心が察せられるが、それだけに今話も一筋縄ではいかない捻りの利いた物語展開で見る者の恐怖感を実にうまく煽っていく。
 原作には全くない人死に描写があったり、死人が自分の死に気づいていないというのも実は5期と同様なのだが、今話ではさらに捻って幽霊電車に乗ってしまう会社社長と部下の2人組のうち、部下だけでなく格上の社長の方も実は既に死んでおり(つまり2人とも既に死んでいる)、幽霊電車に直接かかわったキャラクターが全員「人間でない」存在だったということが、物語が進むにつれて明らかになる。
 冒頭で登場した女子高生が目撃した電車への飛び込み事故の当事者が社長だったわけだが、その事故もアバンの段階では当事者が社長であることが判明しておらず女子高生が何を目撃したのかも視聴者にはわからない、と言うよりわからせていない。その上で今話のストーリー上の重要な要素を段階的に見せていきつつ数々の恐怖描写で2人組(実際は1人だけなのだが)を驚かせていき、最終的に電車事故を伏線としてきちんと回収するという今期ならではの特徴的なストーリーテリングは相変わらず秀逸だ。電車を飛び下りる原作準拠の描写を混ぜながらもそこで終わらせない捻り具合も面白い。
 脅かされる側の社長も最初は原作準拠の居丈高な男という人物像かと思いきや、所謂「ブラック企業」の社長でこれまでに幾人もの社員を苦しめ破滅させてきたという、たくさんの恨みを買ってきた人間だった。冒頭のアバンで電車に轢かれ死んでしまったのも単なる事故ではなく、その積もり積もった恨みの念によって突き落とされ命を失ったのである。しかし当人は自分が死んだという事実を受け入れずこの世に留まり続けたため、部下を始めとするたくさんの死人が幽霊電車という形を使って改めて行動を起こしたのだった。鬼太郎はその手助けをしたに過ぎなかったのである。つまり原作と違い今話の2人組は鬼太郎と直接は関係なく、その意味では今話の鬼太郎は前話と同様に傍観者的立場に徹していたとも言える。
 すべてを思い出し地獄へ引きずり込まれるだけとなった社長はそれでも抵抗し助けてくれと懇願するが、鬼太郎は「(社長自身に)そう言ってきた人たちを今までに助けたことがあるか」と突き放す。ここで序盤に鬼太郎も触れた「因果応報」が繋がってくるわけだが、この感想の最初でも触れたとおり、原作もそもそもは因果応報の話である。尤も原作は鬼太郎が2人組に付けられたものと同じ大きさのたんこぶをつけ返すという程度であったが、単に恐怖体験をしたという話ではなくその果てに自分のしたことがそのまま自分に返ってきてしまうという点こそが「ゆうれい電車」という話の肝なのだ(余談だが、だからかつて水木先生はその因果応報のインパクトが薄れる結果となった3期版の構成に不満を持ったのだろう)。
 原作を巧くブラッシュアップした演出であるが、ここからさらに今話は独自の味付けを施す。社長はなおも食い下がり鬼太郎に向けて「それでも人間か!」と叫ぶが、鬼太郎は事もなげに言い返す。「僕は人間じゃありません」と。勿論鬼太郎は人間ではないのだから当然と言えば当然の返事なのだが、この応答に込められているものはそれだけではないようにも感じられる。
 鬼太郎は「妖怪」ではなく「人間ではない」と言った。では社長は?確かに今は死人だが死ぬ前は果たして人間だったのか。助けを求める社長の声を無視した鬼太郎の行為を非人間的行為と言うなら、それは社長自身にもあてはまることではないか。多くの人を自死に追いやるような非人道的な人間は本当に「人間」と言えるのか。彼は高圧的で独善的でそれでいて自分大事という、ある意味では人間らしい人間だった。だが同時に自分を殺してしまうほどの恨みの想念を向けられていた時点で彼は「人間ではない」ものに成り下がっていたのではないか。そこには皮肉と言う言葉で言い切れないほどの深い闇が横たわっているのではないだろうか。
 そしてそれは最後、社長が死ぬ瞬間を目撃してしまった冒頭の女子高生にものしかかる。鬼太郎は最後に人間が人間を殺し、その恨みが人間を殺す、堂々巡りのような救いのない負の循環と言うべきものを繰り返す人間を「妖怪より恐ろしい」と言い切る。
 社長も女子高生もまぎれもなく人間でありそれ以外のものではない。だから鬼太郎も今回の事件を人間が人間の社会・集団の中で起こした事件と断言した。しかし同時にその負の循環を続ける存在を鬼太郎はどんな風に見やっていたのか。少なくともこれまでの話の中で出会ったまなや裕太のような人間と同類とは思っていなかったろう。
 今話は妖怪がほぼ関与しない、どこまでも人間が生み出した救いのない話だという感想が大勢だろうし、スタッフもそういう意図を多分に込めて作ったのだろうが、今話に登場した「人間」たちはそんな制作陣の意図を超えた異質な存在になったのではないかと思えるし、そういう力を第6期ゲゲゲの鬼太郎という作品が原作どおりに内包しているという事実が嬉しい。それをはっきり認知することができるという意味でも今回の話は今作の中で特殊な存在となり得るのかもしれない。

 あとすごい個人的には「骨壺」が原作どおり「ほねつぼ」読みになっていたのが嬉しかった。5期版では「こつつぼ」になっており恐らくこっちの方が読みとしては正しいのだろうが、やっぱりあそこはほねつぼじゃないとねえ。ねこ娘の声出しはちょっと無理してる感ありつつ可愛らしくもあったけど。

 で、次回は鏡じじい。原作設定からして根っからのエッチな爺さんである鏡じじいが久々登場のまなとどんな風に絡むのか。
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2018年05月19日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)6話「厄運のすねこすり」感想

 …やられた。今話に関しては色々考えてみても結局「やられた」という感想に集約されるし、自分としてもこの言葉が一番今話にふさわしい感想だと思う。
 話の内容については後で触れるとして、自分的に一番やられたと思ったのは前半部分の構成なのである。
 今作の構成として特徴的なサブタイトル前のアバン(と言っていいのか?)部分、今作ではあの部分にて2、4、5話と3つの挿話において本編中盤の恐怖シーンをほぼそのまま、言わば先取りの形で最初に見せてしまうことで視聴者の興味を引く構成にしていた。それはそれで一つの手段だからいいのだが何度もやられてしまうと見ているこっちの興味も削がれてしまい、むしろさっさと本編に入れよといった気持ちさえ浮かんでしまうものである。実際前話を見終えた時点では僕もそう感じていたのだが、今話はそうした視聴者感情を逆手に取った演出が成されていた。
 今話の粗筋をまったく知らない状態でアバンの映像だけ見れば小さいすねこすりが巨大化して人間を襲い、人間が絶命した恐怖シーンだと思ってしまうだろう。だがそうではなかった。この場面は妖怪の脅威を見せる場面でもなければ恐怖シーンでもないのである。
 さっさとネタばらしすると、今回登場する妖怪すねこすりは2期「怪自動車」に登場した際のように人間に害をなす妖怪ではなく、むしろ人間が好きで人間と共に生きることを望んでいる平和的な妖怪である。原典の水木絵以上に猫っぽいデザインにリファインされていることもあり、今話のゲストキャラである老女・マサエに猫の「シロ」としてじゃれている様子は本物の猫との触れ合いのように見えて微笑ましい。
 しかしすねこすりは当人の意志に反して人間とは相容れない宿命を背負っていた。すねこすりは人間と触れ合うだけで人間の気力を「勝手に」吸い取ってしまう性質があり、それが1人の人間に集中し大量に気力を吸い取ってしまった場合、その人間は最後には死んでしまうのである。しかもすねこすりは自分にそんな能力があることを鬼太郎たちに教えられるまで知らず、そもそも自分が妖怪であるということさえも気づいていなかったのだ。
 すねこすりにとっては衝撃でしかないこの事実を知り彼は回想する。以前に仲良くしていた内村という男が衰弱し、最後には自分の目の前でミイラのような姿に変わり果てて死んでしまったことを。悲惨な最期を目の当たりにして感情が高ぶったすねこすりは巨大化した姿で絶叫する。
 アバンで挿入されたシーンとはつまりこの場面だったのだが、ここまで見て初めて視聴者はハッと気づかされることになる。あのアバンで描かれていたシーンとは今までのような(見ている側にとっては)ありきたりの恐怖シーンではなく、大切な人を失ったすねこすりが悲しみ、そして自らの能力に絶望する場面だったのである。
 この構成は本当に見事という他ない。今話だけを独立してみてみればまあちょっと捻った構成というだけ(それでも巧みであるが)になるのだが、5話までの積み重ねを経て視聴者の胸中に生じたであろう「思い込み」をも逆手にとって、それを演出の一環として組み込んでしまったわけだ。
 1話完結が主体の鬼太郎という作品においてここまでトリッキーな演出が施されるとはまったく想定していなかったので、これは「やられた」というしかないのである。

 と、演出上の技巧についての「やられた」はここまで書いたとおりだが、ストーリーについても十分「やられた」し、その理由については既にたくさんのブログやらSNSやらで触れられているのと同様である。
 すねこすりはマサエを母ちゃんと呼び慕っていた。恐らくは件の男性やこれまで共に過ごしてきたであろう人間も同様に自分の家族として大事に思ってきたであろうことは想像に難くない。その大切な家族の命を自分自身が奪ってしまっていたというあまりに残酷な現実を知ったすねこすりの胸中は如何ばかりであったろうか。
 一度はマサエの元に戻ったすねこすりや、いたたまれず飛び出したすねこすりを探すため弱りながらも森の中までやってきたマサエの様子からは、2人が本当に互いを大切に思いやっていることが窺えるが、それでも2人が共にいる限りマサエは死に近づいていくという「現実」は変わらない。
 偶然現れた熊に襲われそうになったマサエを助けるため、すねこすりは彼女の眼前で妖怪としての正体と言うべき巨大な姿を晒して奮戦、傷を負いながらも熊を追い払う。首に付けられた首輪と鈴から、目の前の巨大な生き物がすねこすり=シロだと気づくマサエだったが、すねこすりは近寄ろうとするマサエを振り切るように、自分はマサエから気力を「わざと」吸い取っていた悪妖怪なのだと宣言する。
 無論これはすねこすりが土壇場で考えついたマサエを遠ざけるための嘘なのだが、マサエはそれでもいいと告げる。すねこすりにどんな理由があろうとも「シロ」と一緒にいられれば幸せなのだからと。
 2人の確かな絆を感じられるこのセリフだが、今のすねこすりにとっては最も聞きたくない言葉でもあったろう。彼女が自分と共にいようとすればするほど彼女は衰弱し死んでしまう、それはすねこすりが一番望まない結果だからだ。ただの猫ではなく妖怪だという真実を知ってもなお自分を大切に想ってくれるマサエの心情はすねこすりに取っては本当に嬉しいものであったろうが、だからこそ彼はその自分に向けられた温情を否定しなければならないのである。誰も悪くない、互いが互いを思いやっているだけなのにそうすればするほど互いを拒絶し離れなければならない、これ以上の皮肉はないだろう。
 すねこすりは結局そのワルぶりを真実と受け止めたマサエの息子・翔がマサエを守ろうと振り回した傘に当たり、やられた振りをして去っていく。すねこすりは当初マサエに反抗的な態度を取る翔に明確な敵意を持っており追い出そうとしていた節があるのだが、そんな自分にとっての邪魔者はまぎれもなくマサエの実の子供であり、母を助けようと非力ながらも力を振るうことができる。対して自分の方は自分の力で「母」を苦しませ死に追いやってしまう、所詮は疑似的な家族関係。
 1人森の中を歩きながらマサエと過ごした日々を思い返し慟哭するその胸中には単純な寂しさや悲しさだけでなく、妖怪である自分にはどうあってももう何もできないという無力感もあったのかもしれない。

 そしてそんな2人に対し鬼太郎は物の見事に無力だった。元々すねこすりは人間に対し明確な敵意を持っていないのだから戦う理由はないのだが、それは鬼太郎の能力を以てしても出来ることはそこまでだということでもあり、鬼太郎は離れていく2人に対し何もできなかったのである。
 結果的に第三者・傍観者としての立場に甘んじてしまった鬼太郎の姿には、鬼太郎以外の水木原作に材を取った2期の諸作品と重なるものがあるが、今話は悲しい結末を迎えてしまったマサエとすねこすりに対し鬼太郎自身が言葉で明確な感想を漏らすことがないため、傍観者としての立場がより強調されている。
 何より今作の鬼太郎は良い関係性を保つために妖怪と人間は必要以上に近い存在にならない方がいいというスタンスを取っている。であればこれは鬼太郎にとってはまさに起きるべくして起きた悲劇と言えなくもないのだが、本人がそう簡単に割り切れていないであろうことは最後の鬼太郎の苦い表情を見れば一目瞭然というところだろう。
 特に上述の感想では悲劇と書いてはいるが実際に今回の事件は「悲劇」なのか。確かに2人は離れ離れになってしまったし相応に辛い気持を味わってはいるが、互いに対する想いが消えてしまったわけではなくマサエに至っては最後のすねこすりの嘘も理解した上で礼の言葉を口にしているわけで、逆に今話を悲劇と括るのは簡単だが実際登場人物たちの胸中を推し量るとこれは単純な悲しみの物語なのか、苦い終局の物語なのか、判断がつきかねる部分がある。ラストの鬼太郎はまさにそんな想いだったのではないだろうか。

 次回は打って変わって予告の時点で怪奇色バリバリの「幽霊電車」。サブタイトルに余計な言葉をつけていないところにもスタッフの力の入れようが窺えるが、6期版「ゆうれい電車」はどのように仕上がるのだろうか。
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2018年05月18日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)5話「電気妖怪の災厄」感想

 これまでの6期鬼太郎はブログにも書いたとおり人間であるまなや裕太が鬼太郎との出会いやその過程で巻き込まれた事件を通して、妖怪という「見えないもの」「信じていないもの」を信じるようになり歩み寄っていく過程が描かれてきた。
 その作りが非常に丁寧であるということは今までの感想に書いたとおりであるがその反面、基本的に1話完結である本作の基本的なストーリー骨子である「妖怪退治」の要素が弱くなってしまっていたのも事実である。勿論単純な妖怪退治ものに留まらない様々な副次的要素を内包しているストーリーや描写がゲゲゲの鬼太郎という作品の魅力であるというのは僕も十分承知しているが、それでもやはり本作におけるストーリー編成の中心に位置している要素が「妖怪退治」であるという点も忘れてはいけないだろう。
 そういう意味でもこの4話までの構成は鬼太郎作品としては極めて異例のことだった。大げさに言えば記念すべき初回に妖怪退治話を持ってこず「妖怪」という存在そのものを視聴者に認知させることを第一とした、1期の1話に匹敵する大胆な構成と言えるかもしれない。

 さてそんな見せるべき最優先事項を見せきって作劇上の余裕ができたのか、今話は6期鬼太郎としては初のオーソドックスな妖怪退治ものとなっている。敵は電気妖怪かみなり。その名の通り電気を操るだけでなく巨大な浮遊岩をも操って科学実験を行う人間たちを襲い、鬼太郎も子泣きじじいとの連携で倒したなかなかの強敵だ。
 今話は原作にはいなかったねずみ男を登場させてねずみ男の悪だくみを発端とすることで、「ねずみ男が何らかの形で妖怪に出会う」→「妖怪の能力を使って金もうけを企む」という本作における妖怪退治話のパターンを明示している。2話も発端としては同様だったのだが先に書いたとおり2話は妖怪退治要素を後方に引っ込めて作られた話なので、今話で改めて鬼太郎世界における妖怪退治話のフォーマットを提示しようと言うことだろうか。
 その一方で原作にも登場した「人間」をストレートにかみなりに絡めているのが面白い。科学を探究する科学者たちが襲われるのみだった原作に対し、今話で登場する人間はかみなりをも利用してのし上がっていくヤクザと一見すれば真逆の変更に見えるが、借金の取り立てから裏金による根回しで市長にまで出世したり、自分の犯罪を暴こうとする女性ジャーナリストをかみなりの力を借りて殺してしまったりと思いっきり自らの欲望に忠実に行動しているところは、科学の「探究」が行動理念であった原作の科学者たちと重なる点がないとも言えない。どちらも自己の欲求に忠実に行動した結果としてかみなりの災厄を招いてしまうところなどは等価と考えていいだろう。
 かみなりの方はそういった人間の勝手さにただ怒り暴れるだけの存在だった原作に比して、ねずみ男たちに持ち上げられてすっかりのぼせあがり、気に入った美人を手元に置こうとするなど俗な面が新たに付与されており、それも強引な手段によってであったり最終的には恐怖で人間たちからの尊敬を集める、畏怖されるような存在に君臨しようとするあたりからは原作を超える横暴さが感じられる。結局は人間と妖怪、そしてねずみ男の誰もが自分の身勝手な欲望のままに動き、利用していたつもりが圧倒的な暴力で立場を覆させられるといった関係には、原作とは似て非なる人間と妖怪の歪な関係性を集約させていると言える。
 かみなりを利用して作りだした発電所の電気を平時では称賛し、かみなりが暴れ出すと途端に否定的になるモブキャラの態度も、根底にあるものは同じなのだろう(キャラデザがなぜサザエさん風味だったのかはよくわからないが。笑)。

 さてそんな悪党たちに対する鬼太郎の態度は、ある意味では非常に鬼太郎らしいものであった。序盤に登場した際は原作どおりに子泣きじじいと将棋を指していたりして原作ファンを喜ばせてくれたが、今話の鬼太郎は事件に対して動き出すのはかなり遅い。ねずみ男は早々にかみなりを利用して電力会社や発電所を設立し、そこで稼いだ金を非合法手段に用いてヤクザを強引に市長にまでのし上げるわけだが、その時点では鬼太郎はねずみ男が具体的にどんな悪事をしているかまったく知らず、ねずみ男がまた何かやらかしていないかと訝しむだけだ。
 ねずみ男が絡んでいることを鬼太郎は知らないし特に誰も伝えていないのだから当然と言えば当然なのだが、この時点でねずみ男は確かに鬼太郎が心配するところの「悪さ」を働いているのである。にもかかわらず鬼太郎は気にかけるだけで積極的には動かず、ジャーナリストがかみなりの仕業で感電死したというニュースを知ってからようやく動き出すこととなる。
 これもまた新聞に載るほどのニュースであり鬼太郎も容易に知ることは出来るのだから、そこで初めて動き出すのも当然の話ではある。ここで気に留めるべきは鬼太郎の行動ではなく鬼太郎が行動する理由となる、劇中における動機的原因の設定である。確かにねずみ男たちがやっていたこともヤクザがかみなりの力で女性を殺害したことも、どちらも等しく悪いことであるが、鬼太郎はその内後者の事件を動機として動き出す。
 前者の行為も悪事であることに変わりはないのだが、逆に言えばもしこの段階で何かしら・誰かしらの被害が出ていればその時点で鬼太郎も動き出したろう。しかしここで行われたのは帳簿の記載変更であったり金銭の譲渡に過ぎないのである(それぞれ「改竄」だったり「裏金」だったりするわけだが)。
 この時点で鬼太郎が積極的に動かないのは言うまでもなく、鬼太郎にはそこまでする義理がないからである。原作にも「そんなに人類のために奉仕ばかりしていたらしまいにはベトナム和平にまで手を出さなきゃならなくなってくるよ」という鬼太郎本人のセリフがあるように、強引に分類するならば「正義の味方」的存在である鬼太郎も常に人間のために無償で働くといった性質の存在ではない。原作でも本作でも鬼太郎自身が何度も触れているが鬼太郎の目的は、あくまで鬼太郎が考える人間と妖怪の程良い距離感を保てるようにするというのが第一義であり、人間に尽くすことを目的としてはいないのだ。
 だから悪人が書類をいじろうが金をばらまこうがその辺は全く頓着しない。彼が気にかけるのはそれらの行為によって誰かの生死にかかわったり生活圏が脅かされるような具体的な(それも巨視的に見れば極めて些細な一個人または複数人の)被害が出た時なのである。
 鬼太郎は原作者である水木先生も認めるように正義側に立っているキャラクターであるが、同時に単純な正義の味方ではない微妙なスタンスを維持し続けている存在でもある。それがゲゲゲの鬼太郎というキャラクターの代えがたい魅力であることは言うまでもないし、それを妖怪退治というオーソドックスな話の中で改めて視聴者に見せつけたのは構成の妙であろう。と言うよりオーソドックスでありこれからも何度も出てくるであろう物語構成だからこそ、ここではっきりと描写しておく必要があったとも言える。
 そんな構成の影響で鬼太郎の出番は後半に集中することになってしまっているが、かみなりとの対決場面はそれを補って余りある迫力の映像に仕上がっている。かみなりの暴れっぷりも一つの街を滅ぼしかねない破壊を引き起こしたり機動隊を壊滅状態に追い込んだりとかなり派手なものになっており、鬼太郎を倒すために放った雷撃が唐突に龍の姿を形作って鬼太郎を襲うあたりなどはちょっとやり過ぎではと思わないでもないが、アニメの鬼太郎は子供向けのアクションヒーロー的側面を担っていることも確かなので、むしろアクションはやりすぎと思われるくらいにした方が良いのかもしれない。今話の場合は終盤までずっとかみなり側の描写ばかりだったので、見ている側のフラストレーションを発散させる意味でもド派手なアクションシーンは必要だったろう。
 対する鬼太郎も原作どおり子泣きじじいの援護を得て、少々強引な鬼太郎の電磁石化でかみなりの能力を一部無効化した最後の最後、大体の視聴者も「お前あれ使えるんだから使えばいいじゃん」と思っていた(に違いない)体内電気を、かみなりの電気を吸収した上で大放出、かみなりを葬り去ることに成功する。
 この体内電気を鬼太郎が繰り出すまでの間の取り方も実に絶妙だ。早すぎれば連発しても相手に効いていないと取られるし遅すぎればもっと早く使えばいいのにとのツッコミを受け、どっちにしてもストーリーに対する視聴側の没入度を阻害してしまいかねないところだが、今話では相手の武器を奪って能力を一部無効化するというシチュエーションを直前に配することでワンクッション置き、その上で相手の最後のあがきに対して待ってましたとばかりに体内電気を使用するという、見ている側のテンションの上昇度合いをきちんと見定めていたかのような見せ方は非常に素晴らしい。
 逆転のきっかけになった手段が人間の生み出した科学の産物というのも皮肉が利いていて実に巧みだ。

 さて次回は「厄運のすねこすり」。予告を見る限りでは2期「怪自動車」のように巨大な体への変身能力も持っているようだが、果たしてどのようなストーリーになるのだろうか。
posted by 銀河満月 at 15:14| Comment(0) | ゲゲゲの鬼太郎(第6期)感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月10日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)4話「不思議の森の禁忌」感想

 本作「第6期ゲゲゲの鬼太郎」は前話までの3つの話の中で、主人公である鬼太郎のパーソナリティや能力、ねずみ男やねこ娘たち仲間妖怪の紹介、今作の世界観、今作における妖怪と人間の関係性やスタンス、その上で妖怪の鬼太郎と人間のまなが「友人」という関係性を持つに至るまでの流れを丁寧に描いてきた。
 1話完結形式の物語でそのような言ってみれば「初期設定公開」を3話もかけて行うのは長すぎるのではないか、そこまでする必要があるかと思う向きもあるかもしれないが、それは逆に鬼太郎を今アニメ化するに当たって最初にやっておかなければならなかったことだった。
 前回のアニメ化作品である第5期鬼太郎の放送が終了してから約10年の間に「妖怪」というものについての社会の受け取り方や考え方が変わってきたことや、境港市を始めとする各自治体や企業の尽力による作品やキャラクターのさらなるパーマネント化、「水木しげる漫画大全集」の刊行による水木作品の世界観の浸透といった劇的な変化を迎えた後で、改めてゲゲゲの鬼太郎という作品をアニメにするにあたってどのようなアニメを目指すのか、過去5回もアニメになった作品を今またアニメ化して何を描くのかといった難しい命題に向き合い、導き出した今作なりの回答をはっきりと一番最初に明言しておく必要があったのである。
 言わばこの1話から3話までの流れは一般的な初期設定公開話であったのと同時に、今回の第6期制作陣の「我々は鬼太郎をこのように作る」という決意表明でもあったのだろう。ゲゲゲの鬼太郎という、言い方は悪いが手垢のついた作品を今改めて一からアニメ化するには、それくらいの覚悟を必要とすることでもあるということだ。

 それ故に3話までは見ているこちらが驚くほどに生真面目な、見方を変えれば少々堅苦しい内容になっていたわけだが、そんな序盤の話も一段落ついて今話は有名なゲゲゲの森を舞台にした少々の箸休め的挿話となった。
 ゲゲゲの森は言うまでもなく鬼太郎や仲間の妖怪たちが住んでいたり集まったりする場所として知られているが、その認知度の割に実は原作からしてゲゲゲの森の存在はさほど重視されていない。あくまで「鬼太郎たちが住んでいる場所」「日本のどこかにある場所」程度の扱いしか受けておらず、アニメ版でも森そのものがフィーチャーされたことはほぼなかったと言っていい(5期の妖怪横丁はあくまで横丁限定であり森そのものが描かれることはあまりなかった)。
 そんなゲゲゲの森は今作では2期や3期のような人間社会と地続きの森ではなく、妖怪と同じで人間の目には見えないもの、見えない場所に存在しているサブタイトル通りの「不思議の森」として描かれた。現実問題として2期あたりの時代ならともかく現代において都心から比較的近い場所に人間が入ることも困難なような森が存在しているというのはあまりリアリティがないし、鬼太郎たち妖怪の不可思議性を強調するという点においても、この設定付与は必要不可欠なものだったと言えるだろう(異界に存在している場所という点では5期も同様であるが)。
 そしてゲゲゲの森を描写するきっかけとなるのは1話にも登場したまなの友達の少年・裕太。1話では友人にからかわれてばかりの気弱なところが目立っていたが今話では始終明るくはしゃいでおり1話とのギャップに驚かされるが、それだけ妖怪のことが好きなのだろうということが窺えて微笑ましい。鬼太郎をはじめ様々な妖怪のことは祖母から聞いたという設定は、水木ファンであれば水木先生とご存知「のんのんばあ」の関係が想起されてニヤリとさせられるところである。
 魂がまだ安定していないという子供だったことと、妖怪に対する純粋な好意や憧れのような「見えないものを信じる」感覚とが偶発的に働いたのか、裕太はゲゲゲの森に迷い込んでしまう。当初追い返そうとする鬼太郎も邪気のない子供には抗いがたかったようで、結局砂かけばばあや目玉親父の言いつけに従い、裕太にゲゲゲの森を案内することとなる。
 このあたりの描写は極端にコメディタッチとして描かれたわけではないものの、今までは冷静な態度しか見せなかった鬼太郎の様々な表情が見られ、妖怪世界における鬼太郎の言わば素の表情が見られるという点でも面白い。

 そして裕太たちの目を通して描かれる今作のゲゲゲの森は万年樹や妖怪温泉といったオリジナル要素を含みつつ、全体としては我々視聴者がパッと思いつく「人間の手が入っていない天然そのままの森閑とした森」を見事に表現している。かつて第4期鬼太郎を制作する際に水木先生は「宮崎(駿)アニメのように作ってほしい」とスタッフに注文したそうだが、今回のゲゲゲの森は作画の流麗さもあってまさにその宮崎アニメに出てきても何ら遜色がない「森」「自然」として完成している。
 上にも書いたとおり今までゲゲゲの森と言えばせいぜい鬼太郎や仲間妖怪が住んでいるところという程度の個性?しかなかった(掘り返せば家獣を食べた妖怪ヅタの生息地とかそこそこ追加設定はあるけど)わけだが、今回ここまで独自の設定を加味してゲゲゲの森を念入りに描写しているのには、つまりは異界の人である鬼太郎たちと同様に彼らが住む場所もまた異界、人間の世界とは異質な場所であるということを強調しているのだろう。
 だがそこは異界であっても何かのきっかけさえあれば出入りすることは出来るし繋がりを持てる場所でもある。裕太が入れた事実がそうだし以前から存在していたであろう妖怪ポストもそうだろう。森の中で出会う油すましや水妖怪といった妖怪たちが人間の裕太に対し、鬼太郎ほど突き放した態度を取っておらず、他ならぬ鬼太郎自身が「人間が好きな妖怪もいれば嫌いな妖怪もいる」と話しているところについても、人間と妖怪の世界とが明確に断絶しているわけではないということを暗に示しているように見える(水妖怪は裕太を食おうとしているが)。
 そう考えると前話で既に鬼太郎たちと友達関係という明確な繋がりを持ったまながゲゲゲの森に来なかった、(スタッフ的には)来させなかった理由もわかる。まなはゲゲゲの森という広大な異界に迷い込んで強引に繋がってしまうことなく、悩みながらも自分自身で行動し結果として繋がりを得ることができたのだから、作劇上の話としてはまながここでさらにゲゲゲの森に来る必要はなかったのである。明言はされていないがまなもいずれそう遠くないうちにゲゲゲの森に来ることになる、それだけの関係性を既に築いているのだから。
 同時にそれは純粋にただ妖怪への好奇心だけで動く、悪い言い方をすれば見世物的なものとして妖怪を見やっている「子供」の裕太と、鬼太郎たちを思いやって彼らのことを極力話さないように考えていた「少し大人」のまなとの対比になっている。

 だから仮にまながゲゲゲの森に来ていたとすれば、裕太のように山じじいの実をむしり取ることもなかったろうし、それ故の騒動も起こらなかったに違いない。無論裕太にも悪気は全くなかったろうが、好奇心や純真さがそのまま相手に受け入れられるわけではないというのはそれこそ3話序盤での鬼太郎とまなのやり取りで提示されたことでもあるし、それ「だけ」で互いに異質な存在と容易く繋がれるほど容易なものではなかったというわけだ。
 山じじい自体は原作漫画にメインで登場したことはなく、アニメ版でも4期113話「鬼太郎対三匹の刺客!」に登場したのみであり、しかもその話ではまったくしゃべらず何もせずにボーっとしていたり蝶を追いかけたりするだけという、今なら癒し担当と言うべきポジションであっただけに、今回の水木絵を比較的忠実に再現した恐ろしげな顔や、実を盗んだ裕太だけでなく彼をかばう鬼太郎やねこ娘、近くにいただけというねずみ男や子泣きじじいまでも容赦なく襲い来るという描写は、4期を知っている人にも知らない人にも底知れない恐怖を味わわせたことだろう。
 山じじいが動き出すと同時にこれまでただ不思議だけども綺麗に見えていたゲゲゲの森が、裕太に対して牙を向くかのような恐怖の対象に変貌した、ように裕太には見えるという場面の転換も巧かった。
 結局騒動自体は裕太が実を返すことで終息し、山じじいも未熟な子供がやったこととして戒めの印を残しながらも裕太を許す。異質なもの同士が理解し歩み寄ることの難しさをこれまでの話に続けて描いたようにも見える一方で、それでもなお妖怪を恐れず妖怪を知りたいと好奇心のままに話す裕太の姿からは、まなとは異なる「見えないもの」との触れあい方の可能性を示しているようにも感じられる。

 今話もまた小ネタが多くその辺はネット上で既にさんざん触れられている通りだが、いくつか触れておくと油すまし役の龍田直樹氏は過去作では3期から出演しており4期では一反もめんとぬりかべ、5期では子泣きじじいとぬりかべとそれぞれ兼役でレギュラーを演じている。山じじい役の佐藤正治氏も同様に3期からの出演経験があり、さらに言えば「墓場鬼太郎」にもゲストで参加している。オールドファンには5期のがしゃどくろ役が比較的記憶に新しいところだろうか。
 もう一体の水妖怪は鬼太郎の原作漫画に出たことはないが、「水妖怪」と言う名前の妖怪は1966年制作の実写版悪魔くんの第8話に登場しており、デザインもそこそこ似通ったものとなっている。
 他に砂かけばばあが口にした「寅吉」と言う名前の人間は、江戸時代の国学者・平田篤胤が遺した「仙境異聞」に記載されている天狗に攫われたという子供の名前と同じであり、水木先生も過去に漫画化したこともあるこの書物を元ネタにしたのではとも言われている。
 いずれにせよ水木先生が遺したゲゲゲの鬼太郎と言う作品、引いては数多くの妖怪画を6期鬼太郎の作品世界で咀嚼し再構築し、しかもそれが今のところ問題なく成功しているというのは特筆すべきことだろう。

 さて次回は「電気妖怪の災厄」。原作でも鬼太郎はかなり追い込まれた末に辛くも勝利したという感じであり、実は5期には登場していないのでアニメには実に4期32話以来、22年ぶりの復活となるわけだが、どんな活躍?を見せてくれるのであろうか。
posted by 銀河満月 at 02:02| Comment(0) | ゲゲゲの鬼太郎(第6期)感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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