2018年04月22日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)3話「たんたん坊の妖怪城」感想

 本編の感想を書く前に今までの感想で書き漏れてしまっていたレギュラーキャラの声優陣についてちょっと触れていこうと思う。
 目玉親父役の野沢さんは1話感想で書いたので飛ばすとして、まずは鬼太郎役の沢城みゆき氏。歴代のアニメ鬼太郎には一度も出たことのない声優が鬼太郎役を務めると言う点では3期以降の主役声優陣と同じ流れだが、演じ方としては5期鬼太郎がクールにすましている状態をさらにクールにした、という感じだろうか(もちろんご本人はそういう意識で演じてはいないだろうが)。
 1話2話では基本的に人間、つまり妖怪である自分にとっては異端の側にいるまなとばかり話をしていた関係で、クールでぶっきらぼうな演技ばかりになっていたが、今話で見せる父親との穏やかなやり取りや敵を見据えてはっきりと敵愾心を露わにした時の語気の鋭さなどからは内面の熱さも十分に窺え、歴代とはまた似て非なる鬼太郎像の構築には成功していると言えるだろう。
 (余談だがエンディングのキャスト表記、今回は鬼太郎が「ゲゲゲの鬼太郎」と二つ名付きで表記されている。1期からずっと「鬼太郎」表記だっただけにこれだけでも新鮮に思えるのはオールドファンの特権かもしれない。)
 他の仲間妖怪は2話のみの登場なのでまだ何とも言えないというところはあるが、そこは演じているのがほぼすべてベテラン陣。演技そのものは非常に安定していると言っていい。
 古川登志夫氏演じるねずみ男はいかにも小悪党という軽めの演技がさすがという感じ。白いバスローブ姿を想像してもそれが微塵も似合っているように見えない、そう思わせない雰囲気を出しているのはさすがだった。砂かけばばあを演じる田中真弓氏の老婆役と言ったらドラゴンボールシリーズの占いババを思い出すが、そちらよりもテンションは勿論声のトーンも抑え気味にして落ち着いた雰囲気を出しているのは、親父に次ぐ鬼太郎ファミリーの知恵袋としての存在感を出すには十分だろう。
 島田敏氏演じる子泣きじじいやぬりかべはまだそれほど喋っていないので、6期の彼ららしさを確認するのは今話以降になるだろうか。逆に短い時間で存在感を発揮しているのは山口勝平氏演じる一反木綿で、砂かけばばあと合わせてどのへんまで台本セリフでどこからアドリブなのかよくわからない軽妙なやりとりは非常に楽しいものに仕上がっていた。
 ねこ娘もまた今回の作風に合わせて4期や5期のねこ娘よりも低いトーンで声を出しており、地声かはわからないが声の雰囲気だけで言うなら3期版に近いように見える。等身もあって鬼太郎より大人っぽく見えるという意味では庄司宇芽香氏の大人びた演技がマッチしていた。
 犬山まな役の藤井ゆきよ氏は個人的には「アイドルマスター ミリオンライブ」シリーズでの所恵美役が印象深いが、そちらや他の役でも見せることの多い高いトーンでの発生は抑えて低めの音域を使っているのは他メンバーと同じか。ちなみに鬼太郎役の沢城みゆき氏とは「ルパン三世(第4シリーズ)」で既に共演済である。

 と、長々レギュラー声優について話してきたが、今話は顔見せに留まった2話と違いレギュラー陣演じる鬼太郎ファミリーが総出で事にあたる豪華な一編である。
 敵は妖怪城に巣食うたんたん坊、二口女、かまいたちの3妖怪。原作では鬼太郎が孤軍奮闘し結局城ごと封印という手段でどうにか倒し、歴代アニメでも3期では記念すべき1話を飾り、4期では前後編で決戦が描かれ、5期では妖怪城そのものが敵側勢力の重要なファクターとして継続利用された(されるはずだった)りと、何かと話題性が高くなる傾向にあるこの話、6期では3期のように現代社会を象徴する都会のど真ん中で繰り広げられることとなった。
 彼らの住む妖怪城そのものには精々人間の子供を妖怪に変える、というくらいの能力しか原作では設定されていなかったが、今回は4期版のように「妖怪城の妖力がある限りたんたん坊たち3妖怪も不死身」という設定が加えられ、強敵としての存在感が増しているだけでなく、「自分たちが能力を底上げするために妖怪城の完全復活を目論む→子供をさらう→噂になってまなの耳にも入る」という物語の導入も成立し、前2話に続いてまなという人間の少女を事件に無理なく介入させる助けにもなっている。
 たんたん坊がコンクリートや道路の中に出入りできる理由はちょっと理屈っぽすぎるような気がしないでもないが、逆に言えばそんな状態になってもなお力を発揮できる妖怪城の異常性を見せつけるということにもなっているのだろう。その一方で原作どおりにお約束のタン攻撃をかましたり、それを食らった鬼太郎の脱出方法も原作に準えたものになっているのは嬉しいところだ。
 敵側に強敵感が増しただけあってそれと戦う側である鬼太郎ファミリーもかなり行動的、と言うか戦闘面の能力を前面に押し出していた。砂かけばばあの繰り出す砂ものっけからただの砂ではなく痺れ砂であったり、子泣きじじいも誰かにおぶさるのではなく石化していきなり城の外壁を破壊、一反木綿は原作でたまに見せていた「もめん切り」の如く自分の体でかまいたちを真っ二つにしたりと、鬼太郎との連携も含めて戦い慣れしている描写が続き、非常に見応えのあるものになっている。
 ねこ娘のアクションについてはお披露目自体は前話行われているので、今話は戦闘時に手の爪を伸ばして切り裂く力をアップさせられるということが判明した程度にとどまったが、反面今話ではねこ娘の内面深化に描写を割いており、前話から引き続きまなに「ねこ姉さん」と慕われている描写やSNSでのやり取り、最終的には事件に首を突っ込んでしまったまなへのフォローなど、ツンツンした態度とは裏腹に内心ではかなりまなを気にかけている様子が見て取れ、鬼太郎に対してのみでなく本来的に優しい性格をしていることが、見ている側にはすぐわかるのが良い。
 白眉なのは鬼太郎が結局まなのことを心配しているとわかった時のセリフと表情。自分もまなのことを気にかけているのだから鬼太郎がまなを気にかけること自体は嬉しく思いながらも、まなという「女の子」を気にかけていることへの焼き餅も同時に生じ、しかし自分もまなを大事に思い始めているからそんな感情をストレートに表には出せない。そんな複雑な女心と言うべき心理が「そう思ってるって、結局まなが大事だからじゃない」という一言と表情に集約されるのは見事だった。

 そして鬼太郎。今回鬼太郎が見せたのは「怒り」だった。人間の独善に怒りすべての人間を妖怪に変えてしまおうと企むたんたん坊たちに一定の理解を示しつつも、自分の気に入らないもの、許せないものに対する行動の解として「排除する」ことしか選ぼうとしない3妖怪に鬼太郎は怒りを露わにする。
 それは妖怪でありながら幼少の頃は人間に育てられたからという過去があるからかもしれないし、本人は未だ自覚していないながらも人間であるまなに友好的な想いが芽生えていたからとも受け取れる。そもそも彼が人間どころか妖怪ですらなく「幽霊族」というまったく別種、しかも滅びゆく種族だからということも関係しているのかもしれない。いずれにせよ今話の時点ではこのやり取りの中で鬼太郎の胸中にどのような想いが去来したのかは知る由もないのだが。もしかしたら1話で目玉親父が触れた「育てられたことへの恩情」以上にこの時抱いた感情が、鬼太郎が人間のために悪妖怪と戦う動機に直結しているのではないだろうか。
 そんな鬼太郎の怒りを表現するかのように6期では初の体内電気を披露、それを直接たんたん坊にぶつけるだけでなくちゃんちゃんこを槍のようにして投げつけたり、2話でも見せた「ちゃんちゃんこを拳に巻きつけて対象物を破砕」する豪快なやり方でまなを救出したりと、そこだけ切り取って見ればまるで3期版のごとき派手でダイナミックなアクションが繰り広げられていた。
 まなとの関係も根本では彼女を心配しているが故に冷たい態度を取り続ける、それは即ち彼女を「友達」として認識しつつあるからと気づけたことで、やっと鬼太郎の方から一歩歩み寄れたという感じか。1話で強調されていた鬼太郎の横顔も今話では指鉄砲でたんたん坊に止めを刺した時だけでなく、まなが3妖怪に捕まってしまったことを彼女の最後のメッセージから察した際の悔しがる表情として使用されており、ラストのセリフよりも前に彼の胸中がはっきりと明示される良シーンであった。
 鬼太郎のまなに対する友誼に気づくきっかけを与え諭してくれたのが、仲間の中では年長者的立ち位置の砂かけばばあと目玉親父というのも巧い構成である。

 さて「一歩歩み寄った」まで進んだところで、次回は少し箸休めといった感じの話になるようだが、ゲゲゲの森そのものがフィーチャーされた回はアニメでもさほどなく(5期の横丁はあくまで「妖怪横丁」)、どのような内容になるのかこれはこれで楽しみである。
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2018年04月14日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)2話「戦慄!見上げ入道」感想

 今月から始まった第6期ゲゲゲの鬼太郎、ネット上で感想を見て回った限りでは概ね好意的に受け入れられているようだ。
 元々興味のない人は端からアニメを見ないからそれは置いておくとして、恐らくは過去に何期目かの鬼太郎を見たことがあるであろう人たちが今6期鬼太郎を見て好評価を示してくれているのは、勿論1話の全体的な完成度が高かったからなのは言うまでもないが、同時に鬼太郎という作品が原作漫画からして非常に自由度の高い作風であり、それ故に「こんな鬼太郎もあっていいのだ」とごく自然に受け入れられる、そういう土壌が既に確立しているからではなのだろう。
 原作つきアニメはとかく原作に縛られがちだしそれも当然のことではあるのだが、表現技法が異なるアニメという媒体で縛りすぎると今度はアニメならではの面白さが失われ、最悪アニメにした意味すら失われる羽目にも成りかねない現実を考えると、「ゲゲゲの鬼太郎」とは極めて幸福な作品と言えるのかもしれない。
 とは言え歴代作に存在していたお約束を守ってほしいと願うのもまたファンの性。とりわけ前回の1話においてオリジナルのレギュラーキャラである犬山まなと鬼太郎の関係に焦点を絞ったため、鬼太郎と親父以外の妖怪キャラが登場しなかったというのは、3期以降1話から必ず登場していた歴代作を思うと一抹の寂しさを覚えてしまうファンもいたのではないだろうか。
 いつもの面々が揃って登場するのを楽しみにしている人もいれば、いきなり等身が上がった美少女妖怪を期待していた人もいるだろう。筆者などは鬼太郎とずっと腐れ縁で繋がってきた日本一不潔な半妖怪の登場を待っていた口だが、それら鬼太郎の仲間妖怪もちょっと出遅れたものの今回の2話で集合することに。さて園出番とは…。

 と書いてはみたものの、仲間妖怪の中で実際に活躍らしい活躍をしたのはねずみ男とねこ娘の2人だけであり、残りの子泣きじじい、砂かけばばあ、一反もめんにぬりかべの出番は顔見せ程度に留まった。上記したとおり原作や歴代アニメ作を知っている身としては少し寂しい気がしないでもないが、今作は人間であるまなが鬼太郎たち妖怪の存在や世界をだんだん知っていくというのが本筋の1つとなるようなので、一気に仲間妖怪の能力や個性をポンポン見せていくのではなく、各話ごとに段階を踏んで見せていくという構成になっているのだろう。まなは鬼太郎の家はおろかゲゲゲの森にも立ち入ることはできないし、そもそも駆けつけた子泣きや砂かけたちの名前すらまだ知らないのだから。その意味では非常に丁寧な作りと言える。
 と言ってもただ出てきたというだけでなく彼らも今作ならではの個性を早くも見せ始めているのは嬉しいところだ。可愛い女の子好きという個性が与えられた今作の一反もめんは早速まなに言い寄るという、砂かけ曰く「色ボケふんどし」ぶりを発揮していたり、子泣きが早速飲兵衛の面を見せたりしているのは設定紹介の側面も無論あるが、いかにも水木ワールドの妖怪らしい人間臭さでもある。
 今話を振り返る上で重要になるキャラはやはりねずみ男とねこ娘だろう。ねずみ男は登場から3分もしないうちに「花より金」と花を踏み散らし、辺り構わず立ち小便をして挙句には見上げ入道の封印を解いてしまうだけでなく金に目が眩んで見上げ入道の手下になるという、ねずみが持つ代表的なパーソナリティがわずかな時間の中で小気味よく描写されていた。
 腐れ縁である鬼太郎との関係についても中盤のやり取りにおいてねずみ男には「鬼太郎ちゃん」、鬼太郎には「あいつ」と互いに呼ばせることで付き合いの古さを匂わせており、後述のねこ娘に比してどうしても登場時間が短くなってしまう中で、弁舌と金で芸能事務所を乗っ取ってしまうシーンも含めきっちりと「らしい」活躍を見せることができていたのではないだろうか。

 で、今作のねこ娘である。1話でチラッと(まなに妖怪ポストの場所を教えるシーンで)映ってはいた彼女も今話にて本格登場と相成ったわけだが、天敵であるねずみ男に対しての態度はともかくとして、前情報にあった通り今作では他の面子はおろか鬼太郎に対してもつんけんした態度を取る、歴代と比較してもかなり異色の性格設定が成されていた。
 鬼太郎を助けた人間がどんな人間なのか直接確かめに行ったり(相手が少女だから?)、見上げ入道にやられた鬼太郎の帰還を信じて自分が時間を稼ぐなど、鬼太郎に対する想いの強さが垣間見えるシーンはチラホラあるのだが、その気持ちを素直に鬼太郎に見せないのには何か理由があるのか、今後の話でそれが明かされるのか興味深いところであろう。ただ根っこの性格が「いい人」であるというのは、ねこ娘の活躍に憧憬の念を抱いたまなから「ねこ姉さん」と呼ばれて嬉しさを隠しきれず表情に思わず出してしまうところから容易に窺えるだろう。
 そのねこ娘、前述のとおり見上げ入道の攻撃で一旦戦線離脱した鬼太郎が復帰するまでの時間稼ぎとして、かなりの戦闘能力を発揮。歴代作のねこ娘もネコの特性を生かした敏捷さや爪での引っ掻き攻撃などを見せることはたびたびあったものの、今作のねこ娘は単純に格闘能力も高いようでまなをかばうまでは巨大な見上げ入道に対し優勢を保っており、3期や5期とはまた異なるバトルアクションの可能性が開けたと言ってもいいかもしれない。それまで気の強い美少女だったのが目を一度閉じて開いた瞬間「猫」の目になるというスイッチも単純にカッコいい。
 さらに言えばこのねこ娘のアクションシーンにかかっていたBGMはかつての名曲「カランコロンの歌」のメタルアレンジであり、こんなところでも1話同様に歴代作と最新作との折衷が見られた。

 そして今回の鬼太郎。前話の引きは「ちゃんちゃんこのおかげで無事だった」という、まあそんなとこだよね的な理由で決着がついたわけだが、同時に鬼太郎の能力の中でもかなり特殊な位置にある霊毛ちゃんちゃんこについての解説をその流れで済ませてしまうところは巧みと言うべきだろう。
 まなへの態度は前話と同様にまだまだ固いところはあるが、次回予告では5万人の人間が消えたことに対してさして動じてはいないようなセリフを吐いていたにもかかわらず、本編の中では誰かに手紙をもらうといったこともなく事件が発生したら能動的に動いて現場に向かっており、人間が大量に消えたという事件の重大性はきちんと理解している節が窺え、彼自身の多面的な部分も見え始めてきたようだ。
 そして今回は敵役が見上げ入道と言うことで霊界(原作では「死霊の国」)からの帰還から見上げ入道に吸い込まれた所をちゃんちゃんこを使って逆転という、原作で描かれたシチュエーションをほぼそのまま再現していた。霊界から戻れた理由が幽霊族だからと言うのはちゃんちゃんこの特異性が少々失われてしまったようで個人的には残念であるが、まだ2話の時点でちゃんちゃんこの万能ぶりを見せるのは時期尚早と判断した故であろうか。
 その一方、ちゃんちゃんこを使って物理的に見上げ入道の喉を破って飛び出してくる強烈なビジュアルは、力みすぎて目玉が飛び出してしまった原作とは似て非なる妖怪同士の異常な戦いの描写として十分すぎるほどのイメージだと思う。
 他方では4期版での止めとなった「見上げ入道見越した(り)」の言葉を人間が言わないと効果のないものとしてまなに言わせるところは少しご都合主義ではあるものの、鬼太郎言うところの「必ず誰かが気にかけている」人間の意義をまなに体現させるという点では及第点の展開と言えるだろう。
 1話と同様に登場人物の個性を追うことを最重視しているためか物語自体はあまり捻らずシンプルな構成になっており、見上げ入道も前話ののびあがりと違い会話が可能な存在ではあったものの、そこまで強烈な個性を発揮するには至っていない。しかし自分が「消した」人間の数と人間社会の中で「消えた」人間の数を比較した上で問題はないと嘯くふてぶてしさは出色の出来であり、同時にその数の1つ1つに想いを傾けることが出来る鬼太郎との良い対比になっていた。
 見上げ入道の担当声優は池水通洋氏。鬼太郎作品には3期や5期に出演経験がある文字通りの大御所声優であり、70年代は様々な特撮作品でヒーローや怪人の声を大量に演じてきた方であるが、近年はさすがに御歳もあるのかアニメで声を聞く機会が少なくなってしまったのがおっさんオタとしては寂しいところである。これに限らず鬼太郎と言う作品は基本1話完結なのでゲストキャラを出しやすいのだから、若手・ベテランを問わず様々な声優を呼んで共演させてほしいものである。
 他にも電池組なるアイドルをわざわざ登場させたりと細かいところで拘りを見せる部分はあったので、次の3話からはそれらの小ネタをどんどん生かすようになっていくのだろう。筆者的には販売開始すぐにチケットが売り切れるという一幕に乾いた笑いが出てしまったが(笑)。

 事件が解決したと思いきや、1話ラストで鬼太郎に矢を射かけたのと同じ人物(妖怪?)が別の場所で何やら暗躍をしている様子。そこには親父が触れたのと同じ逆五芒星が描かれていたが、この人物とその背後にあるものが今期の物語上の縦糸軸となるのだろうか。
 そして次回登場するのは3期版の記念すべき1話を飾り、4期版では前後編で鬼太郎ファミリーを窮地に追い込んだ強敵妖怪のたんたん坊。奴が出るということは配下のあれやこれも出るのか、はたまた彼らの住処であるあの城は出るのか。こちらも今から楽しみである。
posted by 銀河満月 at 10:05| Comment(0) | ゲゲゲの鬼太郎(第6期)感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月01日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)1話「妖怪が目覚めた日」感想

第1期開始から50年
第2期開始から47年
第3期開始から30年
第4期開始から22年
第5期開始から11年

そして2018年4月1日、カラスの鳴き声に導かれ、下駄の音を響かせて六たび「彼」がやってきた……。


 すーっごく久々にブログを更新してみるわけだが、理由は言うまでもなく今日から放送が開始した「第6期ゲゲゲの鬼太郎」の感想を書くためである。
 原作者である水木しげる先生が亡くなられてから初めてのアニメ、同じく5期終了後亡くなられた田の中勇氏が1期から5期までずっと演じられてきた目玉親父を、1期2期で鬼太郎を演じた初代鬼太郎役の野沢雅子氏が演じるとか、ネコ娘のキャラデザがかなり大人びたものになっているとか、4期以来の人間レギュラーが設定されるといった様々な新機軸が情報として流れてきた中で、ついにアニメ本編が始まるわけである。
 5期終了後からも世の中は様変わりし、特に「妖怪」という存在についての世間の見方がだいぶ変容してきた中で、原作は既に古典漫画の域に入っていると言っていい「ゲゲゲの鬼太郎」を現代のアニメとしてどう魅せるのか。予告編を見る限りだと怪奇性が強調されていたが、さて本編の方はどうだったのだろうか。

 始まり方としては「怪奇な事件が起きる」→「鬼太郎に連絡する」→「鬼太郎が来る」という4期以降オーソドックスとなった流れに準拠した展開だった。当たり前だが鬼太郎どころか妖怪の存在自体が信じられていないのだから、その信じられていない存在を信じるまでの過程を1話では見せないといけないわけで、そういう意味では鉄板の流れと言える。
 今話ではさらに犬山まなという人間側のレギュラーキャラクターが妖怪を信じるようになっていく流れを段階的に見せることで、「信じていないものを信じる」過程を強調し、翻って作品を見ている視聴者の没入度を高める意図もあったように思われる。
 これは前述のとおり今と言う時代に「ゲゲゲの鬼太郎」といういささか古臭い作品を現代の視聴者、特に主たるターゲットと言うべき子供たちが違和感なく作品世界を理解し入り込めるようにするための方策なのだろう。逆を言えばそこまで気を遣った上で1話を作らなければならないほど、鬼太郎の作品作りも難しく面倒になってきているということでもあるのだが。
 その強調の意図は所謂鬼太郎ファミリーが一切登場していないところからも察せられる。他の面子はともかく鬼太郎作品に最も欠かせない存在と言うべきねずみ男までもが影も形も登場していないというのは、鬼太郎や目玉親父のみの描写に注力するためとは言え実際のところかなりの冒険だったのではないだろうか。

 そしてその演出意図は奏功していたと言えるだろう。異質な存在である鬼太郎と目玉親父は言うまでもないが、その2人と出会う6期オリジナルのレギュラーキャラである犬山まなの描写に集中することで、怪奇現象の発生や妖怪の出現、妖怪との戦いと言った種々のシチュエーションの中で3人それぞれの個性(プラス鬼太郎の能力)のみならず、次第に打ち解けあっていく3人の繋がりもしっかり描出されていた。
 まなは鬼太郎とのかかわり方から見るに3期レギュラーだった人間キャラだったユメコに近い役どころのようだが、これから鬼太郎だけでなく仲間妖怪とどのように触れ合っていくのか、どんな形で毎回の事件にかかわるようになるのかが楽しみ、と思わせてくれるくらいには魅力的に描かれていたと言える。
 肝心の鬼太郎の関連の方は、妖怪ポストに手紙を書いてから初めて登場する、という4期初回っぽい始まりではあったのだが番組の編成上、本編開始前の番宣スポットで鬼太郎が登場してしまうので、リアルタイム視聴だとあまり謎めいた感じに見えなくなってしまうあたりは、物語の冒頭に毎度視聴者側に話しかけてきた5期を連想させる。
 これに限らず今作は過去作を連想させる要素が随所に見られる。アレンジされているとはいえOP曲がお馴染み「ゲゲゲの鬼太郎」であるところには安心させられるが、その冒頭に鬼太郎と目玉親父の「誕生」シーンがそれぞれ挿入されていたり、鬼太郎が人間に味方する理由をかつて水木と言う人間に育てられたからと親父が述懐するのは初期原作、と言うよりアニメ版の「墓場鬼太郎」、所謂ゲゲゲハウスの外観やOPで1コーラス目と3コーラス目が切り替わる瞬間にキジムナーが飛び出てたり、何より鬼太郎の得意技である髪の毛針やリモコン下駄、妖怪アンテナなどの効果音は3期、OPの「試験も何にもない」「病気も何にもない」のところにねずみ男が登場するのは4期、そしてOPラストの処理は何となくオリジンたる1期2期の主題歌を彷彿させる。
 ユーチューバーが「チャラい奴の代表格」として最初にひどい目にあうのは、ディスコとかで騒ぎまくってる若者をひどい目に合わせることがよくあった3期っぽくもあるが、まあこれはその時代ごとの「チャラい奴」の代表的なイメージと言うところなんだろう。こういう点から歴代作を見返してみるのも面白いかもしれない。
 鬼太郎のキャラクターは登場シーンや人間に興味のない素振りをしているところに5期鬼太郎っぽさを見出せるが、それ以外のパーソナリティはまだ1話なのでわからないと言えばわからない。しかし吸血木にされても特に何もすることなく原作どおりに実から復活する不死身性や前述のとおりいつもの得意技を連発で見せたりと、見せ方そのものは1話としては十分だろう。
 特に放送前に声優陣が何度か触れていた「(今作オリジナル設定の)指鉄砲を撃った後の鬼太郎」は素直にカッコいいと呼べるカットになっており、わけのわからない存在であると同時に妖怪退治のヒーローでもある鬼太郎の多面性をきちんと見せられていたのではないだろうか。
 のびあがりを退治した後まなに抱きつかれた時は頬を赤らめても不思議ではないのだが、1話でそこまでしてしまうのはさすがに少し違うか。
 テレビアニメ版では初めて田の中氏以外の人が声をあてることとなった目玉親父だが、そこは大ベテランの野沢氏、1話の時点で完全に歴代を踏襲しつつ自分独自の目玉親父として確立させているのはさすがと言う他なかった。
 直近の5期ではココンがいたために解説者ぶりが若干成りを潜めてしまった感があったが、今回は吸血木の解説から見たばかりのスマホをすぐに使いこなすといった存在感を発揮しており、こちらにも十分期待が持てる。
 一方敵妖怪であるのびあがりは昔封印されていたが蘇った、吸血木の種を植え付けるといった最低限の設定のみが使われ、強烈な個性を発揮するには至っていなかったが、1話の敵役としてはこんなものだろう。

 1話としては上々のスタートを切ったと言っていい6期鬼太郎。…と思いきや鬼太郎が何者かの矢を受けてしまうという急展開の中次回へ続くことになる。
 と言いつつ次回はそれとは直接関係なさそうな見上げ入道の話になるようなので、この繋ぎも込みでどのような展開になるのか、本格登場する鬼太郎ファミリーの活躍も含めて大いに期待したい。
posted by 銀河満月 at 12:31| Comment(3) | ゲゲゲの鬼太郎(第6期)感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする