2010年03月20日

「スーパーマン…、ノビタとか言ったな。うでききのガンマンと聞いた。」

 昨日放送された「ドラえもん 新のび太の宇宙開拓史」を見た。
 正直な話、最初は見る気はなかった。おおはたさんがブログに書かれた感想を見て、大体は把握できたからである。
 僕は基本的には他人の感想とか評価と言うやつはあまり当てにしないで、自分で見た上での感想を大事にするが、おおはたさんの作品を見る視点やその内容については、個人的にも我が意を得たりという部分が多く、数年来の付き合いで、ブログに書かれている感想には嘘は一切なく、正直に作品に向かい合って書かれた感想だと自分では理解しているので、おおはたさんの作品感想・論評はずっと以前から信頼している。
 なので今回も見る必要はないだろうと思っていたのだが、やはり一度は自分の目で見るべきだという考えも同時にずっと持ち続けていたこともあり、今回は一緒に大山ドラの第1話も放送されると言うので、そのついでという意味合いも含めて、見てみることにしたわけだ。

 …まあぶっちゃけた話、みんなが言うほどひどい話にはなってないだろうという思い込みはあった。いくらなんでもあのしっかりした原作を普通にアニメ化すれば、素人でもそこそこ面白いものが出来るだろう。
 ましてプロの作るアニメである。そんな出来の悪い内容にはなってないだろう、オールドファンはやはり原作漫画を第一に考えてしまうから、評価が辛口になってしまうんじゃないだろうか…。
 みたいなことをチラッと考えたりもしてたんですよ、見る前までは。


 うん、はっきり言っておおはたさんがブログに書いたとおりの出来だった。あの原作をあそこまでダメな内容に変えられるとは思っていなかった。それほどにひどい。
 オリジナルならばまだ許容できる部分もあるかもしれないが、これはF先生の描いた原作をベースにしているのだ。にもかかわらずの体たらくである。
 おおはたさんの感想と同じになってしまうから、書くのはちょっと気が引けるのだが、まず演出が全体的に平板すぎる。
 緩急というやつがほとんど取れておらず、一本筋のストーリーをただそのまま考えなしに流しているような感じなので、本来盛り上がるべきシーンがまったく盛り上がっていない。
 のびドラが初めてガルタイトの連中を退けるシーン、超空間が切れるかもしれない危険を顧みず、再びコーヤコーヤに向かうシーン、コア破壊装置を止めるシーン、ラストの別れのシーン、そしてのび太とギラーミンの対決シーン、盛り上がって当然のシーンがてんこ盛りであるにもかかわらず、その一切が流れ作業的に淡々と描写され、終始盛り上がることなく終わってしまっている。
 ただ声をギャーギャー張り上げれば盛り上がると言うものではない。声はかなり威勢が良かったりもしたが、それだけのことなのだ。場面自体を盛り上げるには至っていない。

 最大の問題は上にも書いた、ギラーミンとのび太の対決シーンをあまりにもあっさりと描きすぎたことにある。
 こういった冒険活劇のクライマックスを締めるために不可欠な要素として、「ボスキャラと決着をつける」と言うものがある。ボスキャラ的と言うか、明確に倒すべき存在(抽象的なものではなく、物理的なもの)を倒してこそ、「目的を達成した」というカタルシスを、見ている人間が容易に抱くことが出来るし、そこに至るまでの流れを盛り上げることで、クライマックスのシーン全体を盛り上げることも出来る。
 この作品については、ギラーミンがボスの立場になっている。原作では本社から来た用心棒と言う立場ではあるが、最終的にのび太に決闘を挑むことで、「のび太たちが倒すべき敵」というポジションを得ているのだ。
 そしてそんなギラーミンをのび太が、あの弱虫で意気地なしののび太が、数少ない特技である射撃の腕を生かし、生来の気弱さが災いして勝負の瞬間に意識が遠くなってしまいながらも、どうにか強敵を倒すという流れこそが、本作最大のクライマックスであったのだ。
 原作をよく読めばわかるが、コア破壊装置を止めること自体は物語上の決着として描かれているが、ギラーミンをのび太が自分自身の手で倒した時点で、実質的にはガルタイト鉱業との決着はついているのである。

 そんな大事なシーンをああもあっさりと済ませてしまった。
 だがこのこと自体は方法論としてはさほど悪くない。スタッフにとって、このシーンをクライマックスとして盛り上げることは、今回のアニメの企図と照らし合わせてそぐわないと判断したのであれば、原作漫画ファンとしては不満ではあるものの、まあ理解できる見せ方ではある。
 最大の問題とは、この対決シーンに取って代わったはずのクライマックスシーンが、まったく盛り上がっていないことなのだ。
 今回のこの映画のダメな部分は、すべてこの「平板な演出」に尽きる。
 恐らくスタッフの意図としては、コア破壊装置を止め、モリーナと父親との再会をクライマックスに持ってきたかったのだろう。そのためにのび太とギラーミンの対決シーンを削ったのだろうと言うことは、見れば容易に想像がつく。
 しかし原作で一番盛り上がったシーンを犠牲にして出来たシーンが、まったくクライマックスにふさわしくないシーンになってしまったのだから、これでは見ている方が肩透かしを食らった感じになってしまうのも仕方がない。
 モリーナというキャラクターをもっと魅力的に描くことが出来ていればよかったのだが、それが出来ていたとはお世辞にも言えない。

 この「新宇宙開拓史」は、「クライマックスが盛り上がらなかった」作品ではなく、「クライマックスを盛り上げられなかった」作品なのだろう。
 盛り上がるクライマックスと言うやつは、クライマックス部分の設定とか描写だけをポンと放り込んだだけで盛り上がれるものではない。
 そこに至るまでの様々な過程を丁寧に、かつ丹念に描くことで、そこに至るまでの話の流れ、各キャラの心の変遷等を一気に集束させることで、初めてクライマックスは盛り上がるのだ。
 それをおざなりにしてしまった時点で、クライマックスが盛り上がろうはずもない。
 あまり言いたくはないが、この映画に関する限り、見所と呼ぶべきシーンはない。起伏のまったくない、平坦なストーリーを最後まで見続けるだけの映画。そんな感じだ。

 ただあえて言うなら、モリーナの設定とか行動、セリフ自体は、言われているほど悪いものではなかった(そんなに良くもないけど)。
 ただ肝心要の「声」がすべてを台無しにしてしまっている。
 只でさえハスキーボイスなのに、心情の表現にまったく緩急がついていないから、単にいつもイライラしているだけの女に見えてしまうのだ。
 逆を言えば、モリーナの声をしっかりした声優さんが演じていれば、脚本や演出上の意図を超えて、少しは深みのあるキャラクターになれたかもしれない。そうすればラストの再会シーンも、完成作品よりは盛り上がったに違いないのだ。
 それを思うとゲスト芸能人枠というものは、百害あって一利なしだと改めて思う。クレムに至っては本当に聴けたものではなかったし。


 他にも言いたいことはあるけれど、1年前の作品に今更どうのこうのと言ってもあまりいいことはあるまい。
 ただ、かなりしっかりした出来栄えの原作「宇宙開拓史」を以ってしても、この出来栄えである。
 来年に控えている「あの作品」、一体どうなってしまうのだろう。この映画を見た時点では不安しか抱けない。
 それでも来年の映画は劇場まで見に行こうと思う。「宇宙開拓史」でこういうことをしでかしてしまったからこそ、来年の映画はリアルタイムで、劇場で鑑賞すべきだろう。
posted by 銀河満月 at 00:52| Comment(0) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年03月14日

「のび太の耳にタコができる話」を見た

 一昨日のドラえもんは久しぶりに、個人的に色々楽しめる話だったので、久々に感想でも書いてみようかと思う。

 今回放送されたのは「ペタンコスタンプ」と「のび太の耳にタコができる話」の2つ。
 このうちBパートの方は、てんとう虫コミックス39巻に収録されている「具象化鏡」が原作になっている。
 この話は原作ドラえもんのあらゆる話の中で僕が一番好きな話であり、道具そのものも一番好きな道具である。
 それだけにかなり思いいれもあるので、リニュ版ドラでどのようなアニメ化が成されるのか、興味があったのだ。

 全体としては原作の流れに沿ったオーソドックスな作りだった。
 原作では登場することわざや慣用句の一部をナレーション的な説明で終わらせる部分がかなりあったが、元来ナレーターと言うものが存在しないアニメ版ではそれを忠実に再現させることは難しかったようで、今回のアニメ版ではドラをのび太についていかせることで、慣用句などの解説を行わせていた。
 これは妥当な改変だろう。ちょっとそのせいでテンポが悪くなってしまっている部分もあったが、この程度は十分許容できる範囲だ。
 ただ「言葉の上での表現が現実になる」というナンセンス極まる描写は、このアニメ版でも遺憾なく描写され、さらにそこに「色」と「動き」が加わることで、道具の効果が発揮されている部分に関しては、原作漫画以上のインパクトを発揮していたと言える。
 ラストの「春の足音」に関しては、もう少し時間をかけてゆっくりと叙情的な演出をして欲しかったところだが、それでも原作と同様に穏やかな感じのクロージングになっていた。
 大山時代のアニメ版では放送時期の関係もあって、「春の足音」に関する部分は丸ごとカットされてしまっていたからね。

 いくつか不満を上げるとすれば、原作で味わい深かったエキストラキャラ(「絶望のどん底」に落ちたのび太を助け上げる通りがかりの人)がいなかったところか。
 あとは、これは欠点と言っていいのかどうかわからないのだが、「耳にタコが出来る」で耳に生物のタコが出来てしまうのは、あれは正直いかがなものかと思う。気にしすぎだとは思うのだけど、完全に間違っていることを正しいことのように演出してしまっていいものだろうか。
 この道具は言葉上の表現がストレートに現実のものになるわけだから、間違った解釈が現実化したりはしないのだけど。
 むしろここで、この場合の「タコ」と言うものがどういうものなのかを、さらっとでいいから説明させておくべきだった。ドラえもんという解説役も同行していたのに、非常にもったいない。
 あと、個人的にサブタイは変えるべきではなかったな。あの「具象化鏡」という、短くて漢字だけのタイトルだからこそ印象深くなるのに。

 まあそれでもBパートの方は十分楽しめた。
 問題はAパートの方だろう。ジャイアンのいとこが怒り出すシーンで、「目を釣りあがらせて巨大になったイメージで威嚇し、それを見て手足をバタバタさせて恐怖するジャイスネ」なんて、一体何十年前の作品から引っ張ってきたのかと苦笑してしまったよ。
 あの古臭い演出だけでAパートはダメになったと言っていいくらいだ。
 そもそも原作におけるあの場面は、ガランとなった部屋で満足そうにしているジャイスネのコマから、次のコマ(ラストのコマでもある)でいとこに追いかけられているジャイスネを、事情をまったく知らないのびドラが不思議がりつつ見つめる、という絶妙な間の取り方こそが面白いのであって、あそこでジャイアンのいとこが具体的に起こる描写を入れると言うのは、原作漫画の持っていた良い部分をわざわざ消してしまっていることになる。
 今のリニュ版ドラは場面場面では良いところも多いのだけど、こういう肝心要の部分で大きなポカをやらかすからイカンのだよな。


 そう言えばもう映画も始まっているんだったな。
 来年の映画作品は「アレ」になるらしい、という情報も聞いたのだけど、果たしてどんな出来栄えになるのだろうか。
 今回の映画は時間の都合もあって見に行けるかどうかは難しいけども、来年の映画はどうしても見に行かねばならんだろう。
posted by 銀河満月 at 02:30| Comment(0) | TrackBack(0) | ドラえもん・藤子関係 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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