2018年11月04日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)29話「狂気のフランケンシュタイン」感想

 ゲゲゲの森を舞台にした鬼太郎たち日本妖怪とバックベアード率いる西洋妖怪軍団との「妖怪大戦争」は、西洋妖怪側の求めるアルカナの指輪が一時的に消失したことにより、半ばなし崩し的に終幕を迎えた。辛くも西洋妖怪を撤退させることに成功した鬼太郎たちではあるものの彼ら自身の被害も大きく、傷ついた仲間たちを前に鬼太郎はついにアニエスを拒絶してしまう。
 ベアードが最終的に世界の支配を目的としているにせよ、少なくとも今の時点では日本に攻めてくる気は全くなく、今回の戦争は言わばアニエスという異分子によって強引にもたらされた天災と言ってもいい事象であっただけに、自らアニエスを受け入れたとは言え結果的に迷惑を被った鬼太郎には同情できるというものだろう。
 さりとてアニエスにもアニエスの事情があるようだが、元々素直ではない性格の持ち主であるだけにその事情をすべて鬼太郎に話すことはせず、ケンカ別れのような形で1人ゲゲゲの森を出て行ってしまう。アニエスの事情とは夢に見た母親の死と関連しているようだが、それが指輪やベアード軍団とどう関係しているのかは見ているこちらにも分かりようがない。

 といった感じで始まった今回の話。西洋妖怪との決戦という妖界での話が続いたために出番のなかった人間界代表とも言うべきキャラクターであるまなが、今話の鍵となっていた。
 「まなとアリエスが友達になる」と大まかの流れだけ短く言葉でまとめるとなんだかご都合主義的に思えるが、実際には指輪に固執し周囲のことを考えず突っ走ってしまうアニエスの危うさ、しかしそのおかげでアニエスを目に留めるまな、1話から描かれた人懐っこさや妖怪を理解したいと思う心からアニエスに積極的に話しかけると、これまでの話の中で描かれてきた2人の個性を踏まえた上での出会いを丁寧に描出していた。
 敢えてご都合主義的な面を挙げるとすれば、今話でいきなり個性を発揮するようになったアニエスのホウキだろうか(笑)。
 人懐っこいまなの行動やホウキのアシストもあってアニエスは初めて笑顔を見せる。日本に来てから初めて見せた笑顔と笑い声、それが本来アニエスが持っている個性であろうことは想像に難くないし、まなと一緒にいることでそれが引き出されたという時点で2人の「友達」という関係は決まったと言ってもいいのだろう。
 それをわかっているから、異国での初めての友達を危険な目に合わせたくないからとまなの元を去ろうとするアニエス。そんなアニエスに鬼太郎が助け舟を出したのは、かつて自分も同じ理由でまなと距離を取ろうとしていたこと、そしてそれは自分でも気づかぬうちにまなを大切に思うようになっていたからだということを思い出していたのかもしれない。そしてその時の自分と同じ行動をまなのために取ろうとしているアニエスが、根本的には優しい子なのだということを察したのだろう。
 まなやアニエスだけでなく鬼太郎自身においても過去の挿話で描かれた個性を踏まえた上での描写を盛り込み、それでいてヴィクター・フランケンシュタインという西洋妖怪の脅威と、彼に対する共闘と前述の助け舟を挟むことで鬼太郎とアニエスの融和も描出するスタッフの手腕は相変わらず巧みである。
 今回の敵は前述のとおりフランケンシュタインのみであったが、人造人間とそれを生み出す博士という原典における二者の個性を同一化した今作独自のキャラクターのみならず、原典の人造人間のように花嫁を求める描写まで盛り込まれ、まさにフランケンシュタインとしての魅力を遺憾なく発揮したと言っていいだろう。指輪を求めるための情報も手に入れたようだし、これからは全面戦争ではなく指輪を求めての小競り合いも行われるかと思うと、こちらも期待大である。

 次回登場するのは女吸血鬼のカミーラ。ハロウィンをモチーフにした話になるようだが、主に戦うのは同じ女妖怪であるねこ娘になる模様。まなも交えてどのような展開になるか楽しみである。
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2018年10月14日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)28話「妖怪大戦争」感想

 前回から始まった西洋妖怪編の今話のタイトルはそのものずばり「妖怪大戦争」。前回はヴォルフガング1人にかなり苦戦させられたが、これも前哨戦に過ぎないということでとうとうバックベアード率いる西洋妖怪軍団が総勢で乗り込んでくることになってしまう。その事実は日本に住んでいる海外妖怪たちを震え上がらせ、特にベアードについてはその名前を口にするだけでも危機を感じさせるような有様だった。
 鬼太郎はアニエスという闖入者に巻き込まれる形で、言わばなし崩しで西洋妖怪と事を構えることになったが、犠牲にしてしまった耳長たちのことを想い、せめてアニエスは守ろうと決意を新たにするものの、肝心のアニエスは自分やベアード軍についての事情をほとんど話さず、アルカナの指輪を破壊することにのみ固執する。
 鬼太郎が仮の住処を案内してもさして興味を示さず、指輪を壊せない鬼太郎に厳しい言葉を放つその姿の裏には、前回ヴォルフガングの決壊魔法を打ち破った鬼太郎の実力を当てにしているからという面もあるのだが、自分の利だけを考えているようなその言動には、ねこ娘でなくてもいらついてしまうところだろう。鬼太郎の背後で子泣きや砂かけに止められているねこ娘の姿には笑ってしまったが。
 ただアニエスも決して情に薄いわけではないというのは、彼女もまた耳長たちの墓前で謝罪の言葉を口にしているところからもわかるので、決して鬼太郎たちのことを軽んじているのではないということも理解できるだろう。彼女が墓前で使った魔法に何の意味があるのかはこの時点ではわからないが。
 だがそういう彼女が本来持っているのであろう情に厚い部分も、指輪の破壊という大目的のために抑え込まなければならないようで、アニエスは自分の魔術で鬼太郎の妖力を強制的に強化してしまう。そこだけ見ればアニエスが目的のために鬼太郎を利用していると思われても仕方なく、ねこ娘も恐らくはそう考えてアニエスに爪を向けたのだろうが、そこでも鬼太郎はまだアニエスに協力する意志をなくさなかった。いきなり強化された妖力に体が耐えきれず苦しんでいる状態であってもである。
 そこにはやはり耳長たち「助けを求めてきた者」を救えなかった後悔が根本にあるのは明白だし、その無念を晴らすためなら自分の体が傷つくことも厭わないというのは、これまで数多くの悪妖怪たちと戦い退治してきた鬼太郎の信念と呼ぶべきものであった。実際これまでの27の挿話の中で鬼太郎が何度も敵妖怪にやられ、時には死の淵に立たされながらも戦ってきたのだから説得力もさもありなんというところだろう。
 だが鬼太郎にも唯一の泣き所があった。それはかつて3話でまなを拒絶したのと同じ理由。「自分の力で大切なものを傷つけてしまったら、守れなかったら」という恐れ。そしてそれはベアード軍のゲゲゲの森への全面侵攻という形で現実のものとなってしまう。

 満月の夜、魔術によって炎に包まれるゲゲゲの森。妖力が全開になったヴォルフガングには銀の弾丸も効かず、フランケンシュタインは自身の製造した怪物に妖怪を襲わせ、カミーラの術に子泣きじじいたちも翻弄される。頼みの鬼太郎はアニエスの魔術のために身動きすら取れないまま、日本妖怪は追い込まれていってしまう。
 自分が動けないまま傷ついていく森と仲間たちを目の当たりにした鬼太郎は怒りのままに増幅された妖力を制御、復讐戦を仕掛けるヴォルフガングを一蹴しアデルと直接対決、一度は奪われた指輪を取り戻す。
 しかしそんな状態の鬼太郎でさえも、ついに姿を現したバックベアードの強大な妖力には歯が立たなかった。アニエスが無理やり指輪の力を起動させたおかげで難は逃れ西洋妖怪軍は撤退、双方痛み分けというとりあえずの決着はついたものの、森や仲間たちに残した爪痕は大きかった。
 そしてそれを見た鬼太郎は初めてアニエスを明確に拒絶してしまう。力の解放と同時に消えてしまったアルカナの指輪を探す手伝いはするというが、元を正せば鬼太郎たちにとって今回の件は西洋妖怪同士のいざこざのとばっちりのようなものでもあり、鬼太郎が積極的に介入する理由は存在しなかったわけで、その「とばっちり」のために守るべき大切なものを傷つけてしまった鬼太郎の胸中は察するに余りあるというところだろう。
 この辺は悪妖怪と戦う道を選びながらもどこかその行為に遠慮がちだった今期の鬼太郎らしいアンビバレンツと言えるだろう。アニエスを守りたい気持ちはあれど、そのために別の守りたいものを傷つけてしまった故の苦悩が滲み出ており、ヒーローでありながらヒーロー然とした存在でない鬼太郎というキャラクターを生かした秀逸な描写である。
 しかし同時に「怒りによってパワーアップ」という少年漫画的王道展開も盛り込んでおり、同時に強力な西洋妖怪とも、少なくとも鬼太郎本人は互角以上に戦えるであろう伏線も張られたわけで、今後もバトルを重視しつつ今まで通りの「ゲゲゲの鬼太郎」の物語を紡いでいってくれるのだろうと、些か楽観的ではあるがそんな風に思える今回の話であった。

 来週はそんな今まで通りの物語を体現する今期独自のキャラクターであるまなとアニエスが邂逅を果たすようだが、そこにフランケンシュタインも絡んでくる様子。指輪が消えてしまったことで全面侵攻は一旦ストップするのかは定かでないが、どんな展開が待っているのか楽しみなところである。
 
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2018年10月08日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)27話「襲来!バックベアード軍団」感想

 とある西洋の古城。そこに眠る1つの小さな指輪を1人の魔女が盗み出す。魔女と因縁があると思しきもう1人の魔女は指輪を取り戻そうと魔女を攻撃するが、その攻撃を防ぎ指輪の魔女を逃がしたのは「名無し」だった……。

 ゲゲゲの鬼太郎という作品に慣れ親しんだ人ならば、数あるエピソードの中でも「妖怪大戦争」をよく覚えているのではないだろうか。日本侵略に訪れたバックベアード率いる西洋妖怪の軍団と、原作では初めて結成された子泣きじじい、砂かけばばあ、一反木綿、ぬりかべの鬼太郎ファミリーとの決戦、多くの犠牲を払いながらも初披露となる鬼太郎の髪の毛針や先祖の魂が眠るちゃんちゃんこの力が発揮されることでようやく勝利を得たという、文字通りの「大戦争」である。
 この屈指の人気エピソード、当然歴代アニメ作品でも1期の前後編や3期の劇場版とかなり力を入れてアニメ化されており、原作そのままでなくとも西洋妖怪のリーダーであるバックベアードとその部下のドラキュラ、狼男、フランケン、魔女といった重要な要素は4期の妖怪王編や劇場版、5期の一連の西洋妖怪編に反映されており、いずれも重要なエピソードに位置付けられている。それだけ「西洋妖怪の軍団」というのは鬼太郎世界において重要なファクターであるのだ。
 そしてこの6期においてもついに西洋妖怪軍団が登場する。西洋妖怪が日本に攻めてくるという導入部は変わらないものの、魔女アニエスという鬼太郎側につく新キャラクターの登場、重要なキーアイテムであるアルカナの指輪の存在など多数の新機軸も導入され、さて今期の「妖怪大戦争」はどのように始まるのか…?

 日本側の導入は穏やかではあるがゲゲゲの森の中で話が進行するという、今までと比べると少々異質な舞台設定になっているが、これはこの西洋妖怪編でスタッフが目指しているのが「鬼太郎中心の物語」であるという点が意識されているのだろう。
 そこで鬼太郎が紹介するのは南方から故郷を追われてやってきたという妖怪たち。劇中では耳長しか名前が出ないが、他の妖怪たちもひときわ顔のでかいのはエギク、竹を食べてしまうのは竹鼠の精、川に小便を垂れ流していたのはビディという名前がちゃんとあり、いずれも水木しげる先生による妖怪画が存在している。どれも耳長同様マレーシアの妖怪というのもなかなかの拘りだ。
 彼らは故郷を追われて逃げてきたということでゲゲゲの森に住むことにはなったものの、追われた理由については怯えてしまって話そうとしない。さらには彼らの生活習慣があまりにも日本妖怪のそれとは違いすぎて、鬼太郎たちも最初は受け入れたものの次第に軋轢が生まれてしまう。
 鬼太郎も何とか説得しようとするものの逆に言い負かされてしまい、結局別々の場所に住むことを余儀なくされる。この辺の現実社会を反映したかのような展開はいかにも今期鬼太郎らしいところだが、このへんはコメディタッチで描かれているのでそれほど風刺色は強くなく、どちらかと言えば現実を揶揄したギャグシーンと捉えるべきだろう。
 ここの描写がギャグ的であるからこそ、宝石に擬態していたアニエス、そしてアニエスを追って現れた西洋妖怪の1人・ヴォルフガングが現れてからの急展開が俄然冴えてくる。ヴォルフガングたち西洋妖怪は耳長たちマレーシア妖怪を襲った張本人でもあり、意を決して立ち向かった耳長たちも次々とヴォルフガングの餌食になってしまう。そう言えば現実世界でもマレーシアは昔、西洋(イギリス)の植民地だったっけ。
 目の前で耳長たちを殺され怒る鬼太郎は指鉄砲の力で結界を粉砕、ヴォルフガングと対峙するが、ヴォルフガングも狼男の本性を現して鬼太郎たちに襲いかかる。その力は圧倒的でねこ娘たち仲間妖怪の力は全く及ばず、鬼太郎が初めて見せる指鉄砲の連射にもその再生能力を生かしてビクともしない。かつてない窮地に陥った鬼太郎はしかしアニエスから託された狼男の弱点・銀の銃弾を使って辛くもヴォルフガングを退けるのだった。
 耳長たちのために作った墓を前に、もっと言葉を尽くしていればと悔やむ鬼太郎。3話でも見せた「異なる考えの持ち主を問答無用で排除する」ことを何より嫌う鬼太郎だからこそ、この言葉は重く鬼太郎自身にのしかかる。この時点で鬼太郎が西洋妖怪たちに対して、「耳長たちを殺した相手」以上の感覚を覚えているのかは定かでないが、アニエスから自分を守るよう言われ即決で引き受けたあたり、鬼太郎の胸中にもある種の覚悟が生まれていたのかもしれない。
 そしてそれは西洋妖怪側も同じだった。アニエスの姉であるアデルはリーダーであるバックベアードの命に従い、ヴォルフガングのみならず人造人間のヴィクター・フランケンシュタイン、吸血鬼のカミーラを始めとする全軍で日本に攻め入ることを決断、ベアードは日本妖怪との「妖怪大戦争」を開始することを高らかに宣言する。
 そんな危機迫る状況の中で1人、計画通りとばかりに佇む名無し。日本妖怪と西洋妖怪の戦いの中で彼は何を企むのか。

 今話は導入編ということで西洋妖怪側の謎と強大さを短時間で見せつけることに終始していた。擬態魔法とか転移魔法とかあまり鬼太郎では聞く機会のない用語も出てくるあたりにも、これまでの話とは違うという雰囲気が感じられて面白い。まだ鬼太郎が西洋妖怪側の事情を詳しく知らず状況に流されている感が強いのは否めないが、まだこの物語が始まったばかりであることを考えると、鬼太郎がこの戦争の中でどう能動的に動くようになって行くかも一つのキーポイントになっているのかもしれない。
 いずれにしても鬼太郎が望むと望まざるとにかかわらず西洋妖怪との戦争は始まってしまう。次回はズバリ「妖怪大戦争」。鬼太郎たちが穏やかに暮らしてきたゲゲゲの森が戦場になる中、鬼太郎は西洋妖怪に対しどのように戦いを挑むのであろうか。
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2018年10月07日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)26話「蠱惑!麗しの画皮」感想

 今回登場の画皮は元々中国の妖怪で、原作ではほとんど出番はないもののアニメ版では3期と5期でそれぞれ中国妖怪の総大将であるチーの手下として登場している。美しい女性に化けて男をたぶらかすという伝承に沿って女性の姿に化けたのは5期が初めてだが、今回は女性ではなく美しい男性に化けての登場となった。
 前話登場のくびれ鬼とほぼ同じようなデザインで巨大な醜い顔だけという真の姿はかなりインパクトがあり、化けている時の姿とのギャップは凄まじいものがある。そのせいなのか今話のアフレコ現場でも、話自体はかなり重苦しい話であったのにもかかわらず笑いが漏れる一幕もあったようだ。

 今話はそんな人間側の重苦しい話に比して鬼太郎たち妖怪側の描写がのんびりした雰囲気になっており、妖怪側の様子がそういう雰囲気で描かれるというのは今話が初めてではないにしろ、人間側のドラマがいつも以上に重い雰囲気だっただけに、良くも悪くも対照的な描写になっていた。
 クライマックスの画皮との戦いも少し苦戦はしたものの、決着自体はかなりあっさりとついてしまったのだが、この「フハッ」とした決着が個人的には実に水木漫画ライクしていていいなと思っている。
 今話のような人間のドラマがメインで鬼太郎は最後に現れて事態を解決するだけという話は今期多く見られ、鬼太郎は主人公と言うよりデウス・エクス・マキナとしての存在価値が大きいとさえ思われてしまうところが、鬼太郎の立ち位置を考える上で非常に難しいのだが、逆に言えば2クール目最後の話となる今話に今期の定型と言える話を持ってきたのは、「次回」以降に控えているストーリーを踏まえて、とりあえずこのフォーマットは今回で一区切り、というスタッフの宣言であったのかもしれない。
 同様の話作りだった前話が、鬼太郎とねこ娘の激しいアクションでそれまでの陰鬱とした空気を吹っ飛ばしたのに対し、今話はアクションではなく正体を現した画皮の強烈なインパクト(叫び声も含めて)が空気を変える役割を果たしていたというのも、うまく全話との差別化を果たせていた。

 翻って人間側のドラマは何度も言っているがかなり陰鬱である。夫に捨てられた経験から娘に女としての自主独立を許さない母親と、そんな母親に反発心はあっても逆らおうとはしない娘の愛憎劇というのは、とてもニチアサの時間帯で放送する内容とは思えない(笑)。
 娘のゆうなが幼友達にキスまでされてしまうのはやりすぎかとも思ったけど、母親に「汚らわしい」とまで言わせるにはそこまで見せないといけなかったのだろうし、ゆうなの方も無理やりキスされたことよりもそれにより母親に見捨てられてしまうことの方を恐れるという、病的に追い込まれていく2人の描写には不可欠なものだったのだろう。
 ゆうなが偶然出会った画皮というこの世ならざるものに溺れていくのは、娘にいつまでも変わらない理想像というある意味でこの世のものではない幻想を抱き続けてきた自分の母親の姿そのものであり、だからこそ同じ幻の中に生きてきた母親がいきなり現実の男に恋慕するようになったのを目の当たりにした時、混乱して包丁を持ち出す暴挙に出てしまった。自分を長いこと幻想の中に引きずり込んできた張本人が、今度は自分だけが率先して幻想から出ていこうとしたのだから、混乱するのは当然だろう。まして画皮に魂を食わせるという凶行の片棒を担いでしまった後でもある。
 最後には画皮に襲われ助けを求める母の声に呼応するように、かつて夫に捨てられ娘に助けを求めるようにすがった母と一緒に生きることを約束したその理由が、母への愛情だったということを思い出すゆうな。恐怖や歪みではなく最初は真っ当な愛情による繋がりだったことを、妖怪との戦いの中で思い出させる流れはいかにも鬼太郎らしい。
 ラストでそれぞれの道を生きていくことを決めた親子の姿は清々しく、今騎の鬼太郎には珍しい明朗なハッピーエンドを迎えられたというところだろう。わざわざ母子の様子を見に来る鬼太郎というのは今回の鬼太郎の性格を考えると少々おせっかいな気もするが。

 そして次回からはついに西洋妖怪編に突入する。多くの強力妖怪との戦いが展開されるのは必至だが、前情報どおりなら原作や歴代アニメ版ともかなり異なる展開になることが予想されるし、まなや名無しといった存在はどう動くのか、鬼太郎のこれからが今から非常に楽しみである。
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2018年09月30日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)25話「くびれ鬼の呪詛」感想

 今回登場の妖怪はくびれ鬼。原作ではほぼ出番がない妖怪だがアニメ版では4期以降、各期1回は必ず登場する名の知られた存在である。アニメで出番が増えた点については、凶悪な面構えが全体の大部分を占めるというデザイン上の強烈なインパクトもさることながら、「人間を自殺に追いやる」という伝承に沿って登場する人間側ゲストの心の闇とか弱さを描きやすいという作劇上の便利キャラ的都合もあるのだろう。
 今回もその例に漏れず人間の持つ心の暗部を、まなを中心として描いているのだが、今回描かれた暗部とは闇と言うよりもむしろ「弱さ」の方を強調していたように思われる。

 くびれ鬼が隠れ蓑として使用していた呪いのアプリとは、一定時間内に誰でもいいから名前を入力しないと自分に呪いが返ってくるという、言わば現代版不幸の手紙のようなもの。
 で、元ネタである不幸の手紙と同様に「誰でもいい」というのがこのシステムの厄介なところで、まなも友達の雅や香凛も(そう言えば今までは「みやび」表記だったけど初めてフルネーム設定が出てきたな)何か相手を憎んでいるとか恨んでいるとかそんなことはなく、当初は本当に軽い気持ちで、中途からは自分が呪いを受けたくないからという気持ちで誰かの名前を入力している。
 そこに悪意があったのかと言うとまったくないとは言い切れないが、強烈なマイナスの感情を抱いているというわけでもない。むしろ何か気に入らないことがあった時、誰かをさしたる理由もなく呪うというよくよく考えれば人の道に外れていると言ってもいい行為に救い、あるいは一時の心の安寧を求めてしまう「弱さ」に根本の原因があったように思われる。
 だからこそその弱さを最後の小さな勇気で跳ねのけて自分が呪いを受ける道を選択したまなが鬼太郎に救われる、という展開にも得心がいくというものであろう。この手の話はねこ娘も言っていた通り「人を呪わば穴二つ」という教訓が定番であるが、その穴二つを避けて敢えて自分だけの穴で済ませようとしたまなが救われるのは物語上の道理なのである。
 …蒼馬についてはおいておくとして(笑)。

 冒頭からかなり陰鬱とした展開が続いただけに、クライマックスの鬼太郎&ねこ娘とくびれ鬼との決戦はかなり爽快。くびれ鬼の髪の毛で縛られるところをねこ娘の爪で脱出した後は、ちゃんちゃんこで強引に叩きつけて消滅させるという力技を披露。まなに陰湿な嫌がらせをし続けてきたくびれ鬼の退治の仕方としてはこれ以上ないくらい痛快な止めだった。
 だがそこで終わらないのが今回の鬼太郎。久々登場の名無しが八百八狸編に続いてまなに今度は「火」の見えない刻印を施す。これまでの描写から見るに名無しは人間の放つ悪意のようなマイナスの感情をエネルギーとしてまなを何かしらの器として完成させようとしているようだが、その理由まではさすがにまだ見えてこない。木に火と来ているからにはいわゆる「五行」、つまり残りは水、土、金の3つを刻印するのだろうが、来たる西洋妖怪編では暗躍するのか出番を今まで以上に控えるのか、それもこれからの見どころの一つであろう。
 あと今回でやるなと思ったのは「首吊り」の描写。首吊り用の縄がポンポン出てくるし冒頭では直接的ではないにせよ首を吊った人間の足をそのまま映したりと、このご時世でかなり挑戦的な描写を入れてくるのには素直に感心した。

 次回は画皮。予告を見る限りだと今回は美青年の姿で登場するようだが、最終的にはいつものあの姿を晒すことになるのだろうか。
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2018年09月17日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)24話「ねずみ男失踪!?石妖の罠」感想

 さて今回の話は「石妖」。原作漫画としては3期放送時のマガジン連載時に描かれた話だがアニメ化するのは今回が初めてである。
 僕としては前話の感想に書いたとおり「このスケベじじい何するの」「捕らえ方がスケベくさい!」という原作のセリフがきちんと再現されるのかどうかが気になっていたところなのだけど、さすがに服が脱げて下着姿になるところまでは再現しなかったものの、セリフについてはどちらもきちんと再現されていたので非常に満足である(笑)。
 後者では原作でおなじみのビビビビンタが擬音付きで再現されており、前者は石妖演じる内田真礼さんのボイスで完全再現されていたのも個人的にはポイントの高いところ。花子さんのあやねるもだけど、今が旬の若手声優さんもどんどん出てほしいものですねえ。
 話自体は比較的原作に忠実に展開し、明確に違っていると言えるのは石妖の去就くらいか。その分原作では描かれていない細かい部分での各人の何気ない描写が光っていたのも今話の魅力だろう。器物の妖怪ということで結婚式には参加できないながらも、ゲゲゲの森で酒を飲みつつ祝う一反木綿とぬりかべや、腐れ縁ではあってもねずみ男のために金を貸す砂かけ婆や石妖探しに奔走するねこ娘などからは、いわゆる「鬼太郎ファミリー」の繋がりの強さが感じられて良かったと思う。結婚式で鬼太郎が恐らく友人代表ということでスピーチをしていたがそこはあっさり飛ばされてしまったので、鬼太郎が何をしゃべったのか聞いてみたかったなんて思ったりもする。
 石妖との戦いも概ね原作どおり。まったく何の伏線もなくいきなり海坊主が出てくるところも原作そのまんまなので、伏線を大事にする傾向の強い本作では逆に異質に思われるかもしれないが、原作ファンとしてはニヤリとさせられるところ。石妖にしがみつく子泣きじじいも、原作では不可抗力で服が脱げ砂かけにビンタされてしまうという割と理不尽な扱いをされていたのだが、今話では結構なスケベ心を出した結果としてのビンタという自業自得な流れになっており、このへんは良改編と言えるかもしれない。
 ちなみに何でか、ぬりかべが石になった石妖を粉々に踏みつぶすシーンに文句を言っている者がいるようだが、全くもって意味不明なので聞く価値はないと考えるべきだろう。
 それはともかく終盤の改変点は、海坊主に捕まった石妖を結局ねずみ男が助けるという描写である。その理由をねずみ男は「結婚指輪だけは盗んでいかなかったから」と言っているが、それが本当に石妖の仏心だったのか、ねずみ男の小さな感傷に過ぎないものだったのかは定かでない。しかし他の被害者の中にも石妖を訴える気にならないという者がいたように、石妖と出会って幸せな時間を過ごしたのも事実なのだから、心底から恨めないのも仕方のないことかもしれない。無論そう思わせることが結婚詐欺の特徴だということがわかっていてもどうしようもない、その意味では誰よりも人間臭いキャラクターであるねずみ男だからこそ描くことのできたクロージングだったと言えるかもしれない。

 さて次回はくびれ鬼。原作では一切登場していないにもかかわらず4期からずっと登場し続けている、アニメで知名度を上げたと言ってもいい妖怪だが、今回はまなを巻き込んで何かをする様子。名無しも暗躍するようだし西洋妖怪編に突入する前に何かまた動きが出てくるのだろうか。
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2018年09月16日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)23話「妖怪アパート秘話」感想

 今回の話はオーソドックスな妖怪退治話ではなく、鬼太郎を狂言回しとしてある1つのものにまつわる物語を追いかけているという話になっており、構成としては20話「妖花の記憶」と同じになっている。
 違っている点は20話はまなの大叔母とその恋人だった男性という「人」にまつわる物語だったのに対し、今話はアパートという物、と言うより「舞台」が中心の話になっていることだろう。それにより今話はアパートの管理人夫婦やアパートに集まる妖怪たちを交えてアパートの歴史そのものを追体験していく一種の群像劇・年代記として完成しており、さらに20話とは違いこの舞台には鬼太郎自身も深くかかわっているというのも、今話の特異性を際立たせている。基本が同じような構成でもアレンジ次第で如何様にでも面白い話が作れるというスタッフの自信または余裕が垣間見えるようである。それは回想場面の年代がそれぞれ68年、71年、85年と1〜3期の歴代アニメ作が放送開始された年に合わせるという、お遊び的な描写にも見て取ることができるだろう(各時代の考証をしっかり行うなど決して単なるお遊び描写だけで終わらせてはいないが)。
 この年代記的な作りは最後まで徹底しており、途中までは鬼太郎の語りによる3妖怪とアパートとの関係が、そして終盤は現在のアパートの管理人である夏美と3妖怪の関係性の掘り下げが主として描かれ、アパートにまつわる過去と現在を過不足なくリンクさせている。
 回想場面では各時代ごとに管理人夫婦と3妖怪、つまりは人間と妖怪の関係が発展していく流れを丁寧に描き、このアパートが「人間と妖怪が一緒に住めるアパート」であるということを強調している(人間の店子は妖怪に気づいていないが)。3つの時代を通してそのことを強調してきたからこそ終盤、夏美が実は幼少の頃は3妖怪の存在を理解していたということを思い出す流れに説得力が付与されている。
 人間の子供は人間の世界で生きるべきとの砂かけ婆たちの考えにより3妖怪は夏美のそばを離れ、夏美もいつしか妖怪の存在を忘れてしまった。しかし忘れてからも妖怪たちはそこに在り続けていた。歳を取らず寿命を迎えることもない妖怪たちは、1968年からずっとアパートで生きる人間たちを見守り続けてきたのである。そのことに夏美が気づいた・思いだした時、彼女の祖父母でありかつての管理人であった夫婦と3妖怪が紡いだ「家族」としての繋がりが、彼女にも再び生まれたのだろう。ここで過去と現在がリンクしたのである。
 2つの時間が繋がったその先にあるのは当然未来。砂かけ婆が管理する形でアパートは存続し、豆腐小僧を始め様々な妖怪がアパートを利用するようになってきた。夏美は外で暮らしているもののアパートのオーナーとして時折戻ってくる様子。人間と妖怪が共に暮らす場としての舞台はこれからも残り続けるわけだ。これから先がどうなるかはわからないが、紆余曲折あっても幸福な時代であった過去や現在と同様、幸せな時間を過ごすことができるものだと思いたいものである。幸福な時間をずっと妖怪たちと共にずっと見続けてきたであろう柱時計が変わることなく鎮座しているように。

 今話で自分的に注目したいのはこのアパートに対する鬼太郎の思い入れだ。
 かつて3話でまなに言っていた「妖怪と人間は近付き過ぎちゃいけない、恐れられているくらいがちょうどいい」という言葉を今話もまた口にしている鬼太郎だが、それは今期におけるこれまでの挿話の中で数々見られたとおり、妖怪と人間が近くなりすぎることで生まれてしまう悲劇や事件を数多く見てきたからだというのは間違いないところだろう。
 そんな鬼太郎が85年での地上げ屋との一件を始め、今回のアパート取り壊しの件などでもかなり積極的に動いているのは、鬼太郎のパーソナリティを考えると(妖怪が巻き込まれているからという建前があるにしても)かなり意外な感じがする。
 このアパートの件があってもなお妖怪の人間に対するスタンスが変わっていない鬼太郎ではあるが、一方ではこのアパートにおける人間と妖怪が共存している空間にどこか理想的なものを見ていたのではないか。人間と距離を置く理由が究極的にはそれに伴う怪異に人間を巻き込んでしまうのが嫌だからという鬼太郎の本心を考えると、そんな風にも考えられるのではないかと思うのである。

 次回は石妖。何と今期が初めてのアニメ化となる話だが、自分としては「このスケベじじいなにするの!」とか「とらえかたがスケベくさい!」が聞けるのかどうかが今から楽しみである(笑)。
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2018年09月04日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)22話「暴走!!最恐妖怪牛鬼」感想

 鬼太郎のファンであればよくご存知のことと思うが、鬼太郎はいわゆる無敵のヒーローなどでなく1人では勝てなかった、ギリギリの勝利だったと言った戦いはかなり多い。一度やられて復活してからのリターンマッチは定番だし、今期で言えば八百八狸との決戦では多くの仲間たちの力を借りてやっと勝つことができた戦いである。食われたり溶かされたりと色々やられながらも最後には勝利すると言うのが鬼太郎の戦いにおける最大公約数的なイメージと言えるだろう。
 そんな鬼太郎の戦歴には当然敗北に終わったものも存在している。鬼太郎は敗北し仲間たちが変わって戦うとか、正義の第三者妖怪が戦って決着をつけるとかそんな場合だ。牛鬼との戦いはそんな敗北の一つに加えられる戦いである。難しい言い方になるが、牛鬼との物理的な戦いにおいては鬼太郎が優勢のまま勝利したが、「生き死に」という根本的な勝負については完膚なきまでにやられてしまった、そんな戦いである。

 直近の5期では原作の話にかなり大胆なアレンジが加えられ、鬼太郎ファミリーに焦点を絞った物語構成になっていたが、今話は大筋は原作に沿った展開をなぞりつつ、リゾート地を目指したいが故に過去の因習を切り捨てた離島や牛鬼を見ても驚かず自撮りし出すなど、1話にも見られた現代的な描写を盛り込んでブラッシュアップするという第6期らしい物語作りが行われた。
 歴代アニメ作でも必ずアニメ化されてきたと言うこともあってか、特に鬼太郎が牛鬼に変わってしまうシーンには結構な尺とタメを用意して、鬼太郎という妖怪がさらに異形のものに変わって行ってしまう様子を画面たっぷりに描いており、インパクトが絶大なものに仕上がっている。牛鬼の作画ラインのみ他のキャラクターとは異なるタッチで描かれていることもあり(タイガーマスクWで使用されたレタッチ処理だろうか)、「別のものに変わってしまう」というイメージがより強烈なものとなって見る側に伝わったのではないかと思う。先に牛鬼に取りつかれた芸能人が結果的に死んでしまうという後味の悪さも含めて、本作屈指の恐怖シーンだったと言えるのではないだろうか。まさに最強ではなく「最恐」妖怪の所以というところだろう。
 牛鬼を退治するために神様へ祈るところは原作と同じだが、後半の展開で大きく異なっていたのはそれまでの時間稼ぎとしてねこ娘が鬼太郎の牛鬼と戦うところだろう。牛鬼であり鬼太郎でもある敵に相対するねこ娘の胸中には様々な感情が渦巻いていたのは疑いなく、それでも町の人たちを守るために牛鬼と戦うその姿は2話や3話で見せた格好いいアクションではなく、「人間を守る」という最後の、ただ一つ残された大義名分のために無理にでも戦おうとする必死の姿だった。どうしてそこまで戦うのかは言うまでもない、鬼太郎が自分と同じ立場であれば、何があっても戦うだろうから。それをわかっているからねこ娘は「人間を守る」ために戦ったのだろう。それは誰より鬼太郎自身が望むことであるのに違いないのだから。
 だから牛鬼を人々から引き離しとりあえずの安全が確保されたと察すると、ねこ娘は動きを止めて鬼太郎にその身を委ねようとする。わき起こる感情を押し殺して大義のために戦うのも限界だったのかもしれない。
 そしてそんなねこ娘やまなたち多くの人々のギリギリの思いに応えるかのように迦楼羅様が出現し、原作どおり迦楼羅様の術によって牛鬼の本体は捕まり、鬼太郎もどうにか無事に帰還するのだが、帰還した鬼太郎に思わず泣きながら抱きついてしまうねこ娘の姿は、今話だけでなく2話の頃から一貫して好意を隠しツンツンした態度を鬼太郎に向けてきた彼女だからこその感情の爆発ぶりで、ずっと見てきた視聴者であればより深くねこ娘の想いを理解できる名シーンと言えるだろう。…これだけの想いをぶつけられてなおまったくねこ娘の気持ちに気づかない鬼太郎も罪作りな奴だが(笑)。
 なおねこ娘の描写説明に文章を割いてしまったけども、市街地で暴れまわったりねこ娘と戦う牛鬼の描写も妖怪獣の時と同じく怪獣映画を彷彿とさせる重厚なものに仕上がっており、短い時間ではあったが実に濃密なシーンだったと言えるだろう。後はゲスト声優として歴代作にも出演経験のある田中亮一氏や野田圭一氏といった大ベテランが参加しており、非常に耳が幸せだった点も個人的には忘れがたい。

 次回は妖怪アパートの話になるらしいが直接該当する原作はないのでオリジナルの話になる様子。砂かけ婆が登場しているのは当然としてどんな話に仕上がるのだろう。
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2018年09月02日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)21話「炎上!たくろう火の孤独」感想

 今回登場のたくろう火、原作や3期版ではどちらも悪妖怪として登場しており、特に原作では今話と同じようにねずみ男と組んでインチキ商売を行っていたし、水木先生の描いた妖怪画が非常にいかついと言うかいかにも怖い妖怪と言った感じなので、今話のように「ねずみ男に騙されてインチキ商売を手伝わされてしまう善良な妖怪」というイメージがまったくなかっただけに、今話でのキャラシフトはかなり意外だった。
 逆を言えば原作でもあまり出番のないマイナーどころであるだけに、アニメで色々アレンジしやすかったと言うところはあるのだろうが、そのせいかキャラデザインも妖怪画に比べると少しマイルドになっており、演じる吉田小南美氏の声もあってどちらかと言うと子供っぽい存在として造形されていることがわかる。
 このようなアレンジはサブタイにもあるとおり、たくろう火の「孤独」を強調したいからという意図があったのは想像に難くない。いかつい声のおっさんよりは可愛い声の子供っぽいキャラクターの方が感情移入しやすいと言うものであろうし。そしてたくろう火の「火」もクローズアップし、ハリネズミのジレンマの如く触れたいけど自分の体故に触れられないという設定も盛り込んで、孤独でありながら内心では友達を求めている純粋な性格の妖怪として今話のたくろう火は完成している。
 純粋な性格だからこそ、同じような孤独を抱えている不思議なロボットのピグとも仲良くなれたわけだが、同時にBパートでねずみ男に大人の屁理屈をぶつけられ切り捨てられてしまうあたりは、露骨に冷めた現実を見せつけてくる今期の鬼太郎らしくてニヤリとさせられるところだが、だからこそそういう小賢しい屁理屈を吹き飛ばすたくろう火とピグの着ぐるみを被っていた正体・雨降り小僧が純粋さ故に迎えたハッピーエンドが清々しく思えるのだろう。
 …Bパートのアイキャッチでピグの正体をばらしてしまっていたのはちょっと演出上の配慮が足りなかった気がしないでもないが。ついでに言えば雨降り小僧も原作にはほぼ出たことがないにもかかわらず、アニメでは出演率が妙に高い面白いタイプの妖怪でもある。

 次回は牛鬼。最強ではなく「最恐」の妖怪は一体何が恐ろしいのか、原作でも超有名な話であるだけに6期版がどのような話になるのか楽しみである。
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2018年08月26日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)20話「妖花の記憶」感想

 さて「妖花」である。これも2期を除く歴代作品で必ずアニメ化されてきた話であるが、これは人気のある話だからという以前に、この作品が「水木しげるの作ったゲゲゲの鬼太郎」である以上、必ずアニメ化しなければならないという一種の暗黙の了解のようなものが存在しているからのように思われる。
 何故そう思わせるのか。それは言うまでもなく鬼太郎作品の中ではある1つの要素がかなり色濃く反映されているからに他ならない。その要素とは「戦争」である。
 ご承知のように水木しげると戦争(第二次大戦)は切っても切れない関係にある。ご本人が召集され南方戦線に送り込まれてまさに生き地獄を味わったことは今では多くの人が知るところだろう。その体験は水木作品のもう一つの代表作である戦記漫画に反映されており、鬼太郎を始めとした妖怪漫画の方にも大なり小なり影響を与えている、水木漫画における重要な要素の一つである。
 妖花という話は大なり小なりの「大なり」に属する話だろう。バトルどころか敵妖怪も出ず、不思議な花の秘密を追った末に今なお残る戦争の爪痕を確認するという、水木漫画としては正当と言えるだろうが鬼太郎としてはかなり異質な物語でもある。
 まして現在は2018年、原作が描かれた頃からは文字通り半世紀ほど経過している時代である。そんな時代にこの話を原作のテイストを損なうことなく描くことができるのか、不安に思ったオールドファンも少なからず存在していたのではないだろうか。実際、直近の5期では戦争と言うテーゼを除外してアニメ化していただけに、一抹の不安すら覚えた人もいたかもしれない。

 結果としては原作での花子の役回りをまなの大叔母に託すというアレンジもあって杞憂に終わったわけだが、今話ではさらに妖花を巡る出来事を通して、かつての戦争をまったく知らない世代であるまなが戦争を知ろうと思い立つまでに至る流れが加わっていた。この辺は戦争を直接知る世代の減少に伴い、若い世代が戦争に触れる機会が減っているのでどう伝えていくかが課題になっているという近年の問題を取り入れたということなのだろう。
 日本を遠く離れた南の島に昔も今も日本人がいる(いた)と言うこと自体に疎いのも、ずっと日本に住んでいる子供であれば当然の感覚だろうし、まして70年以上も前の戦争のことなど、例え学校の授業で習ったとしてもそうそう心に留めるものではない(今は知らないけど僕の子供の頃は、明治維新以降はかなり授業も適当になってた覚えがある。学期末が迫っていたりして)。「日本が一方的に攻撃されたのだと思ってた」というまなのセリフがそういう意味では非常にリアリティのある現代の子供的セリフだったと言える。
 そしてそんなまなに鬼太郎も目玉親父も「戦争があった」という事実だけを話し、それ以上のことは口にしていない。ねずみ男が「嫌な時代だった」と300年生きてきた設定をさり気なくカバーするセリフを口にしてはいるが、それだけである。話そのものも南方の精霊たちも事実をまなに伝えることを目的として機能しており、何かしらのイデオロギーが介在することを徹底的に避けている。それは言うまでもなく、まなを代表とする現代の子供たちがかつての戦争についてイデオロギーを持つ以前、「戦争があった」程度の認識すら持ち合わせていないかもしれない、という現状を反映させているのだろう。
 それは実際に妖花の源と思われる島についても慰霊碑を見ても、現地で今働いている日本人のサラリーマンを見ても同じだった。真夜中になって戦争の「音」だけが聞こえるという怪現象が起き、怯えるまながそこにいる「見えない何か」に導かれ、妖花に守られるように眠る日本兵たちの遺体を見、その中に大叔母に向けられたかつての恋人の手紙を発見し、まなはようやく実感する。この島で多くの日本人が生き、そして死んでいったことを。
 妖花とは亡くなった人の果たせなかった想いが生み出した花。その言わば「生」の想いを遺体という「死」の中から見出すまな。それはある意味で妖怪と同じように「見えないもの」と言えるものかもしれなかった。だがそれはそこに確実に存在している。以前から妖怪という見えざるものに触れているからこそ感じることができたのだと考えれば、まなが介入する物語として今話を完成させたのも納得がいくし、1話から積み重ねてきたまなと妖怪たちとの触れ合いが、このような少々イレギュラーな形でまな自身に影響を与えるという構成は非常に巧みである。
 ラストで描かれるのはまなが戦争を知ることを始めている姿だ。どう思うかではなくまず忘れないこと、知っていくこと。それが出発点であり大切なことなのだと訴える今話は、2018年という現代に子供たちが戦争を考える上で非常に大切な点を描いている良作と言えるだろう。

 次回はたくろう火。一応原作話はあるものの鬼太郎シリーズ中ではだいぶマイナーな妖怪だが、原作どおりかオリジナルか、一体どのような話になるのだろうか。
posted by 銀河満月 at 12:27| Comment(0) | ゲゲゲの鬼太郎(第6期)感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする