2019年06月09日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)46話「呪いのひな祭 麻桶毛」感想

 今回登場する麻桶毛の話も24話の石妖と同じく、80年代マガジン連載版の原作の中では今回が初めてアニメ化された話となる。古い日本人形の怪異という怪奇ものとしてはオーソドックスな要素が主軸になっている話だが、逆にオーソドックスすぎるのがこれまでアニメ化されてこなかった理由なのだろうか。確かに原作漫画に登場する先達の髪の毛妖怪(夜叉や髪さま)に比べると、名前くらいしかインパクトがないし。
 まあその辺の理由はさておき、今話は原作の要素を残しつつほぼ別物の話としてアニメ化されている。原作では単なる古い日本人形だったところを放送日(3月3日)に合わせて雛人形とし、原作で触れられている「御神体として祭られていない麻桶毛」の設定を膨らませたのか、男雛と女雛の人形に取りついている2体、つまり複数の麻桶毛を登場させてそれぞれを鬼太郎やねこ娘、まなと対峙させ、別々の場所での二者二様の様子を見せやすくしているのは巧い工夫だった。人形の中に少女を閉じ込めるという設定から養分を得るために雛人形に変えてしまうという設定に変えたのも、「気がついたら周りから人が消えている」という不気味なシチュエーションを効果的に見せるという点で良い改変だったと言える。学校の廊下に雛人形を飾る流れはさすがに無理やりな気もするが。
 特にアクションは短い時間ながらもVSねこ娘もVS鬼太郎も非常によく動くだけでなく緩急の見せ方も巧みで、原作だと麻桶毛に火をつけて終わりという割とあっさりした決着だっただけに良い意味で驚かされた。この辺は原作と同時期に放送されていた3期版の流れを組んで仲間の助けを借りることが多かった原作版と、基本自分の力のみで決着をつけることの多い今期版との差異が出たというところか。もちろんどっちが良くて悪いというわけではなく。
 あとは原作をここまで換骨奪胎している割に、「麻桶毛に捕まったねずみ男が自分の屁を使って脱出する」という原作のいちシチュをほぼそのままアニメ化するという、変な部分への拘りが見られて思わず笑ってしまった。今話のねずみ男は小学生のコスプレもする羽目になったりとコメディリリーフとして妙な存在感を発揮しているのも面白い。そう言えば歴代アニメ作でもねずみ男は必ずどこかで何かしらの変装やらコスプレやらをしてたっけ。
 小ネタとしては女雛の方の麻桶毛を演じていたのがねずみ男を演じる古川登志夫さんの奥さんである柿沼紫乃さんだったというところか。古川さんも自身のツイッターでこんなことを呟いたりしているし。

 と、粗筋だけ書けばアクション面もコメディ面も見どころの多かった良質な1話完結話…となるのだが、今話の中でも鬼太郎やねこ娘の知らないところで最終局面に向けて、密かに事が進行していた。
 女雛の麻桶毛に襲われ絶体絶命のまなを助けたもの、それは他でもない自分自身の体から発せられた力だった。もちろんまな自身にその自覚はない。これまでの話の中で名無しがまなに刻みつけた五行のうち四つの文字が逆五芒星を形作り、力を放ったのである。
 最後の一文字が刻みこまれていない状態でも麻桶毛を魂ごと消滅させてしまう強力な力を発揮するこの刻印、名無しがこんな強大な力をまなに与えた意味は何か、最後の一文字がまなに刻まれたとき何が起きるのか。それが文字通りの最終決戦が始まるであろう次回以降の3話の中で描かれるに違いない。
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2019年05月26日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)45話「真相は万年竹の藪の中」感想

 アニメ鬼太郎の感想を書く上で「過去作のネタを安易に持ち出さない」というのが自分的に結構注意していることなのだけど、それでも読み返してみると過去作の話を持ち出しているケースがままあった。さすがに「過去作と比べて今期のこの話はダメ」みたいな最低なことは書いていない…と思うのだけど、そうでなくても過去作の話がポンポン出てしまう理由としては、この6期鬼太郎自体が過去作の要素を意識した上でかなり積極的に盛り込んでいるという点がある。個別の例はいちいち出さないけど、過去作要素をオマージュやリスペクトしたり、あるいは話そのものを立脚させるファクターの1つとして盛り込んだ上で6期独自のドライであったりシニカルであったりといった観点から全体をまとめ上げる、と言うのが今期の話作りの手段の1つのように思われる。
 今話の万年竹の話も内容としてはそんな感じで仕上がっていた。自分のテリトリーに侵入してくる人間たちを竹に変えてしまうという流れは原作と同じだが、「特定の人間と心を通わせるようになり、その人間がいなくなってしまったことから他の人間を寄せ付けないようになった」という今回の万年竹の追加設定は4期版をほぼそのまま踏襲していると言っていい(ついでに言えば原作における「竹の精」と同じ顔の女性を出してくるところまで同じ)。
 4期の場合はその相手の人間を病気がちの少女としたことで感動系の話としてまとめていたが、今回は相手との繋がりの深さを重視するのではなく、相手となる人間・大吉が何者かに殺されたという設定にし、ミステリータッチの味付けをプラスしている。大吉の息子である雅彦とも万年竹は既に知り合いであり、当初言われていた竹に変えられた人間と言うのが雅彦の狂言であったり、そうかと思えば実際に万年竹が動き出したりと二転三転する展開は正しくミステリーのそれと言っていいだろう。
 その追加要素は最終盤において最大限に炸裂する。大吉が殺されるところを見ていた万年竹。万年竹の言葉から真犯人は誰かを突き止めた鬼太郎は自分から手を出すことはなく自首を勧める。それは人間の犯した罪は人間が裁くべきという、妖怪の鬼太郎からすれば当然の考えであったろうし、罪を犯した犯人に対するせめてもの恩情でもあったろう。しかし真犯人は鬼太郎の善意を無碍にし、真相は藪の中と嘯く。他人の善性を踏みにじるような人間の迎える末路はもはや1つしかなかった。藪の中に引きずり込まれて消えた犯人を一瞥し、鬼太郎は竹藪を後にする。
 鬼太郎はこうなることまで予想していたのだろうか。こうなってしまった場合を予期して、敢えて「竹藪の中」で真犯人を問い詰めたのだろうか。そこは見る者の判断に委ねられるところだが、いずれにしても事件の真相だけでなく鬼太郎がどう考えていたか、この結末に鬼太郎が何を思うのかさえも、すべて「藪の中」に包まれてしまったと考えると、何ともやるせないものがあるだろう。
 個人的には真犯人の言い分にも一理あると思えてしまうところが何より気分悪いところなのだけど。

 次は麻桶毛。24話の石妖と同じく80年代マガジン版初出の妖怪にして、今回がアニメ初登場となる妖怪である。この調子で妖怪王将戦とかアニメ化してほしいものだなあ。
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2019年05月25日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)44話「なりすましのっぺらぼう」感想

 プライベートで色々あったら鬼太郎の感想書くのがすっかりおざなりになってしまい、気がつけば名無しとの決着もついて石動とかいう高校生も出てくるようになってしまっていた。
 これからはあまり時間をかけず気楽に感想書いていくようにしないとな。

 気分も新たに感想書くとして、今回登場の妖怪はのっぺらぼう。原作では人魂の天ぷらが登場したり顔を盗む術なんかもあったりとビジュアル的に面白い話(個人的には冒頭のねずみ男の口八丁も好き)になっていて、歴代アニメ版でも比較的原作に沿った内容での登場が多い妖怪である。と言っても鬼太郎と敵対関係にあったのは4期の初登場回(7話「妖怪のっぺらぼう!」)が最後で、そこで改心してからは21話「白粉婆とのっぺらぼう」や40話「夜の墓場は運動会!」で味方・仲間妖怪として登場し、5期では似たような見た目の白坊主が準レギュラーだったためか全く出番がなく、アニメへの登場は今話が実に二十数年ぶりと言うことになる。
 今期においてもOPの運動会場面で鏡じじいやチンポと一緒に仲良く綱引きに参加しているところからして、敵としてではなく仲間として登場するのではないかと以前から囁かれていたが、その通りゲゲゲの森に住む鬼太郎の友人的立場の妖怪として登場している。もっと言えばCV担当がくまいもとこ氏なだけに、歴代作に比べて子供っぽさが強調されてもいる。かつての永井一郎氏や安西正弘氏とは当たり前だが別物のようだ(笑)。
 お話の内容そのものは「自分の本質と作られた虚像とのギャップに悩む青年(敦)が、のっぺらぼうと再び触れ合う中で本当の自分のままで生きていくことを決意する」という、粗筋だけ見ると色んな意味で鬼太郎っぽくないものになっているのだが、普段から顔を晒しているにも関わらず「素顔」を晒せず苦悩する人間の敦と、言葉そのままの意味で顔を持っていない存在でありながら常に本心という「素顔」を晒して敦に接する妖怪ののっぺらぼうという関係が良い対比になっており、他のアニメであれば一捻りした暗喩などで表現せざるを得ない部分を「顔のない妖怪」としてストレートに表現できるあたり、妖怪アニメである鬼太郎ならではの構成と言える。
 子供の頃に遊んだのっぺらぼうの存在を忘れ、一時は自分を襲う存在ではと恐れた敦(そう思うきっかけになったのものっぺらぼうが替え玉の鬼太郎という「虚像の顔」を用意したためと言うのが、地味に皮肉が利いている)が窮地の中でのっぺらぼうの存在を思い出した時、同時に自分の素顔=本心のままにいられた子供の頃の自分を思い出すという流れも、のっぺらぼうが妖怪であるが故に子供の頃と(見た目すらも)まったく変わらず自分を見ていてくれたという点が大きかったからと考えると、鬼太郎アニメ・妖怪アニメとしての特性を十全に生かした上で作られている丁寧な話作りに気づかされることだろう。そう考えるとくまい氏のいかにも子供という感じのボイスも、のっぺらぼうの変わらなさを強調するために敢えて配役したのかもしれない。
 のっぺらぼうと敦の関係を中心に据えていた内容だけに敵役である白粉婆の登場は正直蛇足に思えなくもないのだが、正味25分という限られた時間の中で話を収束させるには、話を転がせる役割としてのわかりやすい敵役も必要なのだろう。僕のようなオッさんファンとしてはそれこそ前述の4期21話を意識したであろう配役にニヤリとしてしまったけども。
 一方、Aパートの鬼太郎もなかなか面白い。のっぺらぼうの代役で敦と会っている時のやる気のなさはいかにも今期鬼太郎らしくておかしいがそれだけでなく、嫌々ながらも人間である敦と妖怪であるのっぺらぼうの関係維持のために協力していることが、これまでの鬼太郎の心境の変化という点から見るとなかなかに面白い。
 妖怪と人間はあまり近過ぎないほうがいいという考えが基本的なスタンスだった鬼太郎が、SNS上のみとは言えのっぺらぼうと敦のやり取りに特に疑義を挟むこともなく、2人が会うことになったと聞いても、ごまかすことは否定的ではあるものの会うことそのものについては明確に否定しない。非常に何気ない、話のキーになるような部分では全くないが、鬼太郎の微妙な心境の変化を自然な形で描写しており、のっぺらぼうと一時仲違いした敦の態度に対する冷めた態度も含め、こちらもまた(1年目終盤に向けての)丁寧な話作りと言えるだろう。
 …後は本当にどうでもいいことなんだけど、もう妖怪も普通にスマホやSNSを使いこなしてるのね(笑)。

 次回登場の妖怪は万年竹。こちらもアニメ版での登場は4期が最後だったので久しぶりの登場だ。
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2019年03月17日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)43話「永遠の命 おどろおどろ」感想

 鬼太郎世界のおどろおどろと言えば「人間が妖怪になった」という特異な設定の持ち主…なのだが、実のところその設定自体はこれまでさほど重要視されていなかった節がある。正体を人間と知りながら葬った鬼太郎に息子の正太郎が罵声を浴びせるという苦い結末ではあるのだが、「正体が人間だった」という筋は他に土ころびもあったりするし、原作の話自体がそちらよりはホウキ元素で飛ぶプラモデルの飛行機だとか霊界輸送機と言ったガジェットの方に傾注している。そも苦い勝利自体は鬼太郎も何度も経験している上に同様の設定を持ちながら鬼太郎の味方として中国妖怪と戦った井戸仙人なんて妖怪もいるので、原作に精通すればするほど際立った特徴としては認識されない傾向が強いのである。
 それはアニメでも同じで、原作に比較的忠実に沿った1期以外はほぼそのあたりは改変されており、あまり重視しない話作りが長いこと続いてきたのだが、この6期ではその設定に正面から切り込むこととなった。むしろそれ以外の要素をすべて廃して「人間が妖怪になり果てた」点のみを話の軸に据え、それに対して鬼太郎たち登場人物がどう動くかがメインとなっている。

 そうする上で良改変だったのは、おどろおどろに変身してしまう人間の小野崎を原作とは違い良識人にしたことだろうか。原作のおどろおどろは自分の延命と秘密を守るために血を吸った子供たちをすべて殺してしまおうと考えるどうしようもない奴だったが、小野崎は人間の姿でいる間は人間としての理性を保っており、かと言って肉体的には妖怪と同様の不死になってしまっているから自殺も出来ず、鬼太郎に自分を殺すよう依頼するという流れになっている。
 これにより鬼太郎も素直に倒すべきか悩まざるを得ない状況に立たされてしまったのだが、こういう展開の場合、妖怪になる前の状態の人間が同情的な存在であればあるほど悩みも深くなる(そして物語としては面白くなる)わけで、この設定変更は今話の展開にマッチした良改変だったと言えるだろう。
 その改変により浮き彫りになるのは鬼太郎の心情だ。これまでにも鬼太郎がその胸中を吐露する局面は何度かあったが、それはたんたん坊戦だったりバックベアードとの決戦だったりと戦いの中で激昂する義憤をそのまま声に出したような感じであり、今話のように毎度の妖怪事件の中で自分の気持ちをはっきり表明することはあまりなく、今話の鬼太郎も例によって口数は少ないものの、「おどろおどろが吸血事件の犯人かどうかはまだわからないから(即断を避けた)」と目玉親父が鬼太郎の考えを代弁しており、犯行が実際におどろおどろの仕業とわかってからもなお指鉄砲を構える手がどこか躊躇いがちだったところから見ても、未だ割り切れていない鬼太郎の心情が窺える。
 小野崎の娘・美琴は父が妖怪化しても自分だけは襲わなかったからまだ最後の理性は残っていると訴えるものの、再度妖怪化したおどろおどろはそんな彼女の自分を想う気持ちを「理解」しているかのように、美琴の血を吸おうとする。それは自分が実の娘までも餌食にするような、完全に理性を失ったただの化け物なのだと鬼太郎に思わせるための芝居だったのか、それとも本当に変貌しつくしてしまったのかはわからない。
 それを見た鬼太郎が何を考えて止めの指鉄砲を放ったのかも含め、中盤で鬼太郎の心情をある程度言葉ではっきりさせていたからこそ、このクライマックスでまた敢えて鬼太郎の気持ちの吐露を封印させて見る者の判断に委ねる構成は、巧みであると同時にある意味では非常にストレスの強いものになってはいるが、だからこそラスト、美琴と鬼太郎の「やり取り」が一層冴えるのである。
 事件解決後、「絶対に許さない」と告げる美琴に無言という形で応え去っていく鬼太郎。事件解決の最終的な手段も事件解決した後もどちらもすっきりとしない後味の悪さは原作が迎えた結末の苦さをさらに一歩推し進めたクロージングであり、その意味で今話は「妖怪に変貌した人間の末路を描く」という一点において、原作をも超えた挿話と言ってもいいのかもしれない。

 次回の話はのっぺらぼう。原作では敵妖怪として登場したのっぺらぼうだが今期ではOPを始めこれまでに数回ゲゲゲの森の住人として登場しており、つまりは鬼太郎と直接敵対していない仲間妖怪的立ち位置であるはずだが、そののっぺらぼうをメインにした話はどのようなものになるだろうか。
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2019年03月03日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)42話「百々爺の姦計 妖怪大裁判」感想

 6期鬼太郎もどうやら2年目放送が確定したようだが、3月の放送は10日が休止だけどもこれで残りの話数で名無しとの決着がつくのだろうか。というか24日と31日放送分のサブタイトルが不安を煽りまくるタイトルなので、どんな内容になるのか今から心配である。

 それはそれとして今回の話。妖怪大裁判の話も普段の鬼太郎の世界観から考えるとかなり異質な話ではあるのだけど、それ以前に出たものも含めて妖怪たちが大挙して登場する一種のお祭り回として印象に残りやすい話である。当然歴代アニメ作でも漏れなくアニメ化されており、特に裁判長役の大天狗が以前から鬼太郎の知り合いという設定になっていた5期ですらアニメ化したのだから、制作側にとってはアニメに「してみたい」話なのかもしれない。
 そんな今回の妖怪大戦争、原作だと前半の裁判シーンと後半の濡れ衣を晴らす&百々爺との対決シーンとに結構はっきり分かれているが、今話では前半部分にあたる裁判のシーンに焦点をほぼ絞った構成となっていた。証人にただ延々と説明させるだけでなく検察側と弁護側(親父やねこ娘)による質疑の時間を与えたりと、公式ツイッターでも触れているとおり地味になりがちな、ともすれば後半の戦闘場面の前座として処理されがちなシーンに工夫を凝らして見栄えのする展開にしようと腐心しているのが見受けられる。
 その分原作の後半で描かれた百々爺との対決はほぼ完全にオミットされており、特に百々爺の得意技である鼻もんもがまったく登場しなかったのは残念なところだった(鼻毛針は使った後のものだけ登場していたけど)。ただ刑に処されようとする鬼太郎を何とか救おうと目玉親父が時間稼ぎをしている間にねこ娘たちが真相を究明するという流れ自体は法廷ドラマのセオリーに従ったものであり(個人的には「のび太の宇宙小戦争」を思い出したけど)、それも考えて今話はやはり百々爺との戦いと言うよりは「妖怪大裁判」そのものに注力していたと考えるのが妥当なのだろう。
 人間であるまなが証人として登場したのはちょいとご都合主義な感じがしたけども、今回の裁判と言うか事件自体が名無しに仕組まれたものであったのだからこれはこれでいいのだろう。何よりまなとしては鬼太郎と貶めるつもりは全くないにもかかわらず、百々爺の誘導尋問的な質問に従う内に結局鬼太郎を窮地に追い込んでしまうという展開は結構見応えのあるものに仕上がっていたと思う。まなに惚れていたり鬼太郎とは個人的に知り合いでもある小次郎の態度も、これまでの話を踏まえたものになっていて細かい描写にも注意が行き届いていた。
 個人的に一番物足りなかったのは原作でも歴代のアニメ版でも大挙して登場するモブ妖怪たちが、今回は目の光だけで処理されてしまい実態を拝むことができなかったというところかな。そのせいで最初に書いた今話らしいお祭り感がいまいち乏しくなってしまった気がする。まあ今話は裁判描写に注力していた以上、そもそもお祭り感覚の話ではないのだけど。
 …鬼太郎のケツは別に出なくてもいいよ(笑)。

 今回の大裁判の影に名無しの存在を鬼太郎が感じ取る一方、まなはその名無しにこれまでに続き4つ目の印「金」を刻印されてしまう。五行由来と考えると残りの印は「水」。最後の刻印がまなに施される時、一体何が起きるのだろうか。
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2019年02月24日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)41話「怪事!化け草履の乱」感想

 さて今回の話は化け草履…なのだが、話の内容とは別の次元で個人的に腑に落ちない点が出てしまって、どうにも話自体の感想をきちんと考えられないというのが正直なところだったりする。
 器物百年を経て変化する付喪神の存在が今話の肝でその付喪神たちが人間に簡単に捨てられてしまう現状を悲しんで…(「怒って」でないのは今期独自のアレンジで程良い匙加減だった)、というのが今話の粗筋なわけだけど、この種の話を見るとどうしても「物を捨てるのってそんなに悪いことなのかなあ」と思ってしまうのである。まして今話の場合は大事にしてくれた人が亡くなったのと引っ越しという生活環境の変化があって、取っておく意味がほとんど失われてしまった状態だから、原作で買ったばかりの靴を気に入らないからという理由で捨ててしまうのとはだいぶ状況が異なっているから、それを同等のものとして考えていいものなのかなあと考えてしまうのだ。尤も制作側もその辺は踏まえているからこその怒り→悲しみへのニュアンスの変化なのだろうけど。
 でもよほどの好条件が揃わない限り、1人の人間が生きている中で手に入れたすべての物を所有し続けることなんて事実上不可能なのだから、捨てることは悪いことと断じているような話作りにはちょっとうーむと思わざるを得ない。今話ではそのあたりの落とし所として化け草履たちを資料館に保存するという形で幕を閉じさせたので、話としては巧いまとめ方だったとも思うのだけど(じゃあ言うな)。
 個人的にはエキセントリックな変人を登場させるよりはごく普通の、何の悪意もないけど物を大切にしない人(5期78話でヒダル神を怒らせた料理番組のような)を出して、その上で古い物を大事に思う人たちをクローズアップした方が良かったんじゃないかなあと思ったり。
 あくまで個人的にそう思うだけで今話そのものは、何度も触れてるけど怒りではなく悲しみが行動の動機としている時点であまり殺伐とした雰囲気にはなっておらず、良い話としてまとめきっている手腕は見事である。今回の騒動のそもそもの原因が「人間」と「器物」のコミュニケーション不足という、文章で書くとおかしいのだけど作品世界的にその通りとしか言いようがない点も、いかにも鬼太郎や水木漫画らしいユーモアがあって良い。

 次回は妖怪大裁判。…あまり鬼太郎のケツにばかり目を向けないように(笑)
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2019年02月17日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)40話「終極の譚歌 さら小僧」感想

 …いつも思うけど「ぺったらぺたらこ」が受ける世界ってのも不思議なもんだよなあ。

 というわけで今回登場の妖怪はさら小僧。例によって彼の代名詞的フレーズ「ぺったらぺたらこ」も引っ提げての登場である。自分だけの歌を人間に盗まれたので復讐に現れ、そこを鬼太郎によってとっちめられるという展開は基本的に原作に沿ったものである。原作では目玉親父もその実力を危険視し鬼太郎は一方的にやられてしまい、ねずみ男の反則的な不潔攻撃によって退けることができたというレベルの強豪妖怪だが、今話ではねずみ男たちを閉じ込めた檻を一蹴りで吹っ飛ばすという力の片鱗は見せていたものの、鬼太郎と全面的な対決には発展せずに終わっており、その辺は少々物足りなかったかもしれない。
 だが今回の白眉は鬼太郎とさら小僧との対決云々ではなく、さら小僧の歌を盗んだ売れない芸人・ビンボーイサムの去就だろう。一度鬼太郎に歌を歌わないよう忠告を受けても無視してさら小僧に攫われるところまではこれまでにも見られたセオリーの範疇だったが、この芸人はさら小僧の手から鬼太郎に救われ再度忠告を受けたにもかかわらず、最終的に自分の意思で再び歌を歌ってしまう。家族にさえ止められたにもかかわらずである。
 勿論その理由は劇中でねずみ男が言ったとおり、結局のところは家族のためとか金銭的な収入とかではなく芸人として大勢の人から喝さいを浴びたかったからに他ならず、そのために家族を捨てただけでなく鬼太郎やさら小僧との約束をも反故にした、まさに自分勝手の極みと言ったところの理由なわけだが、この結末はいわゆる風刺や皮肉といった味わいとはまた別の次元で非常に鬼太郎らしい結末でもあった。
 それは自分勝手な理由ではあるし救いも全くないのだが、自分の意思で自分の生死を決定づけた、命さえも自分の欲の天秤にかけたという点である。これが鬼太郎らしい結末というのは、極めて「水木漫画」的な結末でもあるからだ。
 命の重みとかそういった観念はまるっと無視して自己の欲望と命を天秤にかけて欲望の方を取る。これは古今東西の物語でよく描かれるパターンでもあるが、水木漫画の場合少々趣が異なるのは、このパターンを否定的に描くのではなく「自分の命なんだから自分の生き死にを自分で決めるのは当然のこと」とむしろ肯定的なスタンスで描くことが多い点にある。
 これには水木先生がかつての軍隊時代、自分も含めた多くの戦友が自分の意思で生か死かを決めることが叶わず、上官の命令、あるいは敵の攻撃によって強制的、理不尽に死を迎えることになったという辛い体験故の死生観が大きく影響している。簡単に言えば「自分で考えて決めたのだから、考えた末に死にたいと思った人は死なせてあげなさい」というスタンスだ。この感覚が水木作品に大きく影響しているというのは、原作の鬼太郎や多くの水木漫画を読んだ方なら理解できるところだろう。
 水木しげるの世界にとっては自分の意思で自分の生死を決められることは幸福なことなのだ。たとえその結末が「死」であっても。その意味でビンボーイサムは芸人として最高の喝采を浴びたから幸福なのではなく、その先に迎えるであろう結末までも自分で決められたからこそ幸福なのである。ビンボーイサムの姿を見て悲しむ母子と怒るさら小僧の姿に隠れがちだが、何も言わず音も立てずに(下駄の音もしない)立ち去っていく鬼太郎の姿は今話、引いては今作の世界そのものがビンボーイサムに向ける冷徹な視点の代替であり、それこそが今話の真骨頂と言えるだろう。そしてこの結末を迎え「られた」今作はやはりゲゲゲの鬼太郎、そして水木しげる漫画の系譜に連なる作品の1つであると断言することができるのである。
 今話は表層を見ればバッドエンド、ビンボーイサムの視点に立てばハッピーエンドと捉えられるだろうが、実際は鬼太郎の視点に立ってそのどちらとも取れる結末を「フハッ」と見やる、水木世界的に極めてオーソドックスなエンド、と言えるのかもしれない。

 次回の登場妖怪は化け草履。さら小僧に対するぺったらぺたらこと同じくらい、化け草履と言ったら器物の妖怪変化と関係性が決まっているところがあるが、今期ではどのような物語になるのだろうか。
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ゲゲゲの鬼太郎(第6期)39話「雪女純白恋愛白書」感想

 うん、面白い。3期以降の歴代ねこ娘声優が集まるという話題性を抜きにしても、ラブコメの定石も種族の違う男女の恋愛劇もそつなく見せており、それでいてこの種の話だと出番が本当になさそうな鬼太郎にもメインストーリーの埒外で(これもコメディタッチの)出番を作っており、脚本も演出も絶妙なバランスで成り立ったグレードの高いコメディに仕上がっている。
 鬼太郎に出てくる雪女と言えば原作的には雪ん子回に出てくる冷凍妖怪の1人であるが、アニメの古参ファンであれば5期の巨乳雪女・葵ちゃんを思い出すところだろうか。今回登場の雪女・ゆきはいかにも「雪女」という感じのクールビューティーな見た目(別に中の人がかつて演じたキュアビューティにかけているわけではない)だが、恋愛ごとに関して非常に疎い面は一種の天然っぽい雰囲気も見せており、感情移入しやすい可愛らしさも発揮していて好印象。
 お相手の暑苦しい男・俊(演じるは5期でミイラ男のバルモンドも演じていた森田成一氏)との対照的なバランスもラブコメぶりに拍車をかけており、それでいてゆきを想う気持ちは本当に一途で真っ当なもので、その暑さがいつの間にかゆきの中で好意的なものとして根付いており、それがねこ娘やまなとのやりとりの中で偶発的に気づくというシチュエーションはその直後、沼御前と一緒にいる俊の姿を見て初めて嫉妬心を覚える描写も含め、正しく恋愛劇のそれであった。
 妖怪と人間の恋愛譚と言えばこれまた5期でのろくろ首と鷲尾とのものがあり、こちらは今回のような種族の違い故の問題はさほど提起されることはなかったが、5期91話の一つ目小僧回で若干提示されていたことを踏まえて3年目も放送されていたらその辺りに突っ込んだ話もあったのかもしれないと想像してみると、今話はコメディの体裁ではあるものの5期で描ききれなかった一つ先の話を描いたと取れなくもないだろう。その最たるものは人間の方がどうしても先に寿命を迎えてしまうというところだが、「愛があるならそれでもやって行けるだろう」という理想的なハッピーエンドを今回は迎えられており、いささか理想に過ぎると思われる向きもあるかもしれないが、ゆきの母親の言葉からするとその理想の結果として生まれた存在がゆきであるのだろうから今話、引いては6期の世界ではこれでいいのだろう。こちらとしても視聴後感は心地よくて良いしね。
 鬼太郎側の描写でおかしかったのはやはり恋愛とは何かと聞かれて説明するうち自分のことを話している風になってしまうねこ娘の様子だろうか。ねずみ男から渡された恋愛シミュレーションゲームをやる羽目になって寝不足になってしまった鬼太郎や、鬼太郎と反対に妙にやる気の目玉親父と、その鬼太郎と相対する妖怪が5期ねこ娘役の今野宏美氏演じる沼御前だったことも含め、今話は全体的に5期っぽさがそこかしこに漂う話であったとも言える。
 もちろん冒頭に述べた歴代ねこ娘声優の共演も僕のようなオールドファンには嬉しいサービスだった。ゆきの母親役だった三田ゆう子氏とゆき役の西村ちなみ氏は4期48話で、西村氏と今野氏は5期96話で共演経験があるものの、全員が一堂に会したのは勿論今回が初めてのことであり、半世紀に渡って続いてきたアニメ版ゲゲゲの鬼太郎ならではのちょっとしたお祭りであった。
 この調子で5期映画の5大鬼太郎みたいにいつか6人の鬼太郎が勢揃いしてくれたら非常に嬉しいのだけど、ま、夢は夢のままでも、ね。

 次回はさら小僧。さら小僧と言えば「ぺったらぺたらこ」。こちらも歴代アニメではコメディだったり怪奇話だったりと様々なアプローチが成されているのだが今期ではどのように料理するだろうか。
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2019年02月14日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)38話「新春食人奇譚 火車」感想

 第3クール全般に渡って展開された西洋妖怪編も、バックベアードの退場とアニエス・アデル姉妹の旅立ちを象徴として無事に幕を閉じた。年が明けての第4クールからはいつもの1話完結形式に戻る一方で公式的には「名無し最終決戦編」とも銘打っており、名実ともに今期鬼太郎の縦糸として話を引っ張ってきた名無しとの決着がつく重要な期を迎えたわけである。
 今の段階では2年目の放送があるかどうかはわからないが(京極先生の発言はあったようだけど)、どちらにせよやはり名無しとの決着は放送1年目のラストを飾るこの第4クール期でつけなければならないのだろう。
 まなの体に刻印された印は今のところ3つ。名無しの目的もまなを標的にした理由もその実力さえもほぼ不明なままではあるが、どのような展開と決着を見せるのか今から非常に楽しみである。

 それはそれとして第4クール初回である。…しっかし年明け早々にえらく物騒なサブタイトルを持ってきたなあ(笑)。
 今回の登場妖怪は火車。葬式や葬列中の人間の死体を盗んでいく悪どい妖怪だが、原作では「皮を残して内臓を取る」とまで言われるほどの強豪であり、実際鬼太郎は魂入れ替わりの術を食らってあっさり破れてしまっている。歴代アニメでは原作に準拠した2期や3期に反して涙もろい人情家として作られた4期、妖怪四十七士の1人(つまり鬼太郎の味方)になる5期など、なかなか多様なキャラ造形が行われているが、今回はとぼけた雰囲気を見せつつも比較的原作に準拠した悪辣な妖怪として描写されていた。
 最初は死体を食っていないために妖力も乏しくまなに見つかって逃げてしまうような情けない姿をさらしていたが、これは原作にあった「昔の元気はねえよ」というセリフを発展させた設定と言え、久々にねずみ男が火車を巻き込んで単独で金もうけに走る様も、原作で印象的だった「困っている人間から金を稼ぐのが一番簡単な儲け方」という小狡いセリフや態度の今期風焼き直しと考えると、なかなか巧いこと原作をアレンジしていると言える。
 さらに直接的な表現こそないものの火車が物理的に人間の死体を「食う」という原作にはない、ある意味原作以上とも言える描写を加えたことで、最初は少しとぼけた感じのしていた火車が本来的には図々しく悪辣な存在であることを短い時間で十分に見せていた。妖力がある程度戻ってからの魂入れ替わりの術を駆使してのねずみ男→ねこ娘→鬼太郎の変化は、それぞれの担当声優の熱演もあって非常に聴きごたえがあり、鬼太郎in火車とねこ娘in鬼太郎のバトルという珍しい対戦カードも実現しており、視覚的にも面白いシチュエーションに仕上がっていたと思う(入れ替えられた鬼太郎たちにしてみればたまったものではないだろうが)。
 そして実に3期以来に披露された目玉親父の大技「逆モチ殺し」。近年はどちらかと言うとマスコット的な扱いが(特に画面外で)多く見られるようになってきた目玉親父もれっきとした実力者であり、鬼太郎のピンチを救えるだけの力を持っているということを久々に画面の中で見せつけてくれた。火車がかなり好き勝手やって鬼太郎たちを追い詰めていただけに、見た目のグロさにかかわらず物語的なカタルシス・高揚感まで覚えさせてくれるのも物語運びの妙であろう。

 ただ個人的にはラストのオチは、今回に限っては少々やりすぎだったようにも思う。元々死体を手に入れる手段として「死体があることを世間的に知られたくない」後ろめたさを持つ人間たちから回収するというねずみ男のやり口はいかにも6期らしい風刺が利いていたし、その延長線上としてのオチなのだとは思うのだけど、あそこまでの悪辣さを発揮し目玉親父という一種切り札的存在に倒されるという展開を受けながらのうのうと逃れ落ちてしまうというのは、ちょっと演出の嗜好的に風刺に偏りすぎてはいなかったろうか。
 まあ原作のクロージングは火車が目を回して降参というあまり見栄えのするものではなかったから、それをそのままアニメ化するというのもそれはそれでどうかとは思うけど、ゲゲゲの鬼太郎という作品はエスプリやアイロニーの利いた娯楽作品なのだから、そのあたりの匙加減は慎重にやってほしいなあと思う次第である。
 オチのせいで今話全体の完成度が深刻な影響を受けるとかそういうことでも全然ないのだけど。

 次回は雪女。直近で雪女と言ったら5期の葵ちゃんを思い浮かべてしまうところだけど、スタッフ談話によるとラブコメ話になるようで久々に笑い重視の話となるのだろうか。
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2019年02月11日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)37話「決戦!!バックベアード」感想

 アルカナの指輪とブリガドーン計画を巡って鬼太郎たち日本妖怪とバックベアード率いる西洋妖怪が激闘を繰り広げる中、鬼太郎は大ダメージを受けアニエスを運命から救おうとしたアデルと共にベアードに痛めつけられてしまい、彼らの命と引き換えにアニエスはブリガドーンのコアになる運命を受け入れ、ついにブリガドーン計画を発動させてしまう。
 ブリガドーンにより異形に変わっていく人間たち、そしてそんな人間たちから放たれるどす黒い念を1人吸い寄せ続ける名無し。計画完遂と高笑いするベアード。絶体絶命のこの状況で鬼太郎は復帰できるのか、そしてベアードと決着をつけアニエスを救うことができるのだろうか。

 鬼太郎を救うための最初のキーマンとして動き出したのはまなだった。前話でアニエスの助けも間に合わず航空から落下したまなだったが、鬼太郎から渡されていたちゃんちゃんこの力で難を逃れただけでなく、前々話でアニエスから手の甲に受けた「魔女のキス」の効果により、ブリガドーンの只中にいても妖怪化するのを免れていたのである。後のセリフでベアードもまなが変化しないことに多少なりとも驚いていたことから見てもかなりイレギュラーなことであり、これもまたブリガドーンのコアに選ばれるほどの魔力の持ち主であるアニエスだからこそできる芸当なのであろう。
 まなは鬼太郎と同じくベアードの攻撃を受けて痛めつけられていたアデルと邂逅する。鬼太郎の妖力を回復させる魔法石を渡そうとするアデルを目玉親父は警戒するが、まなはアデルの必死の眼差しにアニエスと同じものを見出し、魔法石を受け取って鬼太郎の下へ走り寄る。
 それを見つけて弄ぶように攻撃してくるバックベアード。たちまち追い込まれてしまうまなだったが間一髪、魔法石の力で復活を果たした鬼太郎と一反木綿に救出され、鬼太郎も起死回生の指鉄砲をベアードに放つ。
 しかしベアードもその程度で倒されることはなかった。何と目玉だけと思われた自分の体を人型に変形させ、鬼太郎に肉弾戦を挑んできたのである。
 バックベアードと手足と言えば「鬼太郎国盗り物語」における相撲対決で手足をニョキニョキニョキーと生やしてきたベアードの姿を思い浮かべる原作ファンも少なくないだろうが、まさか体型そのものまで人の形に変えてくるとは思っていなかったので、個人的にはかなり驚かされたものである。着想の一つに前述の「国盗り物語」があったのだろうが何とも大胆なアレンジであり、まるで前番組のドラゴンボールみたいと一部で囁かれるのも無理ないことであろう。ただベアードの場合元々の姿だと鬼太郎とあまりに体型が違い過ぎるので、たとえば3期〜5期におけるぬらりひょんと鬼太郎の格闘のように分かりやすいアクションを構築しにくく、かと言って今期は5期における地獄究極奥義のような派手な技も存在していないため、従来の味を生かしつつ派手なアクションという画を完成させるためには、むしろこの種のアレンジは必要な条件だったとも言えるだろう。
 単眼からの妖力攻撃も健在で鬼太郎もたちまち劣勢に追い込まれてしまう。その合間にもアデルは今度はアニエスを救おうと、身動きも出来ない体をまなに支えられながらアニエスの下へ歩み寄るが、すぐにベアードに気づかれ一撃を受けてしまう。その攻撃自体はアデルの防御壁でどうにか防いだが、ここに至ってついに鬼太郎も激しい怒りを見せ、リモコン下駄や大技・体内電気を使ってベアードに対抗する。
 この流れ自体はかつての妖怪大戦争の時と同じなのだが、注意したいのはここで鬼太郎が怒る原因になった「傷つけられた仲間」が妖怪仲間ではなく人間のまなという点である。まなと歩み寄ることをやんわり拒絶した3話の頃から比べると隔世の感があるが、西洋妖怪編を含め何度となくまなと行動を共にし、鬼太郎にとっても気の置けない間柄になっていたというのは、内面の変容ぶりが外見からはわからない今期の鬼太郎における明確な成長(と言っていいだろう)であり、クライマックスの大事なシーンであるがなかなか微笑ましい瞬間でもあった。
 思わぬ反撃に驚きながらも一気に決着をつけようと大技をぶつけてくるバックベアード。それに対抗して放つ鬼太郎の指鉄砲とが空中で激しく拮抗し合う様は本当に前番組アニメのようである(笑)。圧倒的な力で指鉄砲を押し返しつつベアードは自分の歪んだ思想を鬼太郎に押し付けてくる。絶対的な強者が弱者を束ね崇めさせる世界、それが理想的な「平和の世界」であり自分はそれを作ろうとしていると強弁するベアード。しかしそれで出来上がる世界とは特定の存在のみが持つ理念のままに支配されすべてが抑圧された不幸な世界であり、それは自由と共存を望む鬼太郎の最も嫌うものでもあった。
 ベアードの邪な野心に反発する鬼太郎の心情に呼応するかのように、怒りの色に染め上がっていくちゃんちゃんこ。鬼太郎の祖先である幽霊族も同じ信念を持っているのか、それとも単に子孫である鬼太郎の助力となるべく立ち上がったのか、どちらの理由によるものかはわからないが、鬼太郎の想いに多くの先祖たちが呼応し力を貸してくれるのは間違いない。原作と同様、鬼太郎の窮地に立ちあがったちゃんちゃんこの力も得て、鬼太郎は極大級の指鉄砲を放ち、ついにバックベアードを地上から消滅させる。
 ベアードの消滅を目の当たりにした他の西洋妖怪も離脱、アニエスもアデルの命をかけた行動でついに救出されブリガドーン計画も停止し指輪は消滅、長い戦いはついに決着を見る。
 魔女の運命から解き放たれたアニエスはアデルと共に世界を見て回ることにし、まずは耳長たちの故郷へ向かうことを決める。そのことを鬼太郎に教えられたまなは鬼太郎に導かれるまま初めてゲゲゲの森を訪れ、再会を約束して旅立つアニエスたちを見送るのだった。

 しかしまだ「事件」は完全に終わってはいない。この西洋妖怪との一連の戦いの中で漁夫の利を得たと言っていい唯一の存在・名無しが今もまた暗躍し、まなに今度は「土」の刻印を施す。以前刻印した「木」「火」に続いてこれで3つ目。この刻印が何を意味するのか、そもそも名無しの目的が何なのか未だに判明していない中、物語は第4クール「名無し最終決戦編」へと入っていく…。

 今話で「西洋妖怪編」と名付けられた第3クールは終了したわけだが、3クール全体を軽くまとめて感想書いてみるとすると、少なくとも異質な展開ではあったと思う。それがスタッフの意図したものかどうかはわからないけれど。
 元々今期は名無しという縦糸的要素が存在してはいたものの、はっきりとクール全体に渡る連作形式を取るのは鬼太郎アニメの中でも初のことであり、しかもバトル重視という初めてづくしのクールであったが、この西洋妖怪編のメインキャラというべき存在であるアニエスに注目して見てみるとよくまとまっていたと思う。
 それほど西洋妖怪との絡みがない33話で「運命に従おうとしている娘」に対して辛辣な態度を取っていたのも、35話を見た後ならその理由も納得できるし、31話や34話の描写からも本来は素直で心優しく、でもどこかで無理をしているというアニエスのパーソナリティが垣間見え、その描写については非常に丁寧で巧く盛りたてていたと言っていいだろう。
 反面、開始前のスタッフの言にあった「鬼太郎個人を深く見せる(大意)」についてはちょっと首をかしげざるを得ない。アニエスと積極的に絡む役目はまなが担っていたこともあって、鬼太郎自身は今までとさほど変わらないスタンスを維持していたため、前2クールと比べてもさほど鬼太郎自身に変わりはなかったように思われる。ただこれについては演じる沢城みゆきさんの体調の問題(ちょうど産休・出産の時期)もあったろうから、一概に否定の材料にはなりえないのだけど。
 だからどこに注目するかで本クールの評価は変わってくるだろう。今まで以上の鬼太郎の活躍を望んでいた人や前2クールで多く見られた風刺の色合いを望んでいた人からはつまらないと思われるだろうし。僕としてはゲゲゲの鬼太郎という作品自体が極めて自由な作風だしそれが作品最大の魅力と思っているからこのくらいの変遷は望むところであるし、1話1話のクオリティは高いものだったので概ね満足しているというところである。

 さて次回からは先述のとおり「名無し最終決戦編」と銘打たれた第4クールに突入する。新年一発目からなかなか物騒なサブタイトルだが、果たして久しぶりに逆モチ殺しは拝めるのだろうか。
posted by 銀河満月 at 16:28| Comment(0) | ゲゲゲの鬼太郎(第6期)感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする