2019年03月17日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)43話「永遠の命 おどろおどろ」感想

 鬼太郎世界のおどろおどろと言えば「人間が妖怪になった」という特異な設定の持ち主…なのだが、実のところその設定自体はこれまでさほど重要視されていなかった節がある。正体を人間と知りながら葬った鬼太郎に息子の正太郎が罵声を浴びせるという苦い結末ではあるのだが、「正体が人間だった」という筋は他に土ころびもあったりするし、原作の話自体がそちらよりはホウキ元素で飛ぶプラモデルの飛行機だとか霊界輸送機と言ったガジェットの方に傾注している。そも苦い勝利自体は鬼太郎も何度も経験している上に同様の設定を持ちながら鬼太郎の味方として中国妖怪と戦った井戸仙人なんて妖怪もいるので、原作に精通すればするほど際立った特徴としては認識されない傾向が強いのである。
 それはアニメでも同じで、原作に比較的忠実に沿った1期以外はほぼそのあたりは改変されており、あまり重視しない話作りが長いこと続いてきたのだが、この6期ではその設定に正面から切り込むこととなった。むしろそれ以外の要素をすべて廃して「人間が妖怪になり果てた」点のみを話の軸に据え、それに対して鬼太郎たち登場人物がどう動くかがメインとなっている。

 そうする上で良改変だったのは、おどろおどろに変身してしまう人間の小野崎を原作とは違い良識人にしたことだろうか。原作のおどろおどろは自分の延命と秘密を守るために血を吸った子供たちをすべて殺してしまおうと考えるどうしようもない奴だったが、小野崎は人間の姿でいる間は人間としての理性を保っており、かと言って肉体的には妖怪と同様の不死になってしまっているから自殺も出来ず、鬼太郎に自分を殺すよう依頼するという流れになっている。
 これにより鬼太郎も素直に倒すべきか悩まざるを得ない状況に立たされてしまったのだが、こういう展開の場合、妖怪になる前の状態の人間が同情的な存在であればあるほど悩みも深くなる(そして物語としては面白くなる)わけで、この設定変更は今話の展開にマッチした良改変だったと言えるだろう。
 その改変により浮き彫りになるのは鬼太郎の心情だ。これまでにも鬼太郎がその胸中を吐露する局面は何度かあったが、それはたんたん坊戦だったりバックベアードとの決戦だったりと戦いの中で激昂する義憤をそのまま声に出したような感じであり、今話のように毎度の妖怪事件の中で自分の気持ちをはっきり表明することはあまりなく、今話の鬼太郎も例によって口数は少ないものの、「おどろおどろが吸血事件の犯人かどうかはまだわからないから(即断を避けた)」と目玉親父が鬼太郎の考えを代弁しており、犯行が実際におどろおどろの仕業とわかってからもなお指鉄砲を構える手がどこか躊躇いがちだったところから見ても、未だ割り切れていない鬼太郎の心情が窺える。
 小野崎の娘・美琴は父が妖怪化しても自分だけは襲わなかったからまだ最後の理性は残っていると訴えるものの、再度妖怪化したおどろおどろはそんな彼女の自分を想う気持ちを「理解」しているかのように、美琴の血を吸おうとする。それは自分が実の娘までも餌食にするような、完全に理性を失ったただの化け物なのだと鬼太郎に思わせるための芝居だったのか、それとも本当に変貌しつくしてしまったのかはわからない。
 それを見た鬼太郎が何を考えて止めの指鉄砲を放ったのかも含め、中盤で鬼太郎の心情をある程度言葉ではっきりさせていたからこそ、このクライマックスでまた敢えて鬼太郎の気持ちの吐露を封印させて見る者の判断に委ねる構成は、巧みであると同時にある意味では非常にストレスの強いものになってはいるが、だからこそラスト、美琴と鬼太郎の「やり取り」が一層冴えるのである。
 事件解決後、「絶対に許さない」と告げる美琴に無言という形で応え去っていく鬼太郎。事件解決の最終的な手段も事件解決した後もどちらもすっきりとしない後味の悪さは原作が迎えた結末の苦さをさらに一歩推し進めたクロージングであり、その意味で今話は「妖怪に変貌した人間の末路を描く」という一点において、原作をも超えた挿話と言ってもいいのかもしれない。

 次回の話はのっぺらぼう。原作では敵妖怪として登場したのっぺらぼうだが今期ではOPを始めこれまでに数回ゲゲゲの森の住人として登場しており、つまりは鬼太郎と直接敵対していない仲間妖怪的立ち位置であるはずだが、そののっぺらぼうをメインにした話はどのようなものになるだろうか。
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2019年03月03日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)42話「百々爺の姦計 妖怪大裁判」感想

 6期鬼太郎もどうやら2年目放送が確定したようだが、3月の放送は10日が休止だけどもこれで残りの話数で名無しとの決着がつくのだろうか。というか24日と31日放送分のサブタイトルが不安を煽りまくるタイトルなので、どんな内容になるのか今から心配である。

 それはそれとして今回の話。妖怪大裁判の話も普段の鬼太郎の世界観から考えるとかなり異質な話ではあるのだけど、それ以前に出たものも含めて妖怪たちが大挙して登場する一種のお祭り回として印象に残りやすい話である。当然歴代アニメ作でも漏れなくアニメ化されており、特に裁判長役の大天狗が以前から鬼太郎の知り合いという設定になっていた5期ですらアニメ化したのだから、制作側にとってはアニメに「してみたい」話なのかもしれない。
 そんな今回の妖怪大戦争、原作だと前半の裁判シーンと後半の濡れ衣を晴らす&百々爺との対決シーンとに結構はっきり分かれているが、今話では前半部分にあたる裁判のシーンに焦点をほぼ絞った構成となっていた。証人にただ延々と説明させるだけでなく検察側と弁護側(親父やねこ娘)による質疑の時間を与えたりと、公式ツイッターでも触れているとおり地味になりがちな、ともすれば後半の戦闘場面の前座として処理されがちなシーンに工夫を凝らして見栄えのする展開にしようと腐心しているのが見受けられる。
 その分原作の後半で描かれた百々爺との対決はほぼ完全にオミットされており、特に百々爺の得意技である鼻もんもがまったく登場しなかったのは残念なところだった(鼻毛針は使った後のものだけ登場していたけど)。ただ刑に処されようとする鬼太郎を何とか救おうと目玉親父が時間稼ぎをしている間にねこ娘たちが真相を究明するという流れ自体は法廷ドラマのセオリーに従ったものであり(個人的には「のび太の宇宙小戦争」を思い出したけど)、それも考えて今話はやはり百々爺との戦いと言うよりは「妖怪大裁判」そのものに注力していたと考えるのが妥当なのだろう。
 人間であるまなが証人として登場したのはちょいとご都合主義な感じがしたけども、今回の裁判と言うか事件自体が名無しに仕組まれたものであったのだからこれはこれでいいのだろう。何よりまなとしては鬼太郎と貶めるつもりは全くないにもかかわらず、百々爺の誘導尋問的な質問に従う内に結局鬼太郎を窮地に追い込んでしまうという展開は結構見応えのあるものに仕上がっていたと思う。まなに惚れていたり鬼太郎とは個人的に知り合いでもある小次郎の態度も、これまでの話を踏まえたものになっていて細かい描写にも注意が行き届いていた。
 個人的に一番物足りなかったのは原作でも歴代のアニメ版でも大挙して登場するモブ妖怪たちが、今回は目の光だけで処理されてしまい実態を拝むことができなかったというところかな。そのせいで最初に書いた今話らしいお祭り感がいまいち乏しくなってしまった気がする。まあ今話は裁判描写に注力していた以上、そもそもお祭り感覚の話ではないのだけど。
 …鬼太郎のケツは別に出なくてもいいよ(笑)。

 今回の大裁判の影に名無しの存在を鬼太郎が感じ取る一方、まなはその名無しにこれまでに続き4つ目の印「金」を刻印されてしまう。五行由来と考えると残りの印は「水」。最後の刻印がまなに施される時、一体何が起きるのだろうか。
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2019年02月24日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)41話「怪事!化け草履の乱」感想

 さて今回の話は化け草履…なのだが、話の内容とは別の次元で個人的に腑に落ちない点が出てしまって、どうにも話自体の感想をきちんと考えられないというのが正直なところだったりする。
 器物百年を経て変化する付喪神の存在が今話の肝でその付喪神たちが人間に簡単に捨てられてしまう現状を悲しんで…(「怒って」でないのは今期独自のアレンジで程良い匙加減だった)、というのが今話の粗筋なわけだけど、この種の話を見るとどうしても「物を捨てるのってそんなに悪いことなのかなあ」と思ってしまうのである。まして今話の場合は大事にしてくれた人が亡くなったのと引っ越しという生活環境の変化があって、取っておく意味がほとんど失われてしまった状態だから、原作で買ったばかりの靴を気に入らないからという理由で捨ててしまうのとはだいぶ状況が異なっているから、それを同等のものとして考えていいものなのかなあと考えてしまうのだ。尤も制作側もその辺は踏まえているからこその怒り→悲しみへのニュアンスの変化なのだろうけど。
 でもよほどの好条件が揃わない限り、1人の人間が生きている中で手に入れたすべての物を所有し続けることなんて事実上不可能なのだから、捨てることは悪いことと断じているような話作りにはちょっとうーむと思わざるを得ない。今話ではそのあたりの落とし所として化け草履たちを資料館に保存するという形で幕を閉じさせたので、話としては巧いまとめ方だったとも思うのだけど(じゃあ言うな)。
 個人的にはエキセントリックな変人を登場させるよりはごく普通の、何の悪意もないけど物を大切にしない人(5期78話でヒダル神を怒らせた料理番組のような)を出して、その上で古い物を大事に思う人たちをクローズアップした方が良かったんじゃないかなあと思ったり。
 あくまで個人的にそう思うだけで今話そのものは、何度も触れてるけど怒りではなく悲しみが行動の動機としている時点であまり殺伐とした雰囲気にはなっておらず、良い話としてまとめきっている手腕は見事である。今回の騒動のそもそもの原因が「人間」と「器物」のコミュニケーション不足という、文章で書くとおかしいのだけど作品世界的にその通りとしか言いようがない点も、いかにも鬼太郎や水木漫画らしいユーモアがあって良い。

 次回は妖怪大裁判。…あまり鬼太郎のケツにばかり目を向けないように(笑)
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2019年02月17日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)40話「終極の譚歌 さら小僧」感想

 …いつも思うけど「ぺったらぺたらこ」が受ける世界ってのも不思議なもんだよなあ。

 というわけで今回登場の妖怪はさら小僧。例によって彼の代名詞的フレーズ「ぺったらぺたらこ」も引っ提げての登場である。自分だけの歌を人間に盗まれたので復讐に現れ、そこを鬼太郎によってとっちめられるという展開は基本的に原作に沿ったものである。原作では目玉親父もその実力を危険視し鬼太郎は一方的にやられてしまい、ねずみ男の反則的な不潔攻撃によって退けることができたというレベルの強豪妖怪だが、今話ではねずみ男たちを閉じ込めた檻を一蹴りで吹っ飛ばすという力の片鱗は見せていたものの、鬼太郎と全面的な対決には発展せずに終わっており、その辺は少々物足りなかったかもしれない。
 だが今回の白眉は鬼太郎とさら小僧との対決云々ではなく、さら小僧の歌を盗んだ売れない芸人・ビンボーイサムの去就だろう。一度鬼太郎に歌を歌わないよう忠告を受けても無視してさら小僧に攫われるところまではこれまでにも見られたセオリーの範疇だったが、この芸人はさら小僧の手から鬼太郎に救われ再度忠告を受けたにもかかわらず、最終的に自分の意思で再び歌を歌ってしまう。家族にさえ止められたにもかかわらずである。
 勿論その理由は劇中でねずみ男が言ったとおり、結局のところは家族のためとか金銭的な収入とかではなく芸人として大勢の人から喝さいを浴びたかったからに他ならず、そのために家族を捨てただけでなく鬼太郎やさら小僧との約束をも反故にした、まさに自分勝手の極みと言ったところの理由なわけだが、この結末はいわゆる風刺や皮肉といった味わいとはまた別の次元で非常に鬼太郎らしい結末でもあった。
 それは自分勝手な理由ではあるし救いも全くないのだが、自分の意思で自分の生死を決定づけた、命さえも自分の欲の天秤にかけたという点である。これが鬼太郎らしい結末というのは、極めて「水木漫画」的な結末でもあるからだ。
 命の重みとかそういった観念はまるっと無視して自己の欲望と命を天秤にかけて欲望の方を取る。これは古今東西の物語でよく描かれるパターンでもあるが、水木漫画の場合少々趣が異なるのは、このパターンを否定的に描くのではなく「自分の命なんだから自分の生き死にを自分で決めるのは当然のこと」とむしろ肯定的なスタンスで描くことが多い点にある。
 これには水木先生がかつての軍隊時代、自分も含めた多くの戦友が自分の意思で生か死かを決めることが叶わず、上官の命令、あるいは敵の攻撃によって強制的、理不尽に死を迎えることになったという辛い体験故の死生観が大きく影響している。簡単に言えば「自分で考えて決めたのだから、考えた末に死にたいと思った人は死なせてあげなさい」というスタンスだ。この感覚が水木作品に大きく影響しているというのは、原作の鬼太郎や多くの水木漫画を読んだ方なら理解できるところだろう。
 水木しげるの世界にとっては自分の意思で自分の生死を決められることは幸福なことなのだ。たとえその結末が「死」であっても。その意味でビンボーイサムは芸人として最高の喝采を浴びたから幸福なのではなく、その先に迎えるであろう結末までも自分で決められたからこそ幸福なのである。ビンボーイサムの姿を見て悲しむ母子と怒るさら小僧の姿に隠れがちだが、何も言わず音も立てずに(下駄の音もしない)立ち去っていく鬼太郎の姿は今話、引いては今作の世界そのものがビンボーイサムに向ける冷徹な視点の代替であり、それこそが今話の真骨頂と言えるだろう。そしてこの結末を迎え「られた」今作はやはりゲゲゲの鬼太郎、そして水木しげる漫画の系譜に連なる作品の1つであると断言することができるのである。
 今話は表層を見ればバッドエンド、ビンボーイサムの視点に立てばハッピーエンドと捉えられるだろうが、実際は鬼太郎の視点に立ってそのどちらとも取れる結末を「フハッ」と見やる、水木世界的に極めてオーソドックスなエンド、と言えるのかもしれない。

 次回の登場妖怪は化け草履。さら小僧に対するぺったらぺたらこと同じくらい、化け草履と言ったら器物の妖怪変化と関係性が決まっているところがあるが、今期ではどのような物語になるのだろうか。
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ゲゲゲの鬼太郎(第6期)39話「雪女純白恋愛白書」感想

 うん、面白い。3期以降の歴代ねこ娘声優が集まるという話題性を抜きにしても、ラブコメの定石も種族の違う男女の恋愛劇もそつなく見せており、それでいてこの種の話だと出番が本当になさそうな鬼太郎にもメインストーリーの埒外で(これもコメディタッチの)出番を作っており、脚本も演出も絶妙なバランスで成り立ったグレードの高いコメディに仕上がっている。
 鬼太郎に出てくる雪女と言えば原作的には雪ん子回に出てくる冷凍妖怪の1人であるが、アニメの古参ファンであれば5期の巨乳雪女・葵ちゃんを思い出すところだろうか。今回登場の雪女・ゆきはいかにも「雪女」という感じのクールビューティーな見た目(別に中の人がかつて演じたキュアビューティにかけているわけではない)だが、恋愛ごとに関して非常に疎い面は一種の天然っぽい雰囲気も見せており、感情移入しやすい可愛らしさも発揮していて好印象。
 お相手の暑苦しい男・俊(演じるは5期でミイラ男のバルモンドも演じていた森田成一氏)との対照的なバランスもラブコメぶりに拍車をかけており、それでいてゆきを想う気持ちは本当に一途で真っ当なもので、その暑さがいつの間にかゆきの中で好意的なものとして根付いており、それがねこ娘やまなとのやりとりの中で偶発的に気づくというシチュエーションはその直後、沼御前と一緒にいる俊の姿を見て初めて嫉妬心を覚える描写も含め、正しく恋愛劇のそれであった。
 妖怪と人間の恋愛譚と言えばこれまた5期でのろくろ首と鷲尾とのものがあり、こちらは今回のような種族の違い故の問題はさほど提起されることはなかったが、5期91話の一つ目小僧回で若干提示されていたことを踏まえて3年目も放送されていたらその辺りに突っ込んだ話もあったのかもしれないと想像してみると、今話はコメディの体裁ではあるものの5期で描ききれなかった一つ先の話を描いたと取れなくもないだろう。その最たるものは人間の方がどうしても先に寿命を迎えてしまうというところだが、「愛があるならそれでもやって行けるだろう」という理想的なハッピーエンドを今回は迎えられており、いささか理想に過ぎると思われる向きもあるかもしれないが、ゆきの母親の言葉からするとその理想の結果として生まれた存在がゆきであるのだろうから今話、引いては6期の世界ではこれでいいのだろう。こちらとしても視聴後感は心地よくて良いしね。
 鬼太郎側の描写でおかしかったのはやはり恋愛とは何かと聞かれて説明するうち自分のことを話している風になってしまうねこ娘の様子だろうか。ねずみ男から渡された恋愛シミュレーションゲームをやる羽目になって寝不足になってしまった鬼太郎や、鬼太郎と反対に妙にやる気の目玉親父と、その鬼太郎と相対する妖怪が5期ねこ娘役の今野宏美氏演じる沼御前だったことも含め、今話は全体的に5期っぽさがそこかしこに漂う話であったとも言える。
 もちろん冒頭に述べた歴代ねこ娘声優の共演も僕のようなオールドファンには嬉しいサービスだった。ゆきの母親役だった三田ゆう子氏とゆき役の西村ちなみ氏は4期48話で、西村氏と今野氏は5期96話で共演経験があるものの、全員が一堂に会したのは勿論今回が初めてのことであり、半世紀に渡って続いてきたアニメ版ゲゲゲの鬼太郎ならではのちょっとしたお祭りであった。
 この調子で5期映画の5大鬼太郎みたいにいつか6人の鬼太郎が勢揃いしてくれたら非常に嬉しいのだけど、ま、夢は夢のままでも、ね。

 次回はさら小僧。さら小僧と言えば「ぺったらぺたらこ」。こちらも歴代アニメではコメディだったり怪奇話だったりと様々なアプローチが成されているのだが今期ではどのように料理するだろうか。
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2019年02月14日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)38話「新春食人奇譚 火車」感想

 第3クール全般に渡って展開された西洋妖怪編も、バックベアードの退場とアニエス・アデル姉妹の旅立ちを象徴として無事に幕を閉じた。年が明けての第4クールからはいつもの1話完結形式に戻る一方で公式的には「名無し最終決戦編」とも銘打っており、名実ともに今期鬼太郎の縦糸として話を引っ張ってきた名無しとの決着がつく重要な期を迎えたわけである。
 今の段階では2年目の放送があるかどうかはわからないが(京極先生の発言はあったようだけど)、どちらにせよやはり名無しとの決着は放送1年目のラストを飾るこの第4クール期でつけなければならないのだろう。
 まなの体に刻印された印は今のところ3つ。名無しの目的もまなを標的にした理由もその実力さえもほぼ不明なままではあるが、どのような展開と決着を見せるのか今から非常に楽しみである。

 それはそれとして第4クール初回である。…しっかし年明け早々にえらく物騒なサブタイトルを持ってきたなあ(笑)。
 今回の登場妖怪は火車。葬式や葬列中の人間の死体を盗んでいく悪どい妖怪だが、原作では「皮を残して内臓を取る」とまで言われるほどの強豪であり、実際鬼太郎は魂入れ替わりの術を食らってあっさり破れてしまっている。歴代アニメでは原作に準拠した2期や3期に反して涙もろい人情家として作られた4期、妖怪四十七士の1人(つまり鬼太郎の味方)になる5期など、なかなか多様なキャラ造形が行われているが、今回はとぼけた雰囲気を見せつつも比較的原作に準拠した悪辣な妖怪として描写されていた。
 最初は死体を食っていないために妖力も乏しくまなに見つかって逃げてしまうような情けない姿をさらしていたが、これは原作にあった「昔の元気はねえよ」というセリフを発展させた設定と言え、久々にねずみ男が火車を巻き込んで単独で金もうけに走る様も、原作で印象的だった「困っている人間から金を稼ぐのが一番簡単な儲け方」という小狡いセリフや態度の今期風焼き直しと考えると、なかなか巧いこと原作をアレンジしていると言える。
 さらに直接的な表現こそないものの火車が物理的に人間の死体を「食う」という原作にはない、ある意味原作以上とも言える描写を加えたことで、最初は少しとぼけた感じのしていた火車が本来的には図々しく悪辣な存在であることを短い時間で十分に見せていた。妖力がある程度戻ってからの魂入れ替わりの術を駆使してのねずみ男→ねこ娘→鬼太郎の変化は、それぞれの担当声優の熱演もあって非常に聴きごたえがあり、鬼太郎in火車とねこ娘in鬼太郎のバトルという珍しい対戦カードも実現しており、視覚的にも面白いシチュエーションに仕上がっていたと思う(入れ替えられた鬼太郎たちにしてみればたまったものではないだろうが)。
 そして実に3期以来に披露された目玉親父の大技「逆モチ殺し」。近年はどちらかと言うとマスコット的な扱いが(特に画面外で)多く見られるようになってきた目玉親父もれっきとした実力者であり、鬼太郎のピンチを救えるだけの力を持っているということを久々に画面の中で見せつけてくれた。火車がかなり好き勝手やって鬼太郎たちを追い詰めていただけに、見た目のグロさにかかわらず物語的なカタルシス・高揚感まで覚えさせてくれるのも物語運びの妙であろう。

 ただ個人的にはラストのオチは、今回に限っては少々やりすぎだったようにも思う。元々死体を手に入れる手段として「死体があることを世間的に知られたくない」後ろめたさを持つ人間たちから回収するというねずみ男のやり口はいかにも6期らしい風刺が利いていたし、その延長線上としてのオチなのだとは思うのだけど、あそこまでの悪辣さを発揮し目玉親父という一種切り札的存在に倒されるという展開を受けながらのうのうと逃れ落ちてしまうというのは、ちょっと演出の嗜好的に風刺に偏りすぎてはいなかったろうか。
 まあ原作のクロージングは火車が目を回して降参というあまり見栄えのするものではなかったから、それをそのままアニメ化するというのもそれはそれでどうかとは思うけど、ゲゲゲの鬼太郎という作品はエスプリやアイロニーの利いた娯楽作品なのだから、そのあたりの匙加減は慎重にやってほしいなあと思う次第である。
 オチのせいで今話全体の完成度が深刻な影響を受けるとかそういうことでも全然ないのだけど。

 次回は雪女。直近で雪女と言ったら5期の葵ちゃんを思い浮かべてしまうところだけど、スタッフ談話によるとラブコメ話になるようで久々に笑い重視の話となるのだろうか。
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2019年02月11日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)37話「決戦!!バックベアード」感想

 アルカナの指輪とブリガドーン計画を巡って鬼太郎たち日本妖怪とバックベアード率いる西洋妖怪が激闘を繰り広げる中、鬼太郎は大ダメージを受けアニエスを運命から救おうとしたアデルと共にベアードに痛めつけられてしまい、彼らの命と引き換えにアニエスはブリガドーンのコアになる運命を受け入れ、ついにブリガドーン計画を発動させてしまう。
 ブリガドーンにより異形に変わっていく人間たち、そしてそんな人間たちから放たれるどす黒い念を1人吸い寄せ続ける名無し。計画完遂と高笑いするベアード。絶体絶命のこの状況で鬼太郎は復帰できるのか、そしてベアードと決着をつけアニエスを救うことができるのだろうか。

 鬼太郎を救うための最初のキーマンとして動き出したのはまなだった。前話でアニエスの助けも間に合わず航空から落下したまなだったが、鬼太郎から渡されていたちゃんちゃんこの力で難を逃れただけでなく、前々話でアニエスから手の甲に受けた「魔女のキス」の効果により、ブリガドーンの只中にいても妖怪化するのを免れていたのである。後のセリフでベアードもまなが変化しないことに多少なりとも驚いていたことから見てもかなりイレギュラーなことであり、これもまたブリガドーンのコアに選ばれるほどの魔力の持ち主であるアニエスだからこそできる芸当なのであろう。
 まなは鬼太郎と同じくベアードの攻撃を受けて痛めつけられていたアデルと邂逅する。鬼太郎の妖力を回復させる魔法石を渡そうとするアデルを目玉親父は警戒するが、まなはアデルの必死の眼差しにアニエスと同じものを見出し、魔法石を受け取って鬼太郎の下へ走り寄る。
 それを見つけて弄ぶように攻撃してくるバックベアード。たちまち追い込まれてしまうまなだったが間一髪、魔法石の力で復活を果たした鬼太郎と一反木綿に救出され、鬼太郎も起死回生の指鉄砲をベアードに放つ。
 しかしベアードもその程度で倒されることはなかった。何と目玉だけと思われた自分の体を人型に変形させ、鬼太郎に肉弾戦を挑んできたのである。
 バックベアードと手足と言えば「鬼太郎国盗り物語」における相撲対決で手足をニョキニョキニョキーと生やしてきたベアードの姿を思い浮かべる原作ファンも少なくないだろうが、まさか体型そのものまで人の形に変えてくるとは思っていなかったので、個人的にはかなり驚かされたものである。着想の一つに前述の「国盗り物語」があったのだろうが何とも大胆なアレンジであり、まるで前番組のドラゴンボールみたいと一部で囁かれるのも無理ないことであろう。ただベアードの場合元々の姿だと鬼太郎とあまりに体型が違い過ぎるので、たとえば3期〜5期におけるぬらりひょんと鬼太郎の格闘のように分かりやすいアクションを構築しにくく、かと言って今期は5期における地獄究極奥義のような派手な技も存在していないため、従来の味を生かしつつ派手なアクションという画を完成させるためには、むしろこの種のアレンジは必要な条件だったとも言えるだろう。
 単眼からの妖力攻撃も健在で鬼太郎もたちまち劣勢に追い込まれてしまう。その合間にもアデルは今度はアニエスを救おうと、身動きも出来ない体をまなに支えられながらアニエスの下へ歩み寄るが、すぐにベアードに気づかれ一撃を受けてしまう。その攻撃自体はアデルの防御壁でどうにか防いだが、ここに至ってついに鬼太郎も激しい怒りを見せ、リモコン下駄や大技・体内電気を使ってベアードに対抗する。
 この流れ自体はかつての妖怪大戦争の時と同じなのだが、注意したいのはここで鬼太郎が怒る原因になった「傷つけられた仲間」が妖怪仲間ではなく人間のまなという点である。まなと歩み寄ることをやんわり拒絶した3話の頃から比べると隔世の感があるが、西洋妖怪編を含め何度となくまなと行動を共にし、鬼太郎にとっても気の置けない間柄になっていたというのは、内面の変容ぶりが外見からはわからない今期の鬼太郎における明確な成長(と言っていいだろう)であり、クライマックスの大事なシーンであるがなかなか微笑ましい瞬間でもあった。
 思わぬ反撃に驚きながらも一気に決着をつけようと大技をぶつけてくるバックベアード。それに対抗して放つ鬼太郎の指鉄砲とが空中で激しく拮抗し合う様は本当に前番組アニメのようである(笑)。圧倒的な力で指鉄砲を押し返しつつベアードは自分の歪んだ思想を鬼太郎に押し付けてくる。絶対的な強者が弱者を束ね崇めさせる世界、それが理想的な「平和の世界」であり自分はそれを作ろうとしていると強弁するベアード。しかしそれで出来上がる世界とは特定の存在のみが持つ理念のままに支配されすべてが抑圧された不幸な世界であり、それは自由と共存を望む鬼太郎の最も嫌うものでもあった。
 ベアードの邪な野心に反発する鬼太郎の心情に呼応するかのように、怒りの色に染め上がっていくちゃんちゃんこ。鬼太郎の祖先である幽霊族も同じ信念を持っているのか、それとも単に子孫である鬼太郎の助力となるべく立ち上がったのか、どちらの理由によるものかはわからないが、鬼太郎の想いに多くの先祖たちが呼応し力を貸してくれるのは間違いない。原作と同様、鬼太郎の窮地に立ちあがったちゃんちゃんこの力も得て、鬼太郎は極大級の指鉄砲を放ち、ついにバックベアードを地上から消滅させる。
 ベアードの消滅を目の当たりにした他の西洋妖怪も離脱、アニエスもアデルの命をかけた行動でついに救出されブリガドーン計画も停止し指輪は消滅、長い戦いはついに決着を見る。
 魔女の運命から解き放たれたアニエスはアデルと共に世界を見て回ることにし、まずは耳長たちの故郷へ向かうことを決める。そのことを鬼太郎に教えられたまなは鬼太郎に導かれるまま初めてゲゲゲの森を訪れ、再会を約束して旅立つアニエスたちを見送るのだった。

 しかしまだ「事件」は完全に終わってはいない。この西洋妖怪との一連の戦いの中で漁夫の利を得たと言っていい唯一の存在・名無しが今もまた暗躍し、まなに今度は「土」の刻印を施す。以前刻印した「木」「火」に続いてこれで3つ目。この刻印が何を意味するのか、そもそも名無しの目的が何なのか未だに判明していない中、物語は第4クール「名無し最終決戦編」へと入っていく…。

 今話で「西洋妖怪編」と名付けられた第3クールは終了したわけだが、3クール全体を軽くまとめて感想書いてみるとすると、少なくとも異質な展開ではあったと思う。それがスタッフの意図したものかどうかはわからないけれど。
 元々今期は名無しという縦糸的要素が存在してはいたものの、はっきりとクール全体に渡る連作形式を取るのは鬼太郎アニメの中でも初のことであり、しかもバトル重視という初めてづくしのクールであったが、この西洋妖怪編のメインキャラというべき存在であるアニエスに注目して見てみるとよくまとまっていたと思う。
 それほど西洋妖怪との絡みがない33話で「運命に従おうとしている娘」に対して辛辣な態度を取っていたのも、35話を見た後ならその理由も納得できるし、31話や34話の描写からも本来は素直で心優しく、でもどこかで無理をしているというアニエスのパーソナリティが垣間見え、その描写については非常に丁寧で巧く盛りたてていたと言っていいだろう。
 反面、開始前のスタッフの言にあった「鬼太郎個人を深く見せる(大意)」についてはちょっと首をかしげざるを得ない。アニエスと積極的に絡む役目はまなが担っていたこともあって、鬼太郎自身は今までとさほど変わらないスタンスを維持していたため、前2クールと比べてもさほど鬼太郎自身に変わりはなかったように思われる。ただこれについては演じる沢城みゆきさんの体調の問題(ちょうど産休・出産の時期)もあったろうから、一概に否定の材料にはなりえないのだけど。
 だからどこに注目するかで本クールの評価は変わってくるだろう。今まで以上の鬼太郎の活躍を望んでいた人や前2クールで多く見られた風刺の色合いを望んでいた人からはつまらないと思われるだろうし。僕としてはゲゲゲの鬼太郎という作品自体が極めて自由な作風だしそれが作品最大の魅力と思っているからこのくらいの変遷は望むところであるし、1話1話のクオリティは高いものだったので概ね満足しているというところである。

 さて次回からは先述のとおり「名無し最終決戦編」と銘打たれた第4クールに突入する。新年一発目からなかなか物騒なサブタイトルだが、果たして久しぶりに逆モチ殺しは拝めるのだろうか。
posted by 銀河満月 at 16:28| Comment(0) | ゲゲゲの鬼太郎(第6期)感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)36話「日本全妖怪化計画」感想

 前話にてアニエスが本当の意味で鬼太郎たちの仲間となったところを描いたこの西洋妖怪編、いよいよ今話と次の話の前後編がクライマックスとなる。
 当然今話の出だしはアルカナの指輪を求めて再襲来したバックベアード軍団と鬼太郎たちとの戦いになるわけだが、単なる闘争以上の意味を持たせるためのギミックとしてまなに指輪を拾わせているのは作劇上の都合と言ってしまえばそれまでなのだが、名無しを登場させてそこにも何らかの作為が働いているであろうことを匂わせ、ご都合主義的な脚本上の強引さを回避している。
 まなの拾った指輪を巡って鬼太郎はアデルと、子泣き爺はヴォルフガングと、ぬりかべはフランケンシュタインと、ねこ娘はカミーラとそれぞれ四者四様の戦いを繰り広げる。カラスを通してまなとアニエスの関係性を知っている鬼太郎がまなのことを「(アニエスの)友人、だろうな」とアデルに伝えるシーンは、アニエスだけでなくまなに対しても一定の信頼を抱いていることが感じられてなかなか良い。原作の展開に沿うならフランケンと戦うのは子泣きがいい(5期ではやってた)とかいう点で原作ファン的には若干の不満がないでもないが、まあそれはそれだしそれで今話の展開に水を差されるようなものでもないだろう。
 鬼太郎たちの助力を得て指輪と共に逃げるまなだが、鬼太郎を一旦退けたアデルが再びまなを襲い、アニエスの助けも及ばず指輪は奪われてしまう。指輪と共に高所から落下していたまなを掴んだのはアデルだったが、それは単に指輪を手に入れるためだったのか、それとも妹の「友人」であるまなにある種の興味が働いたのか、この描写だけではどちらとも言えないがそこは見る人が判断するべきところなのだろうか。
 だが結局まなはアニエスの助けも間に合わず落下してしまい、駆けつけた鬼太郎もバックベアードの不意の攻撃を受けて別空間=ベアードの空間に閉じ込められてしまう。

 アニエスもアデルに捕らえられまさに絶体絶命となった時、アデルはアニエスではなく自分が指輪をはめ、自分自身をコアにしてブリガドーンを実行しようとする。アデルもまた魔女の一族の運命に抗い、せめて妹のアニエスだけは自由にしてやりたいと願っていた、そのためにベアードの下で忠実な部下として今まで行動していたのである。魔女の運命に従って大切な家族を失う悲しみを彼女はアニエスと同様に抱いていた、そして母親を失った今、さらに妹をも失う悲しみを味わいたくないがためにずっと行動してきたのだった。
 正直に言えばこのシークエンスこそ強引に思わないではない。勿論アデルの真意が他の登場人物、引いては視聴者側にもばれないようにするためには安易に伏線になりそうな描写を織り込むことは難しかったろうが、あまりにも何もなさすぎて唐突すぎる印象はどうしても付きまとう。Aパートで見せたまなを助ける描写にそれらしさを感じられなくもないのだが。前話でアニエスが回想していたようにアデルもまたアニエスとの過去のやり取りを思い出させるなりして「(かつては)妹を大切に想っていた」くらいのシーンはあっても良かったかもしれない。
 しかしそのアデルの考えもバックベアードには見透かされていた。さらに元々の魔力が足りなかったためにブリガドーンは発動せず、ベアードはアデル、さらには捕まえた鬼太郎をも人質にとってアニエスにコアとなることを強要する。
 目の前で大切な仲間、そして姉が傷つく様を見せつけられ、アニエスに耐えられようはずもない。アニエスは自分をコアとしてブリガドーン計画を発動させてしまう。その魔力はあっという間に暗雲の如く空に満ち、人間たちは妖怪に変貌していく。そして変わりゆく人間たちから放出される黒い念をどんどんと集めていく名無し。

 と、文章で書けば今話の内容と感想は大体こんなものだけど、バトル主体の話は感想を書くのが難しい(笑)。
 とりあえず気になったのは上記のアデルの真意関連の部分くらいで、西洋妖怪編のクライマックスとしては十分な出来だったんじゃないだろうか。他の西洋妖怪と鬼太郎ファミリーの戦いがあまり描かれてないのはちょっと物足りない気もしたけど。
 鬼太郎があまり活躍できずやられる描写が多いのは、まなにちゃんちゃんこを貸し出しているという点もあるのだろう。原作どおり後編の次回ではちゃんちゃんこさんのブチギレ大活躍を期待したいところである。
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2019年02月10日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)35話「運命の魔女たち」感想

 西洋妖怪編も折り返しを過ぎ、明確に鬼太郎自身がバックベアードと敵対する理由を見出したことで再び激しい戦いが起きることを予感させる流れになってきたが、その渦中で仲間としての絆を培ったはずのアニエスは鬼太郎の元をまたも離れていってしまう。
 彼女が何を思い、その思いに鬼太郎はどのように応えるのか。最終決戦の前に今一度両者の気持ち・決意を明示する儀礼的な話が今話の主な内容である。

 アニエスが自分の過去と自分自身に秘められた事情を最初に打ち明けた相手は鬼太郎ではなく、鬼太郎よりも前に友達として関係性を築いていたまなだった。
 まなと仲良くなれた場所でアニエスはゆっくりと語り出す。姉のアデル、そして母親と楽しく暮らした幼い日のこと、優秀な姉にコンプレックスを抱いてきたこと、些細なきっかけで見せた魔法の力の一端がバックベアードの目にとまったこと、そしてブリガドーン計画とアルカナの指輪のこと…。
 アルカナの指輪がその力を最大限に発揮するには強い魔力を持つ魔女の命を生贄に捧げることが必要だった。アニエスの母もかつてその「運命」に従って命と引き換えにブリガドーン計画を発動させていたのである。そしてバックベアードは日本でブリガドーンを実行するためそのコアに、つまり次の生贄としてアニエスを選んでいたのだった。アニエスはベアードの命に従って生贄になることに、そしてそれを受け入れて母を見殺しにしたアデルに、魔女である自分が当然持つべきものとして存在していた「運命」に反発して遁走してきたのである。
 彼女にしてみれば母の死の直接の原因であるベアードに従いたくないという気持ちも当然あるだろうが、それと同等に幼い頃はいつでも一緒だったという姉のアデルが変わってしまったことに対する反発心もあるのだろう。アデルを姉として慕っていたからこそ今のアデルがしていることを認めることができない、複雑な胸中を吐露するアニエス。
 そしてその気持ちはアデルの方も同じだった。アデルは魔力の才能を見いだされベアードに選ばれた妹という存在に嫉妬していたのではないかと自問する。殊更に魔女一族の誇りに固執するのはその裏返しではないのかという苦悩さえその表情には浮かべており、彼女も決してベアードを盲目的に信奉しているわけではないということがわかるのだが、その苦悩さえも強い意志の元に抑え込み改めてアニエスと指輪を手に入れようと決意するアデル。

 そしてアニエスは自分の正直な気持ちをまなに打ち明ける。指輪を破壊するため、ブリガドーンを止めるために最初はただ利用するつもりだった鬼太郎たち、そして人間であるまなと仲良くならなければよかった、そうならなければ「巻きこみたくない」という思いを抱くことなどなかったのにと。
 これまでにもたびたび見せてきたアニエスの優しさを考えれば、仲間として迎え入れてくれた鬼太郎たちを大切に思う気持ちも、それ故に鬼太郎たちを巻き込みたくないと考えるのも当然であろう。彼女はバックベアードや配下の西洋妖怪だけでなく、自分自身の背負わされた運命ともずっとただ1人で戦ってきたのである。
 優しさ故にずっと苦しんできたであろうアニエスの心を救ったのはまなの言葉だった。友達になれて良かった、巻き込まれたなんて思わないと言うまなの素直な想いは、1人で苦しんできたアニエスの乾いた心を潤すには十分であったろう。アニエスがまなに抱きつき涙を流すのは1人で運命に抗い続けてきたアニエスが初めて他人を、仲間を頼った瞬間でもあった。
 その上でまなは改めて鬼太郎に相談するようアニエスに持ちかける。いささか逡巡しながらも友達であるまなの言葉を信じ、鬼太郎の下へ向かうことを決意したアニエスは、まなの手に感謝のキスをした後ゲゲゲの森へと向かう。
 森に入ってきたアニエスを妖怪たちは警戒し、果ては石まで投げて追い出そうとするが、そこに現れたねこ娘がアニエスを静かに後押しする。それに呼応するかのように続々と姿を見せる砂かけ婆に子泣き爺、一反木綿にぬりかべ。ねこ娘に限っては途中からだがアニエスとまなの会話を目撃していたこともあり、それを踏まえてのこの行動だろうが、それ以外の面々が敢えて言葉を発することなくアニエスの下に集まってきたのは、もはや会話を改めて交わさずともその想いが1つになっていることの証左なのだろう。多くの妖怪たちがアニエスの存在自体を拒絶する中、見知ったレギュラー妖怪であり、そして視聴者にとっては「ファミリー」として定着している妖怪たちがただ一つの目的のために集結する様は否応なしに高揚させてくれるではないか。

 集結した仲間たちの想い。それは彼ら「ファミリー」の中心に常にあり続ける1人の妖怪とも同じだった。注意して見ているとわかるが、アニエスとまなの会話は最初からカラスがずっと見続けていた。この世界において情報伝達役として重要な存在でもあるカラスは、アニエスの事情をすべて見て聞いていたのである。すべての事情をある妖怪に伝えるために。
 恐らくはアニエスが訪れる直前に彼はカラスからすべての事情を聴いていたのだろう。だから彼は敢えて多言を口にすることはなかったに違いない。助けてというアニエスの短い言葉に今の彼女の想いすべてが込められていることを彼は理解し、その必死の想いに応えたのだ。これこそが「ゲゲゲの鬼太郎」なのである。
 鬼太郎はなおもアニエスを追い出そうとする妖怪たちにはっきりと宣言する。ベアードの作る世界は単なる妖怪の世界ではなくバックベアードの世界であり、ただ1人の存在に支配され互いが互いを監視し合うような世界はまっぴらだと、そしてそれを果たそうとするベアードとは1人でも戦うと。
 忘れられがちだが鬼太郎もねずみ男とは別ベクトルながら、ねずみ男と同様に何にも縛られないという意味での自由人的気質を持っている。勿論「正義の味方」としての考え方も鬼太郎の大事な信念であるからまるっきりねずみ男と一緒というわけではないが、以前の3話でも片鱗をみせていたその気質が、今話にて最大限に炸裂したと言えるだろう(さらに言うなら結構とんでもないことをしでかし続けているねずみ男と悪友の関係を保ち続けているのも、根本が似通っているからである)。

 来たる最終決戦に向けて鬼太郎側の決意は固まった。その時とタイミングを同じくして出現するアルカナの指輪。指輪を求めて再び日本へ向かうバックベアード軍。そして暗躍する名無し。
 最後の戦いはいかなる結末を迎えるのであろうか。
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ゲゲゲの鬼太郎(第6期)34話「帝王バックベアード」感想

 別作業を優先していたら鬼太郎の感想を書くのがすっかり遅れてしまった。5期の感想も結局中途半端に終わってしまったし(まあ全体の4分の3くらいは書いたんだけどね…)、早く最新話に追いつくようにしていかないと。

 今回の話はこれまで顔見せ程度だった出番のバックベアードがメイン。力と力をぶつける話ではなかったものの、鬼太郎とベアードの思想・信条的な対立を決定づけるという点では両者の初「対決」話と言ってもいいだろう。
 今期のベアードは原作やこれまでのアニメ版におけるベアードのような「球体の体で中央に目がついている」存在と違い、存在そのものが別空間に存在しており周囲の黒い部分は空間の裂け目で、別空間から目だけを突き出しているという存在に改変が成されているが、今話はその改変が生きた話でもあった。28話でも少し描写があったが本体が別空間に存在しているから自分自身が移動することなく、どこからでも常にこちら側の世界の至る所を見やることができるという設定が加えられたことで、アニエスやねこ娘たち仲間妖怪の居場所を容易に見つけ虜にするというやり口に説得力が付与されている。
 さらに言えば妖怪大戦争後のアニエスや鬼太郎たちの行動さえも筒抜けだったのかもしれない、指輪が見つかるまで泳がされていただけだったのかもしれないと考えると、バックベアードの帝王としての圧倒的な実力と恐ろしさが窺い知れるわけで、今話の時点ではそれほど出番のないベアードの存在感を見せつけるには十分な能力設定だろう。
 そのような具体的な力を見せつけるだけでなく、鬼太郎の仲間たちを攫ったりねずみ男たちを甘言で惑わせてアニエスを精神的に追い詰めていくという卑劣な手段を行使してくるところは、いかにも「悪の軍団のリーダー」らしい完璧な敵役としての立ち回りであった。ましてその直前に悩みながらも妖怪バスツアーに参加しようと手弁当を作るアニエスと、それを微笑ましく見守る砂かけ婆たち妖怪アパートの面々を描写したばかりである。鬼太郎や日本の妖怪たちとも打ち解けたい、仲良くなりたいというアニエスの純粋な気持ちを見せておいて、そのアニエスの優しさを巧みに突く作戦を用いてくるやり口は、バックベアードという妖怪の恐ろしさを印象付けるという意味でもこれ以上ないほどに効果的であったろう。

 それ故にクライマックス、操られた仲間たちと戦うことを強要される窮地に立たされながらもベアードに屈することなく仲間たち、そしてアニエスも全員救って見せると決然と言い放つ鬼太郎の姿は非常に凛々しくカッコいい、正しく正義の味方・ヒーローであった。そしてそれはいみじくもバスツアーに参加することをためらうアニエスがまなに受けた「アニエスはどうしたいの」という助言と同じく、自分の心が求めるものに素直に従った故の決意であり、この時ようやくアニエスと鬼太郎は「共にありたい」という1つの想いを共有することができたのだろう。
 その想いに絶望の中の光を見出したアニエスは鬼太郎と協力し合うことでベアードからの脱出に成功する。鬼太郎だけでなくカミーラに騙されていたとは言えアニエスを追い出そうとしていたねずみ男が、唯一の武器である最後っ屁と「屁子力」による爆発で鬼太郎をアシストした点も、鬼太郎単独ではなく鬼太郎「たち」がアニエスを救うという骨子の暗喩になっており、同時にねずみ男らしいフリーダムぶりをも体現している名シーンと言える。
 この瞬間、アニエスはいわゆる鬼太郎ファミリーの一員になったのかもしれない。

 しかし想いを共有したはずのアニエスは、いやだからこそなのか、さよならの言葉を残して鬼太郎の元を飛び立ってしまう。ベアードの残した「ブリガドーンのコア」という言葉の意味も含め、アニエスの胸中は次回で明らかになるのだろうか。
posted by 銀河満月 at 12:07| Comment(0) | ゲゲゲの鬼太郎(第6期)感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする