2018年09月17日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)24話「ねずみ男失踪!?石妖の罠」感想

 さて今回の話は「石妖」。原作漫画としては3期放送時のマガジン連載時に描かれた話だがアニメ化するのは今回が初めてである。
 僕としては前話の感想に書いたとおり「このスケベじじい何するの」「捕らえ方がスケベくさい!」という原作のセリフがきちんと再現されるのかどうかが気になっていたところなのだけど、さすがに服が脱げて下着姿になるところまでは再現しなかったものの、セリフについてはどちらもきちんと再現されていたので非常に満足である(笑)。
 後者では原作でおなじみのビビビビンタが擬音付きで再現されており、前者は石妖演じる内田真礼さんのボイスで完全再現されていたのも個人的にはポイントの高いところ。花子さんのあやねるもだけど、今が旬の若手声優さんもどんどん出てほしいものですねえ。
 話自体は比較的原作に忠実に展開し、明確に違っていると言えるのは石妖の去就くらいか。その分原作では描かれていない細かい部分での各人の何気ない描写が光っていたのも今話の魅力だろう。器物の妖怪ということで結婚式には参加できないながらも、ゲゲゲの森で酒を飲みつつ祝う一反木綿とぬりかべや、腐れ縁ではあってもねずみ男のために金を貸す砂かけ婆や石妖探しに奔走するねこ娘などからは、いわゆる「鬼太郎ファミリー」の繋がりの強さが感じられて良かったと思う。結婚式で鬼太郎が恐らく友人代表ということでスピーチをしていたがそこはあっさり飛ばされてしまったので、鬼太郎が何をしゃべったのか聞いてみたかったなんて思ったりもする。
 石妖との戦いも概ね原作どおり。まったく何の伏線もなくいきなり海坊主が出てくるところも原作そのまんまなので、伏線を大事にする傾向の強い本作では逆に異質に思われるかもしれないが、原作ファンとしてはニヤリとさせられるところ。石妖にしがみつく子泣きじじいも、原作では不可抗力で服が脱げ砂かけにビンタされてしまうという割と理不尽な扱いをされていたのだが、今話では結構なスケベ心を出した結果としてのビンタという自業自得な流れになっており、このへんは良改編と言えるかもしれない。
 ちなみに何でか、ぬりかべが石になった石妖を粉々に踏みつぶすシーンに文句を言っている者がいるようだが、全くもって意味不明なので聞く価値はないと考えるべきだろう。
 それはともかく終盤の改変点は、海坊主に捕まった石妖を結局ねずみ男が助けるという描写である。その理由をねずみ男は「結婚指輪だけは盗んでいかなかったから」と言っているが、それが本当に石妖の仏心だったのか、ねずみ男の小さな感傷に過ぎないものだったのかは定かでない。しかし他の被害者の中にも石妖を訴える気にならないという者がいたように、石妖と出会って幸せな時間を過ごしたのも事実なのだから、心底から恨めないのも仕方のないことかもしれない。無論そう思わせることが結婚詐欺の特徴だということがわかっていてもどうしようもない、その意味では誰よりも人間臭いキャラクターであるねずみ男だからこそ描くことのできたクロージングだったと言えるかもしれない。

 さて次回はくびれ鬼。原作では一切登場していないにもかかわらず4期からずっと登場し続けている、アニメで知名度を上げたと言ってもいい妖怪だが、今回はまなを巻き込んで何かをする様子。名無しも暗躍するようだし西洋妖怪編に突入する前に何かまた動きが出てくるのだろうか。
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2018年09月16日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)23話「妖怪アパート秘話」感想

 今回の話はオーソドックスな妖怪退治話ではなく、鬼太郎を狂言回しとしてある1つのものにまつわる物語を追いかけているという話になっており、構成としては20話「妖花の記憶」と同じになっている。
 違っている点は20話はまなの大叔母とその恋人だった男性という「人」にまつわる物語だったのに対し、今話はアパートという物、と言うより「舞台」が中心の話になっていることだろう。それにより今話はアパートの管理人夫婦やアパートに集まる妖怪たちを交えてアパートの歴史そのものを追体験していく一種の群像劇・年代記として完成しており、さらに20話とは違いこの舞台には鬼太郎自身も深くかかわっているというのも、今話の特異性を際立たせている。基本が同じような構成でもアレンジ次第で如何様にでも面白い話が作れるというスタッフの自信または余裕が垣間見えるようである。それは回想場面の年代がそれぞれ68年、71年、85年と1〜3期の歴代アニメ作が放送開始された年に合わせるという、お遊び的な描写にも見て取ることができるだろう(各時代の考証をしっかり行うなど決して単なるお遊び描写だけで終わらせてはいないが)。
 この年代記的な作りは最後まで徹底しており、途中までは鬼太郎の語りによる3妖怪とアパートとの関係が、そして終盤は現在のアパートの管理人である夏美と3妖怪の関係性の掘り下げが主として描かれ、アパートにまつわる過去と現在を過不足なくリンクさせている。
 回想場面では各時代ごとに管理人夫婦と3妖怪、つまりは人間と妖怪の関係が発展していく流れを丁寧に描き、このアパートが「人間と妖怪が一緒に住めるアパート」であるということを強調している(人間の店子は妖怪に気づいていないが)。3つの時代を通してそのことを強調してきたからこそ終盤、夏美が実は幼少の頃は3妖怪の存在を理解していたということを思い出す流れに説得力が付与されている。
 人間の子供は人間の世界で生きるべきとの砂かけ婆たちの考えにより3妖怪は夏美のそばを離れ、夏美もいつしか妖怪の存在を忘れてしまった。しかし忘れてからも妖怪たちはそこに在り続けていた。歳を取らず寿命を迎えることもない妖怪たちは、1968年からずっとアパートで生きる人間たちを見守り続けてきたのである。そのことに夏美が気づいた・思いだした時、彼女の祖父母でありかつての管理人であった夫婦と3妖怪が紡いだ「家族」としての繋がりが、彼女にも再び生まれたのだろう。ここで過去と現在がリンクしたのである。
 2つの時間が繋がったその先にあるのは当然未来。砂かけ婆が管理する形でアパートは存続し、豆腐小僧を始め様々な妖怪がアパートを利用するようになってきた。夏美は外で暮らしているもののアパートのオーナーとして時折戻ってくる様子。人間と妖怪が共に暮らす場としての舞台はこれからも残り続けるわけだ。これから先がどうなるかはわからないが、紆余曲折あっても幸福な時代であった過去や現在と同様、幸せな時間を過ごすことができるものだと思いたいものである。幸福な時間をずっと妖怪たちと共にずっと見続けてきたであろう柱時計が変わることなく鎮座しているように。

 今話で自分的に注目したいのはこのアパートに対する鬼太郎の思い入れだ。
 かつて3話でまなに言っていた「妖怪と人間は近付き過ぎちゃいけない、恐れられているくらいがちょうどいい」という言葉を今話もまた口にしている鬼太郎だが、それは今期におけるこれまでの挿話の中で数々見られたとおり、妖怪と人間が近くなりすぎることで生まれてしまう悲劇や事件を数多く見てきたからだというのは間違いないところだろう。
 そんな鬼太郎が85年での地上げ屋との一件を始め、今回のアパート取り壊しの件などでもかなり積極的に動いているのは、鬼太郎のパーソナリティを考えると(妖怪が巻き込まれているからという建前があるにしても)かなり意外な感じがする。
 このアパートの件があってもなお妖怪の人間に対するスタンスが変わっていない鬼太郎ではあるが、一方ではこのアパートにおける人間と妖怪が共存している空間にどこか理想的なものを見ていたのではないか。人間と距離を置く理由が究極的にはそれに伴う怪異に人間を巻き込んでしまうのが嫌だからという鬼太郎の本心を考えると、そんな風にも考えられるのではないかと思うのである。

 次回は石妖。何と今期が初めてのアニメ化となる話だが、自分としては「このスケベじじいなにするの!」とか「とらえかたがスケベくさい!」が聞けるのかどうかが今から楽しみである(笑)。
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2018年09月04日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)22話「暴走!!最恐妖怪牛鬼」感想

 鬼太郎のファンであればよくご存知のことと思うが、鬼太郎はいわゆる無敵のヒーローなどでなく1人では勝てなかった、ギリギリの勝利だったと言った戦いはかなり多い。一度やられて復活してからのリターンマッチは定番だし、今期で言えば八百八狸との決戦では多くの仲間たちの力を借りてやっと勝つことができた戦いである。食われたり溶かされたりと色々やられながらも最後には勝利すると言うのが鬼太郎の戦いにおける最大公約数的なイメージと言えるだろう。
 そんな鬼太郎の戦歴には当然敗北に終わったものも存在している。鬼太郎は敗北し仲間たちが変わって戦うとか、正義の第三者妖怪が戦って決着をつけるとかそんな場合だ。牛鬼との戦いはそんな敗北の一つに加えられる戦いである。難しい言い方になるが、牛鬼との物理的な戦いにおいては鬼太郎が優勢のまま勝利したが、「生き死に」という根本的な勝負については完膚なきまでにやられてしまった、そんな戦いである。

 直近の5期では原作の話にかなり大胆なアレンジが加えられ、鬼太郎ファミリーに焦点を絞った物語構成になっていたが、今話は大筋は原作に沿った展開をなぞりつつ、リゾート地を目指したいが故に過去の因習を切り捨てた離島や牛鬼を見ても驚かず自撮りし出すなど、1話にも見られた現代的な描写を盛り込んでブラッシュアップするという第6期らしい物語作りが行われた。
 歴代アニメ作でも必ずアニメ化されてきたと言うこともあってか、特に鬼太郎が牛鬼に変わってしまうシーンには結構な尺とタメを用意して、鬼太郎という妖怪がさらに異形のものに変わって行ってしまう様子を画面たっぷりに描いており、インパクトが絶大なものに仕上がっている。牛鬼の作画ラインのみ他のキャラクターとは異なるタッチで描かれていることもあり(タイガーマスクWで使用されたレタッチ処理だろうか)、「別のものに変わってしまう」というイメージがより強烈なものとなって見る側に伝わったのではないかと思う。先に牛鬼に取りつかれた芸能人が結果的に死んでしまうという後味の悪さも含めて、本作屈指の恐怖シーンだったと言えるのではないだろうか。まさに最強ではなく「最恐」妖怪の所以というところだろう。
 牛鬼を退治するために神様へ祈るところは原作と同じだが、後半の展開で大きく異なっていたのはそれまでの時間稼ぎとしてねこ娘が鬼太郎の牛鬼と戦うところだろう。牛鬼であり鬼太郎でもある敵に相対するねこ娘の胸中には様々な感情が渦巻いていたのは疑いなく、それでも町の人たちを守るために牛鬼と戦うその姿は2話や3話で見せた格好いいアクションではなく、「人間を守る」という最後の、ただ一つ残された大義名分のために無理にでも戦おうとする必死の姿だった。どうしてそこまで戦うのかは言うまでもない、鬼太郎が自分と同じ立場であれば、何があっても戦うだろうから。それをわかっているからねこ娘は「人間を守る」ために戦ったのだろう。それは誰より鬼太郎自身が望むことであるのに違いないのだから。
 だから牛鬼を人々から引き離しとりあえずの安全が確保されたと察すると、ねこ娘は動きを止めて鬼太郎にその身を委ねようとする。わき起こる感情を押し殺して大義のために戦うのも限界だったのかもしれない。
 そしてそんなねこ娘やまなたち多くの人々のギリギリの思いに応えるかのように迦楼羅様が出現し、原作どおり迦楼羅様の術によって牛鬼の本体は捕まり、鬼太郎もどうにか無事に帰還するのだが、帰還した鬼太郎に思わず泣きながら抱きついてしまうねこ娘の姿は、今話だけでなく2話の頃から一貫して好意を隠しツンツンした態度を鬼太郎に向けてきた彼女だからこその感情の爆発ぶりで、ずっと見てきた視聴者であればより深くねこ娘の想いを理解できる名シーンと言えるだろう。…これだけの想いをぶつけられてなおまったくねこ娘の気持ちに気づかない鬼太郎も罪作りな奴だが(笑)。
 なおねこ娘の描写説明に文章を割いてしまったけども、市街地で暴れまわったりねこ娘と戦う牛鬼の描写も妖怪獣の時と同じく怪獣映画を彷彿とさせる重厚なものに仕上がっており、短い時間ではあったが実に濃密なシーンだったと言えるだろう。後はゲスト声優として歴代作にも出演経験のある田中亮一氏や野田圭一氏といった大ベテランが参加しており、非常に耳が幸せだった点も個人的には忘れがたい。

 次回は妖怪アパートの話になるらしいが直接該当する原作はないのでオリジナルの話になる様子。砂かけ婆が登場しているのは当然としてどんな話に仕上がるのだろう。
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2018年09月02日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)21話「炎上!たくろう火の孤独」感想

 今回登場のたくろう火、原作や3期版ではどちらも悪妖怪として登場しており、特に原作では今話と同じようにねずみ男と組んでインチキ商売を行っていたし、水木先生の描いた妖怪画が非常にいかついと言うかいかにも怖い妖怪と言った感じなので、今話のように「ねずみ男に騙されてインチキ商売を手伝わされてしまう善良な妖怪」というイメージがまったくなかっただけに、今話でのキャラシフトはかなり意外だった。
 逆を言えば原作でもあまり出番のないマイナーどころであるだけに、アニメで色々アレンジしやすかったと言うところはあるのだろうが、そのせいかキャラデザインも妖怪画に比べると少しマイルドになっており、演じる吉田小南美氏の声もあってどちらかと言うと子供っぽい存在として造形されていることがわかる。
 このようなアレンジはサブタイにもあるとおり、たくろう火の「孤独」を強調したいからという意図があったのは想像に難くない。いかつい声のおっさんよりは可愛い声の子供っぽいキャラクターの方が感情移入しやすいと言うものであろうし。そしてたくろう火の「火」もクローズアップし、ハリネズミのジレンマの如く触れたいけど自分の体故に触れられないという設定も盛り込んで、孤独でありながら内心では友達を求めている純粋な性格の妖怪として今話のたくろう火は完成している。
 純粋な性格だからこそ、同じような孤独を抱えている不思議なロボットのピグとも仲良くなれたわけだが、同時にBパートでねずみ男に大人の屁理屈をぶつけられ切り捨てられてしまうあたりは、露骨に冷めた現実を見せつけてくる今期の鬼太郎らしくてニヤリとさせられるところだが、だからこそそういう小賢しい屁理屈を吹き飛ばすたくろう火とピグの着ぐるみを被っていた正体・雨降り小僧が純粋さ故に迎えたハッピーエンドが清々しく思えるのだろう。
 …Bパートのアイキャッチでピグの正体をばらしてしまっていたのはちょっと演出上の配慮が足りなかった気がしないでもないが。ついでに言えば雨降り小僧も原作にはほぼ出たことがないにもかかわらず、アニメでは出演率が妙に高い面白いタイプの妖怪でもある。

 次回は牛鬼。最強ではなく「最恐」の妖怪は一体何が恐ろしいのか、原作でも超有名な話であるだけに6期版がどのような話になるのか楽しみである。
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2018年08月26日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)20話「妖花の記憶」感想

 さて「妖花」である。これも2期を除く歴代作品で必ずアニメ化されてきた話であるが、これは人気のある話だからという以前に、この作品が「水木しげるの作ったゲゲゲの鬼太郎」である以上、必ずアニメ化しなければならないという一種の暗黙の了解のようなものが存在しているからのように思われる。
 何故そう思わせるのか。それは言うまでもなく鬼太郎作品の中ではある1つの要素がかなり色濃く反映されているからに他ならない。その要素とは「戦争」である。
 ご承知のように水木しげると戦争(第二次大戦)は切っても切れない関係にある。ご本人が召集され南方戦線に送り込まれてまさに生き地獄を味わったことは今では多くの人が知るところだろう。その体験は水木作品のもう一つの代表作である戦記漫画に反映されており、鬼太郎を始めとした妖怪漫画の方にも大なり小なり影響を与えている、水木漫画における重要な要素の一つである。
 妖花という話は大なり小なりの「大なり」に属する話だろう。バトルどころか敵妖怪も出ず、不思議な花の秘密を追った末に今なお残る戦争の爪痕を確認するという、水木漫画としては正当と言えるだろうが鬼太郎としてはかなり異質な物語でもある。
 まして現在は2018年、原作が描かれた頃からは文字通り半世紀ほど経過している時代である。そんな時代にこの話を原作のテイストを損なうことなく描くことができるのか、不安に思ったオールドファンも少なからず存在していたのではないだろうか。実際、直近の5期では戦争と言うテーゼを除外してアニメ化していただけに、一抹の不安すら覚えた人もいたかもしれない。

 結果としては原作での花子の役回りをまなの大叔母に託すというアレンジもあって杞憂に終わったわけだが、今話ではさらに妖花を巡る出来事を通して、かつての戦争をまったく知らない世代であるまなが戦争を知ろうと思い立つまでに至る流れが加わっていた。この辺は戦争を直接知る世代の減少に伴い、若い世代が戦争に触れる機会が減っているのでどう伝えていくかが課題になっているという近年の問題を取り入れたということなのだろう。
 日本を遠く離れた南の島に昔も今も日本人がいる(いた)と言うこと自体に疎いのも、ずっと日本に住んでいる子供であれば当然の感覚だろうし、まして70年以上も前の戦争のことなど、例え学校の授業で習ったとしてもそうそう心に留めるものではない(今は知らないけど僕の子供の頃は、明治維新以降はかなり授業も適当になってた覚えがある。学期末が迫っていたりして)。「日本が一方的に攻撃されたのだと思ってた」というまなのセリフがそういう意味では非常にリアリティのある現代の子供的セリフだったと言える。
 そしてそんなまなに鬼太郎も目玉親父も「戦争があった」という事実だけを話し、それ以上のことは口にしていない。ねずみ男が「嫌な時代だった」と300年生きてきた設定をさり気なくカバーするセリフを口にしてはいるが、それだけである。話そのものも南方の精霊たちも事実をまなに伝えることを目的として機能しており、何かしらのイデオロギーが介在することを徹底的に避けている。それは言うまでもなく、まなを代表とする現代の子供たちがかつての戦争についてイデオロギーを持つ以前、「戦争があった」程度の認識すら持ち合わせていないかもしれない、という現状を反映させているのだろう。
 それは実際に妖花の源と思われる島についても慰霊碑を見ても、現地で今働いている日本人のサラリーマンを見ても同じだった。真夜中になって戦争の「音」だけが聞こえるという怪現象が起き、怯えるまながそこにいる「見えない何か」に導かれ、妖花に守られるように眠る日本兵たちの遺体を見、その中に大叔母に向けられたかつての恋人の手紙を発見し、まなはようやく実感する。この島で多くの日本人が生き、そして死んでいったことを。
 妖花とは亡くなった人の果たせなかった想いが生み出した花。その言わば「生」の想いを遺体という「死」の中から見出すまな。それはある意味で妖怪と同じように「見えないもの」と言えるものかもしれなかった。だがそれはそこに確実に存在している。以前から妖怪という見えざるものに触れているからこそ感じることができたのだと考えれば、まなが介入する物語として今話を完成させたのも納得がいくし、1話から積み重ねてきたまなと妖怪たちとの触れ合いが、このような少々イレギュラーな形でまな自身に影響を与えるという構成は非常に巧みである。
 ラストで描かれるのはまなが戦争を知ることを始めている姿だ。どう思うかではなくまず忘れないこと、知っていくこと。それが出発点であり大切なことなのだと訴える今話は、2018年という現代に子供たちが戦争を考える上で非常に大切な点を描いている良作と言えるだろう。

 次回はたくろう火。一応原作話はあるものの鬼太郎シリーズ中ではだいぶマイナーな妖怪だが、原作どおりかオリジナルか、一体どのような話になるのだろうか。
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2018年08月19日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)19話「復活妖怪!?おばけの学校」感想

 昔の東映ヒーロー特撮は夏になると必ずお化けが出てくる怪奇調の話だとか再生怪人を大挙登場させる話なんかを作っていたものだったけど、まさか最新作の鬼太郎でそれを見ることになろうとは思ってもいなかった。
 …まあ鬼太郎は元々怪奇調の話なんだけど。

 とまあ戯言はさておき、今回はアニメの完全オリジナル作品であると同時に、八百八狸編以来の「名無し」が登場・暗躍する話でもある。以前のようにまなに直接何かをするようなことこそなかったものの、まなや鬼太郎の前に直接姿を現したり、今話のメインである見上げ入道やたんたん坊一味といった以前鬼太郎に倒された妖怪を復活させたりと、黒幕としての存在感は十分発揮していた。その正体も目的もやはり今話の段階では明らかにならなかったものの、何やら人間の悪意と言うか負の感情のようなどす黒いものを必要としているようで、妖怪たちを復活させたのもそこに関係がある様子。今後は鬼太郎もより注意していくことになるのは間違いない。
 名無し自体とは対決はしなかったものの、今回は復活した見上げ入道やたんたん坊たちとまた戦うことになるという、久しぶりに派手な戦闘シーンが用意されていた。昔だったら以前登場した妖怪が再登場するなんて場合の時は声の出演が変わっていたりしたものだったが、声優陣も2話、3話でそれぞれの妖怪を演じた諸氏が再度集まって演じていて、細かいことだが嬉しく思う。結構気になるんだよね、こういうところ。
 「存在しない四丁目の妖怪学校」というくだりは都市伝説というよりは学校の怪談という感じで、いかにも子供が引っ掛かりそうな噂の類だし、八百八狸事件以降人間たちが妖怪と言うか不思議な物の存在をある程度認知しているようにも見えて面白い。実際八百八狸編以降の話でいわゆる「妖怪なんているわけないだろ」的な言が一度も登場しておらず、制作側が意識しているのかは不明であるし今後そういう話が出てこないとも言えないわけだが、今の時点では歴代アニメ作にあまりなかった「過去話との関連性」を楽しんでみるのもいいかもしれない。
 そしてさらに面白いのはその妖怪学校での妖怪たちと子供たちとのやり取り。最終的に子供たちを妖怪にしようと企てて見上げ入道は原作さながらの妖怪製造マシーンを引っ張り出してきたりするところにはニヤリとさせられるが、中途では今時の学校よりも子供たちのことを考えているかのような授業をしており、その方針に目玉親父も納得してしまうと言った一幕があり、もしかしたらこの妖怪たちもやり方は間違っているものの子供たちの幸せを考えて動いていたのかもしれないなどと、見ている側も考えさせられてしまう面白い構成になっているのだ(たんたん坊たちは3話では違う野望を持っていたけど)。その辺は人間と似ているようでまったく異なる考えや価値観を持ち、それ故に人間相手に事件を起こしてしまう5期の敵妖怪に通じるものがあるかもしれない。
 いずれにしてもそれは鬼太郎の認めるところではないので再び彼らと戦い、ねこ娘やまなと協力して妖怪たちを再び倒す。親父の言っているとおり今期の敵妖怪はいずれも倒されたあと体を失い魂だけが残った状態になるのが常だったが、今回倒された見上げ入道たちはその魂さえも完全に消滅しており、これも名無しの力か術かによるものなのだろう。たんたん坊が今際の際に残した「鬼太郎は名無しには勝てない」と言う言葉も含め、今回の事件自体は解決したものの今後の展開に不安を残す、すっきりしない幕切れとなった。

 次回は妖花。原作はこの時期に放送するのにふさわしい内容であるが、大胆に改変された5期版の例もあるし、どのような話になるのかまったく読めない。
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ゲゲゲの鬼太郎(第6期)18話「かわうそのウソ」感想

 今回は色々な表情を見せるねこ娘が非常に可愛かったです。終わり。


 …で終わってしまうのもつまんないので、いつも通りの感想も書いていこう。
 今話登場の妖怪はかわうそ。話の内容はだいぶ変わっていたものの、かわうそ自身のパーソナリティは原作「オベベ沼の妖怪」とほぼ同じに仕上がっていた。直近の5期では妖怪横丁の住人として準レギュラー格の扱いという隠れた人気キャラであったかわうそだが、今話もその5期版、引いては原作版と同様に単なる悪戯者ではないデリケートな内面を抱えた妖怪としての一面が描かれている。
 今話独自の要素としてはサブタイトルにあるとおりかわうその嘘が挙げられる。かわうそは元来嘘をついて悪戯をするのが好きの妖怪ではあるが(そういう描写もある)、今話に限っては怪我をして動けなくなっていた老婆のために食べ物を手に入れようと、その手段として嘘をついていた。そして最後までそのことを認めようとせずただ悪戯をしていただけと虚勢を張る姿もまた、かわうそのついた「嘘」なわけである。
 今話ではもう1人、ねこ娘も鬼太郎に嘘をついていた。自分が育てた野菜を鬼太郎に差し入れているのを最後まで認めようとしなかったのは、一つには農作業時の冴えない格好を見られたくない、知られたくないという気持ちからだろうが、最後の最後、バレバレの状態になっても認めようとせずに嘘をついたのは、格好以上に鬼太郎への自分の気持ちを知られたくないが故の虚勢だったのだろう。
 かわうそとねこ娘の2人とも自分の本音、しかもどちらかと言えば弱い・切ない本音を明かしたくないからこその「嘘」だったわけだ。序盤では騙す側と騙される側、中盤では追う側と追いかける側とずっと対極の関係にあった2人の気持ちがラストになって重なった、本人たちも気づかないうちに似たもの同士になっていたのである。その象徴がゲゲゲの森へ誘うねこ娘と、それを笑顔で受けるかわうその姿なのだろう。

 と同時に、今話は実質的なねこ娘主役回と言うべき内容にもなっているので、件の作業着姿もだが偶然鬼太郎に出会って慌てる仕草、かわうそを追いかける時の「猫」の顔、取れた野菜を親切に分け与える人の良さなど、ねこ娘の魅力が全開になっている話でもあった。
 こういう展開の場合演出がおちゃらけるかと思いきやそうでもなく、例えば農作業や自然と共生していくことの大切さをいまいち理解できておらずねこ娘の姿に幻滅してしまったまなを否定的に見せず、あくまで知らないだけのまなにねこ娘がやんわりと伝える(しかも「スイカの種飛ばし」という他愛もないお遊びを使って)ことでまなに自分で学ばせるという、ともすればまなにマイナスイメージがついてしまったり説教臭さが漂ったりしそうなところを丁寧に作り上げている点は素直に好感が持てる。
 この説教的な理屈を説教臭くなく物語世界に溶け込ませる手法は今期鬼太郎でよく行われている手法だが、今話はそれだけでなく真菜に自分からそれを理解させる=学ばせることでより一層ねこ娘を尊敬するようになるというキャラクターの底上げまで行っており、毎度のことながらこの巧みな演出と構成は素晴らしいものがある。
 このようなグレードの高いアニメを日曜朝の清々しい時間帯に毎週見られるというのは本当に幸せなことだなと今更ながら思い知らされる次第だ。

 さて次回は以前倒された妖怪が復活するとか怪談話めいた噂とか、一昔前の東映特撮夏恒例の怪奇話を思わせる内容が散見されるが、同時に八百八狸以来の名無しも登場するようで、どんな内容になるかまったく読めないのが逆に楽しみである。
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2018年07月29日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)17話「蟹坊主と古の謎」感想

 さて今回の話は境港編の後半である。今回登場の妖怪は蟹坊主。4期では一度鬼太郎と戦った後は味方に、5期ではぬらりひょん一味の一人として登場していたが、今話はようやく原典に近い「人間に質問して答えられなかった人間を殺す」設定を持っての登場となった。担当声優の田中秀幸氏も鬼太郎には特に5期で準レギュラーとして活躍、最近でも6期放送前に配信されたこれまでのアニメ版を振り返る動画のナレーターを担当していたのが記憶に新しいところである。

 前話は境港の各所を背景として盛り込みつつ、私欲のために人間を困らせる海座頭と鬼太郎たちの戦いを描いていたが、今話は名所観光的な側面は影を潜め、蟹坊主と鬼太郎側の戦いや蟹坊主と境港の因縁を暴いていく謎解きに終始した、オーソドックスな妖怪退治譚に回帰した内容となっていた。一応鳥取県のシンボルの一つである大山が登場してはいるが、物語としてはそこに住んでいる烏天狗との絡みに焦点を当てているのが、妖怪退治ものという骨子をより強調している。
 鬼太郎を始めほとんどの味方妖怪が蟹坊主に銅像にされてしまい、人間のまなが目玉親父や砂かけ婆と協力して鬼太郎たちを救おうと奔走するのはこれまでの話でも何度か見られたパターンだが、今話がまな自身が直接何かの助けを成すことはなく最終的には烏天狗などの助力もあって解決するという流れになっていたのは、まなの「偶然力」のようなご都合主義的展開に陥らせないようにする配慮もあったのかもしれない。
 暴れる蟹坊主も前話の海座頭のような私欲で暴れる自分勝手な輩とは違い、かつて忠誠を誓った姫の影を追い求め、それが幻とわかっていてもさすらわないではいられない、人間よりもはるかに長く生きられるからこそ起きる悲劇の体現者であった。そしてこれもまた人間と妖怪が必要以上に深く関わり合ったために生まれてしまった悲劇でもある。
 今期鬼太郎は人間であるまなの鬼太郎たち妖怪への接し方の変化を通して、人間と「見えないもの」との距離を縮めていく流れが根底にあるのだが、それと一緒に人間と妖怪が歩み寄った故に起きてしまった悲劇というのも執拗に描写している。まなに狙いを定めた名無しの件も含めてそれがどのような展開に繋がっていくのか、非常に気になるところだ。

 烏天狗の力を借りて鬼太郎は復活し、蟹坊主は現代に自分の居場所がないことを悟って敢えて自滅、姫の眠る境港の地に自分も眠らせてほしいと伝えて自ら泡を浴びて銅像になる。
 蟹坊主を憐れに思った境港の人々は蟹坊主を銅像として飾り、また蟹坊主だけでなく事件の解決に尽力してくれた鬼太郎たち妖怪の銅像も作ってそれを町に飾る。
 言うまでもないことだが、これは現実世界にある「水木しげるロード」を元ネタにしており、冒頭で名所観光の要素は影を潜めと書いたが、何のことはない、物語の中で新たな「名所」を作ってしまったわけである。現実世界のネタを巧みにリンクさせただけでなく、その要素を生かして最終的には昔話・民話的寓話として完成させてしまうのだから堪らない。さすがプロの仕事と言うべきトリッキーな物語作りであろう。
 なぜか1人だけ銅像から元に戻らなかったねずみ男のオチも含めて、単なるタイアップに留まらない秀作・良作として成立していると言って過言ではない。

 次回登場妖怪はかわうそ。近作の5期では準レギュラーとして活躍していたかわうそだが、今回は原作「オベベ沼の妖怪」に沿った話になるのだろうか。
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2018年07月22日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)16話「潮の怪!海座頭」感想

 今週と来週とは古めかしい言い回しをするなら「境港編」とでも言おうか、まなの父親の故郷と設定されている鳥取県境港市へ、まなが夏休みを利用して旅行に行くところからはじまり、全編にわたって境港そのものを推し出した内容となっていた。まなのおじさんである庄司や漁師のキノピーといった登場人物が、それぞれ水木しげる記念館の庄司館長と木下氏をモデルにしているという徹底ぶりである。
 鬼太郎を見ている人なら周知の事実だろうが、境港は原作者である水木しげる先生の生まれ育った地であり、現在は1993年から始まった「水木しげるロード」を始め水木先生や水木先生の描いた様々な妖怪たちを使った町おこしも継続して行っており、まさに妖怪と共存している町と言っていいほどである。
 1993年と書いたとおり境港の町おこしは4期鬼太郎の開始前から行われていたのだが、このような所謂アニメとのタイアップについてはかつての4期も5期も行っておらず、水木しげるロードの開始から25年の今年、初めてアニメ鬼太郎とのタイアップが行われる運びとなった。それだけに冒頭からまなが境港の風土や名産などをべた褒めし、風景もロケハンによって現実のものがほぼ忠実に背景として描かれている(背景の1つとして水木しげる記念館が映ったが、6期鬼太郎の世界にも水木先生が存在しているのだろうか)。
 ただ褒めそやすだけでなく名物の祭りを巡って伝統を守ろうとする側と革新を求める側とで対立が起き、結果祭りが実施できなくなっていると言う展開はいかにも今期の鬼太郎らしい今日的な要素であるが、最終的に町民も団結するとは言えこのようなマイナスと取られかねない要素までタイアップ話の中に盛り込んでくると言うのは、それだけ境港の懐が深いと言うことなのだろうか。
 個人的な余談としては、庄司おじさんたちに甘えてテンションが高くなっている時のまなの声が、ミリオンライブの所恵美の声っぽく聞こえたりもしたのがおかしかった。

 その庄司おじさんや漁師のキノピーたちを船幽霊に変えてしまう妖怪・海座頭が出てきたことから鬼太郎の出番となるが、船幽霊は海座頭に操られて鬼太郎たちを襲ってくるため、鬼太郎はまともに海座頭と戦うことができない。船幽霊たちの魂を閉じ込めた海底の祠は扉がとても重く簡単には開けられないと知ったまなは、町の全員でやれば開けられると考える。
 自分の大好きな境港の町を守りたいと必死に訴えるまなの呼びかけに祭りの件で反目していた人たちも団結、駆けつけたねこ娘たちとも協力して祠の扉を開け、船幽霊の魂を解放する。
 その後もなお苦戦する鬼太郎をかつて高校球児だった庄司おじさんの投球による一撃で救ったり、事件解決後無事に開かれた祭りをまなたち人間と鬼太郎たち妖怪が共に楽しむ様子を描いたりと、前述のとおり25年の間「妖怪との共存」を実現してきた境港を舞台とした話にふさわしい展開でクロージングとなった。
 妖怪と人間とは必要以上に交わってはいけないと言うスタンスを持つ鬼太郎だが、そんな鬼太郎にとってもこの町は居心地が良かったのだろう。そもそもアニメと現実とは違う世界なのだから我々の知っている境港と劇中の境港とが同じとも言えないのだが、「境港」とは妖怪と人間が共存できる場所という一種のシンボルなのだとして考えれば、妖怪と人間とが一つの町で仲良く過ごせるひと時を大切に想うまなの「こんな時間がずっと続くといいな」という言葉に、笑みを浮かべながら頷くように顔を下げる鬼太郎の姿にも納得がいくというものであろう。

 次回もまた境港が舞台のお話で登場妖怪は蟹坊主。世代人なら3期EDの最初に出てくる妖怪として記憶しているであろう妖怪だが、人々を銅像に変えていく理由は何なのだろうか。
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2018年07月08日

ゲゲゲの鬼太郎(第6期)15話「ずんべら霊形手術」感想

 アイドルのプロデューサーはアイドルになってもいい奴だった。

 …と、わかる人にしかわからんネタはさておき、今話は2期でも一度アニメ化された、鬼太郎の登場しない短編漫画を原作とした「霊形手術」。2期はどこまでも自分の美しさを追い求めた故に残酷な、そして自業自得な結末を迎えた女・月子の末路を描いていたが、6期版と言うべき今話は2期版のメインであった月子よりも、その月子に惚れていた男の三吉に近い立場の少女がメインとなった。
 一応月子のキャラシフトに対応しているイケメンアイドルのユウスケも登場しているが、今話の三吉≒きららはそこまでユウスケ個人に固執しているわけではなく(理由の一つではあるが)、恵まれていない自分の容姿そのものに劣等感を抱き、それ故に周囲から蔑まれる現状に苦しんでいる。容姿の問題は化粧や服の着こなしである程度は改善が見込めるものの、特に顔となればそう簡単に解決できるものではないだろうし、何だかんだ言っても女性の容姿となればどうしても男性より重視されがちである以上、きららにとっては大きな問題であったのは当然と言える。他人の美醜に何かしらの感想を抱いてしまうのは仕方ない面があるとしても、それを本人にわかるレベルではっきり態度に示した時点で周囲の人間にも明確な悪意があったと言え、苦しむきららの描写にシンパシーを覚える人もいたのではないだろうか。
 そんなきららは妖怪ずんべらの力で美しい死体の顔を元の顔の代わりに貼り付けることで幸せなひと時を味わうが、時間が経つとその効力も消えて顔のないのっぺらぼうになってしまう。この辺は原作とほぼ同様だが、最終的にきららの出した答えは「美しい顔でい続ける」と言うものだった。
 以前から彼女の書いたファンレターに励まされていたというユウスケに説得され一時は元の顔に戻したものの、最後に見せた顔は霊形手術をした時と同様の顔だった。その最後のシーンはエピローグ的描写で元に戻ってから再び美しい顔になるまでの経緯は描かれていないので、最終的にこの顔をどうしたのかについては視聴者の判断にゆだねるというところなのだろう。つまり再びずんべらに霊形手術をしてもらったのか、それとも一般的な整形手術で顔を変えたのか。
 どちらにせよ1人の男に許容されるだけの幸せでは満足できなかった、と言うより結局それ自体も彼女にとっては幸せ足りえなかったという事実がそこにあり、ラストのきららの小悪魔的な笑顔と相まって彼女の先を想像しないではいられない。
 思えば2期版の三吉はただ月子に想いが通じればそれで良いという一念で霊形手術を行った一方、月子はそんな三吉に目もくれずずんべらと結婚し、自分自身が霊形手術をする側になって儲けようとまで企んだ。
 ただ今の自分を変えたい、美しくなりたいと望んだきららは、霊形手術を受けることで変わった世界を忘れられずさらなる「自分の望んだ世界」を求めるために顔を変えた。美しくなりたいという望みは男女問わず一度は願う普遍的で、見ようによっては小さな望みとも言えるだろうが、きららはその望みをかなえた先の望みをも叶えることに貪欲になってしまった。言ってみればきららは2期版の三吉と月子、両方の登場人物の望みを体現したキャラクターとして完成してしまったのである。
 美しくなって小さな望みを叶えたいという「三吉」ではいられなくなったきららは「月子」然とした存在になって世界へと邁進していく。しかし2期版の月子が最終的に迎えた結末は……。それを知るときららの行く末に幸福な結末が待っているとはどうしても思えない。
 かような苦い終局を迎えた挿話かと思いきや、一方では「1人の男に愛される女というありきたりの幸福論を越えて自分が幸せになる道に進んだハッピーエンド」と考える向きもあるようで、感想とはやはり千差万別と改めて思い知ると同時に、正味25分程度の一エピソードでここまで色々考えさせてくれるアニメを見られることはこの上ない幸福だなあと感じ入る次第である。

 と、そんなお話のために割りを食った、という言い方も不適当だろうが、鬼太郎たちの出番はほとんどなかったのは残念と言えば残念だが、元々鬼太郎の登場しない短編が原作であるために鬼太郎たちが直接介入する余地がほとんどないのは仕方のないところでもあるので、むしろ原作短編の味を比較的忠実にアニメ化出来たという点を素直に褒めるべきだろう。
 声優に目を向けると、きらら役のゆかなさんやずんべら役の久川綾さんと言ったベテランが4期から継続してゲスト参加している(と簡単に言うけど4期は20年近く前だからやっぱりすごいことですねえ)一方で、アニマスのプロデューサー役で一躍名を馳せたバネPこと赤羽根健治さんがユウスケ役で出演されていた。前話のちゃんゆりことのぐちゆりさんもだが青二の若手がポンポン参加してくれるのも東映アニメの良いところなので、その内そらそらあたりも出演してくれることを願うとしよう。

 次回は海座頭。水木先生の故郷である境港が舞台になるということなので、まさか原作のように鬼太郎やねずみ男が厭世感に囚われる話にはならないだろうが、どんな話にするのであろうか。境港を舞台にするのだから名所巡りくらいはしそうなものだけど(笑)。
posted by 銀河満月 at 15:07| Comment(0) | ゲゲゲの鬼太郎(第6期)感想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする